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陽貨第十七 24 子貢曰君子亦有惡乎章

458(17-24)
子貢曰、君子亦有惡乎。子曰、有惡。惡称人之惡者。惡居下流而訕上者。惡勇而無禮者。惡果敢而窒者。曰、賜也亦有惡乎。惡徼以爲知者。惡不孫以爲勇者。惡訐以爲直者。
こういわく、くんにくむことるか。いわく、にくむことり。ひとあくしょうするものにくむ。りゅうかみそしものにくむ。ゆうにしてれいものにくむ。かんにしてふさがるものにくむ。いわく、にくむことるか。かすめてもっものにくむ。そんにしてもっゆうものにくむ。あばいてもっちょくものにくむ。
現代語訳
  • 子貢 ――「よくできた人にもにくしみがありますか。」先生 ――「にくむことがある。わるい点をいいふらす者をにくむ。下っぱのくせに上の人をそしる者をにくむ。元気ばかりでつつしみのない人をにくむ。向こう気ばかり強くてお先まっくらなのをにくむ。」――「賜くん、きみもにくむことがあるかね。」――「情報を知識と思う人をにくみます。反抗するのが勇気だと思う人をにくみます。秘密をあばいて公平ぶる人をにくみます。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • こうが、「先生のような君子にもきらいな人がおありになりますか。」と問うたので、孔子様が、「それはあるとも。他人の悪事を言い立てる者がきらいじゃ。下位にって上位の者をざまにそしる者がきらいじゃ。勇のみあって礼のない者がきらいじゃ。思い切りはよいが道理のわからぬ者がきらいじゃ。」と答えられた。そして子貢に向かって、「もまたきらいな人があるか。」と問われた。答えて申すよう、「知と勇と直とはけっこうなことでありますが、人の言うことすることの先くぐりをして知なりとする者がきらいであります。傲慢ごうまんれいを勇なりとする者がきらいであります。他人の内証事ないしょごとをあばき立ててちょくなりとする者がきらいであります。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 子貢がたずねた。――
    「君子も人を憎むということがありましょうか」
    先師がこたえられた。
    「それはあるとも。他人の悪事をいい立てるものを憎むのだ。下位にいて、上をそしる者を憎むのだ。勇のみあって礼のないものを憎むのだ。思いきりがよくて道理にもとるものを憎むのだ」
    それから、子貢にたずねられた。――
    「お前にも憎む人があるのか」
    子貢がこたえた。――
    「先まわりして物事をさぐっておいて、知ったかぶりする者を憎みます。傲慢不遜を勇気だと心得ている者を憎みます。人の秘密をあばいて正直だと思っている者を憎みます」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 子貢 … 前520~前446。姓は端木たんぼく、名は。子貢はあざな。衛の人。孔子より三十一歳年少の門人。孔門十哲のひとり。弁舌・外交に優れていた。また、商才もあり、莫大な財産を残した。ウィキペディア【子貢】参照。
  • 君子 … ここでは、「先生(孔子)のような君子」の意。
  • 悪 … 憎む。憎悪する。
  • 称 … 言いふらす。
  • 下流 … 下位。低い地位。下役。
  • 訕 … そしる。悪口をいう。
  • 窒 … 道理に通じない。筋が通らない。
  • 果敢 … 思いきって実行する。決断力のあること。
  • 賜 … 子貢の名。
  • 徼 … かすめ取る。聞きかじる。当て推量をする。
