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雍也第六 3 子華使於齊章

122(06-03)
子華使於齊。冉子爲其母請粟。子曰、與之釜。請益。曰、與之庾。冉子與之粟五秉。子曰、赤之適齊也、乗肥馬、衣輕裘。吾聞之也。君子周急不繼富。原思爲之宰。與之粟九百。辭。子曰、毋。以與爾鄰里郷黨乎。
子華しかせい使つかいす。ぜんははためぞくう。いわく、これあたえよ。さんことをう。いわく、これあたえよ。ぜんこれぞくへいあたう。いわく、せきせいくや、肥馬ひばり、けいきゅうる。われこれく。くんきゅうなるをすくうてめるにがず。げんこれさいる。これぞく九百きゅうひゃくあたう。す。いわく、かれ。もっなんじりんきょうとうあたえんか。
現代語訳
  • 子華が斉(セイ)の国にお使いにゆくので、冉(ゼン)先生がかれの母の手当てを願い出た。先生 ――「五、六升おやり。」もっとほしいという。先生 ――「では一斗五升。」冉先生は七石もの食糧をやった。先生 ――「赤くんは斉にゆくのに、こえた馬に乗り、いい毛皮をきていた。わしは聞いている、『こまれば救え、あまればたすな』と。」原思(ゲンシ)が秘書長として、もらった給料は九百。多いという。先生 ――「いいよ。きみの近所となりに施すんだね。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 子華しかせいに使節として行ったとき、ぜんきゅうが、留守居るすいのその母に扶持ふちまいを与えてください、とお願いした。すると孔子様が「五六升やったらよかろう。」と言われた。「それではすくな過ぎますから、今すこし増してください。」と重ねてお願いしたので、「それでは一斗五升与えるよう。」とおっしゃった。しかるに冉求は自分のはからいで、七石余も与えた。そこで孔子様が、「赤が斉に使いするに、えた馬に乗り軽い毛ごろもをきるという大したたくで出かけた。それくらいなら留守の用意もできているはずである。『くんは急場を救うが富のつぎたしはせぬ。』ということわざを聞いたことがあるが、お前のやり方は『富めるをぐ』というものじゃ。」とさとされた。また孔子様がたいになられたとき、門人のげんしつに採用して俸禄米ほうろくまい九百を与えることにしたところ、原思は「多過ぎます」と辞退した。孔子様がおっしゃるよう、「遠慮えんりょするな。多過ぎるならば隣組に配給するなどもよいではないか。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 子華しかが先師の使者としてせいに行った。彼の友人のぜん先生が、留守居の母のために飯米を先師に乞うた。先師はいわれた。――
    「五、六升もやれば結構だ」
    冉先生はそれではあんまりだと思ったので、もう少し増してもらうようにお願いした。すると、先師はいわれた。――
    「では、一斗四、五升もやったらいいだろう」
    冉先生は、それでも少ないと思ったのか、自分のはからいで七石あまりもやってしまった。先師はそれを知るといわれた。――
    せきは斉に行くのに、肥馬に乗り軽い毛衣を着ていたくらいだ。まさか留守宅が飯米にこまることもあるまい。私のきいているところでは、君子は貧しい者にはその不足を補ってやるが、富める者にその富のつぎ足しをしてやるようなことはしないものだそうだ。少し考えるがいい」
         *
    げんが先師の領地の代官になった時に、先師は彼に俸禄米九百を与えられた。原思は多過ぎるといって辞退した。すると先師はいわれた。――
