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奉和聖製従蓬萊向興慶閣道中留春雨中春望之作応制(王維)

奉和聖製從蓬萊向興慶閣道中留春雨中春望之作應制
聖製せいせい蓬萊ほうらい興慶こうけいむか閣道かくどうちゅうにて留春りゅうしゅんちゅうしゅんぼうさく」にたてまつる 応制おうせい
おう
  • 七言律詩。斜・花・家・華(下平声麻韻)。
  • ウィキソース「奉和聖製從蓬萊向興慶閣道中留春雨中春望之作應制 (王維)」参照。
  • 詩題 … 『文苑英華』では「奉和御製從蓬萊宮向興慶閣道中作」に作る。
  • 聖製 … 天子の作られた詩歌。御製ぎょせい
  • 聖 … 『全唐詩』『顧起経注本』には「一作御」と注する。
  • 蓬萊 … 宮殿の名。東のだい大明宮の別名。『雍録』巻三、唐東内大明宮の条に「龍朔二年(662)、高宗風癉ふうたんに染む、太極宮の卑下ひかにくみ、故に大明宮を修むるに就き、改めて蓬萊宮と名づく。殿後の蓬萊池を取りて名と為すなり。……咸亨かんこう元年(670)、蓬萊宮を改めて含元殿と為す。長安五年(705)、又た改めて大明宮と為す」(龍朔二年、高宗染風癉、惡太極宮卑下、故就修大明宮、改名蓬萊宮。取殿後蓬萊池爲名也。……咸亨元年改蓬萊宮爲含元殿。長安五年又改爲大明宮)とある。ウィキソース「雍錄/卷03」参照。
  • 興慶 … 宮殿の名。南の内裏興慶宮。『雍録』巻三、唐宮総説の条に「太極は西に在り、故に西内せいだいと名づく。大明は東に在り、故に東内とうだいと名づく。別に興慶宮という者有るも、亦た都城の東南の角に在りて、人主も亦た此に於いて政に出づ。故に又た南内なんだいと号するなり」(太極在西、故名西內。大明在東、故名東內。別有興慶宮者、亦在都城東南角、人主亦於此出政。故又號南內也)とある。ウィキソース「雍錄/卷03」参照。
  • 閣道 … 複道(二階建ての渡り廊下)の二階の道のこと。大明宮から通化門を経て興慶宮に至り、次に春明門・延興門を経て曲江池・芙蓉園まで、東の城壁に沿って夾城きょうじょうと呼ばれる通路があり、そこに複道が設けられた。一階は臣下、二階は天子が通り、外側からは通行が見えないようになっていた。『史記』秦始皇本紀に「先ず前殿を阿房に作る。……しゅうして閣道をつくり、殿下より直ちに南山にいたる。南山のいただきを表し以てけつと為す。復道をつくり、阿房より渭を渡り、之を咸陽に属し、以て天極の閣道の漢をわたり営室にいたるにかたどるなり」(先作前殿阿房。……周馳爲閣道、自殿下直抵南山。表南山之顚以爲闕。爲復道、自阿房渡渭、屬之咸陽、以象天極閣道絕漢抵營室也)とある。周馳は、建物を巡って連絡すること。闕は、宮殿の門。門の両脇に台を築いてその上部に楼観を設け、その中央部をくり貫いて道にした。ウィキソース「史記/卷006」参照。
  • 留春 … 不詳。「去りゆく春を惜しむ」と解釈する説(詩の内容と合致しない)、また「留春閣」という小宮殿の名とする説(そういう名の宮殿が存在したという記録はない)等、諸説ある。
  • 雨中春望 … 春雨にけぶる屋外の風景を望む。
  • 応制 … 天子の命令によって作られた詩文。南北朝の頃までは「おうしょう」の用例が多い。唐代は則天武后のいみなしょう」の音を避けて「応制」を用いるようになった。皇太子・皇子の場合は「応令おうれい」「おうきょう」を用いる。
  • この詩と同じ題の詩が李憕にもある。
