>   漢詩   >   唐詩選   >   巻二 七古   >   帝京篇(駱賓王)

帝京篇(駱賓王)

帝京篇
帝京ていけいへん
らく賓王ひんのう
  • 七言古詩(七言歌行)。
  • ウィキソース「帝京篇 (駱賓王)」「駱賓王文集 (四部叢刊本)/卷第九」参照。
  • 帝京 … 「ていきょう」と読んでもよい。天子のいる都。帝都。
  • この詩は、漢代になぞらえながら、唐の都長安の繁華な様子を詠じ、最後は我が身の不遇を訴えている。『駱賓王文集』巻六(『四部叢刊 初編集部』所収)には「吏部侍郎に帝京篇をたてまつる啓」(上吏部侍郎帝京篇啓)という文章がある。ウィキソース「駱賓王文集 (四部叢刊本)/卷第六」参照。啓は、口上書。手紙の一種。吏部は、六部の一つで、文官の選任、勲階・懲戒などをつかさどった。侍郎は、その次官。吏部侍郎とは、当時その任にあった裴行倹(619~682)のことで、彼にこの篇を差し出したものと思われる。ウィキペディア【裴行倹】参照。
  • 駱賓王 … 640?~684?。初唐の詩人。しゅう義烏ぎう(浙江省義烏県)の人。あざなは未詳。武功(陝西省武功県)を経て長安(陝西省)の主簿を歴任したが、臨海(浙江省臨海県)のじょうに左遷された。684年、徐敬業の乱に加わり、檄文を草した。武后はこれを読んでその才に感嘆し、彼を重用しなかったことを悔いたという。王勃・楊炯・盧照鄰とともに初唐の四傑の一人。ウィキペディア【駱賓王】参照。
1
  • 門・尊(平声元韻)。
01 山河千里國
さんせんくに
  • 山河 … 山と川に囲まれている。『史記』項羽本紀に「人或いは項王に説きて曰く、関中は山河を阻てて四塞なり、地はじょうなり、都して以て覇たる可し、と」(人或說項王曰、關中阻山河四塞、地肥饒、可都以霸)とある。ウィキソース「史記/卷007」参照。また『史記』劉敬伝に「夫れ秦の地は山をこうむり河を帯び、四塞し以て固めと為す」(夫秦地被山帶河、四塞以爲固)とある。ウィキソース「史記/卷099」参照。
  • 千里国 … 天子に直属する地を王畿といい、ここでは千里四方に広がる関中(陝西省の渭水盆地一帯の呼称)の地を指す。『史記』留侯世家に「夫れ関中はこう・函を左にし、ろう・蜀を右にし、よく千里。……此れ所謂いわゆる金城千里、天府の国なり」(夫關中左殽函、右隴蜀、沃野千里。……此所謂金城千里、天府之國也)とあるのに基づく。ウィキソース「史記/卷055」参照。また『周礼』夏官に「乃ち九服の邦国を弁ず。方千里を王畿と曰う」(乃辨九服之邦國。方千里曰王畿)とある。ウィキソース「周禮/夏官司馬」参照。また『詩経』商頌・玄鳥の詩に「邦畿千里、維れ民の止まる所」(邦畿千里、維民所止)とある。ウィキソース「詩經/玄鳥」参照。
02 城闕九重門
じょうけつ 九重きゅうちょうもん
  • 城闕 … 物見台のある城門。闕は、宮殿の門。門の両脇に台を築き、その上部に楼観を設け、その中央をくりぬいて道にしたもの。『詩経』鄭風・子衿の詩に「とうたりたつたり、じょうけつり」(挑兮達兮、在城闕兮)とある。ウィキソース「詩經/子衿」参照。
  • 九重門 … 宮殿の門が九つ重ねて作ってあること。『楚辞』の「九弁」に「君の門九重を以てす」(君之門以九重)とある。ウィキソース「楚辭/九辯」参照。また『礼記』月令篇に「九門をいだかれ」(毋出九門)とあり、その鄭玄の注に「天子の九門は、路門なり、応門なり、雉門なり、庫門なり、皐門なり、城門なり、近郊門なり、遠郊門なり、関門なり」(天子九門者、路門也、應門也、雉門也、庫門也、皐門也、城門也、近郊門也、遠郊門也、關門也)とある。ウィキソース「禮記正義/15」参照。
03 不睹皇居壯
皇居こうきょそうなるをずんば
  • 皇居 … 天子の住んでいる所。帝居。南朝宋の顔延之「東宮に直し鄭尚書に答う」詩(『文選』巻二十六)に「皇居は環極を体し、険を設けて天工をつつしむ」(皇居體環極、設險祗天工)とある。環極は、衆星が北極星を中心にしてめぐること。ウィキソース「昭明文選/卷26」参照。
  • 壮 … 壮麗。『史記』高祖本紀に「こうかえり、きゅうけつさかんなることはなはだしきをいかりてしょういていわく、てん匈匈きょうきょうとして、たたかいにくるしむこと数歳すうさい成敗せいはいいまからず。なんきゅうしつおさむることぎたるや、と。しょういわく、てんまさいまさだまらず。ゆえりてついきゅうしつし。てんかいもっいえす。壮麗そうれいあらざれば、もっおもくするし。後世こうせいをしてもっくわうるらしむるからん、と。こうすなわよろこぶ」(高祖還、見宮闕壯甚、怒謂蕭何曰、天下匈匈苦戰數歲、成敗未可知。是何治宮室過度也。蕭何曰、天下方未定。故可因遂就宮室。且夫天子以四海爲家。非壯麗、無以重威。且無令後世有以加也。高祖乃說)とあるのに基づく。ウィキソース「史記/卷008」参照。また曹植の「又、てい・王粲に贈る」(『文選』巻二十四)に「壮なるかな帝王の居、佳麗にして百城にことなり」(壯哉帝王居、佳麗殊百城)とある。ウィキソース「又贈丁儀王粲」参照。また唐の太宗「帝京篇十首 其一」に「秦川雄たる帝宅、函谷壮たる皇居」(秦川雄帝宅、函谷壯皇居)とある。ウィキソース「帝京篇 (李世民)」参照。
  • 睹 … 見る。
04 安知天子尊
いずくんぞてんたっときをらん
  • 安知天子尊 … どうして天子の尊さを知ることができようか。漢初の朝廷では礼儀も何もなく、宮中の宴席は無礼講のようであった。学者の叔孫とうが儒学に基づいて儀礼を定め、それからの宴席は整然たるものになった。高祖は「私は今日皇帝という身分の貴さを実感した」と言ったという故事を踏まえる。『史記』叔孫通伝に「群臣は酒を飲み功を争い、酔いて或いは妄りに呼び、剣を抜き柱を撃つ。高帝之を患う。……漢の七年、長楽宮成り、諸侯群臣皆朝す。……朝をえ酒を罷め、敢えてかんして礼を失する者無し。是に於いて高帝曰く、吾すなわち今日皇帝たるの貴きを知るなり、と」(群臣飲酒爭功、醉或妄呼、拔劍擊柱。高帝患之。……漢七年、長樂宮成、諸侯羣臣皆朝。……竟朝罷酒、無敢讙譁失禮者。於是高帝曰、吾迺今日知爲皇帝之貴也)とあるのに基づく。ウィキソース「史記/卷099」参照。
  • 安 … 「いずくんぞ~ん(や)」と読み、「どうして~であろうか(いや~ない)」と訳す。反語の意を表す。
  • 天子 … 皇帝。天帝にかわって天下をおさめる者。天帝の子の意。『中庸』に「舜は其れ大孝なるかな。徳は聖人たり、尊は天子たりて、四海の内に富有す」(舜其大孝也與。德爲聖人、尊爲天子、富有四海之内)とある。ウィキソース「禮記/中庸」参照。
2
  • 谷・服・軸・六・屋(入声屋韻)。
05 皇居帝里崤函谷
皇居こうきょ てい こう函谷かんこく
  • 皇居 … 天子の住んでいる所。帝居。後漢末期の孔融「禰衡でいこうすすむる表」(『文選』巻三十七)に「帝室皇居、必ず非常の宝をたくわう」(帝室皇居、必畜非常之寶)とある。ウィキソース「薦禰衡表」参照。
  • 帝里 … 天子の住む土地。帝都。『晋書』王導伝に「建康けんこうは、いにしえきんりょうもとていたり」(建康、古之金陵、舊爲帝里)とある。ウィキソース「晉書/卷065」参照。
  • 崤函谷 … 崤山と函谷関。長安の東の要害。『戦国策』秦策に「東に肴・函の固め有り」(東有肴函之固)とある。ウィキソース「戰國策/卷03」参照。崤山は、河南省洛寧県の西北にある山。東西に二崤あり、二崤山または三崤山と称する。ウィキペディア【崤山】(中文)参照。『読史方輿紀要』河南、河南府、永寧県の条に「崤山は、県の北六十里に在り。亦た三崤と曰う。崤水これよりで、北のかた河にそそぐ」(崤山、在縣北六十里。亦曰三崤。崤水出焉、北注於河)とある。ウィキソース「讀史方輿紀要/卷四十八」参照。函谷関は、河南省北西部にある関所の名。戦国時代、秦が河南省霊宝県に置いた関所を旧関(故関)といい、漢の武帝が旧関を河南省新安県に移したものを新関という。長安と洛陽とを結ぶ交通の要地。ウィキペディア【函谷関】参照。
06 鶉野龍山侯甸服
じゅん りょうざん 侯甸服こうでんふく
  • 鶉野 … 二十八宿中、せい宿しゅくの一部から宿しゅく柳宿りゅうしゅくの一部までを、十二次ではじゅんしゅといい、これが地上では秦の分野、すなわち長安の地に当たるとされた。ウィキペディア【十二次】参照。『漢書』地理志に「井の十度より柳の三度に至るまで、之を鶉首のと謂い、秦の分なり」(自井十度至柳三度、謂之鶉首之次、秦之分也)とある。ウィキソース「漢書/卷028下」参照。
  • 竜山 … 竜首山。長安の丘陵。唐の宮殿や内苑は、ほぼこの丘陵の上にあった。『水経注』渭水の条に「(蕭)何は竜首山を斬りて之を営す。山長さ六十余里、頭は渭水に臨み、尾は樊川に達す。頭の高さ二十丈、尾ようやく下り、高さ五六丈、土の色赤くして堅し。云う、昔黒竜有り、南山より出でて渭水を飲む。其の行道因りて山跡を成す」(何斬龍首山而營之。山長六十餘里、頭臨渭水、尾達樊川。頭高二十丈、尾漸下、高五六丈、土色赤而堅。云昔有黑龍、從南山出飮渭水。其行道因山成跡)とある。ウィキソース「水經注/19」参照。また『山海経』西山経に「又西二百里を、竜首の山と曰う。其の陽に黄金多く、其の陰に鉄多し」(又西二百里、曰龍首之山。其陽多黃金、其陰多鐵)とある。ウィキソース「山海經/西山經」参照。
  • 侯甸服 … 侯服と甸服でんぷく。周代の理想上の制度で、王畿(天子直轄の千里四方の区域)の外側に、同心円状に五百里ごとに分けられた五つの区域を「五服」といい、九つに分けられた区域を「九服」という。「五服」では甸服が都に最も近く、「九服」では侯服が都に最も近い。いずれにせよ、侯甸服とは、都に最も近い区域のこと。『書経』禹貢篇に「五百里は甸服。百里の賦はそうれ、二百里はちつれ、三百里はかつれ、四百里はぞく、五百里はべい。五百里は侯服。百里はさい、二百里は男邦だんぽう、三百里は諸侯。五百里は綏服すいふく。三百里は文教をただし、二百里は武衛を奮う。五百里は要服。三百里は、二百里はさい。五百里は荒服。三百里はばん、二百里はりゅう」(五百里甸服。百里賦納總、二百里納銍、三百里納秸、四百里粟、五百里米。五百里侯服。百里采、二百里男邦、三百里諸侯。五百里綏服。三百里揆文教、二百里奮武衞。五百里要服。三百里夷、二百里蔡。五百里荒服。三百里蠻、二百里流)とある。ウィキソース「尚書/禹貢」参照。また『周礼』夏官に「乃ち九服の邦国を弁ず。方千里を王畿と曰う。其の外方五百里を侯服と曰う。又其の外方五百里を甸服と曰う。又其の外方五百里を男服と曰う。又其の外方五百里を采服と曰う。又其の外方五百里を衛服と曰う。又其の外方五百里を蛮服と曰う。又其の外方五百里を夷服と曰う。又其の外方五百里を鎮服と曰う。又其の外方五百里を藩服と曰う」(乃辨九服之邦國。方千里曰王畿。其外方五百里曰侯服。又其外方五百里曰甸服。又其外方五百里曰男服。又其外方五百里曰采服。又其外方五百里曰衞服。又其外方五百里曰蠻服。又其外方五百里曰夷服。又其外方五百里曰鎭服。又其外方五百里曰藩服)とある。ウィキソース「周禮/夏官司馬」参照。
07 五緯連影集星躔
五緯ごい かげつらねて星躔せいてんあつまり
  • 五緯 … 木星・火星・土星・金星・水星の五つの遊星。恒星の星座である二十八宿を経、遊星を緯と呼ぶ。『春秋左氏伝』襄公二十八年の疏に「五星は五行の精なり。歴書に木精を歳星と曰い、火精を熒惑けいわくと曰い、土精を鎮星と曰い、金精を大白と曰い、水精を辰星と曰うと称す。此の五者は皆天に右行し、二十八宿は則ち天に著きて動かず。故に二十八宿を経と為し、五星を緯と為すと謂う」(五星者五行之精也。歴書稱木精曰歲星、火精曰熒惑、土精曰鎭星、金精曰大白、水精曰辰星。此五者皆右行於天、二十八宿則著天不動。故謂二十八宿爲經、五星爲緯)とある。ウィキソース「春秋左傳注疏 (四庫全書本)/卷38」参照。
  • 影 … ここでは光の意。
  • 星躔 … 星宿。星の宿る所。ここでは秦の星宿であるじゅんしゅを指す。躔は、星の宿る所。天体がめぐっていく足あと。軌道の意。五つの遊星が二十八宿のうちの一つに集まると、その分野(区域)に有徳の君主が現れて天下を統一する前兆であるとされた。張衡「西京の賦」(『文選』巻二)に「我が高祖の始めてりしより、五緯あいいて、以て東井とうせいつらなる」(自我高祖之始入也、五緯相汁、以旅于東井)とある。東井は、井宿のこと。ウィキソース「西京賦」参照。また西晋の束皙「補亡詩六首 其四」(『文選』巻十九)に「繊阿はひかげを案じ、星は其のやどりを変ず」(纖阿案晷、星變其躔)とある。ウィキソース「補亡詩六首」参照。また『呂氏春秋』季春紀、圜道篇に「月、二十八宿にやどり、しんかくつづくは、圜道えんどうなり」(月躔二十八宿、軫與角屬、圜道也)とある。ウィキソース「呂氏春秋/卷三」参照。
08 八水分流橫地軸
八水はっすい ながれをわかちてじくよこたわる
  • 八水 … 関中を流れる八つの川。水・さん水・けい水・水・ほう水・こう水・ろう水・けつ水をいう。ウィキペディア【八水绕长安】(中文)参照。『三輔黄図』巻六、雑録の条に「関中の八水は、皆上林苑を出入す。覇水は藍田谷を出で、西北のかた渭に入る。滻水は亦た藍田谷を出で、北のかた覇陵に至って覇に入る。涇水は安定涇陽の笄頭山を出で、東のかた陽陵に至って渭に入る。渭水は隴西首陽県の鳥鼠同穴山を出で、東北のかた華陰に至って河に入る。豊水は鄠の南山豊谷を出で、北のかた渭に入る。鎬水は昆明池の北に在り。牢水は鄠県の西南を出で、潦谷に入り、北のかた渭に流入す。潏水は杜陵に在り、皇子陂に従いて西流し、昆明池を経て渭に入る」(關中八水、皆出入上林苑。霸水出藍田谷、西北入渭。滻水亦出藍田谷、北至霸陵入霸。涇水出安定涇陽笄頭山、東至陽陵入渭。渭水出隴西首陽縣鳥鼠同穴山、東北至華陰入河。豐水出鄠南山豐谷、北入渭。鎬水在昆明池北。牢水出鄠縣西南、入潦谷、北流入渭。潏水在杜陵、從皇子陂西流、經昆明池入渭)とある。ウィキソース「三輔黃圖/卷之六」参照。また司馬相如「上林の賦」(『文選』巻八)に「さんを終始し、けいを出入す。ほうこうろうけつ紆余うよ委蛇いいとして、其の内に経営す。蕩蕩乎として八川分流し、相そむいて態を異にす」(終始灞滻、出入涇渭。酆鎬潦潏、紆餘委蛇、經營乎其內。蕩蕩乎八川分流、相背而異態)とある。ウィキソース「上林賦」参照。
  • 分流 … 分かれて流れること。
  • 地軸 … 大地の回転を支えていると想像された心棒。地中に三千六百本あるという。『太平御覧』に引く『河図括地象』に「昆侖は、地の中なり。下に八柱有り、柱の広さ十万里、三千六百軸有り、互いに相牽制し、名山大川、孔穴相通ず」(昆侖者、地之中也。下有八柱、柱廣十萬里、有三千六百軸、互相牽制、名山大川、孔穴相通)とある。ウィキソース「太平御覽/0036」参照。また木華「海の賦」(『文選』巻十二)に「かたち天輪てんりん膠戻こうれいして激転げきてんするがごとく、またじく挺抜ていばつして争迴そうかいするにたり」(狀如天輪膠戾而激轉、又似地軸挺拔而爭迴)とある。ウィキソース「海賦 (木華)」参照。また晋のせん「遊仙詩四首 其一」(『古詩紀』巻四十二)に「崑崙に五河き、八流は地軸をめぐる」(崑崙涌五河、八流縈地軸)とある。ウィキソース「古詩紀 (四庫全書本)/卷042」参照。
