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宋中(高適)

宋中
そうちゅう
高適こうせき
  • ウィキソース「宋中 (梁王昔全盛)」参照。
  • 詩題 … 宋中は、宋の地においての意。宋は、春秋時代の国名。周が殷を滅ぼしたのち、ちゅう王の異母兄、微子びしけいを封じた国。前286年に斉・楚・魏の三国によって滅ぼされた。その後、漢代には梁国が建てられ、皇族が王に封ぜられた。これ以後、この地は「梁宋」とも呼ばれた。劉武(梁の孝王)の時に全盛を極めた。都は、現在の河南省商丘市睢陽すいよう区にあった。『漢書』地理志に「周、微子を宋に封ず。今の睢陽是れなり」(周封微子於宋、今之睢陽是也)とある。ウィキソース「漢書/卷028」参照。ウィキペディア【宋 (春秋)】参照。『全唐詩』では「宋中十首其一」に作る。『唐詩品彙』『古今詩刪』では「宋中五首其一」に作る。
  • この詩は、作者が古えの宋の国の遺跡を訪れ、漢代に賓客を集めて全盛を極めた梁の孝王の頃を懐古したもの。
  • 高適 … ?~765。盛唐の詩人。滄州渤海(山東省)の人。あざなは達夫または仲武。天宝八載(749)、有道科に推挙され、受験して及第。封丘(河南省封丘県)の尉に任ぜられたが辞任し、辺塞を遊歴した。晩年は刑部侍郎、左散騎常侍に至った。辺塞詩人として岑参とともに「高岑」と並び称される。『高常侍集』八巻がある。ウィキペディア【高適】参照。
梁王昔全盛
りょうおう むかし 全盛ぜんせいなりしとき
  • 梁王 … 梁の孝王、劉武。?~前144。漢の文帝の子。ウィキペディア【劉武】参照。『史記』梁孝王世家に「梁の孝王は、孝文皇帝の子なり。しこうして孝景帝と同母なり。母はとう太后なり。……孝王は竇太后の少子なり。之を愛す。賞賜、げてう可からず。ここに於いて孝王、東苑を築く、ほう三百余里。雎陽すいようじょうを広む、七十里。大いに宮室を治め、複道をつくり、宮より平台に連属す、三十余里。……四方の豪桀をしょうえんし、山より以東の游説の士、ことごとく至らざるは莫し。斉人せいひと羊勝・公孫詭・鄒陽のともがらあり。……珠玉宝器は京師よりも多し」(梁孝王武者、孝文皇帝子也。而與孝景帝同母。母竇太后也。……孝王竇太后少子也。愛之。賞賜不可勝道。於是孝王築東苑、方三百餘里。廣雎陽城、七十里。大治宮室、爲複道、自宮連屬於平臺、三十餘里。……招延四方豪桀、自山以東游説之士、莫不畢至。齊人羊勝、公孫詭、鄒陽之屬。……珠玉寶器多於京師)とある。少子は、末子。ウィキソース「史記/卷058」参照。また、同じく司馬相如列伝に「是の時、梁の孝王来朝し、遊説の士斉人せいひと鄒陽、淮陰わいいんばいじょう、呉のそう夫子の徒を従う。相如見て之をよろこび、因りて病をもて免じ、梁に客游かくゆうす。梁の孝王、諸生しょせいしゃを同じうせしむ」(是時梁孝王來朝、從遊説之士齊人鄒陽、淮陰枚乘、呉莊忌夫子之徒。相如見而説之、因病免、客游梁。梁孝王令與諸生同舍)とある。ウィキソース「史記/卷117」参照。
  • 全盛 … (名声・力などが)最も盛んだった頃。全盛を極めていた頃。劉宋の鮑照「じょうの賦」(『文選』巻十一)に「昔の全盛の時に当たりては、くるまえいけ、ひと肩をす」(當昔全盛之時、車挂轊、人駕肩)とある。車挂轊は、車が混雑しているため、車軸の先端部分がぶつかり合うこと。人駕肩は、人が混雑しているため、肩で押しのけ合うこと。ウィキソース「蕪城賦」参照。
賓客復多才
賓客ひんかく さいなりき
  • 賓客 … 梁王に招かれた客人たち。鄒陽・ばいじょう・司馬相如などの文士を指す。『西京雑記』巻二に「梁の孝王、宮室・苑囿えんゆうを営むのがくを好む。ようの宮を作り、えんを築く。園中に百霊山有りて、山に寸石すんせき落猿巌らくえんがんせい竜岫りゅうしゅう有り。又た雁池有りて、池間に鶴洲・しょ有り。其の諸〻の宮観相連あいつらなり、数十里に延亙えんこうす。奇果異樹、瑰禽かいきん怪獣ことごとく備わる。王日〻宮人賓客と其の中によくちょうす」(梁孝王好營宮室苑囿之樂。作曜華之宮、築兔園。園中有百靈山、山有膚寸石、落猿巖、棲龍岫。又有雁池、池間有鶴洲鳧渚。其諸宮觀相連、延亙數十里。奇果異樹、瑰禽怪獸畢備。王日與宮人賓客弋釣其中)とある。苑囿は、鳥や獣を放し飼いにする庭。ウィキソース「西京雜記/卷二」参照。