  • 王維 … 699?~761。盛唐の詩人、画家。太原(山西省)の人。あざなきつ。開元七年(719)、進士に及第。安禄山の乱で捕らえられたが事なきを得、乱後は粛宗に用いられてしょうじょゆうじょう(書記官長)まで進んだので、王右丞とも呼ばれる。また、仏教に帰依したため、詩仏と称される。『王右丞文集』十巻がある。ウィキペディア【王維】参照。
渭水自縈秦塞曲
すいおのずから秦塞しんさいめぐってまが
  • 渭水 … 黄河最大の支流。渭河いがとも。甘粛省隴西県の鳥鼠山に源を発し、長安を過ぎ、最後に黄河に合流する。ウィキペディア【渭水】参照。『書経』禹貢篇に「みちびき、ちょう同穴どうけつより、ひがししてほうかいし、ひがししてけいかいし、ひがししてしつしょぎ、る」(導渭、自鳥鼠同穴、東會于灃、又東會于涇、又東過漆沮、入于河)とある。ウィキソース「尚書/禹貢」参照。また『山海経』西山経に「西にし二百二十里を、ちょう同穴どうけつやまう。うえびゃっはくぎょくおおし。すいここよりでて、とうりゅうしてそそぐ」(又西二百二十里、曰鳥鼠同穴之山。其上多白虎白玉。渭水出焉、而東流注于河)とある。ウィキソース「山海經/西山經」参照。
  • 自 … ここでは、昔から変わらず、本来のありようのままに、の意。初唐の王勃「滕王閣」詩に「檻外かんがいの長江 空しく自ずから流る」(檻外長江空自流)とある。ウィキソース「滕王閣詩」参照。
  • 秦塞 … 昔の秦の国、特にその都だった咸陽を指す。四方が塞がっていたので秦塞と言った。ただし、ここでは唐の都、長安を指して言ったもの。『史記』蘇秦伝に「恵王に説きて曰く、秦は四塞の国、山を被り渭を帯ぶ」(說惠王曰、秦四塞之國、被山帶渭)とある。渭は渭水。ウィキソース「史記/卷069」参照。
  • 塞 … 『全唐詩』には「一作甸」と注する。
  • 縈 … (長安の都を)巡る。まつわりつく。中唐の白居易「春江」詩に「唯だ春江の看て未だかざる有り、砂をめぐり石をめぐりて緑潺湲せんえんたり」(唯有春江看未厭、縈砂遶石淥潺湲)とある。潺湲は、清流のさらさら流れるさま。ウィキソース「春江 (白居易)」参照。
  • 曲 … (渭水が)曲がりくねって流れている。『唐詩品彙』では「北」に作る。『唐詩解』には「品彙作北非」と注する。
黃山舊繞漢宮斜
黄山こうざんかんきゅうめぐってななめなり
  • 黄山 … 長安の西北、現在の陝西省咸陽市興平市の近くにある山。漢の恵帝がここに黄山宮を建てた。『漢書』地理志、右扶風、槐里の条に「黄山宮有り、孝恵二年起こす」(有黃山宮、孝惠二年起)とある。ウィキソース「漢書顏師古註/地理志」参照。また『三輔黄図』巻三、甘泉宮の条に「黄山宮は、興平県の西三十里に在り。武帝ひそかに行き、西のかた黄山宮に至る、即ち此れなり」(黃山宮、在興平縣西三十里。武帝微行、西至黃山宮、即此也)とある。ウィキソース「三輔黃圖/卷之三」参照。また後漢の張衡「西京の賦」(『文選』巻二)に「ちょうようおおいてさくつらね、黄山をめぐりて牛首にいたる」(掩長楊而聯五柞、繞黃山而款牛首)とある。長楊は、長楊宮。五柞は、五柞宮。牛首は、牛首山。ウィキソース「西京賦」参照。
  • 旧 … 昔のまま。
  • 漢宮 … 漢の宮殿、黄山宮を指すが、ここでは唐の宮殿を言ったもの。唐のことを漢に擬する表現は、唐代の詩文では常套的表現であった。中唐の白居易「長恨歌」の冒頭にも「漢皇かんこういろおもんじて傾国けいこくおもう」(漢皇重色思傾國)とあり、ここの漢皇は、実は唐の玄宗皇帝を指すが、遠慮して漢の武帝になぞらえている。ウィキソース「長恨歌」参照。