  • 横 … 横切る。
09 秦塞重關一百二
秦塞しんさいちょうかん いっぴゃく
  • 秦塞 … 秦の国。四方が塞がっていたので秦塞といった。『史記』蘇秦伝に「秦は四塞の国、山を被り渭を帯ぶ。東に関河有り、西に漢中有り、南に巴・蜀有り、北に代・馬有り。此れ天府なり。秦の士民の衆と、兵法の教えとを以てせば、以て天下を吞み、帝と称して治む可し」(秦四塞之國、被山帶渭。東有關河、西有漢中、南有巴蜀、北有代馬。此天府也。以秦士民之衆、兵法之敎、可以吞天下、稱帝而治)とある。ウィキソース「史記/卷069」参照。
  • 重関 … 幾重にも重なった関所。費昶「華観省にて中夜城外の擣衣を聞く」詩(『玉台新詠』巻六)に「しょうこう重関を下す、たん明月を吐く」(閶闔下重關、丹墀吐明月)とある。ウィキソース「華觀省中夜聞城外擣衣」参照。
  • 一百二 … 二万の兵で百万の敵に当たり得るほど地の利を得ているという説、また「二」は「倍」の意で、百倍の意とする説とがある。『史記』高祖本紀に「秦は形勝の国、河山の険を帯び、千里に懸隔し、持戟百万あり。秦は百二を得、地勢便利なり」(秦形勝之國、帶河山之險、懸隔千里、持戟百萬。秦得百二焉、地勢便利)とある。ウィキソース「史記/卷008」参照。また顧炎武『日知録』巻二十七、史記注の条に「古人倍を謂って二と為す。秦は百二を得たり、百倍を言うなり」(古人謂倍爲二。秦得百二、言百倍也)とある。ウィキソース「日知錄/卷27」参照。
10 漢家離宮三十六
かんきゅう さんじゅうろく
  • 漢家 … 漢王朝。漢の王室。
  • 離宮 … 王宮以外の地に設けられた宮殿。
  • 三十六 … 離宮の数。班固「西都の賦」(『文選』巻一)に「離宮別館、三十六所」とあるのに基づく。ウィキソース「西都賦」参照。
11 桂殿陰岑對玉樓
桂殿けいでん 陰岑いんしんとしてぎょくろうたい
  • 桂殿 … 未央宮の北にあった桂宮を指す。桂の木で造った宮殿。『三輔黄図』巻二、漢宮の条に「桂宮は、漢の武帝の造り、周回十余里。漢書に曰く、桂宮に紫房の複道有り、未央宮に通ず、と。……三秦記に、未央宮の漸台の西に桂宮有り、中に明光殿有り、と」(桂宮、漢武帝造、周回十餘里。漢書曰、桂宮有紫房複道、通未央宮。……三秦記、未央宮漸臺西有桂宮、中有明光殿)とある。紫房は、紫色で飾った太后の部屋。ウィキソース「三輔黃圖/卷之二」参照。
  • 陰岑 … 宮殿が奥深く薄暗いさま。『玉台新詠』の序に「既にしてしょうきゅう宛転し、柘館しゃかん陰岑たり」(既而椒宮宛轉、柘館陰岑)とある。ウィキソース「玉臺新詠/序」参照。
  • 陰 … 『全唐詩』では「嶔」に作り、「一作陰」とある。『唐詩別裁集』では「嶔」に作る。
  • 岑 … 『全唐詩』には「一作崟」とある。『唐詩別裁集』では「崟」に作る。
  • 玉楼 … 玉で飾った楼閣。または美しい楼閣のこと。東方朔『海内十洲記』崑崙の条に「城上に金台五所、玉楼十二所をく」(城上安金臺五所、玉樓十二所)とある。ウィキソース「海內十洲記」参照。
  • 対 … (桂宮が玉楼と)向かい合う。
12 椒房窈窕連金屋
しょうぼう ようちょうとして金屋きんおくつら
  • 椒房 … 皇后の御殿。椒房殿。壁に山椒の実を塗り込めたことから。『三輔黄図』巻三、未央宮の条に「椒房殿は、未央宮に在り。椒を以て泥に和して塗る。其の温くして芬芳ふんぽうを取るなり」(椒房殿、在未央宮。以椒和泥塗。取其溫而芬芳也)とある。ウィキソース「三輔黃圖/卷之三」参照。また班固「西都の賦」(『文選』巻一)に「後宮には則ち掖庭・椒房有り、后妃の室」(後宮則有掖庭椒房、后妃之室)とある。掖庭は、後宮。ウィキソース「西都賦」参照。また『漢書』車千秋伝に「転じて未央の椒房に至る」(轉至未央椒房)とある。ウィキソース「漢書/卷066」参照。その顔師古の注に「椒房は、殿の名、皇后の居る所なり。椒を以て泥を和して壁に塗り、其の温くして芳を取るなり」(椒房、殿名、皇后所居也。以椒和泥塗壁、取其溫而芳也)とある。『漢書評林』巻六十六(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 窈窕 … 奥深く静かなさま。後漢の王延寿「魯の霊光殿の賦」(『文選』巻十一)に「旋室せんしつ㛹娟べんけんとして以て窈窕、洞房どうぼう叫窱きょうじょうとして幽邃ゆうすいなり」(旋室㛹娟以窈窕、洞房叫窱而幽邃)とある。ウィキソース「魯靈光殿賦」参照。
  • 金屋 … 黄金で飾った御殿。漢の武帝が子どもの頃、のちに陳皇后となったきょうを見ていった言葉に基づく。『漢武故事』に「し阿嬌を得てよめと作さば、当に金屋を作りて之を貯うべきなり」(若得阿嬌作婦、當作金屋貯之也)とある。ウィキソース「漢武故事」参照。
  • 連 … 連なっている。
3
  • 隈・開・臺・來・囘(平声灰韻)。
13 三條九陌麗城隈
さんじょうきゅうはく じょうわい
  • 三条 … 三筋の大通り。班固「西都の賦」(『文選』巻一)に「三条の広路をひらき、十二の通門を立つ」(披三條之廣路、立十二之通門)とある。ウィキソース「西都賦」参照。
  • 九陌 … 九本の大きな道。長安城内の大通りをいう。陌は、街路。『三輔黄図』巻一、漢長安故城の条に「長安城中、経緯各〻長さ三十二里十八歩、地九百七十三けい、八街九陌」(長安城中、經緯各長三十二里十八步、地九百七十三頃、八街九陌)とある。ウィキソース「三輔黃圖/卷之一」参照。
  • 城隈 … 城のすみ。町のすみ。劉昼『劉子新論』激通篇に「せつ多〻たた荒城の隈に積もり、急風好〻はなはだ沙河の上に起こる」(駛雪多積荒城之隈、急風好起沙河之上)とある。駛雪は、にわか雪。ウィキソース「劉子 (四庫全書本)/卷10」参照。
  • 麗 … 付く。接続する。『易経』離卦に「離は、くなり。日月は天にき、百穀草木はく」(離、麗也。日月麗乎天、百穀草木麗乎土)とある。ウィキソース「周易/離」参照。『全唐詩』には「一作鳳」とある。『文苑英華』では「鳳」に作り、「一作麗」とある。
14 萬戶千門平旦開
ばん千門せんもん 平旦へいたんひら
  • 万戸千門 … 宮殿の門戸の多いことをいう。『漢書』東方朔伝に「今陛下、城中を以て小と為し、図って建章を起こす。鳳闕を左にし、神明を右にし。号して千門万戸と称す」(今陛下以城中爲小、圖起建章。左鳳闕、右神明。號稱千門萬戶)とある。ウィキソース「漢書/卷065」参照。
  • 平旦 … 夜明け。明けがた。平明。南朝宋の鮑照「放歌行」(『文選』巻二十八)に「にわとりは洛城のうちに鳴き、禁門は平旦に開く」(雞鳴洛城裏、禁門平旦開)とある。ウィキソース「昭明文選/卷28」参照。
15 複道斜通鳷鵲觀
複道ふくどう ななめにつうず じゃくかん
  • 複道 … 上下二層の渡り廊下。宮殿と宮殿とをつなぎ、上層は天子、下層は臣下が通った。『史記』留侯世家に「しょう雒陽らくようの南宮に在り、復道より諸将を望見するに、往往あいともに沙中に坐して語る」(上在雒陽南宮、從復道望見諸將、往往相與坐沙中語)とあり、『集解』に「如淳曰く、上下に道有り、故に之を復道と謂う」(如淳曰、上下有道、故謂之復道)とある。ウィキソース「史記三家註/卷055」参照。
  • 鳷鵲観 … 漢の武帝が甘泉宮の中に築いた宮殿の名。甘泉宮は、咸陽の北西にあった離宮。現在の陝西省咸陽市淳化県に位置する。ウィキペディア【甘泉宫遗址】(中文)参照。鳷鵲は、鳥の名。ルリカケス。ウィキペディア【ルリカケス】参照。『三輔黄図』巻二、漢宮の条に「甘泉苑を築く。建元中(前140~前135)、石関・封巒・鳷鵲観を苑垣内に作る」(築甘泉苑。建元中作石關、封巒、鳷鵲觀於苑垣內)とある。ウィキソース「三輔黃圖/卷之二」参照。
16 交衢直指鳳凰臺
こう ぐにす 鳳凰台ほうおうだい
  • 交衢 … 交叉する道路。四つ辻。衢は、四方に通じる大通り。『爾雅』釈宮篇に「四達之を衢と謂う」(四達謂之衢)とあり、その注に「交道こうどうしゅつす」(交道四出)とある。交道は、十字路。四出は、四方へ出ること。ウィキソース「爾雅註疏/卷05」参照。魏の嵇康けいこう「二郭に答う三首 其三」(『古詩紀』巻二十八)に「楊氏交衢を歎く」(楊氏歎交衢)とある。ウィキソース「古詩紀 (四庫全書本)/卷028」参照。
  • 直指 … まっすぐに(鳳凰台を)指さす。四つ辻が鳳凰台まで達しているのが見えている様子。呉の孫綽「天台山に遊ぶの賦」(『文選』巻十一)に「根を結ぶこと華岱よりもひろく、直指すること九疑よりも高し」(結根彌於華岱、直指高於九疑)とある。華岱は、華山と泰山。九疑は、九疑山。ウィキソース「遊天台山賦」参照。
  • 鳳凰台 … 楼台の名。秦の弄玉の故事を踏まえる。秦の穆公(在位前659~前621)の娘弄玉は、しょうの名人しょうに惚れたため、穆公は娘を蕭史に嫁がせた。蕭史は彼女に簫の吹き方を教え、彼女は鳳凰の鳴き声が吹けるようになった。数年後、鳳凰が簫の音に誘われて訪れるようになった。穆公は彼らのために鳳台ほうだいを築いてやった。のちに二人は昇天して仙人になったという。『列仙伝』巻上に「蕭史は、秦の穆公の時の人なり。善く簫を吹き、能く孔雀・白鶴を庭に致す。穆公にむすめ有り、あざなは弄玉、之を好む。公ついに女を以てめあわす。日〻ひび弄玉に鳳鳴を作すを教う。居ること数年、吹くこと鳳声に似たり。鳳凰きたりて其のおくとどまる。公ために鳳台を作るに、夫婦其の上に止まり、下らざること数年、一日、皆鳳凰に随って飛び去る。故に秦人しんぴと為に鳳女ほうじょを雍宮中に作るに、時に簫声有るのみ」(蕭史者、秦穆公時人也。善吹簫、能致孔雀白鶴於庭。穆公有女、字弄玉、好之。公遂以女妻焉。日教弄玉作鳳鳴。居數年、吹似鳳聲。鳳凰來止其屋。公爲作鳳臺、夫婦止其上、不下數年、一日、皆隨鳳凰飛去。故秦人爲作鳳女祠於雍宮中、時有簫聲而已)とある。ウィキソース「列仙傳」参照。また『三輔黄図』巻二、漢宮の条に「又鳳凰闕有り、漢の武帝の造り。高さ七丈五尺。鳳凰闕は、一に別鳳闕と名づく」(又有鳳凰闕、漢武帝造。高七丈五尺。鳳凰闕、一名別鳳闕)とある。ウィキソース「三輔黃圖/卷之二」参照。
  • 凰 … 『唐詩選』『全唐詩』『唐詩別裁集』では「皇」に作る。同義。
17 劍履南宮入
けん なんきゅう
  • 剣履 … 剣を帯び、くつをはいたままで昇殿すること。功績のあった臣下を天子が優遇すること。『史記』蕭相国世家に「是に於て乃ち蕭何をして、剣を帯びくつにて殿に上り、朝に入りてはしらざることを賜わらしむ」(於是乃令蕭何、賜帶劍履上殿、入朝不趨)とある。ウィキソース「史記/卷053」参照。
  • 南宮 … 尚書省をいう。漢の尚書省は星座の南宮をかたどったのでいう。『後漢書』鄭弘伝に「弘の前後ぶる所にして王政に補益有る者、皆な之を南宮にしるし、以て故事と為す」(弘前後所陳有補益王政者、皆著之南宮、以爲故事)とある。ウィキソース「後漢書/卷33」参照。また『史記』留侯世家に「しょう雒陽らくようの南宮に在り」(上在雒陽南宮)とある。ウィキソース「史記/卷055」参照。
18 簪纓北闕來
簪纓しんえい 北闕ほっけつよりきた
  • 簪纓 … かんざしをさし、冠のひもをつけた官吏。簪は、冠を固定するために髪にさすかんざしのようなもの。纓は、冠のひも。『南史』王弘伝論に「夫の休元弟兄の、並びに棟梁の任に挙げらるるに及びて、下世嗣におよぶまで、文雅の風をく無し。其の簪纓替えざる所以、豈に徒らに然らん」(及夫休元弟兄、並舉棟梁之任、下逮世嗣、無虧文雅之風。其所以簪纓不替、豈徒然也)とある。ウィキソース「南史/卷21」参照。
  • 北闕 … 宮城の北門。上奏・謁見などをする者は、この門から入った。漢代、北闕は、未央宮の北にある玄武闕をいう。『史記』高祖本紀に「蕭丞相、未央宮を営作す。東闕・北闕・前殿・武庫・太倉を立つ」(蕭丞相營作未央宮。立東闕、北闕、前殿、武庫、太倉)とあり、『集解』に引く『関中記』に「東に蒼龍闕有り、北に玄武闕有り。玄武は所謂北闕なり」(東有蒼龍闕、北有玄武闕。玄武所謂北闕)とある。ウィキソース「史記三家註/卷008」参照。また『漢書』高帝紀下に「蕭何、未央宮を治めて、東闕、北闕、前殿、武庫、大倉を立つ」(蕭何治未央宮、立東闕、北闕、前殿、武庫、大倉)とある。ウィキソース「漢書/卷001下」参照。その顔師古の注に「未央殿はなんきょうして書をたてまつり事を奏すと雖も、謁見の徒は皆北闕にいたり、公車司馬も亦た北に在り。是れ則ち北闕を以て正門と為す。而して又東門・東闕有り。西南両面に至って、門闕無し。蓋し蕭何初めて未央宮を立て、厭勝の術を以て、理よろしくしかるべし」(未央殿雖南嚮、而上書奏事、謁見之徒皆詣北闕、公車司馬亦在北焉。是則以北闕爲正門。而又有東門、東闕。至於西南兩面、無門闕矣。蓋蕭何初立未央宮、以厭勝之術、理宜然乎)とある。『漢書評林』卷一下(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
19 聲明冠寰宇
声明せいめい かんかんたり
  • 声明 … 声は、鈴の音。明は、旗の模様。『春秋左氏伝』桓公二年に「よう・鸞・和・鈴は、其の声を昭かにするなり。三辰旂旗ききは、其の明を昭かにするなり。夫れ徳は倹にして度有り、登降数有り。文・物以て之を紀し、声・明以て之を発し、以て百官に臨照すれば、百官是に於てか戒懼して、敢えて紀律を易えず」(鍚鸞和鈴、昭其聲也。三辰旂旗、昭其明也。夫德儉而有度、登降有數。文物以紀之、聲明以發之、以臨照百官、百官於是乎戒懼、而不敢易紀律)とある。ウィキソース「春秋左氏傳/桓公」参照。
  • 明 … 『唐詩選』『全唐詩』『古今詩刪』『唐詩品彙』『唐詩解』では「名」に作る。声名は、名声の意。
  • 寰宇 … 海内。天下。世界。宇内。寰は、丸い大空におおわれた世界。天子が直轄した領地。宇は、大きい屋根のような大空におおわれた世界。『説文解字』巻七下、宀部に「寰は、王者の封畿内の県なり」(寰、王者封畿内縣也)、「宇は、屋辺なり」(宇、屋邊也)とある。ウィキソース「說文解字/07」参照。『文子』自然篇に「四方上下、之を宇と謂う」(四方上下謂之宇)とある。ウィキソース「文子/卷八」参照。『南史』梁簡文帝紀論に「声寰宇にふるい、沢えいに流る」(聲振寰宇、澤流遐裔)とある。遐裔は、辺境。または異民族の国。ウィキソース「南史/卷08」参照。
  • 冠 … すぐれていて第一であること。
20 文物象昭囘
文物ぶんぶつ しょうかいかたど
  • 文物 … 文化が生み出したもの。学問・芸術・宗教・教育・制度など。文は、衣服の模様。物は、衣服や車の五色の装飾をいう。『春秋左氏伝』桓公二年に「火・竜・ふつは、其の文を昭かにするなり。五色比象は、其の物を昭かにするなり」(火龍黼黻、昭其文也。五色比象、昭其物也)とある。ウィキソース「春秋左氏傳/桓公」参照。
  • 昭回 … 天の川が光り輝きながらめぐること。『詩経』大雅・雲漢の詩に「たくたる彼の雲漢、天にひかり回る」(倬彼雲漢、昭回于天)とあるのに基づく。雲漢は、天の川。ウィキソース「詩經/雲漢」参照。
  • 象 … なぞらえる。かたちを似せる。
4
  • 戺・市・起・水・里(上声紙韻)。
21 鉤陳肅蘭戺
