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憲問第十四 22 陳成子弑簡公章

354(14-22)
陳成子弑簡公。孔子沐浴而朝、告於哀公曰、陳恆弑其君。請討之。公曰、告夫三子。孔子曰、以吾從大夫之後、不敢不告也。君曰、告夫三子者。之三子告。不可。孔子曰、以吾從大夫之後、不敢不告也。
ちんせい簡公かんこうしいす。こう沐浴もくよくしてちょうし、哀公あいこうげていわく、陳恒ちんこうきみしいす。これたん。こういわく、さんげよ。こういわく、われたいしりえしたがうをもって、えてげずんばあらざるなり。きみいわく、さんしゃげよと。さんきてぐ。かれず。こういわく、われたいしりえしたがうをもって、えてげずんばあらざるなりと。
現代語訳
  • (斉の家老)陳成さんが斉の簡(殿)さまを殺した。孔先生は身を清めて御殿にゆき、哀(殿)さまに申しあげる、「陳恒(コウ)が主君を殺しました。お討ちとりねがいます。」殿さま ――「あの三家老にいうがよい。」孔先生(あとで)――「わしも家老のはしくれゆえ、申しあげずにおれないのじゃが…。殿は『あの三家老にいえ』とおっしゃる。」三家老をたずねて伝えたが、きいてくれない。孔先生 ――「わしも家老のはしくれゆえ、いわずにはおれないのじゃが…。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • せいちんせいがその君簡公かんこうしいした。孔子様は時に年七十一でとくに隠退いんたいしておられたが、隣国のことながらこれは大義名分に関する天下の一大事なりと考え、斎戒沐浴して身をきよめた後朝廷へ出て、「斉の陳恒ちんこうがその君をしいしました。打ち捨ておかれぬたいぎょくでござります故、兵を起して討伐とうばつなされたいものと存じます。」と哀公あいこうに申し上げた。ところが当時の公室おとろえて政権はたい孟孫もうそんしゅくそんそんの三家にあったので、哀公は自ら決断し得ず、「あの三人に申せ。」と言われた。孔子様は失望してぜんをさがり、「自分も大夫の席末をけがした身故、この一大事はどうしても申し上げなければならなかったのだが、わが君はご決断がつかず『かの三子者に告げよ。』とおおせられるとは。」と歎息たんそくしつつ、ともかくも君命なれば三家に告げたが、三家はきかなかった。斉の強大を恐れたのみならず、問題が大夫の不臣ということで、自分たちも「きずもつすね」で触れたくなかったのだろう。孔子様も現役ではないからその上の議論もできずやむを得ず引下がったが、「自分も大夫の席末をけがした身故、此の一大事はどうしても申し上げねばならなかったのだが。」と、かえすがえすも残念がられた。(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 斉の大夫ちんせいがその君簡公かんこうを弑した。先師は斎戒沐浴して身をきよめ、参内して哀公に言上された。――
    「斉の陳恆ちんこうが君を弑しました。ご討伐なさるがよろしいと存じます」
    哀公がいわれた。――
    「まずあの三人に話してみるがいい」
    先師は退出して嘆息しながらいわれた。――
    「自分も大夫の末席につらなっている以上、黙ってはおれないほどの重大事なので、申し上げたのだが、ご決断がつかないとみえて、あの三人に話せとおおせられる。いたしかたもない」
    先師はそういって三家に相談にいかれた。三人は賛成しなかった。先師はまた嘆息していわれた。――
    「自分も大夫の末席につらなっている以上、黙ってはおれないほどの重大事なので、いったのだが、三人とも気にもかからぬとみえる。なんということだろう」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 陳成子 … 斉の大夫。姓は陳、名はこう、成はそのおくりなでんじょうともいう。陳文子の子孫。前481年、斉の簡公をしいして弟の平公を立て、自分は宰相となった。ウィキペディア【田恒】参照。
