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怨み骨髄に入る

怨(うら)み骨髄(こつずい)に入(い)る
  • 出典:『史記』秦本紀(ウィキソース「史記/卷005」参照)
  • 解釈:恨みが骨の髄まで染(し)み通る。非常に強く人を恨むこと。「怨み骨髄に徹(てっ)す」とも。春秋時代、五覇の一人であった晋の文公が死去し、側室の子である襄(じょう)公(こう)が即位した。秦の繆公(ぼくこう)は、この虚を衝(つ)いて鄭(てい)に攻め入ろうとした。重臣の百(ひゃく)里(り)傒(けい)と蹇(けん)叔(しゅく)は猛反対したが、繆公は強硬に百(ひゃく)里(り)傒(けい)の子孟明(もうめい)視(し)、蹇(けん)叔(しゅく)の子西乞(せいきつ)術(じゅつ)と白乙丙(はくいつへい)、この三人を遠征軍の将軍として鄭に向かわせた。しかし、滑(かつ)という小国まで来た時、鄭の商人が「鄭国は貴国が攻撃してくると聞き、防備を固めております」と言ったのを真に受け、急きょ滑(かつ)を攻めて、滅ぼした。滑(かつ)は晋の属国であったため、晋の襄公は激怒し、秦軍を崤山(こうざん)(現在の河南省西部)で破り、秦の三人の将軍を捕虜とした。すると晋の文公の夫人(文公の正室で、秦の繆公の娘)が「わが父繆公は、命(めい)に背いて滑(かつ)を攻めた三人の将軍を骨の髄まで深く恨んでいることでしょう。どうかこの三人を秦に送り返し、わが父の気が済むように煮(に)殺(ころ)させてください」と請い願ったという故事に基づく。その後、繆公は帰ってきた三人の将軍に対し、喪服を着て出迎え、「自分が百(ひゃく)里(り)傒(けい)と蹇(けん)叔(しゅく)の意見を用いなかったばかりに、そなたたち三人に恥をかかせてしまった。そなたたちには何の罪もない」と言い、三人の官位と秩禄を元通りとして、ますます厚遇したという。
  • 史記 … 前漢の司馬遷がまとめた歴史書。二十四史の一つ。事実を年代順に書き並べる編年体と違い、人物の伝記を中心とする紀伝体で編纂されている。本紀十二巻、表十巻、書八巻、世家三十巻、列伝七十巻の全百三十巻。ウィキペディア【史記】参照。
文公夫人秦女也。爲秦三囚將請曰、繆公之怨此三人、入於骨髓。願令此三人歸、令我君得自快烹之。
文公(ぶんこう)の夫(ふ)人(じん)は秦(しん)の女(じょ)なり。秦(しん)の三(さん)囚将(しゅうしょう)の為(ため)に請(こ)いて曰(いわ)く、繆公(ぼくこう)の此(こ)の三人(さんにん)を怨(うら)むや、骨髄(こつずい)に入(い)れり。願(ねが)わくは此(こ)の三人(さんにん)をして帰(かえ)らしめ、我(わ)が君(きみ)をして自(みずか)ら快(こころよ)く之(これ)を烹(に)るを得(え)しめよ、と。
  • 文公 … 前697~前628。春秋時代の晋の王。在位期間は前636~前628。姓は姫(き)。名は重(ちょう)耳(じ)。襄公の父。春秋五覇の一人。ウィキペディア【文公 (晋)】参照。
  • 夫人 … ここでは、晋の文公の正室、文嬴(ぶんえい)を指す。生没年不詳。秦の繆公の娘。ウィキペディア【文嬴】参照。
  • 女 … 娘。
  • 三囚将 … 囚われた秦の三人の将軍、百(ひゃく)里(り)傒(けい)の子孟明(もうめい)視(し)、蹇(けん)叔(しゅく)の子西乞(せいきつ)術(じゅつ)と白乙丙(はくいつへい)を指す。
  • 繆公 … 前705~前621。春秋時代の秦の王。在位は前659~前621。穆公とも。春秋五覇の一人。ウィキペディア【穆公 (秦)】参照。
  • 我君 … わが父君の意。繆公を指す。
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