鉤陳こうちん らんしゅくたり
  • 鉤陳 … 星の名。六星。紫微しびえんの中にあり、北極星に最も近い。ウィキペディア【勾陳】(中文)参照。『晋書』天文志に「北極五星、鉤陳六星、皆紫宮の中に在り」(北極五星、鉤陳六星、皆在紫宮中)とある。ウィキソース「晉書/卷011」参照。転じて後宮を指す。揚雄「甘泉の賦」(『文選』巻七)に「招揺と太陰とにみことのりし、鉤陳に伏せて兵をつかさどらしむ」(詔招搖與太陰兮、伏鉤陳使當兵)とあり、李善の注に服虔を引いて「鉤陳は、神の名なり。紫微宮の外営陳星なり」(鉤陳、神名也。紫微宮外營陳星也)とある。ウィキソース「昭明文選/卷7」参照。また班固「西都の賦」(『文選』巻一)に「めぐらすに鉤陳の位を以てす」(周以鉤陳之位)とあり、李善の注に「楽汁図」を引いて「鉤陳は、後宮なり」(鉤陳、後宮也)とある。ウィキソース「昭明文選/卷1」参照。
  • 蘭戺 … 香木で造った殿階。戺は、宮殿の階段の両側に積み重ねた石。『爾雅』釈宮篇に「くるるの北方に達するもの、之を落時と謂う。落時之を戺と謂う」(樞達北方謂之落時。落時謂之戺)とある。こちらの戺は、くるる(戸の回転軸)を支える木の意。ウィキソース「爾雅」参照。
  • 粛 … 厳かで静まりかえっている様子。
22 璧沼浮槐市
へきしょう かいうか
  • 璧沼 … 璧雍の周りに作られた池。璧雍は、周代、天子が設けた大学のこと。ウィキペディア【辟雍】参照。『礼記』王制篇に「天子之に教うることを命じて、然る後に学をつくる。小学は公宮の南の左に在り、大学は郊に在り。天子には辟雍と曰い、諸侯にははんきゅうと曰う」(天子命之教、然後爲學。小學在公宮南之左、大學在郊。天子曰辟廱、諸侯曰頖宮)とある。ウィキソース「禮記/王制」参照。また『桓譚新論』に「王者、円池を作り、へきの形の如くす。水を其の中にて、以て之を環壅かんようす。名づけて辟雍と曰う。言うこころは、其の上、天地に承け、以て教令をわかち、王道を流転す。周して復た始まる」(王者作圓池、如璧形。實水其中、以環壅之。名曰辟雍。言其上承天地、以班教令、流轉王道。周而復始)とある。ウィキソース「新論/11」参照。
  • 槐市 … 漢代、長安の東方にあった市場の名。えんじゅの並木道の下にあったので、こう名づけられた。月の一日と十五日に大学生たちが各地からの産物・書籍・楽器を売買し、学問をも議論したという。『三輔黄図』補遺及び陸倕「石闕の銘」(『文選』巻五十六)の注に「元始中、明堂を起す。槐樹をつらぬること数百行、朔望に諸生経書及び当郡出だす所の物を持し、此に於て売買す。槐市と号す」(元始中、起明堂。列槐樹數百行、朔望諸生持經書及當郡所出物於此賣買。號槐市)とある。朔望は、陰暦で、一日(朔)と十五日(望)。諸生は、学生のこと。ウィキソース「三輔黃圖/補遺」「昭明文選/卷56」参照。また『雍録』巻八、職官、西京太学の条に「上林の別に槐市有り。士、ぶつを以て来たる者、皆即ち市にて以てひさぐ」(上林別有槐市。士以土物來者、皆即市以鬻)とある。ウィキソース「雍錄/卷08」参照。
  • 浮 … (池には槐市の影が)浮かんでいる。
23 銅羽應風廻
どう かぜおうじてめぐ
  • 銅羽 … 漢の武帝が建章宮の屋上に置いた、鳳凰の形をした銅製の風向計。いわゆる風見鶏のようなもの。『三輔黄図』巻二、漢宮の条に引く『漢書』に「建章宮の南に玉堂有り。璧門三層、台の高さ三十丈、玉堂の内殿十二門、階陛かいへいは皆ぎょくにて之をつくる。銅鳳を鋳し高さ五尺、黄金を飾りて屋上にとまらしむ。下に転枢てんすう有り、風に向かい翔ぶがごとし」(建章宮南有玉堂。璧門三層、臺高三十丈、玉堂內殿十二門、階陛皆玉爲之。鑄銅鳳高五尺、飾黃金棲屋上。下有轉樞、向風若翔)とある。階陛は、宮殿のきざはし。ウィキソース「三輔黃圖/卷之二」参照。
  • 羽 … 『全唐詩』には「一作雀」とある。
  • 応風廻 … 風に応じて向きをかえ回る。
  • 廻 … 『全唐詩』では「囘」に作る。同義。
24 金莖承露起
金茎きんけい つゆけて
  • 金茎 … 漢の武帝が立てた承露盤(天から降る露を受ける盤)を支える銅柱。班固「西都の賦」(『文選』巻一)に「せんしょうげてもっつゆけ、双立そうりつせる金茎きんけいく」(抗仙掌以承露、擢雙立之金莖)とある。ウィキソース「西都賦」参照。また『漢書』郊祀志に「其の後又た柏梁・銅柱・承露・仙人掌の属を作る」(其後又作柏梁、銅柱、承露、仙人掌之屬矣)とある。ウィキソース「漢書/卷025上」参照。
  • 承露起 … 天上の露を受けようとして高々と立っている。
25 校文天祿閣
ぶんこうす 天禄閣てんろくかく
  • 校文 … 典籍の校正が行なわれている。
  • 天禄閣 … 漢代、典籍を蔵した殿閣の名。未央宮のわきにある。劉向や揚雄らがこの閣で貴重書の校正を行なった。ウィキペディア【天祿閣】(中文)参照。『三輔黄図』巻六、閣の条に「天禄閣は、典籍を蔵するの所なり。漢宮殿疏に云く、天禄・麒麟閣、蕭何造りて、以て秘書を蔵し、賢才を処らしむ。劉向、成帝の末に、天禄閣に書を校し、精を専らにしてたんす」(天祿閣、藏典籍之所。漢宮殿疏云、天祿、麒麟閣、蕭何造、以藏秘書、處賢才也。劉向於成帝之末、校書天祿閣、專精覃思)とある。覃思は、深く思うこと。ウィキソース「三輔黃圖/卷之六」参照。また『漢書』揚雄伝に「時に雄、天禄閣の上にて書を校す」(時雄校書天祿閣上)とある。ウィキソース「漢書/卷087下」参照。また班固「西都の賦」(『文選』巻一)に「又天禄・石渠、典籍のくら有り」(又有天祿石渠、典籍之府)とある。ウィキソース「西都賦」参照。
26 習戰昆明水
たたかいをならう 昆明水こんめいすい
  • 習戦 … 水戦の演習が行なわれている。
  • 昆明水 … 昆明池のこと。漢の武帝がインドへの交通路を開拓しようとしたが、途中にある昆明国(今の雲南省あたり)に邪魔されたため、これを討伐するために昆明の近くにあったてんと同じ形の池を長安の西南に掘らせ、昆明池と名づけて水戦の演習をさせた。『漢書』武帝紀に「たくを発して昆明池を穿うがたしむ」(發謫吏穿昆明池)とあり、臣瓚の注に「西南夷伝に越嶲えつすい昆明国有り。てん有り、方三百里。漢の使い身毒しんどく国を求むれども、昆明の閉ざす所と為る。今之をたんと欲し、故に昆明池を作り之をかたどり、以て水戦を習わす。長安の西南に在り、周回四十里」(西南夷傳有越嶲。昆明國、有滇池、方三百里。漢使求身毒國、而爲昆明所閉。今欲伐之、故作昆明池象之、以習水戰。在長安西南、周回四十里)とある。謫吏は、罰として遠方へ流された役人。身毒は、インド。『漢書評林』巻六(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『西京雑記』に「武帝、昆明池を作り、昆明夷をたんと欲し、水戦を教習す」(武帝作昆明池、欲伐昆明夷、教習水戰)とある。ウィキソース「西京雜記/卷一」参照。
27 朱邸抗平臺
朱邸しゅてい 平台へいだいこう
  • 朱邸 … 諸侯が都に置いた邸宅。諸侯の功ある者には門戸を朱塗りにすることが許されたことから、こういう。謝朓「中軍記室に拝せられ隋王に辞するせん」(『文選』巻四十)に「唯だ青江の望む可くんば、こうしゅんしょち、朱邸まさに開かば、蓬心ほうしんしゅうじついたさんことを待たんのみ」(唯待靑江可望、候歸艎於春渚、朱邸方開、效蓬心於秋實)とあり、李善の注に「史記に曰く、諸侯天子に朝し、天子の立つ所の舎に於けるを、邸と曰う。諸侯戸を朱にす、故に朱邸と曰う」(史記曰、諸侯朝天子、於天子之所立舍、曰邸。諸侯朱戶、故曰朱邸)とある。ウィキソース「昭明文選/卷40」参照。
  • 平台 … 梁の孝王(?~前144)が築いた台。梁の国(今の河南省商丘市)にあった。梁の孝王は、漢の文帝の子で、景帝の弟。ウィキペディア【劉武】参照。『史記』梁孝王世家に「大いに宮室を治め、複道をつくり、宮より平台に連属す、三十余里」(大治宮室、爲複道、自宮連屬於平臺、三十餘里)とある。ウィキソース「史記/卷058」参照。なお、ここでは皇族の邸宅の意。
  • 抗 … 高さを競っている。張り合っている。『全唐詩』には「一作接」とある。『文苑英華』では「接」に作り、「一作抗」とある。『唐詩紀事』では「枕」に作る。
28 黃扉通戚里
こう せきつう
  • 黄扉 … 漢代、宰相のいる役所。黄閣。『野客叢書』に「禁門を黄闥こうたつと曰い、公府を黄閣と曰う。郡治を黄堂と曰い、三公は黄閣。前史に其の義無し。人往往に其の説を得ず。案ずるに礼記に、士のひざかけは天子と同じく、公侯大夫は則ち異なる。鄭玄の註に、士賤、君と同じく、嫌わざるなり。朱門洞に啓く、陽の正色に当る。三公の天子と礼秩相ぐ。故に其の閣を黄にし以て謙を示す。蓋し是れ漢の制なり。張超の陳公に与えし箋に、黄閣を拝する、将に日有らんとす。是れなり」(禁門曰黃闥、公府曰黃閣。郡治曰黃堂、三公黃閣。前史無其義。人往往不得其說。案禮記、士韠與天子同、公侯大夫則異。鄭玄註、士賤、與君同、不嫌也。朱門洞啓、當陽之正色。三公之與天子禮秩相亞。故黃其閣以示謙。蓋是漢制。張超與陳公箋、拜黃閣、將有日。是也)とある。ウィキソース「野客叢書/卷08」参照。
  • 戚里 … 長安の中で、天子の外戚(皇后の一族)を住まわせた区画。『史記』万石君伝に「其の家を長安中の戚里にうつす」(徙其家長安中戚里)とあり、『索隠』に「小顔云く、上に於いて姻戚有る者、皆之に居る。故に其の里を名づけて戚里と為すと」(小顏云、於上有姻戚者、皆居之。故名其里為戚里)とある。ウィキソース「史記三家註/卷103」参照。
  • 通 … 通じている。
5
  • 墉・鐘・重・龍(平声冬韻)。
29 平臺戚里帶崇墉
平台へいだい せき 崇墉すうよう
  • 崇墉 … 高くめぐらした垣根。崇は、高い。墉は、垣根。土塀。『詩経』大雅・こうの詩に「りんしょうは閑閑たり、崇墉は言言げんげんたり」(臨衝閑閑、崇墉言言)とある。ウィキソース「詩經/皇矣」参照。また南朝宋の鮑照「蕪城の賦」(『文選』巻十一)に「崇墉をかくし、濬洫しゅんきょくり、世をながくして以て休命ならんことを図る」(劃崇墉、刳濬洫、圖脩世以休命)とある。濬洫は、深い堀。ウィキソース「蕪城賦」参照。
  • 墉 … 『唐詩選』では「牖」に作る。異体字。
  • 帯 … めぐらされている。
30 炊金饌玉待鳴鐘
きんかしぎょくせんしてめいしょう
  • 炊金饌玉 … 黄金を炊き、宝玉を食べものにする。贅沢な食事をいう。饌は、ご馳走を取り揃えること。『戦国策』楚策に「楚国の食は玉より貴く、たきぎかつらより貴し。謁者えっしゃの見るを得難きことの如く、王のまみゆるを得難きこと天帝の如し。いま臣をして玉をみ桂をかしぎ、に因って帝にまみえしむ」(楚國之食貴於玉、薪貴於桂。謁者難得見如鬼、王難得見如天帝。今令臣食玉炊桂、因鬼見帝)とある。ウィキソース「戰國策/卷16」参照。
  • 炊 … 『全唐詩』『文苑英華』には「一作灼」とある。『四部叢刊本』では「酌」に作る。『唐詩紀事』では「灼」に作る。
  • 鳴鐘 … 食事の合図のため、鐘を鳴らすこと。『史記』貨殖伝に「馬医は、浅方なり、張裏は鐘を撃つ」(馬醫、淺方、張裏擊鐘)とある。ウィキソース「史記/卷129」参照。また『春秋左氏伝』十四年に「左師、食するごとに鐘を撃つ」(左師每食擊鐘)とある。ウィキソース「春秋左氏傳/哀公」参照。また梁の戴暠「煌煌京洛行」(『楽府詩集』巻三十九・相和歌辞・瑟調曲)に「金をふるって客を留めて坐せしめ、玉を饌して鐘の鳴るを待つ」(揮金留客坐、饌玉待鐘鳴)とある。ウィキソース「樂府詩集/039卷」参照。また張衡「西京の賦」(『文選』巻二)に「さかづきあぐるにのろしを挙げ、既にのみつくせば鐘を鳴らす」(升觴舉燧、既釂鳴鐘)とある。ウィキソース「西京賦」参照。
31 小堂綺帳三千戶
しょうどうちょう 三千さんぜん
  • 小堂 … 小部屋。妾のいる所。梁の簡文帝「修竹の賦」に「陳王旧を歓び、小堂にて佇軸ちょじくす。今故人にはなむけし、亦た修竹を賦す」(陳王歡舊、小堂佇軸。今餞故人、亦賦修竹)とある。佇軸は、待ちあぐんで物思いにふけること。
  • 綺帳 … 綾絹のとばり。綺は、あや織りの絹。綾絹。帳は、長い幕。とばり。古楽府「東飛伯労歌」(一説に梁の武帝作、『玉台新詠』巻九)に「南窓北牖ほくゆう明光をけ、羅幃らい綺帳脂粉かんばし」(南窗北牖挂明光、羅幃綺帳脂粉香)とある。北牖は、北の明かりとりの窓。ウィキソース「東飛伯勞歌 (蕭衍)」参照。
  • 三千戸 … 数の非常に多いことの喩え。南朝宋の鮑照「煌煌京洛行二首 其一」(『楽府詩集』巻三十九・相和歌辞・瑟調曲、『玉台新詠』巻四)に「珠簾路を隔つる無く、こう風にえず。宝帳三千所、爾が一朝のかたちづくりの為なり」(珠簾無隔路、羅幌不勝風。寳帳三千所、爲爾一朝容)とある。羅幌は、うすぎぬの幕。ウィキソース「樂府詩集/039卷」「代京洛篇」参照。
  • 戸 … 『文苑英華』『唐詩紀事』では「萬」に作る。
32 大道靑樓十二重
大道だいどう青楼せいろう じゅうちょう
  • 大道 … 都大路。北周の王褒おうほう「古曲」(『楽府詩集』巻七十七・雑曲歌辞、『文苑英華』巻二百七)に「青楼は大道に臨み、遊俠は尽くえんりゅうす」(靑樓臨大道、遊俠盡淹留)とある。青楼は、遊女のいる所。淹留は、一か所に長い間留まること。ウィキソース「樂府詩集/077卷」参照。
  • 青楼 … 青漆で塗った高殿たかどの。女性の住む所。ちなみに青楼には妓楼の意もあるが、ここではその意味ではない。江淹「西洲曲」(『玉台新詠』巻五・宋版不収)に「おおとり飛んで西洲に満ち、郎を望んで青楼に上る」(鴻飛滿西洲、望郎上靑樓)とある。ウィキソース「西洲曲」参照。また『南斉書』東昏侯本紀に「世祖の興光楼上に青漆を施す、世に之を青楼と謂う」(世祖興光樓上施青漆、世謂之青樓)とある。ウィキソース「南齊書/卷7」参照。また曹植「美女篇」(『文選』巻二十七、『玉台新詠』巻二)に「美女ようにして且つ閑なり、くわを岐路の間にる。……借問すじょいずくにか居る、乃ち城の南端に在り。青楼大路に臨み、高門重関を結ぶ」(美女妖且閑、采桑歧路間。……借問女安居、乃在城南端。青樓臨大路、高門結重關)とある。ウィキソース「美女篇 (曹植)」参照。
  • 十二重 … 十二層。南朝宋の鮑照「煌煌京洛行二首 其一」(『楽府詩集』巻三十九・相和歌辞・瑟調曲、『玉台新詠』巻四)に「鳳楼十二重、四戸に八つの綺窓」(鳳楼十二重、四戸八綺窓)とある。ウィキソース「樂府詩集/039卷」「代京洛篇」参照。
33 寶蓋雕鞍金絡馬
宝蓋ほうがい ちょうあん 金絡きんらく
  • 宝蓋 … 宝玉で飾った車蓋(車上の衣笠)。
  • 雕鞍 … 彫刻を施した鞍。
  • 金絡 … 黄金で作った面繋おもがい(馬の頭部から頰の部分にかけてつけた組紐)。鮑照「結客少年場行」(『文選』巻二十八)に「そう金絡きんらくとう錦帯きんたいこうぶ」(驄馬金絡頭、錦帶佩吳鉤)とある。驄馬は、青黒と白とのまじった毛色の馬。ウィキソース「昭明文選/卷28」参照。
34 蘭窗繡柱玉盤龍
蘭窓らんそう 繡柱しゅうちゅう ぎょくばんりょう
  • 蘭窓 … 香木で枠を作った窓。
