李衛公問対 巻上〔十〕
太宗曰、漢張良、韓信、序次兵法、凡百八十二家、刪取要用、定著三十五家。今失其傳、何也。
太宗曰く、漢の張良・韓信、兵法を序次すること、凡そ百八十二家、要用を刪り取って、定めて三十五家を著す。今其の伝を失うは、何ぞや。
- ウィキソース「唐李問對/卷上」参照。
- 漢張良~定著三十五家 … この文章は、『漢書』芸文志に見える。「漢張良」は、『漢書』では「漢興りて、張良」(漢興、張良)に作る。ウィキソース「漢書/卷030」参照。
- 張良 … ?~前189。前漢の高祖の功臣。字は子房。先祖が韓の宰相であったので、韓を滅ぼした秦に報復しようと始皇帝を博浪沙で襲撃したが失敗した。のち、高祖を助けて秦を滅ぼし、漢の建国に貢献した。統一後は留侯に封ぜられた。蕭何・韓信とともに「漢の三傑」の一人。ウィキペディア【張良】参照。
- 韓信 … 前漢の高祖の名将。?~前196。淮陰(江蘇省)の人。高祖を助け、漢の建国に貢献した。統一後は楚王に封ぜられたが、反逆を疑われて殺された。蕭何・張良とともに「漢の三傑」の一人。ウィキペディア【韓信】参照。
- 兵法 … 古来の兵法書。
- 序次 … 順序だてる。整理する。
- 要用 … 大切な部分。必要な部分。
- 刪取 … けずり取る。なお、「刪改」は、字句の悪い部分をけずり改めること。
- 今失其伝、何也 … 現在、その兵法書が伝わっていないのはなぜか。一説には、呂后の一族が宮中の書庫から盗み出したため、散逸したという。『漢書』芸文志には、「諸呂事を用いて之を盗取す」(諸呂用事而盜取之)とある。ウィキソース「漢書/卷030」参照。
靖曰、張良所學、太公六韜、三略是也。韓信所學、穰苴、孫武是也。然大體不出三門四種而已。
靖曰く、張良の学びし所は、太公の六韜・三略是れなり。韓信の学びし所は、穣苴・孫武是れなり。然れども大体は三門四種に出でざるのみ。
- 太公 … 周の軍師、呂尚のこと。姓は呂、名は尚、字は子牙。文王の祖父(太公)が待ち望んでいた人物だということで「太公望」と呼ばれた。ウィキペディア【呂尚】参照。
- 六韜 … 兵法書。六巻。周の太公望が著したといわれるが、現存するものは偽作。文韜・武韜・龍韜・虎韜・豹韜・犬韜からなる。『三略』と併称される。武経七書の一つ。ウィキペディア【六韜】参照。
- 三略 … 兵法書。三巻。張良の師の黄石公の著作といわれるが、後世の偽作。上略・中略・下略に分かれている。『黄石公三略』ともいう。『六韜』と併称される。武経七書の一つ。ウィキペディア【三略】参照。
- 穣苴 … 司馬穰苴。春秋時代、斉の名将。姓は媯、氏は田。斉の景公に仕えた。『司馬法』を著した。ウィキペディア【司馬穰苴】参照。
- 孫武 … 孫子のこと。孫子は尊称。ここでは孫子の兵法を指す。
- 不出三門四種而已 … 「三門四種」を越えるものではない。
太宗曰、何謂三門。靖曰、臣案、太公謀八十一篇、所謂陰謀、不可以言窮。太公言七十一篇、不可以兵窮。太公兵八十五篇、不可以財窮。此三門也。
太宗曰く、何をか三門と謂う。靖曰く、臣案ずるに、太公の謀八十一篇、所謂陰謀なり、言を以て窮む可からず。太公の言七十一篇、兵を以て窮む可からず。太公の兵八十五篇、財を以て窮む可からず。此れ三門なり。
- 案 … 考えてみると。思うに。『直解』では「按」に作る。
- 太公謀八十一篇・言七十一篇・兵八十五篇 … 『漢書』芸文志には、「太公二百三十七篇。謀八十一篇、言七十一篇、兵八十五篇」とある。ウィキソース「漢書/卷030」参照。
