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述而第七 15 子曰飯疏食飮水章

162(07-15)
子曰、飯疏食飮水、曲肱而枕之。樂亦在其中矣。不義而富且貴、於我如浮雲。
いわく、疏食そしくらみずみ、ひじげてこれまくらとす。たのしみうちり。不義ふぎにしてたっときは、われいてうんのごとし。
現代語訳
  • 先生 ――「まずい物をくい、水をのみ、うでをまげてまくらにする。そうしたなかにもたのしみがある。すじの通らぬ金や地位は、わしから見れば浮き雲だ。」(魚返おがえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様がおっしゃるよう、「半搗米はんつきまいを食い水を飲み、ひじまくらでねるような貧乏暮しでも、道に志す真の楽しみはおのずからその中にあるものぞ。不正不義をして得たふうなどは、わしからみると浮べる雲のごとくはかないものじゃ。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師がいわれた。――
    「玄米飯を冷水でかきこみ、ひじを枕にして寝るような貧しい境涯でも、そのなかに楽しみはあるものだ。不義によって得た富や位は、私にとっては浮雲のようなものだ」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 飯 … 動詞。食べる。
  • 疏食 … 粗末な飯。「菜食」という説と「精白していない米」との説がある。
  • 飲水 … おいしい汁物がないことを表す。
  • 肱 … ひじ。「肘」「臂」とも書く。
  • 亦 … 「(も)また~」と読み、「~もまた」「~も同様に」と訳す。
  • 矣 … 訓読しない。強い断定を示す。
  • 不義 … 正しい道からはずれること。
  • 富且貴 … 金持ちになり、高い地位を得ること。
  • 如浮雲 … 「浮き雲のように、はかないもの」とする説と、「雲は空に浮かんでいるだけで、自分とは無関係、無縁だ」とする説がある。
補説
  • 飯疏食飲水 … 『集解』に引く孔安国の注に「蔬食は、菜食なり」(蔬食、菜食也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「此れ孔子食飽かんことを求むる無きを明らかにするなり。飯は、猶お食のごときなり。蔬食は、菜食なり。言うこころは孔子は菜食を食らいて水を飲み、方丈に重肴無きなり」(此明孔子食無求飽也。飯、猶食也。蔬食、菜食也。言孔子食於菜食而飮水無重肴方丈也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『集注』に「飯は、之を食らうなり。疏食は、飯なり」(飯、食之也。疏食、麤飯也)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。麤飯は、粗末な食事。粗飯。
  • 疏食 … 『集解』『義疏』では「蔬食」に作る。同義。
  • 曲肱而枕之 … 『集解』に引く孔安国の注に「肱は、臂なり。孔子此れを以て楽しみと為すなり」(肱、臂也。孔子以此爲樂也)とある。また『義疏』に「此れ孔子の居安きを求むること無きを明らかにするなり。肘前を臂と曰い、肘後を肱と曰う。通じて亦た臂と曰う。言うこころは孔子眠るに臂を曲げて之を枕とし、錦衾きんきん角枕かくちんせざるなり。孔子は麤食薄寝す。而れども歓楽ちょうして自ら麤薄の中に在るなり」(此明孔子居無求安也。肘前曰臂、肘後曰肱。通亦曰臂。言孔子眠曲臂而枕之、不錦衾角枕也。孔子麤食薄寢。而歡樂怡暢自在麤薄之中也)とある。錦衾は、にしきで作った立派な夜着。角枕は、つので作った枕。怡暢は、のんびりと和むさま。
  • 不義而富且貴、於我如浮雲 … 『集解』に引く鄭玄の注に「富貴なれども義を以てせざるは、我に於いて浮雲の如く、己の有に非ざるなり」(富貴而不以義者、於我如浮雲、非己之有也)とある。また『義疏』に「富と貴とは、是れ人の欲する所なり。其の道を以て之を得ずんば、処らざるなり。不義にして富貴なるは、我に於いては天の浮雲の如きなり。然る所以の者は、言うこころは浮雲自ら天に在り。我と何ぞ相関わらん。不義の富貴の如きは、我と亦た相関わらざるなり。又た浮雲の儵聚しゅくしゅう欻散くっさんするを常と為す可からざること不義の如し。富貴の聚散けいなること浮雲の如きなり」(富與貴、是人之所欲。不以其道得之、不處也。不義而富貴、於我如天之浮雲也。所以然者、言浮雲自在天。與我何相關。如不義之富貴、與我亦不相關也。又浮雲儵聚欻散不可為常如不義。富貴聚散俄頃如浮雲也)とある。儵聚は、たちまちに集まること。欻散は、たちまちに散ること。俄頃は、しばらくの間。また『集注』に「聖人の心、渾然たる天理、困極に処ると雖も、楽しみも亦た在らざる無し。其の不義の富貴を視るは、浮雲の有ること無きが如く、漠然として其の中に動く所無きなり」(聖人之心、渾然天理、雖處困極、而樂亦無不在焉。其視不義之富貴、如浮雲之無有、漠然無所動於其中也)とある。
  • 『集注』に引く程頤の注に「疏食飲水を楽しむに非ざるなり。疏食飲水と雖も、其の楽しみを改むる能わざるなり。不義の富貴、之を視ること軽くして浮雲の如く然り」(非樂疏食飮水也。雖疏食飮水、不能改其樂也。不義之富貴、視之輕如浮雲然)とある。
  • 『集注』に引く程顥または程頤の注に「須らく楽しむ所の者何事かを知るべし」(須知所樂者何事)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「論に曰く、孟子曰えり、理義の我が心をよろこばすこと、猶お芻豢すうかんの我が口を悦ばすがごとし、と。聖人の楽、固より言語を以て形容す可からずと雖も、然れども理義を外にして、豈に所謂いわゆる楽という者有らんや」(論曰、孟子曰、理義之悅我心、猶芻豢之悅我口也。聖人之樂、固雖不可以言語形容、然外理義、而豈有所謂樂者乎哉)とある。芻豢は、牛や豚などの家畜。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「楽しみ亦た其の中に在り、孔安国曰く、孔子此れを以て楽しみとす。なり。程子曰く、須らく楽しむ所の者は何事なるを知るべし、と。大いに禅子の言に似たり。易大伝たいでんに明らかに天を楽しみ命を知ると言えり。豈にめいならんや」(樂亦在其中矣、孔安國曰、孔子以此爲樂。非矣。程子曰、須知所樂者何事。大似禪子言。易大傳明言樂天知命。豈謎乎)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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