贈喬侍御(陳子昂)
贈喬侍御
喬侍御に贈る
喬侍御に贈る
- ウィキソース「題祀山烽樹贈喬十二侍御」参照。
- この詩は、作者が武攸宜の契丹討伐に従軍して辺境の地におり、たまたま朝命を帯びてこの地方に出張していた友人で侍御史の喬知之に会い、砦の祀山烽の木に書きつけて詠んだもの。朝廷の、辺境での武功を評価せず、喬知之に対する不当な処遇に憤りと同情の気持ちを表している。
- 詩題 … 『全唐詩』では「祀山烽の樹に題して喬十二侍御に贈る」(題祀山烽樹贈喬十二侍御)に作る。祀山烽は、現在の甘粛省張掖市にあった辺塞の名。題は、そこの木に詩を書きつけること。十二は、排行(一族中の兄弟やいとこなどの年齢による序列)。『四部叢刊本』では「題贈祀山烽樹上喬十二侍御」に作る。『唐五十家詩集本』では「題祀山烽樹贈喬侍御」に作る。
- 喬 … 喬知之。?~697。同州馮翊県(現在の陝西省渭南市大茘県)の人。武則天に目をかけられ、右補闕から左司郎中まで昇進した。ウィキペディア【喬知之】(中文)参照。なお、喬知之には碧玉という寵婢がいたため、正妻を迎えずにいたが、時の権力者であった武承嗣に無理やり碧玉を奪われた。喬知之は大いに悲しみ、「緑珠怨」という詩を作って碧玉に送った。詩を受け取った碧玉は、悲しさのあまり井戸に身を投げて死んでしまった。承嗣は彼女の帯の中から「緑珠怨」の詩を見つけ、大いに怒り、酷吏に告発して喬知之を殺させてしまったという。『資治通鑑』武后紀、神功元年(697)の条に「右司郎中馮翊の喬知之、美妾有り、碧玉と曰う。知之、之が為に昏せず。武承嗣、藉りて以て諸姫に教え、遂に留めて還さず。知之、緑珠怨の詩を作りて以て之に寄す。碧玉、井に赴きて死す。承嗣、詩を裙帯に得、大いに怒り、酷吏に諷して羅告せしめ、之を族す」(右司郎中馮翊喬知之、有美妾、曰碧玉。知之爲之不昏。武承嗣藉以教諸姫、遂留不還。知之作綠珠怨詩以寄之。碧玉赴井死。承嗣得詩於裙帶、大怒、諷酷吏羅告、族之)とある。羅告は、罪をでっち上げて密告すること。族は、一族をみな殺しにすること。ウィキソース「資治通鑑/卷206」参照。
- 侍御 … 官名。侍御史。宮中の文書を掌り、官吏の違法を摘発する検察官のこと。
- 贈 … 詩を直接手渡すこと。寄は、詩を人に託して送り届けること。
- 陳子昂 … 661~702。初唐の詩人。梓州射洪(現在の四川省遂寧市射洪県)の人。字は伯玉。『陳伯玉文集』十巻がある。ウィキペディア【陳子昂】参照。
漢庭榮巧宦
漢庭 巧宦を栄えしめ
- 漢庭 … 漢の朝廷。ここでは、唐の朝廷を指す。唐代のことを漢代に擬するのは、唐の詩人の常套的な表現。『史記』樊酈滕灌列伝の論賛に「豈に自ら驥の尾を附き、名を漢庭に垂れ、徳、子孫に流るるを知らんや」(豈自知附驥之尾、垂名漢庭、德流子孫哉)とある。驥の尾を附くとは、優れた人物のあとにつき従い、そのお陰を蒙ること。「驥尾に付く」とも。ウィキソース「史記/卷095」参照。
- 巧宦 … 上役に巧みに諂う、世渡りの上手な役人。宦は、官に同じ。『史記』汲黯伝に「黯の姑姊の子司馬安も亦た少くして黯と与に太子の洗馬たり。安、文深巧みにして宦を善くし、官四たび九卿に至り、河南の太守を以て卒す」(黯姑姊子司馬安亦少與黯爲太子洗馬。安文深巧善宦、官四至九卿、以河南太守卒)とある。姑姊は、父の姉。姊は、姉の異体字。洗馬は、官名。太子付きの役人で、太子の外出のときに前駆する役。太子洗馬。文深巧みとは、法律の条文を巧みに操作して罪状をでっち上げること。宦を善くすとは、巧みに官職を得ること。九卿は、三公に次ぐ九種の長官。ウィキソース「史記/卷120」参照。また、西晋の潘岳「閑居の賦」の序に「司馬安の四たび九卿に至り、而して良史之を書し、題するに巧宦の目を以てす」(司馬安四至九卿、而良史書之、題以巧宦之目)とある。良史は、優れた歴史家。司馬遷を指す。ウィキソース「閑居賦」参照。
雲閣薄邊功
雲閣 辺功を薄んず
