李衛公問対 巻上〔二〕
太宗曰、朕破宋老生、初交鋒、義師少却。
太宗曰く、朕、宋老生を破りしとき、初めて鋒を交えて、義師少しく却く。
朕親以鐵騎自南原馳下、橫突之。老生兵斷後、大潰。遂擒之。此正兵乎奇兵乎。
朕、親ら鉄騎を以て南原より馳せ下りて、横ざまに之を突く。老生の兵、後ろを断たれて、大いに潰ゆ。遂に之を擒にせり。此れ正兵か奇兵か。
- 鉄騎 … 鉄の鎧をつけた騎兵。ここでは勇敢で強い騎兵を指す。
- 南原 … 南の平原。
- 断後 … 後方の路を分断される。
靖曰、陛下天縱聖武、非學而能。
靖曰く、陛下は天縦聖武、学ぶに非ずして能くす。
- 陛下 … 太宗を指す。
- 天縦 … 天から許されること。『論語』子罕篇に「固より天、之を縦して将に聖ならんとす」(固天縦之將聖)とある。
- 聖武 … 天子に知恵と人徳と武勇が備わっていることを褒める言葉。
臣按、兵法自黄帝以來、先正而後奇、先仁義而後權譎。
臣、按ずるに、兵法は黄帝より以来、正を先にし奇を後にし、仁義を先にし権譎を後にす。
- 臣 … 臣下が君主に対し、へりくだっていう自称の言葉。わたくし。
- 按 … 「あんずるに」と読み、「考えてみると」と訳す。底本では「案」に作るが、『直解』に従い改めた。
- 黄帝 … 古代の伝説上の帝王。五帝の一人。名は軒轅。ウィキペディア【黄帝】参照。
- 権譎 … 嘘の計略。権謀策略。「権」は、はかりごと。「譎」は、いつわり。「権詐」と同じ。
且霍邑之戰、師以義舉者、正也。建成墜馬、右軍少却者奇也。
且つ霍邑の戦いは、師、義を以て挙げしは正なり。建成馬より墜ちて、右軍少しく却きしは奇なり。
太宗曰、彼時少却、幾敗大事。曷謂奇邪。
太宗曰く、彼の時に少しく却きしは、幾ど大事を敗らんとせり。曷ぞ奇と謂うか。
- 彼時 … 宋老生との戦いを指す。
- 少却 … 少し後退したために。少し退却したために。
- 幾 … 「ほとんど」と読み、「すんでのところで」「あやうく」「ほとんど」と訳す。ある状況・程度に接近する意を示す。
- 敗大事 … 大切な戦いを負けいくさにしてしまうところであったこと。
- 曷 … 「なんぞ」と読み、「どうして~か」と訳す。原因を問う疑問の意を示す。
靖曰、凡兵以前向爲正、後却爲奇。且右軍不却、則老生安致之來哉。
靖曰く、凡そ兵は前向を以て正と為し、後却を奇と為す。且つ右軍却かずんば、則ち老生安んぞ之が来るを致さんや。
- 前向 … 前に進むこと。前進。
- 後却 … 後ろに却くこと。後退。退却。
- 不却 … 退却しなかったら。
- 安致之來哉 … どうして追撃して来ることがあろうか、いや追撃して来ない。
- 安 … 「いずくんぞ~ん(や)」と読み、「どうして~(する)のか、いや~ない」と訳す。反語の意を示す。
法曰、利而誘之、亂而取之。老生不知兵、恃勇急進、不意斷後、見擒於陛下。此所謂以奇爲正也。
法に曰く、利して之を誘い、乱して之を取る、と。老生兵を知らず、勇を恃み急に進み、後ろを断たるるを意わずして、陛下に擒にせらる。此れ所謂奇を以て正と為すなり。
- 法 … 孫子の兵法を指す。
- 利而誘之、乱而取之 … 敵に有利と見せかけて誘い出し、混乱させて敵から奪い取る。『孫子』計篇の言葉。
- 不知兵 … 兵法を知らない。戦術を知らない。
- 勇 … 勇猛さ。
- 恃 … 頼む。頼りとする。当てにする。期待する。
- 見 … 「る」「らる」と読み、「~される」と訳す。受身を表す。「被」と同じ。
- 以奇為正 … 奇兵が転じて正兵となる。
太宗曰、霍去病暗與孫呉合。誠有是夫。
太宗曰く、霍去病、暗に孫呉と合す。誠に是れ有るかな。
當右軍之却也、高祖失色。及朕奮撃、反爲我利。孫呉暗合。卿實知言。
右軍の却くに当って、高祖色を失えり。朕が奮撃するに及んで、反って我が利と為れり。孫呉と暗に合す。卿、実に言を知れり。
- 右 … 底本では「石」に作るが、『直解』に従い改めた。
- 高祖 … 566~635。唐の初代皇帝。在位618~626。姓名は李淵。字は叔徳。隋の太原留守に任じられていたが、突厥の力を借りて次男の世民(太宗)らと挙兵し、長安を占領して唐朝を建てた。ウィキペディア【李淵】参照。
- 失色 … 顔色をかえる。驚き恐れること。
- 奮撃 … 力を奮って敵を攻撃すること。奮戦。
- 暗合 … 思いがけなく一致すること。偶然に一致すること。
- 卿 … 君主が重臣を尊んで呼ぶ言葉。
- 知言 … 汝の言った通りである。