  • 窓 … 『唐詩選』『唐詩品彙』では「牕」に作る。『文苑英華』『唐詩紀事』では「䆫」に作る。いずれも異体字。
  • 繡柱 … 美しく飾った柱。南朝宋の鮑照「煌煌京洛行二首 其一」(『楽府詩集』巻三十九・相和歌辞・瑟調曲、『玉台新詠』巻四)に「しゅうかくには金の蓮花」(繡桷金蓮花)とある。繡桷は、ぬいとりの布をかぶせたたるき。ウィキソース「樂府詩集/039卷」「代京洛篇」参照。
  • 繡 … 『古今詩刪』では「綉」に作る。異体字。
  • 玉盤竜 … 宝玉で作った、柱に巻きついた形の竜の飾り物。盤竜は、とぐろを巻いた竜のこと。南朝宋の鮑照「煌煌京洛行二首 其一」(『楽府詩集』巻三十九・相和歌辞・瑟調曲、『玉台新詠』巻四)に「桂柱には玉の盤竜」(桂柱玉盤龍)とある。ウィキソース「樂府詩集/039卷」「代京洛篇」参照。また『西京雑記』に「趙飛燕が女弟、昭陽殿に居る。……椽桷てんかくは皆刻んで竜蛇を作し、其の間をえいじょうす」(趙飛燕女弟居昭陽殿。……椽桷皆刻作龍蛇、縈繞其間)とある。縈繞は、ぐるぐると曲がりめぐること。ウィキソース「西京雜記/卷一」参照。
6
  • 映・盛(去声敬韻)。
35 繡柱璇題粉壁映
繡柱しゅうちゅう 璇題せんだい 粉壁ふんぺきえい
  • 繡 … 『古今詩刪』『唐詩解』では「綉」に作る。異体字。『全唐詩』『文苑英華』には「一作綺」とある。『唐詩紀事』では「綺」に作る。
  • 璇題 … 玉で飾った垂木の小口。璇は、丸く美しい宝玉。題は、垂木の小口。前漢の楊雄「甘泉の賦」(『文選』巻七)に「蓋し天子、珍台間館、琁題玉英、蜵蜎えんえん蠖濩わくかくたるうち穆然ぼくぜんたり」(蓋天子穆然珍臺閒館、琁題玉英、蜵蜎蠖濩之中)とある。琁は璇と同義。ウィキソース「甘泉賦」参照。
  • 粉壁 … 白く塗った壁。張正見の「置酒高殿上」(『楽府詩集』巻三十九)に「陳王ちんおう甲第こうだいひらき、粉壁ふんぺきしょうける」(陳王開甲第、粉壁麗椒塗)とある。置酒は、酒宴を開くこと。甲第は、立派な邸宅。椒塗は、山椒を入れた土。麗は、くっつける。ウィキソース「樂府詩集/039卷」参照。また梁の劉孝綽「書を秘書省に校し、雪に対して懐を詠ず」詩(『古詩紀』巻九十七、『文苑英華』巻百五十四)に「浮光粉壁に乱れ、積照とうあきらかなり」(浮光亂粉壁、積照朗彤闈)とある。彤闈は、赤く塗った宮門。ウィキソース「古詩紀 (四庫全書本)/卷097」参照。
  • 粉 … 『全唐詩』には「一作彩」とある。『四部叢刊本』では「彩」に作る。
  • 映 … 照り映える。『唐詩別裁集』では「暎」に作る。異体字。
36 鏘金鳴玉王侯盛
しょうきんめいぎょく 王侯おうこうさかんなり
  • 鏘金鳴玉 … 鏘金は、金属の鳴る音。鳴玉は、佩玉が鳴ること。ここでは佩刀の金具や佩玉がかち合って音が鳴っている様子。『国語』楚語下に「王孫ぎょ晋にへいして、定公之を饗し、趙簡子玉を鳴らして以てたすく」(王孫圉聘於晉、定公饗之、趙簡子鳴玉以相)とある。ウィキソース「國語/卷18」参照。
  • 王侯盛 … 王侯貴族は今を時めいている。「古詩十九首 其三」(『文選』巻二十九)「ちょうきょうこうつらね、王侯第宅ていたく多し」(長衢羅夾巷、王侯多第宅)とある。長衢は、長い大通り。夾巷は、狭い小路。ウィキソース「青青陵上柏」参照。
7
  • 臣・鄰・賓・親(平声真韻)。
37 王侯貴人多近臣
王侯おうこう じん 近臣きんしんおお
  • 貴人 … 身分や家柄の高い人。『史記』田蚡伝に「(灌)夫怒り、因りて嘻笑して曰く、将軍は貴人なり、之にしょくせん、と」(夫怒、因嘻笑曰、將軍貴人也、屬之)とある。ウィキソース「史記/卷107」参照。
  • 近臣 … 天子のそば近く仕える臣下。『漢書』孫宝伝に「上書して宝を薦め経明にして質直なり、宜しく近臣に備わるべし」(上書薦寶經明質直、宜備近臣)とある。ウィキソース「漢書/卷077」参照。また『後漢書』劉隆伝に「河南は帝城にして近臣多く、南陽は帝郷にして近親多し」(河南帝城多近臣、南陽帝鄉多近親)とある。ウィキソース「後漢書/卷22」参照。また『孟子』万章上篇に「近臣を観るには、其の主と為る所を以てし、遠臣を観るには、其の主とする所を以てす」(觀近臣、以其所爲主、觀遠臣、以其所主)とある。ウィキソース「孟子/萬章上」参照。
38 朝遊北里暮南鄰
あしたほくあそび くれには南隣なんりん
  • 北里南隣 … 唐代では遊里を指すが、ここでは北の里と南隣りの意。西晋の左思「詠史八首 其の四」(『文選』巻二十一)に「あしたには金張の館に集まり、くれには許史のに宿る。南隣にはしょうけいを撃ち、北里にはしょうを吹く」(朝集金張館、暮宿許史廬。南鄰擊鐘磬、北里吹笙竽)とあるのに基づく。ウィキソース「詠史八首」参照。
39 陸賈分金將燕喜
りく きんわかちてまさえんせんとし
  • 陸賈 … 前漢初期の政治家・学者。生没年不詳。楚の人。高祖劉邦に仕え、南越へ二度も使者として赴いた。『新語』を著した。ウィキペディア【陸賈】参照。
  • 分金 … 陸賈が南越へ使者として行ったとき、国王から袋入りの財宝を贈られた。陸賈はその財宝を千金で売り、五人の息子に分け与え、十日ごとに息子の家を泊まり歩いて酒食をふるまわせて楽しんだという。『史記』陸賈伝に「だん有り、乃ち越に使いして得し所のたくちゅうそうだして千金に売り、其の子に分かち、子ごとに二百金、生産を為さしむ。陸生りくせい常に安車駟馬しば、歌舞し琴瑟を鼓する侍者十人を従え、宝剣のあたい百金、其の子に謂いて曰く、汝と約す。汝によぎらば、汝、吾が人馬の酒食を給せよ。欲を極むること十日にしてえん」(有五男、乃出所使越得橐中裝賣千金、分其子、子二百金、令爲生產。陸生常安車駟馬、從歌舞鼓琴瑟侍者十人、寶劍直百金、謂其子曰、與汝約。過汝、汝給吾人馬酒食。極欲十日而更)とある。ウィキソース「史記/卷097」参照。
  • 燕喜 … 酒盛りして楽しみ喜ぶこと。宴喜。『詩経』小雅・六月の詩に「吉甫燕喜し、既に多くさいわいを受く」(吉甫燕喜、既多受祉)とある。ウィキソース「詩經/六月」参照。また魯頌・きゅうの詩に「魯侯燕喜し、令妻寿母あり」(魯侯燕喜、令妻壽母)とある。ウィキソース「詩經/閟宮」参照。また潘岳「西征の賦」(『文選』巻十)に「陸賈の優游ゆうゆうえん」(陸賈之優游宴喜)とある。優游宴喜は、ゆったりと宴遊を楽しむこと。ウィキソース「西征賦」参照。
  • 燕 … 『全唐詩』『四部叢刊本』『唐五十家詩集本』『唐詩紀事』『唐詩別裁集』『唐詩解』では「讌」に作る。同義。
40 陳遵投轄尚留賓
ちんじゅん かつとうじてなおひんとど
  • 陳遵 … 前漢末の杜陵の人。嘉威侯に封ぜられた。ウィキペディア【陈遵】(中文)参照。
  • 投轄 … 陳遵は酒が好きで、いつも客を集めて宴会を開いた。客が集まると門を閉ざし、客の車のくさびを抜いて井戸に投げ込み、急用があってもすぐには帰れないようにしたという。『漢書』游俠伝に「遵酒をたしなみ、大いに飲む毎に、賓客堂に満つ。すなわち門をじ、客の車轄しゃかつを取り井中に投ず。急有りと雖も、終に去ることを得ざらしむ」(遵耆酒、每大飮、賓客滿堂。輒關門、取客車轄投井中。雖有急、終不得去)とある。ウィキソース「漢書/卷092」参照。
  • 尚 … 『全唐詩』では「正」に作り、「一作尚」とある。『四部叢刊本』『文苑英華』『唐詩品彙』『唐詩別裁集』では「正」に作る。
  • 留賓 … 客を引き留めた。賓は、賓客。陳の後主「舞媚娘二首 其一」(『楽府詩集』巻七十三・雑曲歌辞)に「賓を留めてたちまち弦を払い、意を托して時に柱に移る」(留賓乍拂弦、托意時移柱)とある。ウィキソース「樂府詩集/073卷」参照。
  • 賓 … 『文苑英華』『唐詩紀事』『唐詩別裁集』『古今詩刪』『唐詩解』では「賔」に作る。異体字。
  • 留 … 『唐詩選』『唐詩品彙』『唐詩解』では「畱」に作る。異体字。
41 趙李經過密
ちょう けいみつ
  • 趙李 … 趙氏と李氏といった美女の家。趙は、前漢の成帝の皇后となった趙飛燕。李は、成帝の侍妾だった李平を指す(異説あり)。『漢書』谷永伝に「成帝性寬にして文辞を好み、又久しく継嗣無く、数〻しばしば微行することを為し、多く小臣を近幸す。趙李微賤より寵を専らとす。皆皇太后と諸舅と夙夜に常に憂うる所なり」(成帝性寬而好文辭、又久無繼嗣、數爲微行、多近幸小臣。趙李從微賤專寵。皆皇太后與諸舅夙夜所常憂)とある。ウィキソース「漢書/卷085」参照。また阮籍「詠懐詩十七首 其八」(『文選』巻二十三)に「平生へいぜい少年の時、軽薄にして絃歌を好む。西のかた咸陽のうちに遊び、趙李相経過せり」(平生少年時、輕薄好絃歌。西遊咸陽中、趙李相經過)とあり、李善の注に「顔延年曰く、趙は漢の成帝の趙后飛燕なり。李は武帝の李夫人なり。並びに善歌妙舞を以て二帝に幸せらる」(顏延年曰、趙漢成帝趙后飛燕也。李武帝李夫人也。並以善歌妙舞幸於二帝也)とある。ウィキソース「昭明文選/卷23」参照。また明の楊慎『丹鉛総録』訂訛類、趙李の条に「咸陽の趙李とは游俠近倖のともがらを謂う」(咸陽趙李謂游俠近倖之儔)とある。ウィキソース「丹鉛總錄 (四庫全書本)/卷13」参照。
  • 経過密 … 出入りすることが頻繁である。経過は、立ち寄ること。交際すること。王維「洛陽女児行」(『全唐詩』巻一百二十五、『唐詩三百首』楽府)に「城中の相識尽く繁華、日夜経過す趙李の家」(城中相識盡繁華、日夜經過趙李家)とある。ウィキソース「洛陽女兒行」参照。
42 蕭朱交結親
しょうしゅ 交結こうけつした
  • 蕭朱 … 前漢後期、蕭望之の子である蕭育と、その友人でのちに丞相まで出世した朱博のこと。ウィキペディア【萧育】(中文)、【朱博】参照。二人はのちに仲違いするが、当初は親友の典型として、当時の人々からもてはやされたという。『漢書』蕭育伝に「長安語りて曰く、蕭朱じゅを結び、王貢冠をはじくと。其の相薦達せんたつするを言うなり」(長安語曰、蕭朱結綬,王貢彈冠。言其相薦達也)とある。薦達は、人を推挙して出世させること。ウィキソース「漢書/卷078」参照。
  • 交結 … 交際して親しくなること。『後漢書』敬王睦伝に「睦は性謙恭にして士を好み、千里に交わり結び、名儒宿徳より門にいたらざるはく、是れに由って声価益〻ますます広し」(睦性謙恭好士、千里交結、自名儒宿德莫不造門、由是聲價益廣)とある。ウィキソース「後漢書/卷14」参照。
8
  • 暮・度・路(去声遇韻)。
43 丹鳳朱城白日暮
丹鳳たんぽう しゅじょう 白日はくじつ
  • 丹鳳 … 大明宮の南門、丹鳳門。ここでは長安の宮殿を指す。『雍録』唐東内大明宮の条に「宮の南端の門を丹鳳と名づく」(宮南端門名丹鳳)とある。ウィキソース「雍錄/卷03」参照。また梁の戴暠「煌煌京洛行」(『楽府詩集』巻三十九・相和歌辞・瑟調曲)に「黒竜よぎりて渭を飲み、丹鳳して城に臨む」(黑龍過飲渭、丹鳳俯臨城)とある。ウィキソース「樂府詩集/039卷」参照。
  • 朱城 … 朱塗りの町並み。長安城を指す。一名丹鳳城ともいう。
  • 白日暮 … 日が暮れてゆく。白日は、輝く太陽。『楚辞』九章の「思美人」に「願わくは白日の未だ暮れざるに及ばんことを」(願及白日之未暮)とある。ウィキソース「楚辭/九章」参照。
44 靑牛紺幰紅塵度
せいぎゅう 紺幰こんけん 紅塵こうじんわた
  • 青牛 … 黒毛の牛。梁の簡文帝「烏棲曲四首 其三」(『玉台新詠』巻九)に「青牛丹轂たんこく七香車、憐む可し今夜倡家に宿す」(靑牛丹轂七香車、可憐今夜宿倡家)とある。丹轂は、赤く塗った車のこしき。ウィキソース「烏棲曲 (蕭綱)」参照。
  • 牛 … 『全唐詩』には「一作巾」とある。『唐詩紀事』では「巾」に作る。
  • 紺幰 … 紺色のほろの車。幰は、ほろ。『通志』器服略、公侯大夫等車輅の条に「三品以上は青幰朱裏、五品以上は紺幰碧裏」(三品以上青幰朱裏、五品以上紺幰碧裏)とある。ウィキソース「通志 (四庫全書本)/卷048」参照。また隋の柳顧言「詠死牛」詩(『古詩紀』巻一百三十三)に「一朝紺幰を辞し、千里黄河を別つ」(一朝辭紺幰、千里別黄河)とある。ウィキソース「古詩紀 (四庫全書本)/卷133」参照。
  • 紺 … 『四部叢刊本』では「網」に作る。『唐詩紀事』では「繡」に作る。
  • 紅塵 … 繁華な町の道路に立つ土ぼこり。紅は、日光にあたって赤黒く見えるため。左思の「呉都の賦」(『文選』巻五)に「袖をふるえば風にひるがえりて、紅塵昼くらし」(揮袖風飄、而紅塵晝昏)とある。ウィキソース「吳都賦」参照。また班固「西都の賦」(『文選』巻一)に「紅塵もに合いて、煙雲相連なる」(紅塵四合、煙雲相連)とある。ウィキソース「西都賦」参照。
  • 度 … 車が(紅塵を巻き上げて)通り過ぎていく。
45 俠客珠彈垂楊道
きょうかく珠弾しゅだん 垂楊すいようみち
  • 俠客 … 任俠の徒。遊俠の徒。渡世人。男伊達。『史記集解』游俠列伝に「荀悦曰く、気を斉しく立て、威福を作し、私交を結び、以て彊を世に立つ者、之を游俠と謂う」(荀悅曰、立氣齊、作威福、結私交、以立彊於世者、謂之游俠)とある。ウィキソース「史記三家註/卷124」参照。また『列子』説符篇に「高楼に登り大路に臨んで、がくを設け酒をつらね、楼上に撃博げきはくす。俠客相随って行く」(登高樓、臨大路、設樂陳酒、擊博樓上。俠客相隨而行)とある。撃博は、勝負ごとをすること。博打をすること。ウィキソース「列子/說符篇」参照。
  • 珠弾 … 真珠または珠玉でできた弾丸。珠は、美しいものの喩え。『荘子』譲王篇に「随侯のたまを以て千仞の雀をはじかば、世、必ず之を笑わん」(以隨侯之珠彈千仞之雀、世必笑之)とある。ウィキソース「莊子/讓王」参照。また陳の徐陵「紫騮馬」詩(『古詩紀』巻一百十、『楽府詩集』巻二十四・横吹曲辞・漢横吹曲)に「角弓りょう穿うがち、珠弾双鴻そうこうを落とす」(角弓穿兩兔、珠彈落雙鴻)とある。ウィキソース「古詩紀 (四庫全書本)/卷110」「樂府詩集/024卷」参照。
  • 珠 … 『唐詩選』『古今詩刪』では「金」に作る。
  • 垂楊 … しだれ柳。謝朓「鼓吹曲」(『文選』巻二十八)に「ぼうどうはさみ、垂楊すいよう御溝ぎょこうおおう」(飛甍夾馳道、垂楊蔭御溝)とある。ウィキソース「昭明文選/卷28」参照。また『三輔黄図』巻一、秦宮の条に「長楊宮は、今のちゅうちつ県の東南三十里に在り、もと秦の旧宮、漢に至って之を修飾し以って行幸に備う。宮中に垂楊数畝有り、因って宮名と為す」(長楊宮、在今盩厔縣東南三十里、本秦舊宮、至漢修飾之以備行幸。宮中有垂楊數畝、因爲宮名)とある。盩厔県は、今の西安市周至県。ウィキソース「三輔黃圖/卷之一」参照。
  • 道 … 並木道。
46 倡婦銀鉤採桑路
しょう銀鉤ぎんこう 採桑さいそうみち
  • 倡婦 … 歌い。倡は、歌や踊りの芸人。
  • 倡 … 『唐詩選』『唐詩品彙』『古今詩刪』『唐詩解』では「娼」に作る。同義。
  • 銀鉤 … 桑の葉を入れる籠を背負うための、銀製でできたかぎ型の金具。古楽府「日出東南隅行」(一名「陌上桑」)(『玉台新詠』巻一、『楽府詩集』巻二十八・相和歌辞・相和曲)に「青糸をばろうじょうと為し、桂枝をば籠鉤ろうこうと為す」(靑絲爲籠繩、桂枝爲籠鉤)とある。ウィキソース「日出東南隅行 (豔歌羅敷行)」「樂府詩集/028卷」参照。また梁の劉孝綽「釣竿篇」(『楽府詩集』巻十八・鼓吹曲辞・漢鐃歌)に「金轄茱萸の網、銀鉤翡翠の竿」(金轄茱萸網、銀鉤翡翠竿)とある。ウィキソース「樂府詩集/018卷」参照。