  • 繞 … 取り囲む。
  • 斜 … 斜面を見せている。斜めにそびえている。
鑾輿迥出千門柳
らん輿 はるかにづ 千門せんもんやなぎ
  • 鑾輿 … 天子の乗る車。「鸞輿」とも。鑾は、天子の馬車のくびき、またはながえの先端の横木につける鸞鳥の形をした鈴。輿は、車の輿こし。南朝梁の何遜「九日 楽游苑に侍宴す」詩に「鸞輿 八襲に和し、鳳駕 千群を啓く」(鸞輿和八襲、鳳駕啓千羣)とある。八襲は、八重に同じ。天子の宮殿のこと。鳳駕は、鳳輦ほうれんに同じ。天子の乗り物。千群は、群臣の多くの群れ。ウィキソース「古詩紀 (四庫全書本)/卷093」参照。
  • 鑾 … 底本では「鸞」に作る。同義。
  • 迥 … 「遥か」に同じ。
  • 千門 … 数多くの宮殿の門。『史記』孝武本紀に「是に於いて建章宮を作る。はかりて千門万戸をつくる」(於是作建章宮。度爲千門萬戶)とある。ウィキソース「史記/卷012」参照。
  • 千 … 『全唐詩』には「一作仙」と注する。『唐詩解』には「本集作仙」と注する。「仙門」だと蓬萊宮の門という意になる。『静嘉堂本』『蜀刊本』『四部叢刊本』『顧可久注本』『趙注本』『文苑英華』『王維集校注』では「仙」に作る。『顧起経注本』では「仙」に作り、「一作千」と注する。
  • 柳 … 宮殿の門の辺りに柳の枝が垂れている様子。
閣道廻看上苑花
閣道かくどう めぐる 上苑じょうえんはな
  • 閣道 … 上記の注釈参照。『塩鉄論』刺権篇に「閣道錯連さくれんして、以て遊観するに足る」(閣道錯連、足以遊觀)とある。錯連は、交わり続くこと。ウィキソース「鹽鐵論/卷02」参照。また後漢の張衡「西京の賦」(『文選』巻二)に「是に於いて鉤陳こうちんの外、閣道穹隆きゅうりゅうとして、長楽と明光とにつづき、ただちに北のかた桂宮に通ず」(於是鉤陳之外、閣道穹隆、屬長樂與明光、徑北通乎桂宮)とある。鉤陳は、星座の名。未央宮を指す。穹隆は、大きく弓なりに張ったさま。長楽は、長楽宮。明光は、明光殿。ウィキソース「西京賦」参照。
  • 閣 … 『静嘉堂本』では「閤」に作る。こうは、宮中の小門の意。
  • 廻看 … あちこちご覧になる。
  • 廻 … 『全唐詩』『顧起経注本』には「一作遙」と注する。『文苑英華』では「遙」に作り、「集作廻」と注する。
  • 上苑 … 秦・漢代の宮苑、上林苑のこと。ここでは、唐の御苑に喩えた。『三輔黄図』巻四、苑囿、漢上林苑の条に「漢の上林苑は、即ち秦の旧苑なり。漢書に云う、武帝、建元三年上林苑を開き、東南のかた藍田宜春、鼎湖、御宿、昆吾に至り、南山をかたわらにして西し、長楊、五柞に至り、北のかた黄山をめぐり、渭水に瀕して東す。しゅうぼう三百里、と。離宮七十所、皆な千乗万騎を容る。漢宮殿疏に云う、ほう三百四十里、と。漢旧儀に云う、上林苑方三百里、苑中に百獣を養い、天子、秋冬に射猟して之を取る、と。帝初め上林苑を修むるに、群臣遠方、各〻名果異卉三千余種を献じて其の中に植え、亦た製して美名を為す有り、以て奇異なるを標す」(漢上林苑、即秦之舊苑也。漢書云、武帝建元三年開上林苑、東南至藍田宜春、鼎湖、御宿、昆吾、旁南山而西、至長楊、五柞、北繞黃山、瀕渭水而東。周袤三百里。離宮七十所、皆容千乘萬騎。漢宮殿疏云、方三百四十里。