  • 簡公 … ?~前481。斉の君主。在位前485~前481。姓は姜、名はじん。悼公の子。前481年、陳成子に殺された。ウィキペディア【簡公 (斉)】参照。
  • 弑 … 臣下が君主を、または子が親を殺すこと。
  • 沐浴 … 髪や身体を洗って身を清めること。
  • 朝 … 朝廷に参内さんだいすること。
  • 哀公 … 魯の国の君主。名は蔣。哀はおくりな定公ていこうの子。前494年、孔子五十八歳のときに即位。ウィキペディア【哀公 (魯)】参照。
  • 陳恒 … 陳成子のこと。
  • 夫三子 … あの三人。魯の三大貴族の三桓氏(孟孫氏・叔孫氏・季孫氏)を指す。ウィキペディア【三桓氏】参照。
  • 大夫之後 … 大夫の末席に連なる。
  • 不敢不告也 … どうしても申し上げずにいられなかったのだ。
  • 之三子 … 三人のところへ行って。「之」は、行くの意。
  • 不可 … 聞き入れない。
補説
  • 『注疏』に「此の章は孔子の無道を悪むの事を記するなり」(此章記孔子惡無道之事也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 陳成子弑簡公 … 『集解』に引く馬融の注に「陳成子は、斉の大夫の陳恒なり」(陳成子、齊大夫陳恆也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「陳恒なり。成子と諡す。魯の哀公十四年甲午、斉の陳恒は其の君壬を舒州に殺す」(陳恆也。諡成子。魯哀公十四年甲午、齊陳恆殺其君壬於舒州)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「春秋哀十四年の、斉人其の君壬を弑すは、是れなり」(春秋哀十四年、齊人弑其君壬、是也)とある。また『集注』に「成子は、斉の大夫、名は恒。簡公は、斉の君、名は壬。事は春秋哀公十四年に在り」(成子、齊大夫、名恆。簡公、齊君、名壬。事在春秋哀公十四年)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 弑 … 『義疏』では「殺」に作る。
  • 孔子沐浴而朝、告於哀公曰 … 『集解』に引く馬融の注に「将に君に告げんとす。故に先ずものいみす。斉するには必ず沐浴するなり」(將告君。故先齊。齊必沐浴也)とある。また『義疏』に「魯・斉同盟し、災いを分かち患いを救う。故に斉乱るれば、則ち魯宜しく之を討つべし。礼として臣下凡そ君に諮謀を告げんと欲せば、必ず先ず沐浴す。孔子は是れ臣なり。故に先ず沐浴して哀公に告ぐるなり。孔丘三日ものいみして斉を伐たんことを請う」(魯齊同盟、分災救患。故齊亂、則魯宜討之。禮臣下凡欲告君諮謀、必先沐浴。孔子是臣。故先沐浴告於哀公。孔丘三日齊而請伐齊)とある。
  • 陳恒弑其君。請討之 … 『義疏』に「此れ哀公の事なり。哀公言えらく、魯は斉弱しと為すこと久し。子の之を伐つは、将に之を若何せんとする、と。対えて曰く、陳恒其の君を殺す。民あずからざる者半ばなり。魯の衆を以て斉の半ばに加うれば、克つ可し、と。是れ孔子対えて曰うなり」(此哀公之事也。哀公言、魯爲齊弱久矣。子之伐之、將若之何。對曰、陳恆殺其君。民不與者半。以魯衆加齊之半、可克。是孔子對曰也)とある。また『注疏』に「孔子魯に在りて、斉其の君を弑するを聞く。故に斎戒沐浴して朝し、魯君哀公に告げて曰く、斉の大夫陳恒其の君を弑せり。請う往きて之を討伐せんことを、と」(孔子在魯、聞齊弑其君。故齋戒沐浴而朝、告於魯君哀公曰、齊大夫陳恒弑其君。請往討伐之)とある。また『集注』に「是の時孔子致仕して魯に居る。沐浴斉戒し、以て君に告ぐるは、其の事を重んじて敢えてゆるがせにせざるなり。臣の其の君を弑するは、人倫の大変、天理の容れざる所、人人得て之を誅す。況んや隣国をや。故に夫子已に老を告ぐと雖も、而れども猶お哀公の之を討たんことを請う」(是時孔子致仕居魯。沐浴齊戒、以告君、重其事而不敢忽也。臣弑其君、人倫之大變、天理所不容、人人得而誅之。況鄰國乎。故夫子雖已告老、而猶請哀公討之)とある。