    「遠慮しないがいい。もし多過ぎるようだったら、近所の人たちにわけてやってもいいのだから」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 「原思~」以下を次の章とするテキストもある。
  • 子華 … 前509~?。孔子の弟子。姓は公西こうせい、名はせきあざなは子華。魯の人。孔子より四十二歳若い。公西華・公西赤とも。儀式に通じていた。ウィキペディア【公西赤】(中文)参照。
  • 冉子 … 前522~?。孔子の門人、冉有ぜんゆう。姓はぜん、名はきゅうあざなゆう。魯の人。孔子より二十九歳若い。孔門十哲のひとり。政治的才能があり、季氏の宰(家老)となった。ウィキペディア【冉有】参照。
  • 其母 … 子華の母を指す。
  • 粟 … あわ。留守中の手当の米。
  • 釜 … 一釜は当時の六斗四升。
  • 請益 … もっと増やしていただきたい。
  • 庾 … 一庾は当時の十六斗。
  • 五秉 … 一秉は当時の十六こくすなわち百六十斗。五秉は八百斗。
  • 赤 … 子華の名。
  • 適 … 出かける。
  • 肥馬 … 肥えた馬。
  • 軽裘 … 軽い毛皮の衣。
  • 急 … 窮迫。危急。
  • 周 … 援助する。
  • 不継富 … 金持ちに、それ以上継ぎ足しはしない。
  • 原思 … 前515~?。孔子の弟子。姓は原、名は憲、あざなは子思。魯の人、また宋の人、斉の人という。孔子より三十六歳若い。ウィキペディア【原憲】参照。
  • 宰 … 知行所の宰領(取り締まる人)。孔子が魯の司寇(司法長官)となったとき、その知行所の宰領を原思にさせた。また、執事という解釈もある。
  • 九百 … 単位が示されていないが、孔安国は九百斗と解釈している(集解)。
  • 毋 … 「なかれ」と読み、「~するな」と訳す。ここでは特に「辞退するな」と訳す。朱子は「禁止の辞」といっている。
  • 隣里郷党 … ここでは「となり近所」程度の意。五軒の家が「隣」、二十五軒が「里」、一万二千五百軒が「郷」、五百軒が「党」。
補説
  • 『注疏』では「君子周急不継富」までを本章とし、「此の章は君子は当に窮を振るい急をすくうべきを論ず」(此章論君子當振窮周急)とある。また「原思為之宰」から「以与爾隣里郷党乎」までを次章とし、「此の章は禄を受くるの法を明らかにす」(此章明受祿之法)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 子華(公西赤) … 『孔子家語』七十二弟子解に「公西赤はひと、字は子華。孔子よりわかきこと四十二歳。束帯してちょうに立ち、賓主の儀にならう」(公西赤魯人、字子華。少孔子四十二歳。束帶立於朝、閑賓主之儀)とある。ウィキソース「孔子家語/卷九」参照。また『史記』仲尼弟子列伝に「公西赤、字は子華。孔子よりわかきこと四十二歳」(公西赤字子華。少孔子四十二歳)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。
  • 子華使於斉 … 『集解』に引く馬融の注に「子華は、弟子の公西華、赤のあざななり」(子華、弟子公西華、赤字也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「子華は弟子、字は冉なり。姓は公西、名は赤。容儀有り。故に使いと為りて斉国に往くなり。但だ時に魯君の使いを為して、孔子の使いを為すを知らざるのみ」(子華弟子、字冉也。姓公西、名赤。有容儀。故爲使往齊國也。但不知時爲魯君之使、爲孔子之使耳)とある。なお「字冉也」は誤り。