  • 鉤 … 『唐詩品彙』『唐詩別裁集』『唐詩解』では「鈎」に作る。異体字。
  • 採桑 … 桑を摘む。古楽府「日出東南隅行」(一名「陌上桑」)(『玉台新詠』巻一)に「羅敷らふ蚕桑さんそうを善くし、桑を採る城の南隅」(羅敷善蠶桑、採桑城南隅)とある。ウィキソース「日出東南隅行 (豔歌羅敷行)」参照。また曹植「美女篇」(『文選』巻二十七、『玉台新詠』巻二)に「美女ようにして且つ閑なり、くわを岐路の間にる」(美女妖且閑、采桑歧路間)とある。ウィキソース「美女篇 (曹植)」参照。
  • 採 … 『全唐詩』『四部叢刊本』『唐五十家詩集本』『唐詩紀事』『唐詩別裁集』『唐詩解』では「采」に作る。同義。
9
  • 菲・肥・歸・衣・微・依・非(平声微韻)。
47 倡家桃李自芳菲
しょうとう おのずからほう
  • 倡家 … 歌いたちの家。「古詩十九首 其二」(『文選』巻二十九)に「昔は倡家のじょたり、今はとうつまと為る」(昔爲倡家女、今爲蕩子婦)とある。蕩子は、放蕩男。ウィキソース「青青河畔草 (古詩)」参照。
  • 倡 … 『唐詩選』『唐詩品彙』『古今詩刪』『唐詩解』では「娼」に作る。同義。
  • 桃李 … 桃やすもも。倡婦の美しさに喩える。『詩経』召南・何彼襛矣の詩に「何ぞ彼のさかんなる、華は桃李の如し」(何彼襛矣、華如桃李)とある。ウィキソース「詩經/何彼襛矣」参照。 また曹植「雑詩五首 其五」(『玉台新詠』巻二)に「南国に佳人有り、容華は桃李のごとし」(南國有佳人、容華若桃李)とある。ウィキソース「雜詩 (曹植)」参照。また『史記』李広伝の論賛に「ことわざに曰く、とうものいわざれども、したおのずからこみちすと」(諺曰、桃李不言、下自成蹊)とある。ウィキソース「史記/卷109」参照。
  • 自 … 自然に。
  • 芳菲 … よい香りがすること。南朝梁の庾肩吾「有所思」(『楽府詩集』巻十七・鼓吹曲辞、『玉台新詠』巻八)に「佳期ついに帰らず、春日芳菲に坐す」(佳期竟不歸、春日坐芳菲)とある。ウィキソース「樂府詩集/017卷」「詠得有所思」参照。また南朝斉の謝朓「休沐して重ねて還る道中」詩(『文選』巻二十七)に「此の盈樽えいそんしゃくり、かげを含める芳菲を望む」(賴此盈樽酌、含景望芳菲)とある。ウィキソース「昭明文選/卷27」参照。
  • 芳 … 『全唐詩』には「一作芬」とある。『文苑英華』では「芬」に作り、「一作芳」とある。
48 京華遊俠事輕肥
けいゆうきょう けいこととす
  • 京華 … 花の都。晋の郭璞「遊仙詩七首 其一」(『文選』巻二十一)に「京華は遊俠の窟にして、山林は隠遯の棲なり」(京華遊俠窟、山林隱遯棲)とある。ウィキソース「遊仙詩 (京華遊俠窟)」参照。
  • 遊俠 … 男気のある若者。俠は、俠客。男伊達。
  • 軽肥 … 「軽裘肥馬」の略。軽い上等のかわごろもと、肥えてたくましい馬。『論語』雍也篇の「せきせいくや、肥馬ひばり、軽裘けいきゅうる」(赤之適齊也、乗肥馬、衣輕裘)とあるのに基づく。ウィキソース「論語/雍也第六」参照。また隋の陳良「遊俠篇」(『楽府詩集』巻六十七・雑曲歌辞)に「洛陽春色麗しく、遊俠軽肥をす」(洛陽麗春色、遊俠騁輕肥)とある。ウィキソース「樂府詩集/067卷」参照。
  • 事 … つとめて~する。『全唐詩』では「盛」に作り、「一作事」とある。『四部叢刊本』『唐五十家詩集本』『唐詩紀事』『唐詩別裁集』『唐詩解』では「盛」に作る。『文苑英華』には「一作盛」とある。
49 延年女弟雙飛入
延年えんねん女弟じょてい そうして
  • 延年女弟 … 宦官の歌手、李延年(前140?~前87?)の妹で、漢の武帝に寵愛されてその側室となった李夫人のこと。女弟は、妹。ウィキペディア【李夫人 (漢武帝)】参照。『史記』李延年伝に「李延年は、中山の人なり。父母及び身、兄弟及び女は、皆もと倡なり。延年、法に坐して腐せられ、狗中に給事す。而うして平陽公主、延年の女弟の善く舞うを言う。しょう見て、心に之をよろこぶ。永巷えいこうに入るに及びて、召して延年を貴くす。……其の女弟も亦た幸せられ、だん有り」(李延年、中山人也。父母及身、兄弟及女、皆故倡也。延年坐法腐、給事狗中。而平陽公主言延年女弟善舞。上見、心說之。及入永巷、而召貴延年。……其女弟亦幸、有子男)とある。平陽公主は、武帝の姉。永巷は、後宮。子男は、男の子。のちの昌邑王りゅうはく。ウィキソース「史記/卷125」参照。また『漢書』外戚伝に「孝武李夫人は、うたいめを以て進む。初め、夫人の兄延年、性音を知り、歌舞を善くし、武帝之を愛す。新声変曲をつくる毎に、聞う者感動せざるは莫し。延年、しょうに侍して起舞し、歌いて曰く、北方ほっぽうじんり、絶世ぜっせいにしてひとつ、ひとたびかえりみればひとしろかたむけ、ふたたかえりみればひとくにかたむく。いずくんぞ傾城けいせい傾国けいこくとをらざらんや、じんふたたがたし、と。しょう、嘆息して曰く、善し。世に此の人有らんや、と。平陽主因って言う、延年に女弟有り、と。上乃ち召して之を見る。実に妙麗にして舞を善くす。是れに由って幸を得、一男を生む。是れを昌邑の哀王と為す」(孝武李夫人、本以倡進。初、夫人兄延年、性知音、善歌舞、武帝愛之。每爲新聲變曲、聞者莫不感動。延年侍上起舞、歌曰、北方有佳人、絕世而獨立、一顧傾人城、再顧傾人國。寧不知傾城與傾國、佳人難再得。上嘆息曰、善。世豈有此人乎。平陽主因言延年有女弟。上乃召見之。實妙麗善舞。由是得幸、生一男。是爲昌邑哀王)とある。ウィキソース「漢書/卷097上」参照。
  • 双飛入 … 双飛は、連れ立って飛ぶこと。ここでは李延年と李夫人がともに武帝の寵を得て宮中に入ったことをいう。『晋書』苻堅載記に「初め堅の燕を滅ぼすや、沖の姉を清河公主と為す。年十四、殊色有り。堅之を納れ、寵して後庭に冠たり。沖年十二、亦た竜陽の姿有り。堅又之を幸す。姉弟寵を専らにし、宮人進む莫し。長安之を歌いて曰く、一雌復た一雄、双飛して紫宮に入る、と」(初堅之滅燕、沖姊爲淸河公主。年十四、有殊色。堅納之、寵冠後庭。沖年十二、亦有龍陽之姿。堅又幸之。姊弟專寵、宮人莫進。長安歌之曰、一雌復一雄、雙飛入紫宮)とある。竜陽は、人名。魏王の男色の相手として仕えた。ウィキソース「晉書/卷114」参照。
  • 飛 … 『全唐詩』では「鳳」に作り、「一作飛」とある。『文苑英華』『唐詩品彙』では「鳳」に作る。
50 羅敷使君千騎歸
羅敷らふ使くん せんにてかえ
  • 羅敷使君 … 道のかたわらで桑を摘んでいる羅敷という美女を使君(地方の長官)が見ていい寄ったが、夫がいるといって断わったという。晋の崔豹『古今注』音楽篇に「陌上桑に、秦氏の女子出ず。秦氏は邯鄲の人、女有って羅敷と名づく、邑人千乗王仁の妻と為る。王仁後に越王の家令と為る。羅敷出でて桑を陌上に採る、趙王台に登り、見て之を悦ぶ。因りて酒を飲ませ奪わんと欲す。羅敷乃ち箏を弾じ、乃ち陌上の歌を作り以て自ら明らかにす」(陌上桑、出秦氏女子。秦氏邯鄲人、有女名羅敷、爲邑人千乘王仁妻。王仁後爲越王家令。羅敷出採桑於陌上、趙王登臺、見而悅之。因飲酒欲奪焉。羅敷乃彈箏、乃作陌上歌以自明焉)とある。ウィキソース「古今注」参照。また古楽府「日出東南隅行」(一名「陌上桑」)(『玉台新詠』巻一)に「使君一に何ぞ愚なる。使君自ずから婦有り、羅敷自ずから夫有り」(使君一何愚。使君自有婦、羅敷自有夫)とある。ウィキソース「日出東南隅行 (豔歌羅敷行)」参照。
  • 千騎帰 … 千騎を従えて帰って行く。古楽府「日出東南隅行」(一名「陌上桑」)(『玉台新詠』巻一)に「東方の千余騎、婿せいじょうとうに居る」(東方千餘騎、夫壻居上頭)とある。夫婿は、妻が夫を呼ぶ言葉。壻は婿の異体字。上頭は、列などの先頭。ウィキソース「日出東南隅行 (豔歌羅敷行)」参照。
51 同心結縷帶
同心どうしん けつおび
  • 同心 … 紐や帯の結び方の一種で、固く結んでほどけない結び方。二人の愛情の固い結びつきに喩える。『易経』繋辞上伝に「にん、心を同ずれば、其の利は金を断つ」(二人同心、其利斷金)とある。ウィキソース「易傳/繫辭上」(第八章)参照。また梁の武帝「有所思」(『玉台新詠』巻七)に「腰中の双綺帯、夢に同心のむすびを為す」(腰中雙綺帶、夢爲同心結)とある。ウィキソース「有所思 (蕭衍)」参照。また北周の庾信「題結綫袋子」詩(『古詩紀』巻一百二十八)に「一寸同心のいと、千年長命の花」(一寸同心縷、千年長命花)とある。ウィキソース「古詩紀 (四庫全書本)/卷128」参照。
  • 結縷 … もとはつるが絡まる草の名であるが、ここでは同心の帯を固く結ぶこと。縷は、細ぼそとつらなる糸。
52 連理織成衣
れん しょくせいころも
  • 連理 … 二本の別の木が一つ枝のところでつながっているもの。夫婦の仲が睦まじいことに喩える。梁の武帝「子夜四時歌七首」の「秋歌二首 其一」(『楽府詩集』巻四十四・清商曲辞、『玉台新詠』巻十)に「繡帯合歓の結、錦衣連理の文」(繡帶合歡結、錦衣連理文)とある。ウィキソース「樂府詩集/044卷」「秋歌 (蕭衍)」参照。
  • 織成 … 織り成す。織って連理の木の模様の織物を作り出す。またはその模様織りの織物の名。
53 春朝桂尊尊百味
春朝しゅんちょう桂尊けいそん そんごとにひゃく
  • 春朝 … 春の朝。『漢書』賈誼伝に「三代の礼、春の朝に日を朝し、秋の暮に月を夕す。敬有ることを明らかにする所以なり」(三代之禮、春朝朝日、秋暮夕月。所以明有敬也)とある。三代は、夏・殷・周。ウィキソース「漢書/卷048」参照。また陳の沈炯しんけい「八音」詩(『古詩紀』巻一百十一)に「竹煙生ず薄晩はくばんの花、花色乱る春の朝」(竹煙生薄晩花、花色亂春朝)とある。薄晩は、夕暮れ。ウィキソース「古詩紀 (四庫全書本)/卷111」参照。
  • 桂尊 … 桂の木で作った樽。「尊」は「樽」と同義。
  • 尊百味 … 樽ごとに違った味の酒が満たされている。『説苑』雑言篇に「君子の人を和せんと欲するは、譬えば猶お水火の相能くせざること然るに、鼎の其の間に在れば、水火乱れずして、乃ち百味を和するがごとし」(君子欲和人、譬猶水火不相能然也、鼎在其間、水火不亂、乃和百味)とある。ウィキソース「說苑/卷17」参照。また曹植「自試を求むる表」(『文選』巻三十七)に「身は軽煖けいだんこうむり、口は百味にき、目は華靡かびを極め、耳糸竹にむ者は、爵重く禄厚きの致す所なり」(身被輕煖、口厭百味、目極華靡、耳倦絲竹者、爵重祿厚之所致也)とある。ウィキソース「求自試表」参照。また梁の照明太子「七契」に「其の酒は則ち蒼梧の九うん、中山の千日。譬を取れば湛露。之を擬せばみつ。百味交〻こもごもす」(其酒則蒼梧九醞、中山千日。取譬湛露。擬之飴蜜。百味交馳)とある。ウィキソース「昭明太子集 (四庫全書本)/卷2」参照。
54 秋夜蘭燈燈九微
しゅう蘭灯らんとう とうごとにきゅう
  • 秋夜 … 秋の夜。「子夜四時歌」(晋宋斉辞)の「秋歌十八首 其七」(『楽府詩集』巻四十四・清商曲辞)に「秋夜涼風起こり、天高く星月明らかなり」(秋夜涼風起、天高星月明)とある。ウィキソース「樂府詩集/044卷」参照。
  • 蘭灯 … 美しい灯火。蘭膏(蘭を練り合わせた香脂)を燃やす灯火。燃やすとよい香りを放つ。『楚辞』招魂に「蘭膏の明燭には、華容備わる」(蘭膏明燭、華容備些)とある。些は、助辞。ウィキソース「楚辭/招䰟」参照。また梁の王僧孺「せいじん怨み有り」詩(『玉台新詠』巻六)に「宝琴いたずらに七弦、蘭鐙らんとう空しく百枝」(寳琴徒七弦、蘭鐙空百枝)とある。ウィキソース「何生姬人有怨」参照。
  • 九微 … 一つの灯台に九つの小灯を灯すようになっている燭台。シャンデリアのようなもの。『漢武帝内伝』に「七月七日に至りて、乃ちきゅうえきの内を修除し、座を殿上に設け、紫のうすものを以て地にき、百和の香をき、雲錦のとばりを張り、九光の灯をやす」(至七月七日、乃修除宮掖之內、設座殿上、以紫羅薦地、燔百和之香、張雲錦之帳、然九光之燈)とある。ウィキソース「漢武帝內傳」参照。また梁の簡文帝「長沙宣武王北涼州廟碑」に「九微の夜火、百味の朝漿」(九微夜火、百味朝漿)とある。ウィキソース「漢魏六朝百三家集 (四庫全書本)/卷082下」参照。
55 翠幌珠簾不獨映
翠幌すいこう 珠簾しゅれん ひとりはえいぜず
  • 翠幌 … 翡翠の羽で飾ったほろ。宋の文帝「景陽楼に登る」詩(『古詩紀』巻五十五)に「瑶軒ようけんは翠幌をろうす」(瑤軒籠翠幌)とある。瑶軒は、玉で飾った美しい車。ウィキソース「古詩紀 (四庫全書本)/卷055」参照。
  • 珠簾 … 真珠で飾ったすだれ。実際には真珠でなくても、美しいすだれのことを言う。南朝宋の鮑照「煌煌京洛行二首 其一」(『楽府詩集』巻三十九・相和歌辞・瑟調曲、『玉台新詠』巻四)に「珠簾路を隔つる無く、こう風にえず」(珠簾無隔路、羅幌不勝風)とある。羅幌は、うすぎぬの幕。ウィキソース「樂府詩集/039卷」「代京洛篇」参照。
  • 不独映 … 片方だけでは映えない。互いに相照り映える。
56 淸歌寶瑟自相依
せい 宝瑟ほうしつ おのずからあい
  • 清歌 … 澄んだ美しい歌声。魏の劉楨「五官中郎将に贈る四首 其一」(『文選』巻二十三)に「清歌妙声を製し、ばん中堂に在り」(淸歌製妙聲、萬舞在中堂)とある。ウィキソース「贈五官中郎將四首」参照。
  • 宝瑟 … 宝玉で飾った大琴の。瑟は、琴の大形のもの。二十五弦のものが多い。ウィキペディア【】参照。『漢書』金日磾伝に「行いて宝瑟に触れてたおる」(行觸寶瑟僵)とある。ウィキソース「漢書/卷068」参照。
  • 自相依 … 自然に互いの調べが調和する。『春秋左氏伝』僖公五年に「ことわざに所謂、しゃ相依り、くちびる亡ぶれば歯寒しとは、其れかくを之れ謂うなり」(諺所謂、輔車相依、脣亡齒寒者、其虞虢之謂也)とある。輔車は、車台のそえ板と車台。ウィキソース「春秋左氏傳/僖公」参照。
57 且論三萬六千是
しばらろんぜん 三万さんまん六千ろくせん
  • 且論 … 取り敢えず~と言っておこう。
  • 三万六千 … わが百年の人生。人の寿命の最大限をいう。太陰暦一年を三百六十日とし、三万六千日は百年に当たる。『列子』楊朱篇に「楊朱曰く、百年は寿の大斉たいせいにして、百年を得る者は、千に一無し」(楊朱曰、百年壽之大齊、得百年者、千無一焉)とある。大斉は、最大限。ウィキソース「列子/楊朱篇」参照。『全唐詩』には「一作二八千金」とある。『四部叢刊本』『唐五十家詩集本』では「二十八年」に作る。『唐詩紀事』では「二八千金」に作る。
  • 是 … 自分の享楽的人生を肯定すること。是は、是認。
58 寧知四十九年非
いずくんぞらん じゅうねん
  • 寧知 … 自分の知ったことではない。
  • 寧 … 「いずくんぞ」「なんぞ」と読み、「どうして~であろうか」「まさか~ではあるまい」と訳す。反語の意を示す。