  • 公曰、告夫三子… 『集解』に引く孔安国の注に「三卿を謂うなり」(謂三卿也)とある。また『義疏』に「二三子は是れ三卿、仲孫・叔孫・季孫なり。公孔子の告ぐるを得るも、敢えて自ら行わず。更に孔子をして往きて三卿に告げしめんとす。孔子之を辞して告げざるなり」(二三子是三卿、仲孫叔孫季孫。公得孔子告、不敢自行。更令孔子往告三卿。孔子辭之而不告也)とある。また『注疏』に「哀公孔子をしての季孫・孟孫・叔孫の三卿に告げしむるなり」(哀公使孔子告夫季孫孟孫叔孫三卿也)とある。また『集注』に「三子は、三家なり。時に政三家に在り、哀公自ら専らにするを得ず。故に孔子をして之に告げしむ」(三子、三家也。時政在三家、哀公不得自專。故使孔子告之)とある。
  • 三子 … 『義疏』では「二三子」に作る。
  • 以吾従大夫之後、不敢不告也 … 『義疏』に「孔子公の三卿に告げしむるを得。故に此を言いて之に答うるなり。言うこころは我は是れ大夫なり。大夫事をもうすには、応に主君に告ぐべし。大夫の後に従うと云うは、孔子謙するなり」(孔子得公令告三卿。故言此答之。言我是大夫。大夫聞事、應告于主君。云從大夫之後者、孔子謙也)とある。また『注疏』に「嘗て大夫と為りて去る。故に大夫の後に従うと云う。夫の不義を聞かば、礼として当に君に告ぐべし。故に敢えて告げずんばあらずと云う」(嘗爲大夫而去。故云從大夫之後。聞夫不義、禮當告君。故云不敢不告)とある。また『集注』に「孔子出でて自ら言うこと此くの如し。意に謂えらく、君を弑するの賊は、法の必ず討つ所なり。大夫は国を謀るれば、義の当に告ぐべき所なり」(孔子出而自言如此。意謂、弑君之賊、法所必討。大夫謀國、義所當告)とある。
  • 不敢不告也 … 『義疏』に「也」の字なし。
  • 君曰、告夫三子者 … 『集解』に引く馬融の注に「我礼に於いて当に君に告ぐべきも、当に二三子に告ぐべからず。君我をして往かしむ。故に復た往くなり」(我於禮當告君、不當告二三子。君使我往。故復往也)とある。また『義疏』に「我礼として応に君に告ぐべし。本と応に三子に告ぐべからず。今君我をして三子に告げしむれば、我当に往きて告ぐべし」(我禮應告君。本不應告三子。今君使我告三子、我當往告)とある。また『注疏』に「言うこころは我礼にては当に君に告ぐべく、当に三子に告ぐべからず。君我をして往かしむ、故に復た往くなり」(言我禮當告君、不當告三子。君使我往、故復往也)とある。また『集注』に「君乃ち自ら三子に命ずること能わずして、我をして之に告げしむるや」(君乃不能自命三子、而使我告之邪)とある。
  • 之三子告。不可 … 『義疏』に「之は、往なり。孔子君命に従いて往く。三子孔子に告げて曰く、斉を討つ可からざるなり、と」(之、往也。孔子從君命而往。三子告孔子曰、不可討齊也)とある。また『注疏』に「之は、往なり。三子の所に往きて之を告ぐるも、三子は斉を討つをがえんぜざるなり」(之、往也。往三子所告之、三子不肯討齊也)とある。また『集注』に「君命を以て往きて告ぐ。而れども三子は魯の強臣、素より君をなみするの心有り。実に陳氏と声勢相倚る。故に其の謀をはばむ。而して夫子復た此を以て之に応ず。其の之をいましむる所以の者深し」(以君命往告。而三子魯之強臣、素有無君之心。實與陳氏聲勢相倚。故沮其謀。而夫子復以此應之。其所以警之者深矣)とある。
  • 孔子曰、以吾従大夫之後、不敢不告也 … 『集解』に引く馬融の注に「孔子君命に由りて、二三子に之きて告ぐるも、かず。故に復た此の辞を以て之に語げて止むなり」(孔子由君命、之二三子告、不可。故復以此辭語之而止也)とある。また『義疏』に「三子既に孔子に告げて云う、斉討つ可からず、と。故に孔子復た此の辞を以て之にげて曰く、止めん、と」(三子既告孔子云、齊不可討。故孔子復以此辭語之曰、止也)とある。また『注疏』に「孔子君命を以て往きて三子に告ぐるも、三子は其の請をかず。故に孔子復た此の辞を以て之に語りて止む」(孔子以君命往告三子、三子不可其請。故孔子復以此辭語之而止)とある。
