禍福は糾える縄のごとし
禍福は糾える縄のごとし
- 出典:『史記』南越列伝・論賛(ウィキソース「史記/卷113」参照)
- 解釈:不幸と幸福は、より合わせた縄のように交互に巡ってくる。
秦の滅亡後、南海郡の郡尉であった趙佗(?~前137)は、自立して南越(現在の広東省・広西チワン族自治区地方にあった国)を建国し、自ら武王と称した。漢の高祖は陸賈を使者として派遣し、彼の説得により、趙佗は漢に臣従することとなった。高祖は趙佗を正式に南越王に封じ、これ以降互いに使者を派遣し、交易を行なうようになった。
高祖が崩御し、呂后が実権を握るようになって、漢は鉄製器具の交易を禁止した。趙佗は怒って武帝を自称し、長沙国の国境まで攻め込んだ。文帝の代となり、漢は陸賈を再び使者として派遣し、趙佗を説得させた。その結果、趙佗は帝号を廃し漢への臣従を誓い、再び入朝することとなった。
紀元前137年、趙佗が死去し、孫の胡(趙眜)が即位した(諡は文王)。紀元前122年、文王が崩御し、その子、嬰斉が即位した(諡は明王)。文王・明王ともに病気を理由に朝貢はしなかった。
紀元前115年、明王の子、興が即位し(諡は哀王)、その母を太后(邯鄲の樛氏)とした。漢は入朝を促すため、太后の元愛人の安国少季を使者として派遣した。太后はまた少季と私通したため、国人はこのことを知って反感を持った。太后は反乱を恐れて漢への帰属を図ろうとした。丞相の呂嘉はこれに反対したため、太后は呂嘉を暗殺しようとしたが果たせなかった。
その後、ついに呂嘉らは反乱を起こし、哀王と太后を殺害し、明王の子、建徳を即位させた。紀元前112年、武帝は路博徳を伏波将軍とし、楊僕を楼船将軍として、大軍をもって南越を攻めた。建徳王と呂嘉は捕らえられ、ついに南越は五代、九十三年で滅亡した。司馬遷はその論賛で、伏波将軍は困難に遭いながらも知慮によって禍を福に転じたと称賛している。
- 史記 … 前漢の司馬遷がまとめた歴史書。二十四史の一つ。事実を年代順に書き並べる編年体と違い、人物の伝記を中心とする紀伝体で編纂されている。本紀十二巻、表十巻、書八巻、世家三十巻、列伝七十巻の全百三十巻。ウィキペディア【史記】参照。
太史公曰、尉佗之王、本由任囂。遭漢初定、列爲諸侯。隆慮離溼疫、佗得以益驕。甌駱相攻、南越動搖。漢兵臨境、嬰齊入朝。其後亡國、徴自樛女。呂嘉小忠、令佗無後。樓船從欲、怠傲失惑。
太史公曰く、尉佗の王たる、本、任囂に由る。漢初めて定まるに遭い、列して諸侯と為る。隆慮、溼疫に離り、佗、以て益〻驕るを得たり。甌・駱相攻め、南越動揺す。漢兵、境に臨み、嬰斉入朝す。其の後国を亡ぼすは、徴、樛女よりす。呂嘉は小忠にして、佗をして後無からしむ。楼船は欲を従にして、怠傲失惑す。
- 尉佗 … 尉は、南海郡の郡尉。佗は、趙佗。南越の初代の王。在位期間は前203~前137。ウィキペディア【趙佗】参照。
- 王 … 南越王。
- 任囂 … 南海郡の郡尉。任囂は病気が悪化し、死に臨んで竜川県令だった趙佗を呼びつけ、南海郡の郡尉の代行を命じ、今後自立して南越王になることを勧めた。
- 隆慮 … 呂后が差し向けた隆慮侯の軍。
- 溼疫 … 多湿と疫病。
- 甌駱 … 西甌と駱越。越人の支族の一つ。
- 徴 … 兆し。
- 樛女 … 樛氏の娘。ここでは、嬰斉が彼女を娶ったことを指す。
- 呂嘉 … 南越の丞相。ウィキペディア【吕嘉 (南越国)】(中文)参照。
- 小忠 … つまらぬ忠義立て。
- 楼船 … 楼船将軍楊僕のこと。生没年不詳。河南郡宜陽県の人。ウィキペディア【楊僕】参照。
- 従欲 … 欲望のままに行動すること。
- 怠傲 … 怠けて傲ること。
- 失惑 … 惑うこと。
伏波困窮、智慮愈殖、因禍爲福。成敗之轉、譬若糾墨。
伏波は困窮して、智慮愈〻殖え、禍に因りて福と為す。成敗の転ずること、譬えば糾墨の若し。
- 伏波 … 伏波将軍路博徳のこと。生没年不詳。西河郡平周県(現在の山西省孝義市)の人。なお、『史記』衛将軍驃騎列伝に「将軍路博徳は、平州の人なり」(將軍路博德、平州人)とあるが、平州は平周の誤りと思われる。ウィキペディア【路博徳】参照。
- 困窮 … ここでは、窮地に立たされたこと。
- 智慮 … 賢い考え。智謀と思慮。
- 成敗 … 成功と失敗。
- 転 … 転変。
- 糾墨 … より合わせた縄。墨は、すみなわ。縄墨。

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