  • 多才 … 才能豊かな人々であった。中唐の韓愈「はい十六功曹こうそう西せい駅を巡り、塗中より寄せらるるにむくゆ」詩に「多才は自ら労苦し、無用はいんじゅんなり」(多才自勞苦、無用祗因循)とある。裴十六功曹は、唐代の政治家で宰相を務めたはい(765~839)のこと。十六は、排行。功曹は、郡の属官で、書史を掌った。因循は、ぐずぐずすること。ウィキソース「全唐詩/卷339」参照。
悠悠一千年
悠悠ゆうゆうたり一千年いっせんねん
  • 悠悠 … 時間が遥かに隔たっている様子。西晋の左思「えいぜし詩八首」(『文選』巻二十一)の第四首に「悠悠たる百世ののち、英名をば八区にほしいままにす」(悠悠百世後、英名擅八區)とある。八区は、八方の地域、転じて天下のこと。ウィキソース「詠史八首」参照。
  • 一千年 … 梁の孝王が亡くなったのは景帝中元六年(前144)、作者がこの詩を作ったのは『高適詩集編年箋註』の年譜によれば、開元十二年(724)、二十一歳の頃である。従ってここでは、約九百年の隔たりを敢えて一千年と言ったのであろう。
陳迹惟高臺
陳迹ちんせき 高台こうだいのみ
  • 陳迹 … 古跡。旧跡。陳は、古いの意。『荘子』天運篇に「夫れ六経りくけいは先王の陳迹なり」(夫六經先王之陳迹也)とある。ウィキソース「莊子/天運」参照。
  • 高台 … 土を積んで築かれた高い台。孝王が離宮に築いた「平台」を指す。『史記』梁孝王世家に「複道をつくり、宮より平台に連属す、三十余里」(爲複道、自宮連屬於平臺、三十餘里)とあり、その注(集解)に「(平台は)梁の東北に在り、離宮の在する所なり」(在梁東北、離宮所在也)とある。ウィキソース「史記三家註/卷058」参照。また、西晋の成公すいしょうの賦」(『文選』巻十八)に「高台に登りて以て遠きに臨む」(登高臺以臨遠)とある。ウィキソース「嘯賦」参照。
寂寞向秋草
寂寞せきばくとして秋草しゅうそうむかえば
  • 寂寞 … ひっそりとして寂しいさま。『楚辞』九弁に「つばめ翩翩へんぺんとして其れ辞し帰り、せみは寂寞として声無し」(燕翩翩其辭歸兮、蟬寂寞而無聲)とある。翩翩は、鳥が身軽に飛ぶさま。ウィキソース「九辯」参照。
  • 向秋草 … 秋草あきくさに向かって立てば。「古詩十九首」(『文選』巻二十九)の第十二首に「迴風かいふう地を動かして起こり、秋草せいとして已に緑なり」(迴風動地起、秋草萋已綠)とある。迴風は、つむじかぜ。萋は、草が一斉にそろって茂るさま。ウィキソース「東城高且長」参照。
悲風千里來
ふう せんよりきた
  • 悲風 … 物悲しい秋風。三国魏の曹植「雑詩六首」(『文選』巻二十九)の第一首に「高台に悲風多く、ちょうじつ北林を照らす」(高臺多悲風、朝日照北林)とある。ウィキソース「雜詩六首」参照。
  • 千里来 … 千里の彼方から吹き渡る。千里は、遥か彼方の意。西晋の劉琨「重ねてじんに贈る」詩(『文選』巻二十五)に「鄧生とうせいは何にか感激して、千里より来たりて相求めたる」(鄧生何感激、千里來相求)とある。鄧生は、後漢の武将、とう(2~58)のこと。ウィキソース「昭明文選/卷25」参照。
詩型・押韻
  • 五言古詩。
  • 才・臺・來(上平声灰韻)。
テキスト
  • 『箋註唐詩選』巻一(『漢文大系 第二巻』、冨山房、1910年)※底本
  • 『全唐詩』巻二百十二(排印本、中華書局、1960年)
  • 『高常侍集』巻一(『四部叢刊 初編集部』所収)
  • 『高常侍集』巻上([明]許自昌編、『前唐十二家詩』所収、万暦三十一年刊、内閣文庫蔵))
  • 『高常侍集』巻五(明銅活字本、『唐五十家詩集』所収、上海古籍出版社、1989年)
  • 『唐詩品彙』巻十二([明]高棅編、[明]汪宗尼校訂、上海古籍出版社、1982年)
  • 『唐詩解』巻九(順治十六年刊、内閣文庫蔵)
  • 『古今詩刪』巻十一(寛保三年刊、『和刻本漢詩集成 総集篇8』所収、汲古書院)
  • 劉開揚箋註『高適詩集編年箋注』(中国古典文学基本叢書、中華書局、1981年)
  • 孫欽善校注『高適集校注』(中國古典文學叢書、上海古籍出版社、1984年)
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