  • 不孫 … 「不遜」に同じ。思い上がった態度でふるまう。生意気。傲慢無礼。
  • 訐 … 人の秘密や悪事をあばき立てる。暴露する。
補説
  • 『注疏』に「此の章は人に悪行の憎悪す可きこと有るを論ずるなり」(此章論人有惡行可憎惡也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 子貢 … 『史記』仲尼弟子列伝に「端木賜は、衛人えいひとあざなは子貢、孔子よりわかきこと三十一歳。子貢、利口巧辞なり。孔子常に其の弁をしりぞく」(端木賜、衞人、字子貢、少孔子三十一歳。子貢利口巧辭。孔子常黜其辯)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。また『孔子家語』七十二弟子解に「端木賜は、あざなは子貢、衛人。口才こうさい有りて名を著す」(端木賜、字子貢、衞人。有口才著名)とある。ウィキソース「孔子家語/卷九」参照。
  • 子貢曰 … 『義疏』では「子貢問曰」に作る。
  • 君子亦有悪乎 … 『義疏』に「悪は、憎疾するを謂うなり。旧説、子貢孔子に問いて曰く、天下の君子の道、憎疾する所有りやいなやを以てせんか、と。江熙云う、君子は即ち夫子なり。礼記に云う、昔者むかし仲尼ひんあずかる。事わり出でて、ぜんとして歎ず。言偃げんえん曰く、君子何をか歎ずるや、と」(惡、謂憎疾也。舊説子貢問孔子曰、天下君子之道、有所憎疾以不乎。江熙云、君子即夫子也。禮記云、昔者仲尼與於蜡賓。事畢出、喟然而歎。言偃曰、君子何歎乎)とある。蜡賓は、さい(十二月に万神をまつる祭)を助け行う人。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「君子は夫子を謂うなり。子貢夫子の意も亦た憎悪する者有るかを問うなり」(君子謂夫子也。子貢問夫子之意亦有憎惡者乎)とある。
  • 有悪 … 『義疏』に「孔子答えて言う、君子も亦た憎悪する所有るなり、と」(孔子答言、君子亦有所憎惡也)とある。また『注疏』に「答えて憎悪する所有るを言うなり」(答言有所憎惡也)とある。
  • 悪称人之悪者 … 『集解』に引く包咸の注に「好みて人の悪を称説するは、悪と為す所以なり」(好稱説人之惡、所以爲惡也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「此れ以下並びに是れ君子の憎悪する所の事なり。君子は悪を掩い善を揚ぐ。故に人他人の悪事を称揚する者を憎むなり」(此以下竝是君子所憎惡之事也。君子掩惡揚善。故憎人稱揚他人之惡事者也)とある。また『注疏』に「好みて人の悪を称説するは、之を悪む所以なるを謂うなり」(謂好稱説人之惡、所以惡之)とある。
  • 悪居下流而訕上者 … 『集解』に引く孔安国の注に「訕は、ぼうなり」(訕、謗毀也)とある。また『義疏』に「訕は、猶お謗毀のごときなり。又た人の臣下と為りて、其の君上を毀謗する者を憎悪するなり。礼記に云う、君臣の礼、諫むること有りて訕ること無しとは、是れなり」(訕、猶謗毀也。又憎惡爲人臣下而毀謗其君上者也。禮記云、君臣之禮有諫而無訕、是也)とある。また『注疏』に「訕は、謗毀するなり。人の下位に居りて在上を謗毀するは、之を悪む所以なるを謂う」(訕、謗毀也。謂人居下位而謗毀在上、所以惡之也)とある。また『集注』に「訕は、謗毀なり」(訕、謗毀也)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 惡勇而無禮者 … 『義疏』に「勇にして礼無ければ則ち乱す。故に君子も亦た之を憎悪するなり」(勇而無禮則亂。故君子亦憎惡之也)とある。また『注疏』に「勇にして礼義無く乱を為すは、之を悪む所以なり」(勇而無禮義爲亂、所以惡之也)とある。
