史記 楚元王世家第二十
01 楚元王劉交者、高祖之同母少弟也。字游。
楚の元王劉交は、高祖の同母少弟なり。字は游。
- ウィキソース「史記/卷050」「史記三家註/卷050」参照。
- 劉交 … ?~前179。字は游。劉邦の異母弟。諡は元王。韓信が捕えられたあと、楚王に封じられた。ウィキペディア【劉交】参照。
高祖兄弟四人。長兄伯。伯蚤卒。始高祖微時、嘗辟事、時時與賓客過巨嫂食。
高祖は兄弟四人あり。長兄は伯。伯は蚤く卒す。始め高祖微なる時、嘗て事を辟け、時時賓客と与に巨嫂に過りて食す。
嫂厭叔。叔與客來、嫂詳爲羹盡櫟釜。賓客以故去。
嫂、叔を厭う。叔、客と与に来るときは、嫂、詳りて羹尽きたると為し、釜を櫟す。賓客、故を以て去る。
已而視釜中尚有羹。高祖由此怨其嫂。
已にして釜中を視るに、尚お羹有り。高祖、此に由りて其の嫂を怨む。
及高祖爲帝、封昆弟、而伯子獨不得封。太上皇以爲言。
高祖、帝と為るに及びて、昆弟を封ず。而るに伯の子のみ独り封ぜらるるを得ず。太上皇、以て言を為す。
- 昆弟 … 兄弟。
- 太上皇 … 天子の父の尊称。ここでは高祖の父を指す。
高祖曰、某非忘封之也。爲其母不長者耳。
高祖曰く、某、之を封ずることを忘れたるに非ざるなり。其の母が長者ならざるが為なるのみ、と。
- 不長者 … 無慈悲な者。
於是乃封其子信爲羹頡侯、而王次兄仲於代。
是に於いて、乃ち其の子信を封じて羹頡侯と為し、而して次兄仲を代に王とす。
02 高祖六年、已禽楚王韓信於陳、乃以弟交爲楚王。
高祖六年、已に楚王韓信を陳に禽にし、乃ち弟交を以て楚王と為す。
都彭城。即位二十三年卒。子夷王郢立。夷王四年卒。子王戊立。
彭城に都す。位に即きて二十三年にして卒す。子夷王郢立つ。夷王、四年にして卒す。子の王戊立つ。
王戊立二十年冬、坐爲薄太后服私姦、削東海郡。
王戊立ちて二十年冬、薄太后の為に服し、私に姦するに坐し、東海郡を削らる。
春戊與呉王合謀反。其相張尚太傅趙夷吾諫、不聽。
春、戊、呉王と謀を合わせて反す。其の相張尚・太傅趙夷吾諫むれども、聴かず。
戊則殺尚夷吾、起兵與呉西攻梁、破棘壁、至昌邑南。
戊則ち尚・夷吾を殺し、兵を起し、呉と与に西して梁を攻め、棘壁を破り、昌邑の南に至る。
與漢將周亞夫戰。漢絶呉楚糧道。士卒飢。呉王走、楚王戊自殺。軍遂降漢。
漢の将周亜夫と戦う。漢、呉・楚の糧道を絶つ。士卒飢う。呉王走り、楚王戊は自殺す。軍遂に漢に降る。
03 漢已平呉楚、孝景帝欲以德侯子續呉、以元王子禮續楚。
漢已に呉・楚を平げ、孝景帝、徳侯の子を以て呉を続がしめ、元王の子礼を以て楚を続がしめんと欲す。
竇太后曰、呉王老人也。宜爲宗室順善。
竇太后曰く、呉王は老人なり。宜しく宗室の為に順善なるべし。
今乃首率七國、紛亂天下。柰何續其後。
今乃ち首として七国を率いて、天下を紛乱せり。奈何ぞ其の後を続がしめん、と。
- 奈何 … どうして。なぜ。「柰」は、「奈」の異体字。
不許呉。許立楚後。是時禮爲漢宗正。乃拜禮爲楚王、奉元王宗廟。是爲楚文王。
。王純立、地節二年、中人上書、告楚王謀反。王自殺。國除入漢、爲彭城郡。
呉を許さず。楚の後を立つるを許す。是の時、礼は漢の宗正たり。乃ち礼を拝して楚王と為し、元王の宗廟を奉ぜしむ。是を楚の文王と為す。
文王立三年卒。子安王道立。安王二十二年卒。子襄王注立。襄王立十四年卒。子王純代立。