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「弟子の公西赤、字は子華、時に魯に仕え、魯の為に使いして齊にくなり」(弟子公西赤、字子華、時仕魯、爲魯使適於齊也)とある。また『集注』に「子華は、公西赤なり。使は、孔子の為に使いするなり」(子華、公西赤也。使、爲孔子使也)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 冉子(冉有) … 『孔子家語』七十二弟子解に「冉求は字は子有。仲弓の宗族なり。孔子よりわかきこと二十九歳。才芸有り。政事を以て名を著す。仕えて季氏の宰と為る。進めば則ち其の官職をおさめ、退けば則ち教えを聖師に受く。性たること多く謙退す。故に子曰く、求や退、故に之を進ましむ、と」(冉求字子有。仲弓之宗族。少孔子二十九歳。有才藝。以政事著名。仕爲季氏宰。進則理其官職、退則受教聖師。爲性多謙退。故子曰、求也退、故進之)とある。ウィキソース「家語 (四庫全書本)/卷09」参照。また『史記』仲尼弟子列伝に「冉求、字は子有。孔子よりわかきこと二十九歳。季氏の宰と為る」(冉求字子有。少孔子二十九歳。爲季氏宰)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。
  • 冉子為其母請粟 … 『義疏』に「冉子は、冉求なり。其の母は、子華の母なり。粟を請うは、孔子に就いて粟を請うなり。時に子華既に出使して、母家に在り。冉有は朋友の情に由る。故に子華の母の為に孔子に就いて粟を請うなり」(冉子、冉求也。其母、子華母也。請粟、就孔子請粟也。時子華既出使、而母在家。冉有由朋友之情。故爲子華之母就孔子請粟也)とある。また『注疏』に「冉子は、即ち冉有なり。其の子華の母の為に粟を夫子に請う。其の子出でて使いして家の貧しきを言うなり」(冉子、即冉有也。爲其子華之母請粟於夫子。言其子出使而家貧也)とある。
  • 子曰、与之釜 … 『集解』に引く馬融の注に「六斗四升を釡と曰うなり」(六斗四升曰釡也)とある。また『義疏』に「孔子冉求の情を得。故に命じて粟一釜を与えしむ。釜の容は六斗四升なり」(孔子得冉求之情。故命與粟一釡。釡容六斗四升也)とある。また『注疏』に「夫子粟六斗四升を与えしむるなり」(夫子令與粟六斗四升也)とある。また『集注』に「釜は、六斗四升」(釜、六斗四升)とある。
  • 請益 … 『義疏』に「冉求一釜の少なきことを嫌う。故に更に孔子に就いて益さんことを請うなり」(冉求嫌一釡之少。故更就孔子請益也)とある。また『注疏』に「冉有其の粟の少なきをうたがう、故に更に之を益さんことを請う」(冉有嫌其粟少、故更請益之)とある。
  • 曰、与之庾 … 『集解』に引く包咸の注に「十六斗を庾と為すなり」(十六斗為庾也)とある。また『義疏』に「冉子既に益さんことを請う。故に孔子之に庾を与えしむるなり。庾は十六斗なり。然るに初め請うに唯だ六斗四升を得せしめ、益さんことを請うて十六斗を得しむ、是れ益すこと初めより多し。次たらずと為すが如し、まさに恐らくは前の釜に益し足して以て十六斗と成すなり」(冉子既請益。故孔子令與之庾也。庾十六斗也。然初請唯得六斗四升、請益而得十六斗、是益多於初。如爲不次、政恐益足前釜以成十六斗也)とある。また『注疏』に「夫子益して十六斗を与えしむるなり」(夫子令益與十六斗也)とある。また『集注』に「庾は、十六斗」(庾、十六斗)とある。