  • 悪果敢而窒者 … 『集解』に引く馬融の注に「窒は、窒塞ちっそくなり」(窒、窒塞也)とある。また『義疏』に「窒は、塞なり。又た好んで果敢を為して人道の理を窒ぐ者を憎むなり。若し果敢にして人道の理を塞がざる者は、則ち亦た悪まざる所なり」(窒、塞也。又憎好爲果敢而窒人道理者也。若果敢不塞人道理者、則亦所不惡也)とある。また『注疏』に「窒は、窒塞するを謂う。好みて果敢に人の善道を窒塞するを為すは、之を悪む所以なるを謂う」(窒、謂窒塞。謂好爲果敢窒塞人之善道、所以惡之也)とある。また『集注』に「ちつは、通ぜざるなり。人の悪を称するは、則ち仁厚の意無し。下の上をそしるは、則ち忠敬の心無し。勇にして礼無きは、則ち乱を為す。果にしてふさがるは、則ち妄作す。故に夫子之を悪む」(窒、不通也。稱人惡、則無仁厚之意。下訕上、則無忠敬之心。勇無禮、則爲亂。果而窒、則妄作。故夫子惡之)とある。
  • 賜也亦有悪乎 … 『義疏』に「子貢は孔子の悪むこと有るを説くこと已にうるを聞く。故に云う、賜も亦た憎悪する所有るなり、と。故に江熙云う、己も亦た賤悪する所有るなり、と」(子貢聞孔子説有惡已竟。故云、賜亦有所憎惡也。故江熙云、己亦有所賤惡也)とある。また『注疏』に「子貢言う、賜も亦た憎悪する所有るなり、と」(子貢言、賜也亦有所憎惡也)とある。
  • 悪徼以為知者 … 『集解』に引く孔安国の注に「徼は、抄なり。人の意をかすめて以て己の有と為す」(徼、抄也。抄人之意以爲己有)とある。また『義疏』に「此れ子貢己の憎悪する所の事を説くなり。徼は、抄なり。言うこころは人生まれて謀を発し計を出だす。必ず当に己の心に出づるべし。義は乃ち善を為すを得。若し他人の意をかすめて、以て己の有と為せば、則ち子貢の憎悪する所なり」(此子貢説己所憎惡之事也。徼、抄也。言人生發謀出計。必當出己心。義乃得爲善。若抄他人之意、以爲己有、則子貢所憎惡也)とある。また『注疏』に「徼は、抄なり。礼にては、抄説するし。人の意をかすめて以て己の有と為すが若きは、之を悪む所以なり」(徼、抄也。禮、毋抄説。若抄人之意以爲己有、所以惡之)とある。また『集注』に「悪徼以下は、子貢の言なり。徼は、伺い察するなり」(惡徼以下、子貢之言也。徼、伺察也)とある。
  • 徼 … 『義疏』では「撽」に作る。
  • 知 … 『義疏』では「智」に作る。
  • 悪不孫以為勇者 … 『義疏』に「勇は須らく遜従なるべし。不遜にして勇なる者の若きは、子貢の憎悪する所なり。然して孔子云う、不遜にして勇と為す者を悪む、と。二事又た相似たり。但だ孔子の明らかにする所、体を明らかにして先づ自ら勇有りて而る後に之を礼無き者に行うなり。子貢の言う所は、本と自ら勇無し。故に孔子の不遜にして以て勇と為すを仮るなり」(勇須遜從。若不遜而勇者、子貢所憎惡也。然孔子云、惡不遜爲勇者。二事又相似。但孔子所明、明體先自有勇而後行之無禮者。子貢所言、本自無勇。故假於孔子不遜以爲勇也)とある。また『注疏』に「孫は、順なり。君子は義にして以て勇と為す。不順を以て勇と為すが若きは、亦た悪む可きなり」(孫、順也。君子義以爲勇。若以不順爲勇者、亦可惡也)とある。
  • 孫 … 『義疏』では「遜」に作る。