文王立ちて三年にして卒す。子安王道立つ。安王、二十二年、卒す。子襄王注立つ。襄王、立ちて十四年にして卒す。子王純代りて立つ。
王純立、地節二年、中人上書、告楚王謀反。王自殺。國除入漢、爲彭城郡。
王純立ち、地節二年、中人上書し、楚王、反を謀る、と告ぐ。王自殺す。国除かれて漢に入り、彭城郡と為る。
04 趙王劉遂者、其父高祖中子、名友、諡曰幽。幽王以憂死。故爲幽。
趙王劉遂は、其の父は高祖の中子、名は友、謚して幽と曰う。幽王、憂いを以て死す。故に幽と為す。
- 中子 … 兄弟のうち、中ほどの子。八男中六男であったという。
高后王呂祿於趙。一歳而高后崩。大臣誅諸呂呂祿等。乃立幽王子遂爲趙王。
高后、呂禄を趙に王とす。一歳にして高后崩ず。大臣、諸呂・呂禄等を誅す。乃ち幽王の子遂を立てて趙王と為す。
孝文帝即位二年、立遂弟辟彊、取趙之河閒郡、爲河閒王、以爲文王。
孝文帝位に即きて二年、遂の弟辟彊を立て、趙の河間郡を取り、河間王と為し、以て文王と為す。
立十三年卒。子哀王福立。一年卒。無子絶後。國除入于漢。
立ちて十三年にして卒す。子哀王福立つ。一年にして卒す。子無く後を絶つ。国除かれ漢に入る。
遂既王趙二十六年、孝景帝時、坐鼂錯、以適削趙王常山之郡。
遂既に趙に王たること二十六年、孝景帝の時、鼂錯に坐し、適を以て趙王の常山の郡を削る。
呉楚反、趙王遂與合謀起兵。其相建徳内史王悍諫、不聽。
呉・楚反するとき、趙王遂、与に謀を合わせて兵を起す。其の相建徳、内史王悍諫むれども、聴かず。
遂燒殺建徳王悍、發兵屯其西界、欲待呉與倶西、北使匈奴與連和攻漢。
遂、建徳・王悍を焼殺し、兵を発して其の西界に屯し、呉を待ちて与に倶に西し、北のかた匈奴に使いして、与に連和して漢を攻めんと欲す。
漢使曲周侯酈寄撃之。趙王遂還、城守邯鄲、相距七月。
漢、曲周侯酈寄をして、之を撃たしむ。趙王遂還り、邯鄲を城守し、相距ぐこと七月。
呉楚敗於梁、不能西。匈奴聞之、亦止、不肯入漢邊。
呉・楚、梁に敗れ、西すること能わず。匈奴之を聞き、亦た止まり、漢の辺に入るを肯ぜず。
欒布自破齊還、乃并兵引水灌趙城。趙城壞。趙王自殺。邯鄲遂降。趙幽王絶後。
欒布、斉を破りてより還り、乃ち兵を并せ、水を引きて趙城に灌ぐ。趙城壊る。趙王自殺す。邯鄲遂に降る。趙の幽王、後を絶つ。
05 太史公曰、國之將興、必有禎祥、君子用而小人退。國之將亡、賢人隱、亂臣貴。
太史公曰く、国の将に興らんとするや、必ず禎祥有り、君子用いられて小人退く。国の将に亡びんとするや、賢人隠れ、乱臣貴し。
- 太史公 … 司馬遷が自らを言う言葉。太史公は、太史令(太史の長官)の通称。太史は、官名で、天文や暦法を司り、国家の記録を司る役目も兼ねた。
使楚王戊毋刑申公、遵其言、趙任防與先生、豈有簒殺之謀、爲天下僇哉。
楚王戊をして申公を刑する毋くして、其の言に遵わしめ、趙をして防与先生に任ぜしめば、豈に簒殺の謀有りて、天下の僇と為らんや。
賢人乎、賢人乎。非質有其内、惡能用之哉。甚矣。安危在出令、存亡在所任。誠哉是言也。
賢人なるかな、賢人なるかな。質其の内に有するに非ずんば、悪んぞ能く之を用いんや。甚だしきかな。安危は令を出すに在り、存亡は任ずる所に在りと。誠なるかな是の言や。
五帝本紀第一(黄帝) | 五帝本紀第一(顓頊) |
五帝本紀第一(高辛) | 五帝本紀第一(堯帝) |
五帝本紀第一(舜帝) | 五帝本紀第一(賛) |
楚元王世家第二十 | 司馬穣苴列伝第四 |
田単列伝第二十二 |