  • 四十九年非 … 春秋時代の衛の大夫、きょ伯玉は、五十歳になってはじめて、これまでの人生である四十九年間の過ち(非)を悟ったという。『淮南子』原道訓に「きょ伯玉は年五十にして、四十九年の非有り。何となれば、先んずる者は知を為し難く、後るる者は攻を為し易ければなり」(蘧伯玉年五十、而有四十九年非。何者、先者難爲知、而後者易爲攻也)とある。ウィキソース「淮南子/原道訓」参照。「故事名言」の「五十にして四十九年の非を知る」も参照。
10
  • 雲・分・勳・文・軍(平声文韻)。
59 古來名利若浮雲
らい めい うんごと
  • 古来 … 昔から。南朝宋の鮑照「京洛篇に代う」(『玉台新詠』巻四)に「古来皆歇薄けっぱく、君が豈に独りこまやかならんや」(古來皆歇薄、君意豈獨濃)とある。歇薄は、情が薄いこと。ウィキソース「代京洛篇」参照。
  • 名利 … 名声と富。
  • 名 … 『全唐詩』では「榮」に作り、「一作名」とある。『四部叢刊本』では「荣」に作る。「栄」の異体字。『唐五十家詩集本』『唐詩紀事』『唐詩別裁集』『唐詩解』では「榮」に作る。『文苑英華』には「一作榮」とある。陶淵明「五柳先生伝」に「閑静にしてことば少なく、栄利を慕わず」(閑靜少言、不慕榮利)とある。ウィキソース「五柳先生傳」参照。
  • 若浮雲 … 浮き雲のようにはかないものである。『論語』述而篇15に「不義ふぎにしてたっときは、われいてうんごとし」(不義而富且貴、於我如浮雲)とある。ウィキソース「論語/述而第七」参照。
60 人生倚伏信難分
人生じんせいふく まことわかがた
  • 倚伏 … わざわいと福が互いに原因となり結果となること。『老子』五十八章に「わざわいふくところふくわざわいふくところたれきょくらん」(禍兮福之所倚、福兮禍之所伏、孰知其極)とあるのに基づく。ウィキソース「老子河上公章句/德經」参照。また『鶡冠子』世兵篇に「わざわいは福の倚る所、福は禍の伏す所、禍と福とはきゅうてんの如し」(禍乎福之所倚、福乎禍之所伏、禍與福如糾纏)とある。糾纏は、より合わせた縄。ウィキソース「鶡冠子」参照。また南朝宋の謝恵連「秋懐の詩」(『文選』巻二十三)に「けんあらかじはかり難く、倚伏は前もてはかるにくらし」(夷險難豫謀、倚伏昧前筭)とある。夷険は、平らかな土地と険しい土地。転じて人生の順境と逆境。ウィキソース「秋懷 (謝惠連)」参照。
  • 信難分 … 誠に分けがたいものだ。
  • 難 … 『文苑英華』では「離」に作り、「一作難」とある。
61 始見田竇相移奪
はじめてる 田竇でんとうあいだつするを
  • 始見 … はじめて見たと思っていたら。
  • 田竇 … 田蚡でんふん竇嬰とうえい。田蚡は、漢の景帝(文帝の子)の王皇后の弟。竇嬰は、文帝の竇皇后の一族。武帝の時に勢力を争い、田蚡は竇嬰を失脚させて死刑に処した。その後、田蚡は竇嬰の亡霊に悩まされて死んだという。ウィキペディア【田蚡】【竇嬰】参照。『漢書』竇嬰伝に「竇嬰、あざなは王孫、孝文皇后の従兄の子なり。……孝景の三年(前154)に、呉・楚反す。……乃ち嬰を拝して大将軍と為し、金千斤を賜う。……七国の破るるや、封じて魏其ぎき侯と為す。游士・賓客争うて之に帰す」(竇嬰字王孫、孝文皇后從兄子也。……孝景三年、吳楚反。……乃拜嬰爲大將軍、賜金千斤。……七國破、封爲魏其侯。游士賓客爭歸之)とある。また田蚡伝に「田蚡は孝景のおう皇后の同母弟なり。長陵に生まる。竇嬰已に大将軍と為り、方に盛んなるときに、蚡は諸曹の郎と為り、未だたっとからず。……是に於て乃ち嬰を以て丞相と為し、蚡を太尉と為す。……士吏勢利にはしる者は皆嬰を去って蚡に帰す。蚡日〻に益〻横なり。……(建元)六年(前135)に、竇太后崩ず。……しょう蚡を以て丞相と為す」(田蚡孝景王皇后同母弟也。生長陵。竇嬰已爲大將軍、方盛、蚡爲諸曹郎、未貴。……於是乃以嬰爲丞相、蚡爲太尉。……士吏趨勢利者皆去嬰而歸蚡。蚡日益橫。……六年、竇太后崩。……上以蚡爲丞相)とある。ウィキソース「漢書/卷052」参照。
  • 移奪 … 奪い取ること。晋の曹攄そうちょ「感旧詩」(『文選』巻二十九)に「廉藺れんりんには門にあとを易え、田竇をば相奪移す」(廉藺門易軌、田竇相奪移)とある。ウィキソース「感舊詩」参照。『全唐詩』には「一作傾代」とある。『文苑英華』では「移代」に作る。『唐詩別裁集』では「傾奪」に作る。
62 俄聞衞霍有功勳
にわかにく 衛霍えいかく功勲こうくんるを
  • 俄聞 … 急に耳に入ってくる。
  • 衛霍 … 漢の衛青と霍去病のこと。どちらも武帝のとき、低い身分から出世して大将軍となり武功をたてた。衛青の姉は、武帝の皇后となった衛子夫。霍去病は、衛青の甥。ウィキペディア【衛青】【霍去病】参照。『史記』衛青伝に「大将軍衛青は、平陽の人なり。……元朔五年(前124)の春、漢、車騎将軍青をして三万騎をひきいて、高闕より出でしむ。……右賢の裨王十余人、衆男女万五千余人、きゅうすう千百万を得たり。是に於て兵を引きて還り、塞に至る。天子、使者をして大将軍の印を持し、軍中にきて車騎将軍青を拝して大将軍と為さしむ。……大将軍の姉の子霍去病、年十八、幸せられて天子の侍中と為る。騎射を善くし、再び大将軍に従う。……斬捕の首虜とうを過ぐ。是に於て天子曰く、……千六百戸を以て去病を封じて冠軍侯と為す」(大將軍衞靑者、平陽人也。……元朔之五年春、漢令車騎將軍靑將三萬騎、出高闕。……得右賢裨王十餘人、衆男女萬五千餘人、畜數千百萬。於是引兵而還、至塞。天子使使者持大將軍印、即軍中拜車騎將軍靑爲大將軍。……大將軍姊子霍去病、年十八、幸爲天子侍中。善騎射、再從大將軍。……斬捕首虜過當。於是天子曰、……以千六百戶封去病爲冠軍侯)とある。また霍去病伝に「元狩二年(前121)春、冠軍侯去病を以て驃騎将軍と為す。万騎をひきいて隴西より出でて、功有り。天子曰く、……去病に二千戸を益し封ず、と」(元狩二年春、以冠軍侯去病爲驃騎將軍。將萬騎出隴西、有功。天子曰、……益封去病二千戶)とある。ウィキソース「史記/卷111」参照。また南朝梁の江淹「左記室詠史」(『文選』巻三十一)に「当に学ぶべし衛霍の将となりて、功を建つること河源に在るに」(當學衞霍將、建功在河源)とある。河源は、黄河の水源地。ウィキソース「左記室詠史」参照。
  • 功勲 … 手柄。勲功。武功。『説文解字』巻十三下、力部に「勲は、能く王功を成すなり」(勳、能成王功也)とある。ウィキソース「說文解字/13」参照。
63 未厭金陵氣
いまようせず きんりょう
  • 厭 … 塞ぐ。特に呪術によって除去すること。
  • 金陵気 … 金陵は、今の南京市。秦の始皇帝は、東南に天子の気が立ち込めているということを聞き、土木工事をしてその気を取り除こうとした故事を踏まえる。『史記』高祖本紀に「秦の始皇帝常に曰く、東南に天子の気有り、と。是に於て因って東游して以て之をようせんとす」(秦始皇帝常曰、東南有天子氣。於是因東游以厭之)とある。ウィキソース「史記/卷008」参照。また『三国志』呉書、張紘伝の裴注に「江表伝に曰く、紘、(孫)権に謂いて曰く、まつりょうは、楚の武王の置く所、名づけて金陵と為す。地勢こう、石頭に連なる。故老に訪問するに云く、昔秦の始皇東のかた会稽を巡り、此の県を。気を望む者云く、金陵の地形は王者都邑の気有り、故に断って連岡れんこうを掘り、改めて秣陵と名づく」(江表傳曰、紘謂權曰、秣陵、楚武王所置、名爲金陵。地勢岡阜、連石頭。訪問故老云、昔秦始皇東巡會稽、經此縣。望氣者云、金陵地形有王者都邑之氣、故掘斷連岡、改名秣陵)とある。ウィキソース「三國志/卷53」参照。
64 先開石槨文
さきひらく 石槨せきかくぶん
  • 先開石槨文 … 石槨は、石で作った棺の外箱。春秋時代、衛の霊公が死んだ時、埋葬の地を占ったところ、沙丘が吉だと出た。そこを掘ると石の棺の外箱が出てきた。洗ってその銘を読むと、「子孫は頼りにならぬ。霊公がここを奪って自分の墓所とする」と刻んであったという故事を踏まえる。『荘子』則陽篇に「夫れ霊公の死する、故墓に葬るをぼくすに、不吉なり。沙丘に葬るを卜すれば、而ち吉なり。之を掘ること数仞、石槨を得たり。洗いて之を視れば、銘有り。曰く、其の子にられず、霊公奪いて之に里す、と。夫れ霊公の霊たるや久し」(夫靈公也死、卜葬於故墓、不吉。卜葬於沙丘。而吉。掘之數仞、得石槨焉。洗而視之、有銘焉。曰、不馮其子、靈公奪而里之。夫靈公之爲靈也久矣)とある。ウィキソース「莊子/則陽」参照。
65 朱門無復張公子
朱門しゅもん ちょうこう
  • 朱門 … 朱塗りの門。高貴の人の家のみ許された。朱闕に同じ。東方朔『海内十洲記』序に「養生を蔵して朱闕に侍す」(藏養生而侍朱闕矣)とある。ウィキソース「海內十洲記」参照。
  • 張公子 … 漢の成帝が微行するとき、いつも富平侯張放を伴とし、自らをその家人として張公子と呼ばせたという故事に基づく。『漢書』五行志に「成帝の時の童謡に曰く、燕燕の尾、龚龚てんてんたり、張公子、時に相見る。木門倉琅そうろうの根、燕飛び来りて、皇孫をついばむ。皇孫死すれば、燕は矢を啄む。其の後に帝微行を為して出遊す。常に富平侯張放と倶に富平侯の家人と称す」(成帝時童謠曰、燕燕尾龚龚、張公子、時相見。木門倉琅根、燕飛來、啄皇孫。皇孫死、燕啄矢。其後帝為微行出遊。常與富平侯張放俱稱富平侯家人)とある。ウィキソース「漢書/卷027中之上」参照。
66 灞亭誰畏李將軍
てい たれおそれん しょうぐん
  • 灞亭誰畏李将軍 … 灞亭は、覇陵を守る宿場。「灞」と「覇」は同義。灞は、覇陵。漢の文帝の陵墓。西安の東郊にあった。ウィキペディア【漢霸陵】(中文)参照。亭は、秦・漢代の行政区画の名。十里ごとを一亭とし、亭長を置いた。李将軍は、前漢の武将で李陵の祖父、李広(?~前119)のこと。匈奴から飛将軍といって恐れられた。ウィキペディア【李広】参照。李広将軍が職を免ぜられていたときのある夜、飲酒して覇陵の宿場にさしかかると、県尉(県ごとにおかれた警察官の長)が酔って大声で怒鳴って李広を通さなかった。李広は「自分は前の将軍だぞ」と言ったが、尉は「今の将軍でも通さぬものを、まして前の将軍ならなおさらだ」と言い、宿場内に泊まらせた。のちに李広が右北平の太守になったとき、李広はすぐにその県尉を軍中に呼んで斬ったという故事に基づく。『史記』李将軍伝に「嘗て夜、一騎を従えて出で、人に従いて田間に飲し、還りて覇陵亭に至る。覇陵の尉酔いて、広を呵止す。広の騎曰く、もとの李将軍なり、と。尉曰く、今の将軍すら尚お夜行するを得ず、何ぞ乃ちもとなるをや、と。広をとどめて亭下に宿せしむ。……是に於て天子乃ち広を召し拝して右北平の太守と為す。広即ち覇陵の尉を請いて与に倶にし、軍に至りて之を斬る」(嘗夜從一騎出、從人田閒飮、還至霸陵亭。霸陵尉醉、呵止廣。廣騎曰、故李將軍。尉曰、今將軍尙不得夜行、何乃故也。止廣宿亭下。……於是天子乃召拜廣爲右北平太守。廣即請霸陵尉與俱、至軍而斬之)とある。ウィキソース「史記/卷109」参照。
11
  • 待・改・在(上声賄韻)。
67 相顧百齡皆有待
あいかえりみるにひゃくれい みな
  • 相顧 … 振り返ってみれば。考えてみれば。
  • 百齢 … 百歳。人の一生をいう。「古詩十九首 其十五」(『文選』巻二十九)に「生年せいねんひゃくたず、つね千歳せんざいうれいをいだく」(生年不滿百、常懷千歲憂)とある。ウィキソース「生年不滿百」参照。また後漢の蔡邕「翠鳥」詩(『古詩紀』巻十三)に「心をならし君素に托す、雌雄百齢を保つ」(馴心托君素、雌雄保百齡)とある。ウィキソース「古詩紀 (四庫全書本)/卷013」参照。
  • 有待 … 死が待っている。『荘子』田子方篇に「万物も亦た然り、待つこと有りて死し、待つこと有りて生ず」(萬物亦然、有待也而死、有待也而生)とある。ウィキソース「莊子/田子方」参照。
68 居然萬化咸應改
居然きょぜんとしてばんみなまさあらたまるべし
  • 居然 … 予想外だったが、ちゃんと~している。『詩経』大雅・生民の詩に「いんに康んぜず、居然として子をむ」(不康禋祀、居然生子)とある。禋祀は、煙を空にあげて天帝をまつること。ウィキソース「詩經/生民」参照。
  • 万化咸応改 … 万物の変化は、すべてが移ろい行くようにできている。『荘子』大宗師篇に「人の形のごとき者は、万化して未だ始めよりきょく有らざるなり」(若人之形者、萬化而未始有極也)とある。ウィキソース「莊子/大宗師」参照。
  • 咸 … すべて。
69 桂枝芳氣已銷亡
けいほう すでしょうぼう
  • 桂枝芳気已銷亡 … 桂の枝の香りにも似た美人も、とっくに消えうせてしまった。漢の武帝が李夫人の死を悼んで作った賦に基づく。『漢書』外戚伝に「秋気いたんで以て淒涙せいれいたり、桂枝落ちて銷亡す」(秋氣憯以淒淚兮、桂枝落而銷亡)とある。桂枝は、李夫人に喩える。淒涙は、寒涼なさま。ウィキソース「漢書/卷097上」参照。また陸機「擬古詩十二首 其十 西北に高楼有りに擬す」(『文選』巻三十)に「芳気は風に随いて結び、哀響はかんばしきこと蘭の若し」(芳氣隨風結、哀響馥若蘭)とある。ウィキソース「昭明文選/卷30」参照。
  • 銷亡 … 消えうせる。消亡に同じ。
  • 亡 … 『唐詩品彙』では「兦」に作る。異体字。
70 柏梁高宴今何在
はくりょう高宴こうえん いまいずくにか
  • 柏梁高宴 … 漢の武帝が柏梁台を築き、群臣を集めて盛んな宴会を開き、みなに七言の聯句を作らせて楽しんだという故事に基づく。なお、その聯句の体を柏梁体という。『三輔黄図』巻五、台榭の条に「柏梁台は、武帝の元鼎二年(前115)春に起す。此の台は長安城中の北闕の内に在り。三輔旧事に云く、香柏を以て梁と為すなり。帝嘗て其の上に置酒し、群臣にみことのりして詩を和せしめ、七言詩を能くする者乃ち上るを得。太初中、台災す、と」(柏梁臺、武帝元鼎二年春起。此臺在長安城中北闕內。三輔舊事云、以香柏爲梁也。帝嘗置酒其上、詔羣臣和詩、能七言詩者乃得上。太初中臺災)とある。覃思は、深く思うこと。ウィキソース「三輔黃圖/卷之五」参照。
  • 柏 … 『唐詩選』『唐五十家詩集本』『文苑英華』『唐詩紀事』『唐詩品彙』では「栢」に作る。異体字。
  • 高宴 … 盛んな宴会。陳の沈炯しんけい「通天台を経て漢の武帝に奏する表」(『六朝文絜』巻五)に「汾河に於いて中流に横たわり、柏梁を指さして高宴す」(橫中流於汾河、指柏梁而高宴)とある。ウィキソース「經通天臺奏漢武帝表」参照。
  • 今何在 … 今どこにあるのか。
12
  • 馳・爲・知(平声支韻)。
71 春去春來苦自馳
はるはるきたりてねんごろおのずから
  • 『四部叢刊本』『唐五十家詩集本』『唐詩紀事』には「春去春來苦自馳」から「空掃相門誰見知」までの四句がない。
  • 春去春来 … 春が去り、また春が来ても。陳の江総「新たに姫人を入る 応令」詩(『古詩紀』巻一百十五)に「梅花柳色春あまねき難く、情来たり春去って須臾に在り」(梅花栁色春難遍、情來春去在須臾)とある。ウィキソース「古詩紀 (四庫全書本)/卷115」参照。
  • 苦 … 一所懸命に。力を尽くして。熱心に。
  • 自馳 … ひとりでに走り回る。
72 爭名爭利徒爾爲
あらそあらそうていたずらにしか
  • 争名争利 … 名誉や富を争ってみても。『史記』張儀伝に「臣聞く、名を争う者はちょうに於てし、利を争う者はいちに於てす、と」(臣聞、爭名者於朝、爭利者於市)とある。朝は、朝廷。市は、市場。ウィキソース「史記/卷070」参照。