  • 悪訐以為直者 … 『集解』に引く包咸の注に「けつは、人の陰私を攻めあばくを謂う」(訐、謂攻發人之陰私)とある。また『義疏』に「訐は、人の陰私を面発するを謂うなり。人生まれて直たり、当に自己他人を犯触せざるべくんば、則乃すなわち是れ善なればなり。若し対面して人の陰私を発し、己の直を成さんと欲する者も、亦た子貢の憎悪する所なり。然るに孔子の悪む所の者四有り。子貢三有り。亦た示すに師に減ずるなり」(訐、謂面發人之陰私也。人生爲直、當自己不犯觸他人、則乃是善。若對面發人陰私、欲成己直者、亦子貢所憎惡也。然孔子所惡者有四。子貢有三。亦示減師也)とある。また『注疏』に「訐は、人の陰私を攻めあばくを謂うなり。人の直を為すや、当に自ら己を直にすべし。他人の陰私の事を攻め発きて、以て己の直を成すが若き者も、亦た悪む可きなり」(訐、謂攻發人之陰私也。人之爲直、當自直己。若攻發他人陰私之事、以成己之直者、亦可惡也)とある。また『集注』に「訐は、人の陰私を攻発するを謂う」(訐、謂攻發人之陰私)とある。
  • 『集注』に引く楊時の注に「仁者愛さざること無ければ、則ち君子疑うらくは悪むこと無きが若し。子貢に是の心有るや、故に問いて以て其の是非をただす」(仁者無不愛、則君子疑若無惡矣。子貢之有是心也、故問焉以質其是非)とある。
  • 『集注』に引く侯仲良の注に「聖賢の悪む所此くの如し。所謂唯だ仁者のみ能く人を悪むなり」(聖賢之所惡如此。所謂唯仁者能惡人也)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「夫子の悪む所は、是れ人自ら其の不善を知らざる者を悪む、其の意平らかなり。其の悪知り易くして、之を悪むに意無き者なり。子貢の悪む所は、是れ人自ら以て善と為して、其の意甚だ不善なる者を悪む、其の情刻なるに似たり。其の悪察し難くして、之を悪むに意有る者なり。唯だ夫子の言のみ、猶お天地のかんにして、知り易く従い易きがごとし。豈に大ならずや」(夫子之所惡、是惡人自不知其不善者、其意平也。其惡易知、而無意於惡之者也。子貢之所惡、是惡人自以爲善、而其意甚不善者、其情似刻矣。其惡難察、而有意於惡之者也。唯夫子之言、猶天地之易簡、而易知易從。豈不大哉)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「人の悪を称する者を悪む、称は、揚なり。之を揚言するなり。君子豈に口を絶ちて人の悪を言わざらんや。之を揚言して以て衆にするに至りては、則ち之を悪む。朱子曰く、仁厚の意無し、と。仁斎曰く、薄きなり、と。皆称字の義を識らず。下流に居るは、再び子張篇に見ゆ。かしこは身がとうそうと為ることを謂い、これを衆流の帰する所にたとう。ここも亦た身が衆悪人の帰会する所と為る者を謂う。大氐たいていかみそしる者は、規箴を以て上の意を挽回すること有るをこいねがうなり。其の身既に衆悪のそうする所と為る者の若きは、是れ衆の賤しむ所なり。謗訕ぼうさんする所有りと雖も、亦た規箴を以て上の意を挽回するに足らず、徒らに以て民の怨みを扇動して、以て禍乱を生ずるのみ。故に下位と言わずして下流を言うのみ。世人解せず、徒らに以て下に居りて上を訕ると為す。非なり。夫れ下民のえんするは、情の常なり。聖人豈に之を悪まんや。人の悪を称揚し、下流に居りて上を訕るは、皆以て薄俗を増し政治を害す可し。故に聖人之を悪む。勇にして礼無き者、果敢にしてふさがるる者は、皆必ず乱を為すに至る。故に聖人亦た之を悪む。窒、馬融曰く、ちつは、窒塞ちっそくなり、と。邢昺けいへい以て善道を窒塞すと為す。然れども此れは礼無しと一類なれば、止だ当に其の人を言うべくして、未だ必ずしも其の事を言わず。馬融に従いて可なり。徼、孔安国曰く、きょうは、抄なり。人の意をかすめて、以て己が有と為す、と。朱子曰く、徼は、伺察なり、と。然れどもあまねく字書を撿するに、此の義無し。きょうぎょうは同じ。僥幸も亦た抄取の義のみ。蓋し徼を伺察と訓ずるは、乃ち朱子其の意を以て解を為す者にして、後世の見なり。孔子の時猶お政治を以て道と為す。故に善く謀慮をいだすを知と為す。後世は則ち学問を以て道と為す。