- 太公謀 … 太公望の謀。
- 陰謀 … 秘密にたてられた計画。
- 不可以言窮 … 言葉ではその深奥を語り尽くせない。
- 太公言 … 太公望の言葉。
- 不可以兵窮 … 兵法をもってその妙を窮め尽くせない。
- 太公兵 … 太公望の兵法。
- 不可以財窮 … 財力をもってその術を窮め尽くせない。
太宗曰、何謂四種。靖曰、漢任宏所論是也。凡兵家流、權謀爲一種、形勢爲一種、及陰陽、技巧爲二種。此四種也。
太宗曰く、何をか四種と謂う。靖曰く、漢の任宏が論ずる所是れなり。凡そ兵家の流、権謀を一種と為し、形勢を一種と為し、及び陰陽、技巧を二種と為す。此れ四種なり。
- 任宏 … 漢の成帝(在位前33~前7)の時の人。歩兵校尉。命を受けて兵法書を分類した。『漢書』芸文志には、「孝成に至りて、任宏に命じて兵書を論次せしめて四種と為す」(至于孝成、命任宏論次兵書爲四種)とある。「孝成」は、成帝の諡号。ウィキソース「漢書/卷030」参照。
- 権謀 … 臨機応変の謀略。
- 形勢 … 軍の編成や地形など。
- 陰陽 … 天候の利用や行動の時宜など。
- 技巧 … 攻撃と守備の装備など。
- 為二種 … 底本には「為」の字はないが、『直解』に従い補った。
太宗曰、司馬法首序蒐狩、何也。
太宗曰く、司馬法は首めに蒐狩を序するは、何ぞや。
靖曰、順其時而要之以神。重其事也。周禮最爲大政。
靖曰く、其の時に順いて、之を要するに神を以てす。其の事を重んずるなり。周礼は最も大政と為す。
- 順其時而要之以神 … 季節に順って狩りを行い、兵士を鍛錬する。そして狩りの獲物は神に献じた。
- 重其事也 … だから蒐狩が重視されたのである。
- 周礼 … 儒家の経典の一つ。『礼記』『儀礼』とともに三礼の一つ。周の周公旦の作と伝えられるが、実際の成立は戦国時代以降と思われる。周代の官制を天・地・春・夏・秋・冬の六官に分けて記述している。十三経の一つ。ウィキペディア【周礼】参照。
- 大政 … 天下国家の政治。ここでは蒐狩を最も重要な儀式と位置付けていること。
成有岐陽之蒐。康有酆宮之朝。穆有塗山之會。此天子之事也。
成には岐陽の蒐有り。康には酆宮の朝有り。穆には塗山の会有り。此れ天子の事なり。
- 成有岐陽之蒐~穆有塗山之会 … 『春秋左氏伝』昭公四年に「成には岐陽の蒐有り、康には酆宮の朝有り、穆には塗山の会有り」(成有岐陽之蒐、康有酆宮之朝、穆有塗山之會)とある。ウィキソース「春秋左氏傳/昭公」参照。
- 成 … 周の成王。周朝の第二代の王。武王の子。在位前1042~前1021。ウィキペディア【成王 (周)】参照。
- 岐陽之蒐 … 会盟(諸侯が会合して同盟を結ぶこと)の名称。「岐陽」は、岐山の南。今の陝西省岐山県。ウィキペディア【岐山県】参照。「蒐」は、春の狩り。
- 康 … 周の康王。周朝の第三代の王。成王の子。在位前1020~前996。ウィキペディア【康王 (周)】参照。
- 酆宮之朝 … 会盟の名称。「酆宮」は、周の文王が建てた宮名。今の陝西省西安市戸県の北。「鄷」は「酆」の異体字。「朝」は、朝見。
- 穆 … 周の穆王。周朝の第五代の王。昭王の子。在位前976~前922。ウィキペディア【穆王 (周)】参照。
- 塗山之会 … 会盟の名称。「塗山」は、今の安徽省懐遠県の東南。「会」は、会合。
- 天子之事 … 天子だけに許された行事。
及周衰、齊桓有昭陵之師。晉文有踐土之盟。此諸侯奉行天子之事也。