  • 『集注』に引く程頤の注に「左氏、孔子の言を記して曰く、陳恒其の君を弑す。民のくみせざる者半ばなり。魯の衆を以て、斉の半ばに加うれば、克つ可きなり。此れ孔子の言に非ず。誠に此の言の若きは、是れ力を以てして義を以てせざるなり。孔子の志の若きは、必ず将に其の罪を正名し、上は天子に告げ、下は方伯に告げ、而して与国を率いて以て之を討んとす。斉に勝つ所以の者に至りては、孔子の余事なり。豈に魯人の衆寡を計らんや。是の時に当たり、天下の乱極まれり。是に因りて以て之を正すに足れば、周室其れ復た興らんや。魯の君臣、終に之に従わず。惜しむにう可けんや」(左氏記孔子之言曰、陳恆弑其君。民之不予者半。以魯之衆、加齊之半、可克也。此非孔子之言。誠若此言、是以力不以義也。若孔子之志、必將正名其罪、上告天子、下告方伯、而率與國以討之。至於所以勝齊者、孔子之餘事也。豈計魯人之衆寡哉。當是時、天下之亂極矣。因是足以正之、周室其復興乎。魯之君臣、終不從之。可勝惜哉)とある。
  • 『集注』に引く胡寅の注に「春秋の法、君を弑するの賊、人得て之を討つ。仲尼の此の挙、先ず発して後にもうして可なり」(春秋之法、弑君之賊、人得而討之。仲尼此舉、先發後聞可也)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「夫れ公義の人心に在るは一なり。一人之を唱うれば、万人随いて和す。哀公若し夫子の言を聴きて、賊を討ずるの義を唱えば、天下孰れか之に応ぜざらん。惜しいかな哀公其の事挙ぐること能わず、三子も亦た其の私を懐いて、夫子の志終にすことを得ず。……夫子自ら万世の道に任ず。故に斯の義の天下に明らかならざらんことを懼れて、其の罪を正さんことを請う。徒らに陳恒の悪をにくむのみに非ざるなり」(夫公義之在於人心一也。一人唱之、萬人隨和。哀公若聽夫子之言、而唱討賊之義、天下孰不應之。惜乎哀公不能舉其事、三子亦懐其私、而夫子之志終不得就。……夫子自任萬世之道。故懼斯義之不明于天下、請正其罪。非徒疾陳恆之惡而已也)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「左氏、孔子の言を記して曰く、陳恒其の君を弑す。民のくみせざる者半ばなり。魯の衆を以て斉の半ばに加えば、克つ可きなり、と。程子曰く、此れ孔子の言に非ず。誠に此の言の若くんば、是れ力を以てして義を以てせざるなり、と。宋儒の論、毎毎まいまい此くの如し。唯だ其の義を論じて事の為す可きと為す可からざるとを問わず。真に経生けいせいなるかな。……蓋し孔子陳恒を討せんことを請うは、道固より然り。而うして聖人の作用は、得て測る可からず。是の時にあたりて、魯の臣民孔子を尊信すること、ただに君父のみならず。而うして陳恒の事は、志有る者の切歯する所、祇だ義をとなうる者無きを患うるのみ。若し哀公をして孔子の請を聴かしめば、則ち魯の覇は、日を計りて待つ可く、而うして聖人の興るも、亦た未だ必ずしも斯の挙に在らずんばあらず。此れ三家者の恐るる所なり。仁斎此の章を論じて曰く、唯だ一身の悪のみに非ず、実に風俗人心の係る所、と。又た曰く、夫子自ら万世の道に任ず。故に斯の義の天下に明らかならざらんことを恐る、と。此れ以て文文山・方孝孺の徒を論ず可きのみ。孔子を論ずる所以に非ず」(左氏記孔子之言曰、陳恆弑其君。民之不予者半。以魯之衆加齊之半、可克也。程子曰、此非孔子之言。誠若此言、是以力不以義也。宋儒之論、毎毎如此。唯論其義而不問事之可爲與不可爲。眞經生哉。……蓋孔子請討陳恆、道固然。而聖人之作用、不可得而測矣。方是時、魯臣民尊信孔子、不啻君父。而陳恆之事、有志者所切齒、祇患無倡義者耳。若使哀公聽孔子之請、則魯之覇、可計日而待、而聖人之興、亦未必不在斯舉焉。此三家者之所恐也。仁齋論此章而曰、非唯一身之惡、實風俗人心之所係。又曰、夫子自任萬世之道。故恐斯義之不明于天下。此可以論文文山方孝孺之徒耳。非所以論孔子矣)とある。経生は、経書を学んだ書生。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
学而第一 為政第二
八佾第三 里仁第四
公冶長第五 雍也第六
述而第七 泰伯第八
子罕第九 郷党第十
先進第十一 顔淵第十二
子路第十三 憲問第十四
衛霊公第十五 季氏第十六
陽貨第十七 微子第十八
子張第十九 堯曰第二十