漢舊儀云、上林苑方三百里、苑中養百獸、天子秋冬射獵取之。帝初修上林苑、羣臣遠方、各獻名果異卉三千餘種植其中、亦有製爲美名、以標奇異)とある。周袤は、周囲。袤は、長さ。ウィキソース「三輔黃圖/卷之四」参照。また『後漢書』明帝紀、永平十五年に「冬、車騎上林苑にこうりょうす」(冬、車騎校獵上林苑)とある。校猟は、鳥や獣が逃げ出さないようにらち(囲い)を作って狩りをすること。ウィキソース「後漢書/卷2」参照。また同じく桓帝紀、延熹元年に「冬十月、広成に校猟して、遂に上林苑に幸す」(冬十月、校獵廣成、遂幸上林苑)とある。ウィキソース「後漢書/卷7」参照。ウィキペディア【上林苑】参照。
雲裏帝城雙鳳闕
うんていじょう 双鳳闕そうほうけつ
  • 雲裏 … 雲の中。雲間。南朝陳の陰鏗いんこうの楽府「新城の安楽宮」(『楽府詩集』巻三十八)に「新宮 まことに壮なるかな、雲裏 楼台を望む」(新宮實壯哉、雲裏望樓台)とある。ウィキソース「樂府詩集/038卷」参照。
  • 雲 … 『文苑英華』には「集作雪」と注する。
  • 帝城 … 天子のいる城。宮城。『後漢書』郭伋伝に「賢能なる太守、帝城を去るも遠からず、河は九里を潤す。ねがわくは京師あわせて福を蒙らんことを」(賢能太守、去帝城不遠、河潤九里。冀京師幷蒙福也)とある。ウィキソース「後漢書/卷31」参照。
  • 双鳳闕 … 一対の鳳闕ほうけつ。闕は、宮城の門の両脇に台を築き、その上部に物見の楼観を設けたもので、鳳闕は、門の上に銅製の鳳凰を飾りつけてあることからいう。『史記』孝武本紀に「是に於いて建章宮を作る。……其の東には則ち鳳闕あり、高さ二十余丈。其の西には則ち唐中、数十里の虎圏あり」(於是作建章宮。……其東則鳳闕、高二十餘丈。其西則唐中、數十里虎圈)とある。唐中は、庭園の名。虎圏は、虎を飼う囲い。ウィキソース「史記/卷012」参照。後漢の繁欽「建章鳳闕の賦」に「双鳳の崇闕すうけつを築く」(築雙鳳之崇闕)とある。崇闕は、高大な門。ウィキソース「建章鳳闕賦」参照。
雨中春樹萬人家
ちゅうしゅんじゅ 万人ばんじんいえ
  • 雨中 … 雨の降っているなか。春雨にけぶるなか。王維「秋夜独坐」詩に「雨中 さん落ち、灯下 そうちゅう鳴く」(雨中山果落、燈下草蟲鳴)とある。ウィキソース「秋夜獨坐 (王維)」参照。
  • 春樹 … 若芽をつけた春の樹々。南朝梁の沈約「に会して春風に臨む」詩(『玉台新詠』巻九)に「春風に臨む、春風春樹に起こる」(臨春風、春風起春樹)とある。ウィキソース「會圃臨春風」参照。
  • 万人家 … 一万戸の家。長安の町家。『史記』淮陰侯伝の論賛に「韓信は布衣ふいたりし時と雖も、其の志、衆と異なれり。其の母死し、貧しくして以て葬ること無し。然れども乃ち行きてこうしょうの地に営み、其のかたわらをして万家を置く可からしめたり」(韓信雖爲布衣時、其志與衆異。其母死、貧無以葬。然乃行營髙敞地、令其旁可置萬家)とある。布衣は、官位のない人。庶民。高敞は、土地が高く開けて、見晴らしがよいこと。ウィキソース「史記/淮陰侯列傳」参照。
爲乘陽氣行時令
ようじょうじてれいおこなわんがためにして
  • 陽気 … 春の気。『礼記』がつりょう篇、季春之月の条に「せいまさに盛んに、陽気発泄はっせつす。……司空に命じて曰く、時雨じうまさくだらんとす、すいじょうとうせん。国邑こくゆうじゅんこうし、原野を周視し、隄防ていぼうを修利し、溝瀆こうとく道達どうたつす、と」(生氣方盛、陽氣發泄。……命司空曰、時雨將降、下水上騰。循行國邑、周視原野、修利隄防、道達溝瀆)とある。発泄は、発散する。ウィキソース「禮記/月令」参照。