周の衰えるに及んで、斉桓に昭陵の師有り。晋文に践土の盟有り。此れ諸侯、天子の事を奉行するなり。
- 斉桓 … 斉の桓公。
- 昭陵之師 … 会盟の名称。「昭陵」は、今の河南省郾城県の東。「師」は、軍。『春秋左氏伝』僖公四年に「四年、春、王の正月、公、斉侯・宋公・陳侯・衛侯・鄭伯・許男・曹伯に会して蔡を侵す。蔡潰ゆ。遂に楚を伐ち、陘に次る。夏、許男新臣卒す。楚の屈完来りて師に盟わんとす。召陵に盟う」(四年、春、王正月、公、會齊侯、宋公、陳侯、衛侯、鄭伯、許男、曹伯侵蔡。蔡潰。遂伐楚、次于陘。夏、許男新臣卒。楚屈完來盟于師。盟于召陵)とある。ウィキソース「春秋左氏傳/僖公」参照。
- 晋文 … 晋の文公。
- 践土之盟 … 会盟の名称。「践土」は、今の河南省原陽県の西南。「盟」は、同盟。『春秋左氏伝』僖公二十八年に「五月癸丑、公、晋侯・斉侯・宋公・蔡侯・鄭伯・衛子・莒子に会して践土に盟う。陳侯、会に如く。公、王所に朝す」(五月癸丑、公會晉侯、齊侯、宋公、蔡侯、鄭伯、衛子、莒子盟于踐土。陳侯如會。公朝于王所)とある。ウィキソース「春秋左氏傳/僖公」参照。
- 奉行天子之事 … 天子の命を奉じて、天子の行うべき行事を代行する。
其實用九伐之法、以威不恪。
其の実は九伐の法を用いて、以て恪まざるを威す。
- 九伐之法 … 王が諸侯に布告した罪悪を懲らしめるための九つの禁令。『周礼』夏官司馬に「九伐の法を以て邦国を正す、弱を馮ぎ寡を犯すは則ち之を眚す、賢を賊し民を害するは則ち之を伐つ、内を暴し外を陵ぐは則ち之を壇す、野荒れ民散ずるは則ち之を削る、固を負いて服せざるは則ち之を侵す、其の親を賊殺するは則ち之を正す、其の君を放弒するは則ち之を残す、令を犯し政を陵ぐは則ち之を杜ざす、外内乱れ鳥獣の行いは則ち之を滅ぼす」(以九伐之法正邦國、馮弱犯寡則眚之、賊賢害民則伐之、暴內陵外則壇之、野荒民散則削之、負固不服則侵之、賊殺其親則正之、放弒其君則殘之、犯令陵政則杜之、外內亂鳥獸行則滅之)とある。ウィキソース「周禮/夏官司馬」参照。
- 不恪 … 諸侯が天子の命に従わないこと。
- 威 … 威す。威嚇する。
假之以朝會、因之以巡狩、訓之以甲兵。
之を仮るに朝会を以てし、之に因るに巡狩を以てし、之に訓うるに甲兵を以てす。
- 仮之以朝会、因之以巡狩、訓之以甲兵 … 朝廷の謁見の時や、天子が諸国を回って視察する時などを利用して、軍事訓練を行う。
- 甲兵 … 武装した兵士。軍事。戦争。
言無事兵不妄舉、必於農隙、不忘武備也。
言うこころは事無ければ兵妄りに挙げず、必ず農隙に於いてし、武備を忘れざるなり。
- 言 … 「いうこころは」と読む。字句について説明するときに用いられる表現。
- 無事兵不妄挙 … 平時には妄りに軍隊を動員しない。
- 必於農隙、不忘武備也 … 必ず農閑期に訓練するのは、戦争に備える態勢を忘れないためである。
- 武備 … 戦争の備え。戦争に備える態勢。軍備。
故首序蒐狩。不其深乎。
故に首めに蒐狩を序せり。其れ深からずや。
- 首 … 『司馬法』の巻頭。
- 蒐狩 … 季節の狩り。田猟。「蒐」は春の狩り、「狩」は冬の狩りを指す。「蒐」は、底本では「嵬」に作るが、『直解』に従い改めた。
- 序 … 述べ表す。記述する。
- 不其深乎 … 深い意味がないだろうか、いや深い意味がある。意味深長である。
- 乎 … 「~か」「~や」と読み、「~だろうか、いや~ない」と訳す。反語の意を示す終助詞。