  • 徒 … 「いたずらに」と読み、「むだに~する」「むなしく~する」「~してもむだである」と訳す。
  • 爾為 … そのようにする。そうする。爾は、そのよう。そう。魏の王粲「史を詠ぜし詩」(『文選』巻二十一)に「秦穆は三良を殺す、惜しいかな空しくしか為すこと」(秦穆殺三良、惜哉空爾爲)とある。ウィキソース「詠史詩 (王粲)」参照。
73 久留郎署終難遇
ひさしく郎署ろうしょとどまるもついがた
  • 久留郎署 … 郎署は、宮中の宿衛をする官吏(郎官)の詰所。漢の武帝が郎署に立ち寄った時、がんという老人の郎官がいた。尋ねたところ、「自分は文帝のときに郎官となりましたが、文帝は文を好み、自分は武を好みました。次の景帝は年老いた者を好まれ、自分はまだ若うございました。そして今、陛下は若者を好まれ、自分は年老いてしまいました。そのため三代にわたって不遇でした」と答えたという故事に基づく。『漢武故事』に「しょう嘗てりて郎署に至り、一老翁を見る。鬚鬢しゅびん皓白こうはく、衣服整わず。上問いて曰く、公は何れの時に郎と為れるや、何ぞ其れ老いたるや、と。対えて曰く、臣姓は顔、名は駟、江都の人なり。文帝の時を以て郎と為る。上問いて曰く、何ぞ其れ老いて遇せられざるや、と。駟曰く、文帝は文を好むも臣は武を好む。景帝は老いたるを好むも臣は尚おわかし。陛下はわかきを好むも臣は已に老いたり。ここを以て三世に遇せられず。故に郎の署に老いたり、と。上は其の言に感じ、げて会稽の都尉に拝す」(上嘗輦至郎署、見一老翁。鬚鬢皓白、衣服不整。上問曰、公何時爲郎、何其老也。對曰、臣姓顏名駟、江都人也。以文帝時爲郎。上問曰、何其老而不遇也。駟曰、文帝好文而臣好武。景帝好老而臣尙少。陛下好少而臣已老。是以三世不遇。故老於郎署。上感其言、擢拜會稽都尉)とある。ウィキソース「漢武故事」参照。
  • 久 … 『唐詩別裁集』『古今詩刪』では「乆」に作る。異体字。
  • 留 … 『唐詩選』『唐詩品彙』『唐詩解』では「畱」に作る。異体字。
  • 終難遇 … 結局、出世には巡り合い難い。
74 空掃相門誰見知
むなしくしょうもんくもたれにかられん
  • 空掃相門 … むだに宰相の門前を掃除してみても。前漢のぼつが若い時、斉の宰相の曹参そうしんに面会しようとしたが、つてがなかった。そこで毎朝早く宰相の舎人(側近で家の雑務をする者)の門の掃除をした。怪しんだ舎人がわけを聞き、曹参に紹介し、魏勃も舎人にしてもらえたという故事に基づく。ウィキペディア【魏勃】参照。『史記』斉悼恵王世家に「魏勃に及びてわかき時、斉のしょう曹参にまみえんと求めんと欲すれども、家貧しく以て自ら通ずる無し。乃ち常に独り早夜に斉の相の舎人の門外をはらう。相の舎人、之をあやしみ、以て物と為し、而して之を伺い、勃を得たり。勃曰く、相君にまみえんことを願えども因無し。故にが為に掃い、以てまみえんことを求めんと欲す。是に於て舎人、勃をまみえしむ。曹参、因て以て舎人と為す」(及魏勃少時、欲求見齊相曹參、家貧無以自通。乃常獨早夜掃齊相舍人門外。相舍人怪之、以爲物而伺之、得勃。勃曰、願見相君無因。故爲子掃、欲以求見。於是舍人見勃。曹參因以爲舍人)とある。早夜は、夜の明けない早朝。物は、怪物。ウィキソース「史記/卷052」参照。また孟嘗君伝に「文聞く、将門には必ず将有り。相門には必ず相有り、と」(文聞將門必有將。相門必有相)とある。文は、孟嘗君の名。ウィキソース「史記/卷075」参照。
  • 誰見知 … 誰が認めてくれようか。『史記』田単伝に「田単は、斉の諸田のぞくなり。湣王びんおうの時、単、りんえんりしが、知られず」(田單者、齊諸田疏屬也。湣王時、單爲臨菑市掾、不見知)とある。疏属は、遠縁の者。市掾は、市場の監督補佐。ウィキソース「史記/卷082」参照。
  • 見 … 「る」「らる」と読み、「~される」と訳す。受身の意を示す。
13
  • 華・奢・沙・瓜(平声麻韻)。
75 當時一旦擅繁華
とう一旦いったん はんほしいままにし
  • 当時 … その昔。『全唐詩』『文苑英華』には「一作莫矜」とある。『四部叢刊本』『唐五十家詩集本』『唐詩紀事』では「莫矜」に作る。
  • 一旦 … ひとたび。一度。一朝。
  • 繁華 … 栄耀栄華。
  • 繁 … 『全唐詩』『四部叢刊本』『唐五十家詩集本』『文苑英華』『唐詩紀事』『唐詩品彙』『唐詩別裁集』『古今詩刪』『唐詩解』では「豪」に作る。
  • 擅 … ほしいままにする。思うがままにする。
76 自言千載長驕奢
みずかう 千載せんざいとこしえにきょうしゃせんと
  • 自言 … 自分でいばって言う。
  • 千載 … 千年。長い年月。
  • 長 … いつまでも。永遠に。
  • 驕奢 … 驕り高ぶって、贅沢なことをする。『左伝紀事本末』に「驕奢淫佚いんいつは自らよこしまなる所なり」(驕奢淫佚所自邪也)とある。ウィキソース「左傳紀事本末 (四庫全書本)/卷37」参照。
77 倏忽摶風生羽翼
しゅくこつとしてかぜってよくしょうずるも
  • 倏忽 … たちまち。あっという間に。班固「幽通の賦」に「なんすすむことをつとめて以て群におよばざる、ときしゅくこつとして其れ再びせず」(盍孟晉以迨群兮、辰倏忽其不再)とある。ウィキソース「幽通賦」参照。
  • 摶風生羽翼 … 羽根が生えてつむじかぜに羽ばたいて飛ぶ。倒装法。『荘子』逍遥遊篇に「北冥に魚有り、其の名を鯤と為す。鯤の大いなる、其の幾千里なるを知らず。化して鳥と為る。其の名を鵬と為す。鵬の背、其の幾千里なるを知らず。怒して飛べば、其の翼は垂天の雲の若し。是の鳥や、海めぐれば則ち将に南冥にうつらんとす。南冥とは、天池なり。斉諧せいかいとは、怪を志す者なり。諧の言に曰く、鵬の南冥にうつるや、水の撃すること三千里、扶揺をちて上る者九万里、去りて六月りくげつを以ていこう者なり」(北冥有魚、其名爲鯤。鯤之大、不知其幾千里也。化而爲鳥。其名爲鵬。鵬之背、不知其幾千里也。怒而飛、其翼若垂天之雲。是鳥也、海運則將徙於南冥。南冥者、天池也。齊諧者、志怪者也。諧之言曰、鵬之徙於南冥也、水擊三千里、摶扶搖而上者九萬里、去以六月息者也)とある。扶揺は、旋風。ウィキソース「莊子/逍遙遊」参照。また魏の文帝「折楊柳行」(『楽府詩集』巻三十七・相和歌辞・瑟調曲)に「服薬すること四五日、身体に羽翼を生ず」(服藥四五日、身體生羽翼)とある。ウィキソース「樂府詩集/037卷」参照。
78 須臾失浪委泥沙
しゅにしてなみうしなってでい
  • 須臾 … ほんのわずかの時間。すぐに。たちまち。あっという間に。
  • 失浪 … 浪から離れて。水から離れて。『戦国策』斉策に「君、大魚を聞かずや。網も止むること能わず、はりくこと能わず。とうして水を失わば、則ちろうも意を得ん」(君不聞大魚乎。網不能止、鉤不能牽。蕩而失水、則螻蟻得意焉)とある。螻蟻は、けらと、あり。とるに足りないものの喩え。ウィキソース「戰國策/卷08」参照。また張衡「西京の賦」(『文選』巻二)に「かいじゃく玄渚げんしょに游び、鯨魚流れを失って蹉跎さたたり」(海若游於玄渚、鯨魚失流而蹉跎)とある。海若は海神。ウィキソース「西京賦」参照。また曹植「王仲宣のるい」(『文選』巻五十六)に「游魚は浪を失い、帰鳥はを忘る」(游魚失浪、歸鳥忘栖)とある。ウィキソース「王仲宣誄」参照。
  • 泥沙 … 泥と砂。砂浜を指す。東晋の郭璞「江の賦」(『文選』巻十二)に「或いは潮波に泛瀲はんれんたり、或いは泥沙に混淪こんろんたり」(或泛瀲於潮波、或混淪乎泥沙)とある。ウィキソース「江賦」参照。
  • 委 … うち上げられる。捨てられる。
79 黃雀徒巢桂
こうじゃく いたずらにかつらくい
  • 黄雀徒巣桂 … 黄雀は、雀の一種。黄雀が美しい桂の木に巣くっても、花は咲いても実はならない。無駄なことである。『漢書』五行志に「成帝の時の歌謡に又曰く、邪径じゃけいは良田を敗り、讒口ざんこうは善人を乱る。桂樹は華実らず、黄爵其のいただきに巣くう。故に人に羨まれ、今は人に憐れまる。桂は赤色にして、漢家のかたち。華の実らざるは、継嗣無きなり。王莽おうもう自ら黄象と謂い、黄爵其の顚に巣くうなり」(成帝時歌謠又曰、邪徑敗良田、讒口亂善人。桂樹華不實、黃爵巢其顚。故爲人所羨、今爲人所憐。桂赤色、漢家象。華不實、無繼嗣也。王莽自謂黃象、黃爵巢其顚也)とある。黄爵は、黄雀に同じ。ウィキソース「漢書/卷027中之上」参照。
  • 雀 … 『全唐詩』には「一作鶴」とある。『四部叢刊本』では「鶴」に作る。
  • 桂 … 『全唐詩』には「一作柱」とある。
80 靑門遂種瓜
青門せいもん ついうり
  • 青門遂種瓜 … 青門は、漢代の長安城の東側にある三つの門のうち、一番南にある門のこと。門の色が青かったので、こういう。『三輔黄図』巻一、都城十二門の条に「長安城の東、南頭に出ずる第一門を覇城門と曰う。民、門の色の青きを見て、名づけて青城門と曰う、或いは青門と曰う」(長安城東出南頭第一門曰霸城門。民見門色靑、名曰靑城門、或曰靑門)とある。覃思は、深く思うこと。ウィキソース「三輔黃圖/卷之一」参照。秦の時、東陵侯であった召平が秦の滅亡後、庶民となり貧しかったので、長安城東の青門のあたりで瓜を植えて生計を立てた。その瓜はとても美味しかったので、世間の人々は「東陵の瓜」と呼んだという故事に基づく。『史記』蕭相国世家に「召平は、もとの秦の東陵侯なり。秦破るるや、布衣と為る。貧しくして瓜を長安城の東にう。瓜なり。故に世俗之を東陵の瓜と謂う」(召平者、故秦東陵侯。秦破爲布衣。貧種瓜於長安城東。瓜美。故世俗謂之東陵瓜)とある。布衣は、官位のない人。庶民。ウィキソース「史記/卷053」参照。
14
  • 變・見(去声霰韻)。
81 黃金銷鑠素絲變
黄金おうごん銷鑠しょうしゃく素糸そしへん
  • 銷鑠 … 溶けてなくなること。梁の劉孝威「塘上行 苦辛篇」(『玉台新詠』巻八・宋版不収)に「黄金もそぞろに銷鑠し、白玉も遂にりんたり」(黃金坐銷鑠、白玉遂淄磷)とある。ウィキソース「苦辛篇」参照。また『国語』周語下に「故に諺に曰く、衆心城を成し、衆口金をとかす、と」(故諺曰、衆心成城、衆口鑠金)とある。ウィキソース「國語/卷03」参照。
  • 素糸変 … 白い糸もいつかは色が変わる。素糸は、染色されていない白い糸。『淮南子』説林訓に「墨子、練糸を見て之に泣く、其の以て黄にす可く、以て黒くす可きが為なり」(墨子見練絲而泣之、爲其可以黃、可以黑)とある。ウィキソース「淮南子/說林訓」参照。
82 一貴一賤交情見
いっ一賤いっせん こうじょうあらわ
  • 一貴一賤交情見 … こちらの身分が貴くなったり、また賤しくなったりするうちに、交際していた人々の真の姿がわかる。前漢の頃、けい翟公てきこうが廷尉(警視総監のような官職)に任命されたとき、門前は訪問客でいっぱいになったが、免職されると一人も訪れる者がなく、門前には雀が群がり、雀とりの網を張るほどになった。その後廷尉に復職すると、またしても訪問客が増えたので、翟公は門前に「一死一生、乃ち交情を知る。一貧一富、乃ち交態を知る。一貴一賤、交情乃ちあらわる」と大書した張り紙をしたという故事に基づく。『史記』汲鄭列伝の論賛に「下邽の翟公てきこう言う有り。始め翟公、廷尉と為るや、賓客、門につ。廃せらるるに及べば、門外、じゃくを設く可し。翟公復た廷尉と為るや、賓客往かんと欲す。翟公乃ち其の門に大署して曰く、一死一生、乃ち交情を知る。一貧一富、乃ち交態を知る。一貴一賤、交情乃ちあらわる、と」(下邽翟公有言。始翟公爲廷尉、賓客闐門。及廢、門外可設雀羅。翟公復爲廷尉、賓客欲往。翟公乃大署其門曰、一死一生、乃知交情。一貧一富、乃知交態。一貴一賤、交情乃見)とある。雀羅は、雀を捕らえる網。ウィキソース「史記/卷120」参照。
15
  • 新・人(平声真韻)。
83 紅顏宿昔白頭新
紅顔こうがん宿しゅくせき 白頭はくとうあらたなり
  • 紅顔 … 紅顔の少年。紅顔の若者。紅顔は、あかく、つやつやした美しい顔の意。年若い少年のこと。北斉の顔之推「和陽納言聴鳴蟬篇」(『古詩紀』巻一百二十)に「紅顔宿昔春花同じくす」(紅顏宿昔同春花)とある。ウィキソース「古詩紀 (四庫全書本)/卷120」参照。
  • 宿昔 … ずっと昔。昔日。以前。『史記』公孫弘伝に「朕、宿昔しょするも、尊位を承くるを獲て、やすんずること能わざるをおそれ、ともともに治を為す所の者をおもうは、君宜しく之を知るべし」(朕宿昔庶幾、獲承尊位、懼不能寧、惟所與共為治者、君宜知之)とある。庶幾は、そうありたいと願うこと。ウィキソース「史記/卷112」参照。また『戦国策』秦策に「とうは斉の権をつかさどり、閔王びんおうすじきて、之を廟梁に懸け、宿昔にして死せり」(淖齒管齊之權、縮閔王之筋、懸之廟梁、宿昔而死)とある。こちらの宿昔は、一晩の意。ウィキソース「戰國策/卷05」参照。
  • 白頭新 … 白髪が新たに生じる歳になった。漢の鄒陽「獄中にて上書し自ら明かす」(『文選』巻三十九)に「語に曰く、白頭も新たなる如く、がいを傾くるもふるきが如し、と。何となれば則ち知ると知らざるとなればなり」(語曰、白頭如新、傾蓋如故。何則知與不知也)とある。蓋は、車蓋。ウィキソース「昭明文選/卷39」参照。
84 脫粟布衣輕故人
脱粟だつぞく布衣ふい じんかろんず
  • 脱粟布衣軽故人 … 昔なじみが出世した友人を訪ねれば、玄米飯に木綿の掛布団といった、粗末なもてなし。脱粟は、籾殻もみがらを取り去っただけの米。すなわち玄米。布衣は、布被ふひ。質素な夜具。木綿の掛布団。漢の公孫弘(前200~前121)は貧しい身から後に出世して丞相までなったが、質素倹約を旨としていた。ある日、昔なじみの高賀という人が訪ねてきたので、粗末な食事を出し、木綿の掛布団に寝かせた。この待遇に高賀は腹を立てて帰り、公孫弘の悪口を言いふらしたという故事に基づく。『西京雑記』に「公孫弘、家は徒歩かちより起り、丞相と為る。故人高賀之に従う。弘食らわすに脱粟飯を以てし、覆うに布被を以てす。賀怨みて曰く、何ぞ故人の富貴を用うることを為さん。脱粟布被は我自ら之有り、と。弘大いにず。賀人に告げて曰く、公孫弘内にちょうせんを服し、外に麻枲ましる。内厨五鼎にして、外膳一肴なり。豈に以て天下に示す可けんや、と。是に於て朝廷其の矯を疑う。弘歎じて曰く、寧ぞ悪賓に逢うも故人に逢わざらん」(公孫弘起家徒步、爲丞相。故人高賀從之。弘食以脫粟飯、覆以布被。賀怨曰、何用故人富貴爲。脫粟布被我自有之。弘大慚。賀告人曰、公孫弘內服貂蟬、外衣麻枲。內廚五鼎、外膳一肴。豈可以示天下。於是朝廷疑其矯焉。弘歎曰、寧逢惡賓不逢故人)とある。ウィキソース「西京雜記/卷二」参照。ウィキペディア【公孫弘】参照。
16
  • 氣・尉(去声未韻)。
85 故人有湮淪
じん 湮淪いんりんする
  • 故人 … 昔なじみの友人。
  • 湮淪 … 没落する。落ちぶれる。『旧唐書』宣宗紀に「歳月は滋久し、文字は湮淪す」(歲月滋久、文字湮淪)とある。ウィキソース「舊唐書/卷18下」参照。
86 新知無意氣
しん 意気いき
