史記 司馬穣苴列伝第四
01 司馬穰苴者、田完之苗裔也。齊景公時、晉伐阿甄、而燕侵河上。齊師敗績。
司馬穣苴は、田完の苗裔なり。斉の景公の時、晋、阿・甄を伐ち、而も燕、河上を侵す。斉の師敗績す。
- ウィキソース「史記/卷064」「史記三家註/卷064」参照。
- 司馬穣苴 … 春秋時代、斉の将軍。姓は公孫、本姓は田。大司馬となったので司馬穣苴という。兵法書『司馬法』を著した。ウィキペディア【司馬穰苴】参照。
- 田完 … 陳の公子。斉に亡命した。陳完。ウィキペディア【陳完】参照。
- 苗裔 … 血筋のつながった遠い子孫。
景公患之。晏嬰乃薦田穰苴曰、穰苴雖田氏庶孽、然其人文能附眾、武能威敵。願君試之。
景公、之を患う。晏嬰乃ち田穣苴を薦めて曰く、穣苴は、田氏の庶孽なりと雖も、然れども其の人、文は能く衆を附け、武は能く敵を威す。願わくは君、之を試みよ、と。
景公召穰苴與語兵事、大説之、以爲將軍、將兵扞燕晉之師。
景公、穣苴を召し、与に兵事を語り、大いに之を説び、以て将軍と為し、兵を将いて燕・晋の師を扞がしむ。
穰苴曰、臣素卑賤。君擢之閭伍之中、加之大夫之上、士卒未附、百姓不信、人微權輕。
穣苴曰く、臣は素卑賤なり。君、之を閭伍の中より擢んで、之を大夫の上に加うるも、士卒未だ附かず、百姓信ぜず、人は微にして権は軽し。
願得君之寵臣、國之所尊、以監軍乃可。於是景公許之、使莊賈往。
願わくは君の寵臣、国の尊ぶ所を得て、以て軍を監せしめば、乃ち可ならん、と。是に於いて景公之を許し、荘賈をして往かしむ。
02 穰苴既辭、與莊賈約曰、旦日、日中會於軍門。
穣苴既に辞し、荘賈と約して曰く、旦日、日中に軍門に会せん、と。
穰苴先馳至軍、立表下漏待賈。賈素驕貴。以爲將已之軍、而己爲監不甚急。
穣苴先ず馳せて軍に至り、表を立て漏を下し賈を待つ。賈は素驕貴なり。将は已に軍に之き、而も己は監たりと以為い、甚だしくは急がず。
親戚左右送之、畱飮。日中而賈不至。穰苴則仆表決漏、入行軍勒兵、申明約束。
親戚左右之を送るに、留飲す。日中にして賈至らず。穣苴則ち表を仆し漏を決し、入りて軍を行り兵を勒し、約束を申明す。
約束既定。夕時莊賈乃至。穰苴曰、何後期爲。
約束既に定まる。夕時、荘賈乃ち至る。穣苴曰く、何ぞ期に後るるを為す、と。
賈謝曰、不佞。大夫親戚送之。故畱。
賈謝して曰く、不佞なり。大夫の親戚之を送る。故に留まる、と。
穰苴曰、將受命之日、則忘其家、臨軍約束、則忘其親、援枹鼓之急、則忘其身。
穣苴曰く、将、命を受くるの日には、則ち其の家を忘れ、軍に臨み約束せば、則ち其の親を忘れ、枹鼓を援ること急なれば則ち其の身を忘る。
今敵國深侵、邦内騷動、士卒暴露於境。君寢不安席、食不甘味。百姓之命、皆懸於君。何謂相送乎。
今敵国深く侵し、邦内騒動し、士卒、境に暴露す。君、寝ねて席に安んぜず、食いて味わいを甘しとせず。百姓の命皆君に懸る。何ぞ相送ると謂わんや、と。
召軍正問曰、軍法期而後至者云何。對曰、當斬。莊賈懼、使人馳報景公請救。
軍正を召して問うて曰く、軍法に期して後れて至る者は云何、と。対えて曰く、斬に当る、と。荘賈懼れ、人をして馳せて景公に報じ、救いを請わしむ。
03 既往、未及反。於是遂斬莊賈、以徇三軍。三軍之士、皆振慄。
既に往き、未だ反るに及ばず。是に於いて遂に荘賈を斬り、以て三軍に徇う。三軍の士、皆振慄す。
久之、景公遣使者持節赦賈。馳入軍中。
