李衛公問対 巻上〔六〕
太宗曰、分合爲變者、奇正安在。
太宗曰く、分合して変を為す者は、奇正安に在る。
靖曰、善用兵者、無不正、無不奇、使敵莫測。故正亦勝、奇亦勝。
靖曰く、善く兵を用うる者は、正ならざる無く、奇ならざる無く、敵をして測る莫からしむ。故に正なるも亦た勝ち、奇なるも亦た勝つ。
- 善用兵者 … 軍隊を巧みに動かす者。戦争を巧みに行なう者。
- 無不正、無不奇 … 正でないものはなく、奇でないものもない。正であり、また奇である。
- 無不 … 「~ざるなし」と読み、「~しないものはない(かならず~なのだ)」と訳す。二重否定。
- 使敵莫測 … 敵が推測することができない。敵が見当をつけられない。
三軍之士、止知其勝、莫知其所以勝。非變而能通、安能至是哉。
三軍の士は、止其の勝つことを知り、其の勝つ所以を知る莫し。変じて能く通ずるに非ずんば、安んぞ能く是に至らんや。
- 三軍 … 一国の軍隊。全軍。一軍は一万二千五百人。三軍は三万七千五百人。
- 士 … 将士。将校と兵卒。
- 止 … 「ただ」と読む。ただ。それだけ。わずかに。「只」と同じ。
- 莫知其所以勝 … どうして勝ったのか、その理由は知らない。
- 非変而能通 … 変通自在の知恵がなければ。
- 安能至是哉 … どうしてこの境地に達することができようか。
分合所出、唯孫武能之。呉起而下、莫可及焉。
分合の出づる所、唯だ孫武のみ之を能くす。呉起より下は、及ぶ可き莫し。
- 分合所出、唯孫武能之 … 部隊の分散と集合の妙を体得したのは、ただ孫子だけである。
- 孫武 … 孫子のこと。孫子は尊称。
- 呉起而下、莫可及焉 … 呉子から後の兵法家はとても孫子に及ばない。
- 呉起 … 前440?~前381。戦国時代の兵法家。衛の人。はじめ魯に仕え、のち魏の文侯に仕えた。魏を去ってから楚の悼王に仕え功績をたてた。兵法書『呉子』を著したと伝えられるが、真偽の程は定かではない。ウィキペディア【呉起】参照。
太宗曰、呉術若何。
太宗曰く、呉の術は若何。
- 呉術若何 … 呉起の戦術はどのようなものだったのか。
- 若何 … 「いかん」と読み、「どうであるか」と訳す。内容・状態・真偽を問う疑問の意を示す。「如何」「云何」「何如」「何奈」「何若」等と同じ。
靖曰、臣請略言之。魏武侯問呉起兩軍相向。
靖曰く、臣請う略之を言わん。魏の武侯、呉起に、両軍相向かうことを問う。
- 臣 … 臣下が君主に対し、へりくだっていう自称の言葉。わたくし。
- 請 … 「こう~ん」と読み、「どうか~させてほしい」と訳す。願望の意を示す。
- 略 … 「ほぼ」と読み、「だいたい」「おおかた」「おおむね」「あらかた」と訳す。
- 魏武侯 … 前424~前370。戦国時代、魏の二代目の君主。在位前395~前370。諱は撃。文侯の子。ウィキペディア【武侯 (魏)】参照。
- 両軍相向 … 敵と味方の両軍が対峙したときの戦術について。
起曰、使賤而勇者前撃。鋒始交而北。北而勿罰。觀敵進取。一坐一起、奔北不追、則敵有謀矣。若悉衆追北、行止縱横、此敵人不才。撃之勿疑。
起曰く、賤にして勇ある者をして前み撃たしむ。鋒始めて交えて北ぐ。北ぐるも罰すること勿かれ。敵の進取を観るべし。一坐一起、奔り北ぐるをも追わざるは、則ち敵に謀有り。若し衆を悉くして北ぐるを追い、行止縦横なるは、此れ敵人不才なり。之を撃ちて疑うこと勿かれ。
- 使賤而勇者前撃 … 身分が低く、しかも勇気のある者を選んで敵を攻撃させる。ここから「撃之勿疑」まで『呉子』論将第四の言葉。
- 鋒始交而北 … 一戦を交えて、すぐに退却するであろう。「鋒」は、矛先。「北」は、逃げる。
- 北而勿罰 … 退却しても罰してはいけない。
- 観敵進取 … 敵が進撃してくる様子を伺わなければならない。
- 一坐一起 … 一つ一つの動作。一挙手一投足。
- 奔北不追、則敵有謀矣 … 逃げるわが兵を追撃しないようなら、敵に何か謀があるはずである。
- 若悉衆追北、行止縦横 … もし敵が全軍を挙げて逃げるのを追撃し、兵士たちが勝手に進んだり止まったり、前後左右に動くようであれば。「縦横」は、隊形が混乱し、統制が取れていない様子。
- 敵人不才 … 敵将に統帥の才能がない。
- 撃之勿疑 … 躊躇せず攻撃するべきである。
臣謂呉術大率多類此。非孫武所謂以正合也。
臣謂えらく、呉の術、大率多く此に類す。孫武の所謂正を以て合するに非ざるなり。
- 臣 … 臣下が君主に対し、へりくだっていう自称の言葉。わたくし。
- 謂 … 「おもえらく」と読み、「思いますに」「考えますに」と訳す。
- 呉術 … 呉起の戦術。
- 大率 … おおむね。おおかた。だいたい。
- 類此 … これに似ている。同じ類に属する。底本では「此類」に作るが、『直解』に従い改めた。
- 非孫武所謂以正合也 … 孫子のいう、正兵をもって合戦するのとは全く違う。
太宗曰、卿舅韓擒虎甞言、卿可與論孫呉。亦奇正之謂乎。
太宗曰く、卿の舅、韓擒虎、嘗て言えり、卿は与に孫呉を論ず可し、と。亦た奇正の謂か。
- 卿 … 君主が重臣を尊んで呼ぶ言葉。そなた。なんじ。お前。あなた。
- 舅 … 夫または妻の父の意ではなく、母方のおじ。
- 韓擒虎 … 538~592。隋の武将。字は子通。河南東垣(今の河南省洛陽市新安県)の人。李靖のおじ(母の兄弟)。ウィキペディア【韓擒虎】参照。
- 可与論孫呉 … ともに孫子と呉子の兵法について論ずることができる。
- 奇正之謂 … これは奇正について知るという意味か。「謂」は、わけ。~という意味。~ということ。
靖曰、擒虎安知奇正之極。但以奇爲奇、以正爲正爾。曾未知奇正相變循環無窮者也。
靖曰く、擒虎安んぞ奇正の極を知らん。但だ奇を以て奇と為し、正を以て正と為すのみ。曽て未だ奇正の相変じ、循環して窮まり無き者を知らざるなり。
- 安知奇正之極 … どうして奇正の最高の状態を理解していようか、いや理解していない。「極」は極致。最高の状態。最高の境地。
- 安 … 「いずくんぞ~ん(や)」と読み、「どうして~(する)のか、いや~ない」と訳す。反語の意を示す。
- 但以奇為奇、以正為正爾 … 奇は奇として、正は正として理解しているだけである。「爾」は、『直解』では「耳」に作る。
- 曽未知奇正相変循環無窮者也 … 奇正が交互に変化し、循環して窮まりないことなど、今まで一度も認識したことがない。
- 曽未 … 通常は「未曽」の形で「いまだかつて~せず」と読み、「これまで~したことがない」と訳す。否定の強調の意を示す。