  • 新知 … 新しい知り合い。「旧知」の対語。『楚辞』九歌の「少司命」に「かなしきはきながらべつよりかなしきはく、たのしきはあたらしくあいるよりたのしきはし」(悲莫悲兮生別離、樂莫樂兮新相知)とある。ウィキソース「九歌」参照。また陶淵明「乞食」詩に「こころに新知のかんよろこび、言詠げんえいして遂に詩を賦す」(情欣新知歓、言詠遂賦詩)とある。ウィキソース「乞食」参照。
  • 無意気 … 心意気を感じない。梁の荀済「贈陰梁州」詩(『古詩紀』巻一百、『文苑英華』巻二百四十七)に「人生意気に感じ、相知るに富貴無し」(人生感意氣、相知無富貴)とあるのに基づく。ウィキソース「古詩紀 (四庫全書本)/卷100」「文苑英華 (四庫全書本)/卷0247」参照。また盧諶「劉琨に贈る詩、并びに書」(『文選』巻二十五)に「意気の間、ほろぼすも悔いず」(意氣之間、靡軀不悔)とあり、その注に「謝承が後漢書に、楊喬曰く、侯生は意気刎頸を為す、と」(謝承後漢書、楊喬曰、侯生爲意氣刎頸)とある。謝承の『後漢書』とは、現行のものとは別物。ウィキソース「昭明文選/卷25」参照。
87 灰死韓安國
はいす かん安国あんこく
  • 灰死韓安国 … 漢の宰相韓安国が、かつて法に触れて投獄されていた時、獄吏の田甲でんこうという男が彼を辱めた。安国は「かい(火のがなくなった灰)でもまた燃え出すことがあるぞ」と言うと、田甲は「燃え出したら俺が小便をかけよう」と答えた。やがて安国は禄高二千石の大官に出世した。田甲は逃げたが、安国は彼を取り立ててやったという故事に基づく。『史記』韓安国伝に「其の後、安国、法に坐し罪にあたり、蒙の獄吏田甲、安国をはずかしむ。安国曰く、死灰独り復たえざらんや、と。田甲曰く、えば即ち之をいばりせん、と。居ることいくばくも無く、梁の内史欠く。漢、使者をして安国を拝して梁の内史と為さしむ。徒中より起こりて二千石と為る。田甲げ走る。安国曰く、甲、官に就かずんば、我、なんじそうを滅ぼさん、と。甲因りて肉袒にくたんして謝す。安国笑いて曰く、いばりす可し。こうともに治するに足らんや、と。ついに善く之を遇す」(其後安國坐法抵罪、蒙獄吏田甲辱安國。安國曰、死灰獨不復然乎。田甲曰、然即溺之。居無何、梁內史缺。漢、使使者拜安國爲梁內史。起徒中爲二千石。田甲亡走。安國曰、甲不就官、我滅而宗。甲因肉袒謝。安國笑曰、可溺矣。公等足與治乎。卒善遇之)とある。ウィキソース「史記/卷108」参照。ウィキペディア【韓安国】参照。
88 羅傷翟廷尉
あみいたましむ たくてい
  • 羅傷翟廷尉 … 廷尉を退官した翟公てきこうのように、訪問客もなく、門前の雀とりの網を見て嘆かせる。羅は、あみ。上記「82 一貴一賤交情見」の注釈参照。
17
  • 哉・來・媒・廻・開・才(平声灰韻)。
89 已矣哉
んぬるかな
  • 已矣哉 … 「やんぬるかな」と読み、「ああ、もうおしまいだ」「いかんともしがたい」「今となっては、どうにも仕方がない」等と訳す。絶望の意を示す。「已矣」「已矣乎」「已矣夫」も同じ。『楚辞』離騒に「乱に曰く、んぬるかな。国に人無く我を知る莫し。又何ぞ故都ことを懐わん」(亂曰、已矣哉。國無人莫我知兮、又何懷乎故都)とある。ウィキソース「楚辭/離騷」参照。また陶淵明「帰去来の辞」に「んぬるかな。かたちだいぐうすること幾時いくときぞ」(已矣乎。寓形宇內復幾時)とある。ウィキソース「歸去來辭並序」参照。
90 歸去來
かえりなんいざ
  • 歸去來 … さあ、帰ろう。陶淵明「帰去来の辞」に「かえりなんいざ、田園でんえんまされなんとす、なんかえらざる」(歸去來兮、田園將蕪胡不歸)とあるのに基づく。ウィキソース「歸去來辭並序」参照。
91 馬卿辭蜀多文藻
けい しょくして文藻ぶんそうおお
  • 馬卿 … 前漢の文人、司馬相如のこと。前179~前117。成都(四川省)の人。あざなちょうけい。馬卿とは、司馬の馬と、長卿の卿を取ったもの。辞賦にすぐれ、武帝に召されて「上林の賦」などを作り、漢魏六朝時代の文人の模範となった。夫人は卓文君で駆け落ちの話は有名。ウィキペディア【司馬相如】参照。『史記』司馬相如伝に「司馬相如は、蜀郡成都の人なり。字は長卿。わかき時、読書を好み、撃剣を学ぶ。故に其の親之を名づけてけんと曰う。相如既に学び、りんあい如の人とりを慕い、名を相如とあらたむ。を以て郎と為り、孝景帝に事えて、武騎常侍と為る。其の好みに非ざるなり。会〻たまたま景帝、辞賦を好まず。……因りて病をもて免じ、梁に客游す。……乃ち子虚の賦を著す。……しょくひとようとく狗監こうかんと為りてしょうに侍す。上、子虚の賦を読みて之をよみして曰く、朕独り此の人と時を同じくするを得ざるか、と。得意曰く、臣の邑人ゆうじん司馬相如、自ら此の賦をつくると言えり、と。上驚き、乃ち召して相如に問う。相如曰く、これ有り。然れども此れ乃ち諸侯の事にして、未だ観るに足らざるなり。請う天子の游猟の賦をつくらん。賦成らば之を奏せん、と。……賦、奏す。天子以て郎と為す」(司馬相如者、蜀郡成都人也。字長卿。少時好讀書、學擊劍。故其親名之曰犬子。相如既學、慕藺相如之爲人、更名相如。以貲爲郎、事孝景帝、爲武騎常侍。非其好也。會景帝不好辭賦。……因病免、客游梁。……乃著子虛之賦。……蜀人楊得意爲狗監侍上。上讀子虛賦而善之曰、朕獨不得與此人同時哉。得意曰、臣邑人司馬相如自言爲此賦。上驚、乃召問相如。相如曰、有是。然此乃諸侯之事、未足觀也。請爲天子游獵賦。賦成奏之。……賦奏。天子以爲郎)とある。貲は、財産。狗監は、猟犬を管理する役人。ウィキソース「史記/卷117」参照。
  • 辞蜀 … 故郷の蜀を出て行ったこと。
  • 文藻 … 文章を作る才能。文学の才能。文才。
92 揚雄仕漢乏良媒
揚雄ようゆう かんつかえてりょうばいとぼ
  • 揚雄 … 前53~後18。前漢の学者、文人。成都(四川省)の人。あざなは子雲。四十余歳で長安に出て官職に就いたが、出世はしなかった。すぐれた辞賦を作り、『太玄経』『法言』『方言』などの著作がある。ウィキペディア【揚雄】参照。楊雄とも。『漢書』揚雄伝に「揚雄あざなは子雲、蜀郡成都の人なり。……雄わかくして学を好み、章句を為さずして、訓詁して通ずるのみ、博覧にして見ざる所無し。……孝成帝の時、客、雄が文の相如に似たるを薦むる者有り。……雄を召して承明の庭に詔を待たしむ」(揚雄字子雲、蜀郡成都人也。……雄少而好學、不爲章句、訓詁通而已、博覽無所不見……孝成帝時、客有薦雄文似相如者。……召雄待詔承明之庭)とある。ウィキソース「漢書/卷087上」参照。
  • 仕漢 … 漢朝廷に仕えたが。
  • 乏良媒 … 良き仲立ちがいなかったので、出世できなかった。良媒は、自分を推薦してくれる良き仲介者。良き仲人。『楚辞』九章の「抽思」に「すで惸独けいどくにしてぐんせず、またりょうばいかたわらし」(既惸獨而不群兮、又無良媒在其側)とある。惸独は、孤独。ウィキソース「楚辭/九章」参照。
93 三冬自矜誠足用
三冬さんとうみずかほこる まこともちうるにると
  • 三冬自矜誠足用 … 前漢の文人、東方朔は、ふゆ学問に励んだ結果、官吏として十分に役立つ人間になったと自慢していた。三冬は、貧しかったので冬だけ勉強し、三年かかったこと。矜は、自慢すること。自負すること。『漢書』東方朔伝に「臣さくわかくして父母を失し、兄嫂けいそうに長養せらる。年十三にして書を学び、三冬にして文史用うるを足る。十五にして撃剣を学ぶ。十六にして詩書を学び、二十二万言をしょうす」(臣朔少失父母、長養兄嫂。年十三學書、三冬文史足用。十五學擊劍。十六學詩書、誦二十二萬言)とある。兄嫂は、兄とあによめ。ウィキソース「漢書/卷065」参照。ウィキペディア【東方朔】参照。
94 十年不調幾邅廻
じゅうねん調ちょうせられず いくたびか邅廻てんかい
  • 十年不調 … 十年の間、昇進しなかった。漢の張釈之が文帝に仕えたが、十年間昇進しなかった故事に基づく。『漢書』張釈之伝に「張釈之、字は季、南陽堵陽しゃようの人なり。兄ちゅうと同居し、を以て騎郎と為り、文帝につかえ、十年調せらるるを得ず、名を知らるる所亡し」(張釋之字季、南陽堵陽人也。與兄仲同居、以貲爲騎郎、事文帝、十年不得調、亡所知名)とある。貲は、財貨。ウィキソース「漢書/卷050」参照。ウィキペディア【張釈之】参照。
  • 幾 … 何度も。
  • 邅廻 … ぐるぐると同じ所を廻ること。堂々めぐりすること。『楚辞』九歎の「怨思」に「寧ろ沅に浮んでていし、江湘を下りて以て邅迴せん」(寧浮沅而馳騁兮、下江湘以邅迴)とある。馳騁は、思うままに動き回ること。ウィキソース「九歎」参照。
  • 廻 … 『全唐詩』では「囘」に作る。同義。
95 汲黯薪逾積
きゅうあん たきぎ逾〻いよいよ
  • 汲黯 … ?~前112。前漢の政治家。濮陽ぼくよう(河南省)の人。あざなちょうじゅ。武帝のとき主爵都尉となり、九卿に列せられた。ウィキペディア【汲黯】参照。
  • 薪逾積 … 汲黯が九卿に列せられた頃、下役だった公孫弘や張湯が次第に昇進し、弘は丞相に、湯は御史大夫になり追い越されてしまった。そこで汲黯は武帝に「陛下が群臣を用いるのは、薪を積むようなもので、後から来た者を上におく」と不平を言ったという故事に基づく。『史記』汲黯伝に「始め黯列して九卿たり、而うして公孫弘・張湯、小吏たり。弘・湯ようやく益〻貴く、黯と位を同じくするに及び、黯又弘・湯等を非毀ひきす。已にして弘、丞相に至り、封ぜられて侯と為り、湯、御史大夫に至る。もとの黯の時の丞相の史は皆黯と列を同じくし、或いは尊用せらるること之に過ぐ。黯褊心にして、少望無きこと能わず。しょうまみえ、すすみ言いて曰く、陛下の群臣を用うるは薪を積むが如きのみ。後に来る者うえに居る、と。しょう黙然たり」(始黯列爲九卿、而公孫弘張湯爲小吏。及弘湯稍益貴、與黯同位、黯又非毀弘湯等。已而弘至丞相、封爲侯、湯至御史大夫。故黯時丞相史皆與黯同列、或尊用過之。黯褊心、不能無少望。見上、前言曰、陛下用羣臣如積薪耳。後來者居上。上默然)とある。ウィキソース「史記/卷120」参照。
96 孫弘閣未開
孫弘そんこう かくいまひらかず
  • 孫弘 … 漢の宰相、公孫こうそんこう。前200~前121。せつ(山東省滕州市)の人。公孫は姓。あざなは季。ウィキペディア【公孫弘】参照。
  • 弘 … 『唐五十家詩集』では「洪」に作る。
  • 閣 … 公孫弘が宰相の時、東閣(東向きの小門。『漢書』では「東閤」に作る)を開いて天下の士を招いたという故事に基づく。『西京雑記』に「平津侯、自ら布衣を以て宰相と為る。乃ち東閣を開き、客館を営み、以て天下の士を招く。其の一を欽賢館と曰い、以て大賢を待つ。次をぎょうざい館と曰い、以て大才を待つ。次を接士館と曰い、以て国士を待つ」(平津侯自以布衣爲宰相。乃開東閣、營客館、以招天下之士。其一曰欽賢館、以待大賢。次曰翹材館、以待大才。次曰接士館、以待國士)とある。ウィキソース「西京雜記/卷四」参照。また『漢書』公孫弘伝に「弘、自ら見るに挙首と為す。徒歩かちより起り、数年にして宰相に至り侯に封ぜらる。是に於て客の館を起て、東閤を開いて以て賢人をまねき、謀議に与参せしむ。弘、みずからは一肉・脱粟の飯を食らう。故人・賓客は衣食を仰ぎ、奉禄は皆以て之に給し、家に余す所無し」(弘自見爲舉首。起徒步、數年至宰相封侯。於是起客館、開東閤以延賢人、與參謀議。弘身食一肉脫粟飯。故人賔客仰衣食、奉祿皆以給之、家無所餘)とあり、顔師古の注に「閤は、小門なり。東向に之を開く。庭門に当たりて賓客を引くことを避く。以てえん・官属に別つ」(閤者、小門也。東向開之。避當庭門而引賔客。以別於掾史官屬也)とある。ウィキソース「漢書/卷058」参照。
  • 未開 … 公孫弘が行なったという、賢者を招く東閤はいまだに開かれない。
97 誰惜長沙傅
たれしまん ちょう
  • 誰惜 … 誰が惜しんでくれようか。
  • 長沙傅 … 長沙王の守役。前漢の学者、賈誼(前200~前168)を指す。賈誼は、洛陽(河南省)の人。二十余歳で博士となったが、讒言のために長沙王の太傅となった。のちに梁王の太傅となったが、梁王が落馬して死んだのを嘆き、その翌年に賈誼自身も死去した。賈生・賈長沙とも呼ばれる。著に『新書』がある。ウィキペディア【賈誼】参照。『史記』賈誼伝に「賈生、名は誼、雒陽らくようの人なり。……文帝召して以て博士と為す。……超遷す。一歳の中に太中大夫に至る。……是に於て天子議して以為おもえらく、賈生は公卿こうけいの位にうと。こうかん・東陽侯・馮敬ふうけいともがら、尽く之をむ。……是に於て天子のちに亦た之をうとんじ、其の議を用いず。乃ち賈生を以て長沙王の太傅と為す」(賈生名誼、雒陽人也。……文帝召以爲博士。……超遷。一歲中至太中大夫。……於是天子議以爲賈生任公卿之位。絳灌東陽侯馮敬之屬、盡害之。……於是天子後亦疏之、不用其議。乃以賈生爲長沙王太傅)とある。超遷は、飛び越えて昇進すること。ウィキソース「史記/卷084」参照。
  • 長沙 … 今の湖南省長沙市。湖南省の省都。洞庭湖の南方、湘江下流の東岸に位置する。隋唐代から元代までは潭州とも呼ばれた。前漢の賈誼かぎが流されたところとしても有名。『読史方輿紀要』歴代州域形勢、唐上、潭州の条に「漢、長沙国と曰う。隋、潭州と曰う。唐、之に因る。亦た長沙郡と曰う」(漢曰長沙國。隋曰潭州。唐因之。亦曰長沙郡)とある。ウィキソース「讀史方輿紀要/卷五」参照。ウィキペディア【長沙市】参照。『中国歴史地図集 第五冊』(地図出版社、1982年、国学导航「元和方镇图:潭州」38~39頁④4、「江南西道:潭州」57~58頁④5)参照。
  • 傅 … 官名。太子太傅。皇太子の守役。ウィキペディア【太子太傅】参照。『全唐詩』『文苑英華』には「一作賦」とある。
98 獨負洛陽才
ひと洛陽らくようさいうを
  • 洛陽才 … 賈誼は洛陽出身で、洛陽一の才子と呼ばれた。潘岳「西征の賦」(『文選』巻十)に「賈生は洛陽の才子」(賈生洛陽之才子)とある。ウィキソース「西征賦」参照。
  • 負 … 自負する。ここでは作者を賈誼になぞらえている。
テキスト
  • 『箋註唐詩選』巻二(『漢文大系 第二巻』冨山房、1910年)
  • 『全唐詩』巻七十七(揚州詩局本縮印、上海古籍出版社、1985年)
  • 『駱賓王文集』巻九(『四部叢刊 初編集部』所収)
  • 『駱賓王集』巻上(『唐五十家詩集』所収、上海古籍出版社、1989年)
  • 『駱賔王集』巻上(明張遜業校、『和刻本漢詩集成 唐詩1』所収)
  • 『駱臨海集箋注』巻一(上海古籍出版社、1985年)
  • 『文苑英華』巻一百九十二(影印本、中華書局、1966年)
  • 『唐詩紀事』巻七(『四部叢刊 初編集部』所収)
  • 『唐詩品彙』巻三十七(汪宗尼本影印、上海古籍出版社、1981年)
  • 『唐詩別裁集』巻五(乾隆二十八年教忠堂重訂本縮印、中華書局、1975年)
  • 『古今詩刪』巻十二(寛保三年刊、『和刻本漢詩集成 総集篇9』所収、3頁)
  • 『唐詩解』巻十九(清順治十六年刊、内閣文庫蔵)
歴代詩選
古代 前漢
後漢
南北朝
初唐 盛唐
中唐 晩唐
北宋 南宋
唐詩選
巻一 五言古詩 巻二 七言古詩
巻三 五言律詩 巻四 五言排律
巻五 七言律詩 巻六 五言絶句
巻七 七言絶句
詩人別
あ行 か行 さ行
た行 は行 ま行
や行 ら行