  • 冉子与之粟五秉 … 『集解』に引く馬融の注に「十六斛を秉と曰う。五秉は合わせて八十斛なり」(十六斛曰秉。五秉合八十斛也)とある。また『義疏』に「十六斛を秉と曰い、五秉は八十斛なり。孔子粟を与うること既に竟えて、ことさらに冉子又た自ら己の粟八十斛を以て之に与うるなり」(十六斛曰秉、五秉八十斛也。孔子與粟既竟、故冉子又自以己粟八十斛與之也)とある。また『注疏』に「冉有終に以て少なしと為す、故に自ら粟八十斛を与うるなり」(冉有終以爲少、故自與粟八十斛也)とある。また『集注』に「秉は、十六斛」(秉、十六斛)とある。
  • 子曰、赤之適斉也、乗肥馬、衣軽裘。吾聞之也。君子周急不継富 … 『集解』に引く鄭玄の注に「冉求の之に与うること太だ多きをそしるなり」(非冉求與之太多也)とある。また『義疏』に「孔子、我与うることの少なき所以を説き、又た冉求応に多く与うべからざるの意を説くなり。肥馬は馬の穀を食らう者なり。軽裘は、裘の皮精毛軟、及び新綿を著と為す者なり。若し家貧しければ、則ち馬穀を食らわずして瘦なり。裘は麤皮毛強を用う。而る故に絮を著と為す。縕袍は是なり。今子華往きて斉に使いす。去る時乗る所の馬は肥え、其の衣る所の裘は軽軟なれば、則ち是れ家富めり。其の母乏しからざるなり。孔子曰く、吾旧語を聞く、夫れ君子の施しは但だ人の急に周くにぎわす者のみ、足れる人に係け継ぎて富めるをやしなうことを為さざるなり」(孔子説我所以與少、又説冉求不應與多意也。肥馬馬之食穀者也。輕裘裘之皮精毛軟及新綿爲著者也。若家貧、則馬不食穀而瘦。裘用麤皮毛強。而故絮爲著。縕袍是也。今子華往使於齊。去時所乘馬肥、其所衣裘輕軟、則是家富。其母不乏也。孔子曰、吾聞舊語、夫君子施但周贍人之急者耳、不係繼足人爲富蓄也)とある。また『注疏』に「此れ孔子冉有の之に与うること太だ多きをそしるなり。赤は、子華の名なり。適は、往なり。言うこころは子華使いして斉国に往くに、肥馬に乗駕し、軽裘を衣著すれば、則ち是れ富めるなり。富めば則ち母は粟を闕かず。吾嘗て之を聞く、君子は当に人の窮急を周救し、富有に継接せざるべし、と。今子華の家は富めるに、而も多く之に粟を与うるは、則ち是れ富めるに継ぐ、故に之を非るなり」(此孔子非冉有與之太多也。赤、子華名。適、往也。言子華使往齊國、乘駕肥馬、衣著輕裘、則是富也。富則母不闕粟。吾嘗聞之、君子當周救人之窮急、不繼接於富有。今子華家富、而多與之粟、則是繼富、故非之也)とある。また『集注』に「肥馬に乗り、軽裘を衣るは、其の富めるを言うなり。急は、窮迫なり。周とは、足らざるを補う。継とは、余り有るをぐなり」(乘肥馬、衣輕裘、言其富也。急、窮迫也。周者、補不足。繼者、續有餘)とある。
  • 原思(原憲) … 『孔子家語』七十二弟子解に「原憲は宋人そうひと、字は子思。孔子よりわかきこと三十六歳。清浄にして節を守る。貧にして道を楽しむ。孔子魯の司寇と為り、原憲嘗て孔子の宰と為る。孔子しゅっしてのち、原憲退隠して、衛に居る」(原憲宋人、字子思。少孔子三十六歳。淸淨守節。貧而樂道。孔子爲魯司寇、原憲嘗爲孔子宰。孔子卒後、原憲退隱、居於衞)とある。ウィキソース「孔子家語/卷九」参照。また『史記』仲尼弟子列伝に「原憲、字は子思」(原憲字子思)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。
  • 原思為之宰 … 『集解』に引く包咸の注に「弟子の原憲なり。思は、字なり。孔子魯の司寇と為り、原憲を以て家邑の宰と為すなり」(弟子原憲也。思、字也。孔子爲魯司寇、以原憲爲家邑宰也)とある。また『義疏』に「弟子の原憲なり。孔子魯の司寇と為る。采邑有り。故に原思をして邑宰と為らしむるなり」(弟子原憲也。孔子爲魯司寇。有采邑。故使原思爲邑宰也)とある。また『注疏』に「弟子の原憲なり。孔子魯の司寇と為り、原憲を以て家邑の宰と為すなり」(弟子原憲也。孔子爲魯司寇、以原憲爲家邑宰也)とある。また『集注』に「原思は、孔子の弟子、名は憲。孔子魯の司寇たりし時、思を以て宰と為す」(原思、孔子弟子、名憲。孔子爲魯司寇時、以思爲宰)とある。