故に知らざる所無きを知と為す。故に伺察と訓ずるは、古義に非ざるなり。抄と訓ずるを古意を得たりと為す。かすめて以て知と為すは、人の嘉謀善慮を抄取して、以て己の知と為す者を謂うなり。仁斎先生曰く、夫子の悪む所は、是れ人自ら其の不善を知らざる者を悪む。其の意平らかなり。其のあく知り易くして、之を悪むに意無き者なり。子貢の悪む所は、是れ人自ら以て善と為して、其の意甚だ不善なる者を悪む。其の情刻なるに似たり。其の悪察し難くして、之を悪むに意有る者なり。唯だ夫子の言のみ、猶お天地の易簡にして、知り易く従い易きがごとし。豈に大ならずや、と。仁斎の此の言は、真に理学者流の言なるかな。大氐たいていの所謂道学先生は、其のさくそばだてて呻吟し、以て程子の所謂意味気象なる者を求む。此の言の如きは、豈にうがたずや。殊に知らず子貢の悪む所は、に似て非なる者を悪み、亦た孔子の郷原・鄭声・利口を悪むと同じ。但だ孔子の悪む所は、政を害し俗を敗る者を悪み、関係する所の者大なり。是れ仁なり。子貢の悪む所は、徳を乱る者を悪み、関係する所の者小なり。是れ知なり。知・勇・直は皆美徳にして、かすめて、不孫にして、あばいて、以て之を乱る。然れどもこれを孔子の悪む所に比すれば、政を害し俗を敗るの事無し。此れ孔子・子貢の殊なる所以のみ。仁斎は知らずして之が解を為す。醜む可きの甚だしきなり。且つ自ら其の不善を知らざる者は、是れ不善を為すに意無し。聖人豈に之を悪まんや」(惡稱人之惡者、稱、揚也。揚言之也。君子豈絶口不言人之惡乎。至於揚言之以播於衆、則惡之。朱子曰、無仁厚之意。仁齋曰、薄也。皆不識稱字之義。居下流、再見子張篇。彼謂身爲逋逃藪、辟諸衆流所歸焉。此亦謂身爲衆惡人所歸會者。大氐訕上者、冀有以規箴挽囘上意也。若其身既爲衆惡所歸湊者、是衆所賤也。雖有所謗訕、亦不足以規箴挽回上意、徒以扇動民怨、以生禍亂耳。故不言下位而言下流耳。世人不解、徒以爲居下而訕上。非矣。夫下民怨咨、情之常也。聖人豈惡之乎。稱揚人之惡、居下流而訕上、皆可以增薄俗害政治。故聖人惡之。勇而無禮者、果敢而窒者、皆必至爲亂。故聖人亦惡之。窒、馬融曰、窒、窒塞也。邢昺以爲窒塞善道。然此與無禮一類、止當言其人、未必言其事。從馬融可也。徼、孔安國曰、徼、抄也。抄人之意、以爲己有。朱子曰、徼、伺察也。然遍撿字書、無此義。徼僥同。僥幸亦抄取之義耳。蓋徼訓伺察、乃朱子以其意爲解者、後世之見也。孔子時猶以政治爲道。故善出謀慮爲知。後世則以學問爲道。故無所不知爲知。故訓伺察、非古義也。訓抄爲得古意。徼以爲知、謂抄取人之嘉謀善慮、以爲己知者也。仁齋先生曰、夫子之所惡、是惡人自不知其不善者。其意平也。其惡易知、而無意於惡之者也。子貢之所惡、是惡人自以爲善、而其意甚不善者。其情似刻矣。其惡難察、而有意於惡之者也。唯夫子之言、猶天地之易簡、而易知易從。豈不大哉。仁齋此言、眞理學者流之言哉。大氐世所謂道學先生、岸其幘呻吟、以求程子所謂意味氣象者。如此言、豈不鑿乎。殊不知子貢所惡、惡似是而非者、亦與孔子惡郷原鄭聲利口同焉。但孔子所惡、惡害政敗俗者、所關係者大焉。是仁也。子貢所惡、惡亂德者、所關係者小焉。是知也。知勇直皆美德、徼不孫訐以亂之。然比諸孔子所惡者、無害政敗俗之事。此孔子子貢所以殊已。仁齋不知而爲之解。可醜之甚。且自不知其不善者、是無意爲不善。聖人豈惡之乎)とある。逋逃は、罪をおかして逃亡すること。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
学而第一 為政第二
八佾第三 里仁第四
公冶長第五 雍也第六
述而第七 泰伯第八
子罕第九 郷党第十
先進第十一 顔淵第十二
子路第十三 憲問第十四
衛霊公第十五 季氏第十六
陽貨第十七 微子第十八
子張第十九 堯曰第二十