  • 乗 … 即応すること。
  • 時令 … 時節に応じた政令。『礼記』がつりょう篇、季冬之月の条に「天子乃ち公卿・大夫と、共に国典こくてんととのえ、時令を論じて、以て来歳らいさいの宜しきを待つ」(天子乃與公卿大夫、共飭國典、論時令、以待來歲之宜)とある。国典は、国法。来歳は、来年。ウィキソース「禮記/月令」参照。また『後漢書』郎顗伝に「いま春の東作、徳を布くのはじめ、陽気は開発し、万物を養い導く。王者は天の視聴に因り、時気を奉順す。宜しく務めて温柔を崇び、其の行令にしたがうべし」(方春東作、布德之元、陽氣開發、養導萬物。王者因天視聽、奉順時氣。宜務崇溫柔、遵其行令)とある。ウィキソース「後漢書/卷30下」参照。
不是宸遊玩物華
宸遊しんゆう ぶっもてあそぶにあらず
  • 宸遊 … 天子が出かけること。行幸。初唐の蘇頲「初春、太平公主の南荘に幸すに和し奉る 応制」詩に「主第の山門 せんおこり、宸遊の風景 初年に入る」(主第山門起灞川、宸遊風景入初年)とある。ウィキソース「奉和初春幸太平公主南莊應制 (蘇頲)」参照。
  • 物華 … 時節ごとの美しい景色。隋の楊素「薛播州に贈る十四首」詩(其十三)に「物華 相待たず、遅暮ちぼ 余悲よひ有り」(物華不相待、遲暮有餘悲)とある。遅暮は、晩年。余悲は、尽きない悲しみ。ウィキソース「古詩紀 (四庫全書本)/卷131」参照。
  • 玩 … 楽しみ味わう。賞玩する。『全唐詩』『唐詩解』には「一作重」と注する。『顧起経注本』では「翫」に作り、「一作重」と注する。翫は、玩と同義。『静嘉堂本』『蜀刊本』『四部叢刊本』『顧可久注本』『趙注本』『文苑英華』『王維集校注』では「重」に作る。
テキスト
  • 『箋註唐詩選』巻五(『漢文大系 第二巻』、冨山房、1910年)※底本
  • 『全唐詩』巻一百二十八(中華書局、1960年)
  • 『王右丞文集』巻二(静嘉堂文庫蔵、略称:静嘉堂本)
  • 『王摩詰文集』巻四(書韻楼叢刊、上海古籍出版社、2003年、略称:蜀刊本)
  • 『須渓先生校本唐王右丞集』巻二(『四部叢刊 初篇集部』所収、略称:四部叢刊本)
  • 顧起経注『類箋唐王右丞詩集』巻八(台湾学生書局、1970年、略称:顧起経注本)
  • 顧可久注『唐王右丞詩集』巻二(『和刻本漢詩集成 唐詩1』所収、略称:顧可久注本)
  • 趙殿成注『王右丞集箋注』巻十(中国古典文学叢書、上海古籍出版社、1998年、略称:趙注本)
  • 『唐詩品彙』巻八十三([明]高棅編、[明]汪宗尼校訂、上海古籍出版社、1982年)
  • 『唐詩別裁集』巻十三(乾隆二十八年教忠堂重訂本縮印、中華書局、1975年)
  • 『古今詩刪』巻十六(寛保三年刊、『和刻本漢詩集成 総集篇9』所収)
  • 『文苑英華』巻一百七十四(影印本、中華書局、1966年)
  • 『唐詩解』巻四十二(順治十六年刊、内閣文庫蔵)
  • 陳鐵民校注『王維集校注(修訂本)』巻四(中国古典文学基本叢書、中華書局、2018年)
歴代詩選
古代 前漢
後漢
南北朝
初唐 盛唐
中唐 晩唐
北宋 南宋
唐詩選
巻一 五言古詩 巻二 七言古詩
巻三 五言律詩 巻四 五言排律
巻五 七言律詩 巻六 五言絶句
巻七 七言絶句
詩人別
あ行 か行 さ行
た行 は行 ま行
や行 ら行