  • 与之粟九百。辞 … 『集解』に引く孔安国の注に「九百は、九百斗なり。辞は、譲りて受けざるなり」(九百、九百斗也。辭、讓不受也)とある。また『義疏』に「九百は、九百斗なり。原憲既に邑宰と為る。邑宰宜しく禄を得べし。故に孔子粟九百斗を以て之に与うるなり。原の性廉譲、辞して粟を受けざるなり。みだりに九百と云いて、孔必ず九百斗なるを知る者は、孔子の政、当に九百升を少なしと為し、九百斛を多しと為すを嫌う。故に応に是れ斗なるべきなり。宜しく粟五秉と亦た相類すべきなり」(九百、九百斗也。原憲既爲邑宰。邑宰宜得祿。故孔子以粟九百斗與之也。原性廉讓、辭不受粟也。漫云九百、而孔必知九百斗者、孔子政當嫌九百升爲少、九百斛爲多。故應是斗也。宜與粟五秉亦相類也)とある。また『注疏』に「孔子之に粟九百斗を与うるに、原思辞譲して受けざるなり」(孔子與之粟九百斗、原思辭讓不受也)とある。また『集注』に「粟は、宰の禄なり。九百は、其の量を言わざれば、考う可からず」(粟、宰之祿也。九百、不言其量、不可考)とある。
  • 子曰、毋 … 『集解』に引く孔安国の注に「禄は、当に受くるべき所にのっとり、譲るを以てするきなり」(祿、法所當受、毋以讓也)とある。また『義疏』に「原、辞して肯て受けず。故に孔子之を止むるなり。かれは、辞すること毋かれなり」(原、辭不肯受。故孔子止之也。毋、毋辭也)とある。また『注疏』に「毋は、禁辞なり。孔子其の譲るを禁止す。言うこころは禄は法として得る所、当に受けて譲ること無かるべきなり」(毋、禁辭也。孔子禁止其讓。言祿法所得、當受無讓也)とある。また『集注』に「毋は、禁止の辞」(毋、禁止辭)とある。
  • 以与爾隣里郷党乎 … 『集解』に引く鄭玄の注に「五家を隣と為し、五隣を里と為す。万二千五百家を郷と為し、五百家を党と為すなり」(五家爲鄰、五鄰爲里。萬二千五百家爲郷、五百家爲黨也)とある。また『義疏』に「又た原憲肯えて受けざらんことを恐る。故に又た説いて云う、汝辞すること莫かれ。但だ之を受けよ。若し用無くんば、当に還って爾の隣里、郷党に分与すべし、と。此れは是れ賢人の仕官、州郷を潤沢するの教えを示すなり。内外之を互言するのみ。隣里は百里の外に在り、郷党は百里の内に在るなり」(又恐原憲不肯受。故又説云、汝莫辭。但受之。若無用、當還分與爾鄰里郷黨也。此是示賢人仕官潤澤州郷之教也。内外互言之耳。鄰里在百里之外、郷黨在百里之内也)とある。また『注疏』に「言うこころは己に於いて余り有れば、爾の隣里・郷党の人に分与す可く、亦た辞す可からざるなり。……五家を隣と為し、五隣を里と為すと云うは、地官・遂人職の文なり。案ずるに大司徒職に、五家を比と為し、五比を閭と為し、四閭を族と為し、五族を党と為し、五党を州と為し、五州を郷と為すと云う。故に万二千五百家を郷と為し、五百家を党と為すことを知るなり」(言於己有餘、可分與爾鄰里郷黨之人、亦不可辭也。……云五家爲鄰、五鄰爲里者、地官遂人職文。案大司徒職云、五家爲比、五比爲閭、四閭爲族、五族爲黨、五黨爲州、五州爲郷。故知萬二千五百家爲郷、五百家爲黨也)とある。また『集注』に「五家を隣と為し、二十五家を里と為し、万二千五百家を郷と為し、五百家を党と為す。言うこころは常禄は当に辞すべからず。余り有らば、自ら之を推して以て貧乏をすくう可し。蓋し隣里郷党に、相周うの義有り」(五家爲鄰、二十五家爲里、萬二千五百家爲郷、五百家爲黨。言常祿不當辭。有餘自可推之以周貧乏。蓋鄰里郷黨、有相周之義)とある。