- 雲閣 … 漢の宮中の高台、雲台のこと。洛陽の南宮の中にある。平仄の関係で台を閣に言い換えたもの。古くから功臣の像を描いた所を指す。前漢の宣帝のとき、霍光ら十一人の功臣の肖像を麒麟閣の壁に描かせ、その功績を顕彰した。ウィキペディア【麒麟閣十一功臣】参照。『漢書』蘇武伝に「甘露三年(前51)、単于始め入朝す。上、股肱の美を思いて、乃ち其の人を麒麟閣に図画し、其の形貌に法りて、其の官爵姓名を署す」(甘露三年、單于始入朝。上思股肱之美、乃圖畫其人於麒麟閣、法其形貌、署其官爵姓名)とある。ウィキソース「漢書/卷054」参照。また、後漢の明帝(在位57~75、廟号は顕宗)が、父である光武帝(在位25~57)の名将二十八人の肖像をここに描かせた。「後漢書二十八将伝論」(『文選』巻五十)に「永平中、顕宗前世の功臣を追感し、乃ち二十八将を南宮雲台に図画せしむ」(永平中、顯宗追感前世功臣、乃圖畫二十八將於南宮雲臺)とある。ウィキソース「後漢書二十八將傳論」参照。ウィキペディア【雲台二十八将】参照。また、唐の太宗が、凌煙閣に功臣二十四人の像を描かせた。『旧唐書』長孫無忌伝に「(貞観)十七年(643)、無忌等二十四人を凌煙閣に図画せしむ」(十七年、令圖畫無忌等二十四人於凌煙閣)とある。ウィキソース「舊唐書/卷65」参照。ウィキペディア【凌煙閣二十四功臣】参照。
- 辺功 … 辺境での武勲。
- 薄 … 軽んずる。
可憐驄馬使
憐れむ可し 驄馬の使
- 可憐 … 気の毒なことに。かわいそうに。南朝梁の簡文帝「戯れに作る謝恵連体十三韻」詩(『玉台新詠』巻七)に「憐む可し枝上の花、早く得たり春風の意」(可憐枝上花、早得春風意)とある。ウィキソース「戲作謝惠連體十三韻」参照。
- 驄馬使 … 驄馬は、青黒と白との混じった毛色の馬のこと。『説文解字』巻十上、馬部に「驄は、馬の青白雑毛なり」(驄、馬青白雜毛也)とある。ウィキソース「說文解字/10」参照。使は、侍御史の職を指す。後漢の桓典は剛直な性格のため、侍御史となると役人たちの違法を容赦なく弾劾した。いつも驄馬に乗って往来したので、都の人々は「驄馬の御史を避けよ」と言って恐れたという。ここでは、喬侍御を桓典にたとえている。『後漢書』に「(典)侍御史を拝す。是の時、宦官は権を秉るも、典正しきを執りて回避する所無し。常に驄馬に乗り、京師は畏憚し、之が語を為りて曰く、行き行きて且く止まり、驄馬の御史を避く、と」(拜侍御史。是時宦官秉權、典執正無所回避。常乘驄馬、京師畏憚、爲之語曰、行行且止、避驄馬御史)とある。京師は、都(の人々)。畏憚は、畏れ憚ること。ウィキソース「後漢書/卷37」参照。
白首爲誰雄
白首 誰が為にか雄なる
- 白首 … 白髪頭。白頭に同じ。『前漢紀』孝文皇帝紀に「馮唐は白首、郎署に屈す」(馮唐白首屈于郎署)とある。馮唐は、前漢の人。郎署は、漢代、上林苑(天子の庭園)に宿衛する者の役所のこと。屈すとは、ここでは低い役職に降格されること。ウィキソース「前漢紀/孝文皇帝紀下卷第八」参照。
- 為誰雄 … いったい誰のためにそんなに威勢よく意気込んでいるのか(誰も認めてくれる人はいないのに)。雄は、雄々しいさま。
詩型・韻字
- 五言絶句。
- 功・雄(上平声東韻)。
テキスト
- 『箋註唐詩選』巻六(『漢文大系 第二巻』、冨山房、1910年)※底本
- 『全唐詩』巻八十四(排印本、中華書局、1960年)※詩題:題祀山烽樹贈喬十二侍御
- 『陳伯玉文集』巻二(『四部叢刊 初編集部』所収)※詩題:題贈祀山烽樹上喬十二侍御
- 『陳子昂集』巻下(『唐五十家詩集』所収、上海古籍出版社、1989年)※詩題:題祀山烽樹贈喬侍御
- 『唐詩解』巻二十一(順治十六年刊、内閣文庫蔵)
- 『唐詩品彙』巻三十八([明]高棅編、[明]汪宗尼校訂、上海古籍出版社、1982年)
- 『古今詩刪』巻二十(寛保三年刊、『和刻本漢詩集成 総集篇9』所収、汲古書院)
こちらもオススメ!
| 歴代詩選 | |
| 古代 | 前漢 |
| 後漢 | 魏 |
| 晋 | 南北朝 |
| 初唐 | 盛唐 |
| 中唐 | 晩唐 |
| 北宋 | 南宋 |
| 金 | 元 |
| 明 | 清 |
| 唐詩選 | |
| 巻一 五言古詩 | 巻二 七言古詩 |
| 巻三 五言律詩 | 巻四 五言排律 |
| 巻五 七言律詩 | 巻六 五言絶句 |
| 巻七 七言絶句 | |
| 詩人別 | ||
| あ行 | か行 | さ行 |
| た行 | は行 | ま行 |
| や行 | ら行 | |