之を久しくして、景公、使者を遣わし、節を持し賈を赦さしむ。馳せて軍中に入る。
穰苴曰、將在軍君令有所不受。
穣苴曰く、将、軍に在りては君の令も受けざる所有り、と。
問軍正曰、軍中不馳。今使者馳、云何。
軍正に問うて曰く、軍中には馳せず。今、使者馳するは云何、と。
- 軍中不馳。今使者馳、云何 … 中華書局標点本では「馳三軍法何」に作る。
正曰、當斬。使者大懼。穰苴曰、君之使、不可殺之。乃斬其僕、車之左駙、馬之左驂、以徇三軍。遣使者還報、然後行。
正曰く、斬に当る、と。使者大いに懼る。穣苴曰く、君の使いは、之を殺す可からず、と。乃ち其の僕と、車の左駙と馬の左驂を斬り、以て三軍に徇う。使者を遣わし還り報ぜしめ、然る後行く。
04 士卒次舍、井竈飮食、問疾醫藥、身自拊循之、悉取將軍之資糧享士卒、身與士卒平分糧食、最比其羸弱者。
士卒の次舎、井竈飲食、疾を問い医薬すること、身自ら之を拊循し、悉く将軍の資糧を取り士卒に享し、身は士卒と糧食を平分し、最も其の羸弱なる者に比す。
三日而後勒兵、病者皆求行、爭奮出爲之赴戰。
三日にして後、兵を勒するに、病者も皆行かんことを求め、争い奮い出で之が為に戦いに赴かんとす。
晉師聞之、爲罷去。燕師聞之、度水而解。
晋の師は之を聞き、為に罷め去る。燕の師は之を聞き、水を度りて解く。
於是追撃之、遂取所亡封内故境、而引兵歸。
是に於いて之を追撃し、遂に亡う所の封内の故境を取りて、兵を引きて帰る。
未至國、釋兵旅、解約束、誓盟而後入邑。
未だ国に至らざるに、兵旅を釈き、約束を解き、誓盟して後邑に入る。
景公與諸大夫郊迎、勞師成禮、然後反歸寢。既見穰苴、尊爲大司馬。
景公、諸大夫と郊に迎え、師を労い礼を成し、然る後反りて帰寝す。既に穣苴を見、尊びて大司馬と為す。
05 田氏日以益尊於齊。已而大夫鮑氏高國之屬害之、譖於景公。
田氏日に以て益〻斉に尊し。已にして大夫鮑氏・高・国の属之を害み、景公に譖す。
景公退穰苴。苴發疾而死。田乞田豹之徒、由此怨高國等。
景公、穣苴を退く。苴、疾を発して死す。田乞・田豹の徒、此に由り高・国等を怨む。
其後及田常殺簡公、盡滅高子國子之族。
其の後、田常、簡公を殺すに及び、尽く高子・国子の族を滅ぼす。
至常曾孫和、因自立爲齊威王。用兵行威、大放穰苴之法。
常の曾孫和に至り、因自ら立ち、斉の威王と為る。兵を用い威を行うに、大いに穣苴の法に放う。
而諸侯朝齊。齊威王使大夫追論古者司馬兵法、而附穰苴於其中。
而して諸侯、斉に朝す。斉の威王、大夫をして古の司馬の兵法を追論せしめ、而して穣苴を其の中に附す。
因號曰司馬穰苴兵法。
因りて号けて司馬穣苴の兵法と曰う。
06 太史公曰、余讀司馬兵法、閎廓深遠、雖三代征伐、未能竟其義。
太史公曰く、余、司馬の兵法を読むに、閎廓深遠、三代の征伐と雖も、未だ其の義を竟くす能わず。
- 太史公 … 司馬遷が自らを言う言葉。太史公は、太史令(太史の長官)の通称。太史は、官名で、天文や暦法を司り、国家の記録を司る役目も兼ねた。
如其文也、亦少裦矣。若夫穰苴區區爲小國行師、何暇及司馬兵法之揖讓乎。
其の文の如くなるや、亦た少しく褒す。夫の穣苴の区区として小国の為に師を行るが若きに、何ぞ司馬の兵法の揖譲に及ぶ暇あらんや。
世既多司馬兵法。以故不論。著穰苴之列傳焉。
世、既に司馬の兵法多し。故を以て論ぜず。穣苴の列伝を著す。
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