  • 『集注』に引く程頤の注に「夫子の子華を使いとし、子華の夫子の為に使いするは、義なり。而して冉有乃ち之が為に請う。聖人寛容にして、直に人を拒むことを欲せず。故に之に与うること少なし。当に与うべからざるを示す所以なり。益を請うも之に与うること亦た少なし。不当に益すべからざるを示す所以なり。求未だ達せずして、自ら之に与うること多ければ、則ちはなはだ過ぐ。故に夫子之を非とす。蓋し赤いやしくも乏しきに至れば、則ち夫子必ず自ら之をすくい、請うを待たず。原思は宰たれば、則ち常禄有り。思其の多きを辞す。故に又た教うるにこれを隣里の貧者に分かつを以てす。蓋し亦た義に非ざること莫きなり」(夫子之使子華、子華之爲夫子使、義也。而冉有乃爲之請。聖人寛容、不欲直拒人。故與之少。所以示不當與也。請益而與之亦少。所以示不當益也。求未達、而自與之多、則已過矣。故夫子非之。蓋赤苟至乏、則夫子必自周之、不待請矣。原思爲宰、則有常祿。思辭其多。故又教以分諸鄰里之貧者。蓋亦莫非義也)とある。
  • 『集注』に引く張載の注に「斯の二者に於いて、聖人の財を用うるを見る可し」(於斯二者、可見聖人之用財矣)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「此れ門人二子の事を併せ記して、以て聖人の妙用、一取与の間と雖も、自ら道有りて存することをあらわすなり。……聖人の物に於ける、時に措くの宜しき有りて、一定の法無きこと、是に於いて見る可し」(此門人併記二子之事、以見聖人之玅用、雖一取與間、自有道存也。……聖人之於物、有時措之宜、而無一定之法、於是而可見矣)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「子華は工作して日をはかるの人に非ず。出でて使いすと雖も、而も母豈に粟に乏しからんや。出でてほうに使いす。費す所必ず多し。冉求粟を請う、実に子華が為に費す所をす、而うして母を以て辞を為すなり。……五へいを七こく一斗八升五合九勺ゆうと為す。乃ち五馬のする所、人情に近しとす。……此の章の義、今人きんじんよりして之を観るに、孔子は師なり、冉子は門人なり。孔子は何の故にただちに其の非をさざるや。蓋し学の道は、人をして自らさとらしめ、而うして必ずしも一一明言せざるは、いつなり。……学の道は、其の大なる者を主とし、而うして小なる者は必ずして拘せず、二なり。……君子人の意を傷つけんことを欲せざるは、三なり。……後世の諸儒は是の意を識らず。……大氐たいていしょうおう以後、天下皆法家、程・朱以後、天下皆理学、豈に君子愷悌がいていの徳を知るに足らんや」(子華非工作度日之人矣。雖出使而母豈乏粟邪。出使它邦。所費必多。冉求請粟、實爲子華足所費、而以母爲辭也。……五秉爲七石一斗八升五合九勺有奇。乃五馬所駄、爲近於人情矣。……此章之義、自今人觀之、孔子師也、冉子門人也。孔子何故不直斥其非也。蓋學之道、使人自喩、而不必一一明言、一也。……學之道、主其大者、而小者不必拘、二也。……君子不欲傷人之意、三也。……後世諸儒不識是意。……大氐商鞅以後、天下皆法家、程朱以後、天下皆理學、豈足知君子愷悌之德哉)とある。有奇は、余り。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
学而第一 為政第二
八佾第三 里仁第四
公冶長第五 雍也第六
述而第七 泰伯第八
子罕第九 郷党第十
先進第十一 顔淵第十二
子路第十三 憲問第十四
衛霊公第十五 季氏第十六
陽貨第十七 微子第十八
子張第十九 堯曰第二十