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公冶長第五 8 子謂子貢曰章

100(05-08)
子謂子貢曰、女與回也孰愈。對曰、賜也何敢望回。回也聞一以知十。賜也聞一以知二。子曰、弗如也。吾與女弗如也。
こういていわく、なんじかいいずれかまされる。こたえていわく、なんえてかいのぞまん。かいいちいてもっじゅうる。いちいてもっるのみ。いわく、かざるなり。われなんじかざるなり。
現代語訳
  • 先生が子貢にいわれる、 ―― 「きみと回くんと、どっちが上か。」答え ―― 「わたくしが回さんの相手なんぞ…。回さんは、一をきけば十を知ります。わたくしは、一から二を知るだけです。」先生 ――「かなわないな。わしもきみもかなわないんだ。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様がこうに、「お前と顔回がんかいとどちらがまさると思うか。」と言われると、子貢が「とんでもないこと、私ごときがどうしてかい太刀たちちできましょう。回は一を聞いて十を知ります。私は一を聞いて二を知るに過ぎません。」と答えたので、孔子様がおっしゃるよう、「なるほどお前は回に及ばぬ。わしはお前が回に及ばぬと言ったことに賛成しよう。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師が子貢にいわれた。――
    「おまえとかいとは、どちらがすぐれていると思うかね」
    子貢がこたえていった。――
    「私ごときが、回と肩をならべるなど、思いも及ばないことです。回は一をきいて十を知ることができますが、私は一をきいてやっと二を知るにすぎません」
    すると先師はいわれた。――
    「実際、回には及ばないね。それはおまえのいうとおりだ。おまえのその正直な答はいい」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 子貢 … 前520~前446。姓は端木たんぼく、名は。子貢はあざな。衛の人。孔子より三十一歳年少の門人。孔門十哲のひとり。弁舌・外交に優れていた。また、商才もあり、莫大な財産を残した。ウィキペディア【子貢】参照。
  • 女 … おまえ。「汝」に同じ。
  • 回 … 前521~前490。孔子の第一の弟子。姓は顔、名は回。あざなえんであるので顔淵とも呼ばれた。の人。徳行第一といわれた。孔子より三十歳年少。早世し孔子を大いに嘆かせた。孔門十哲のひとり。ウィキペディア【顔回】参照。
  • 与 … 「と」と読み、「~と」と訳す。「A与B」の場合は、「AとB」と読む。並列の意を示す。「與」は「与」の旧字体。
  • 女与回也 … ここの「也」は読まない。
  • 孰 … 「いずれか」と読み、「どちらが~か」と訳す。
  • 愈 … まさる。
  • 対曰 … 目上の人に答えるときに用いる。
  • 賜 … 子貢の名。
  • 何敢望 … どうして比べられようか(比べものにならない)。「何敢」は「なんぞあえて~せん」と読み、「どうして~しようか、~しない」と訳す。「望」は、遠くから眺めるの意。
  • 回也聞 … ここの「也」は「や」と読む。
  • 聞一以知十 … 「一」は、物事の始め。「十」は、物事の終わり。最初の一端を聞いただけで、物事の全体を理解すること。
  • 聞一以知二 … 理解力が平凡であること。
  • 吾与女 … わたし(孔子)もお前(子貢)も。
  • 弗如也 … 「しかざるなり」と読む。「及ばない」と訳す。「弗」は「不」よりも強い否定の助字。「如」は、及ぶの意。
  • 吾與女弗如也 … 『集解』では「吾となんじと如かざるなり」と読み、「私もお前といっしょで顔回に及ばない」と訳す。『集注』では「与」を「許す」と読み、「吾はなんじの如かずとするをゆるすなり」と読み、孔子が子貢の顔回に及ばないとする意見を認めたとする。荻生徂徠は朱子の説を「聖人の心を知らず、且つ文辞にくらし」(不知聖人之心也、且昧乎文辭也)と批判している。
補説
  • 『注疏』に「此の章は顔回の徳をむ」(此章美顏回之德)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 子貢 … 『史記』仲尼弟子列伝に「端木賜は、衛人えいひとあざなは子貢、孔子よりわかきこと三十一歳。子貢、利口巧辞なり。孔子常に其の弁をしりぞく」(端木賜、衞人、字子貢、少孔子三十一歳。子貢利口巧辭。孔子常黜其辯)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。また『孔子家語』七十二弟子解に「端木賜は、あざなは子貢、衛人。口才こうさい有りて名を著す」(端木賜、字子貢、衞人。有口才著名)とある。ウィキソース「孔子家語/卷九」参照。
  • 女与回也孰愈 … 『集解』に引く孔安国の注に「愈は、猶お勝のごときなり」(愈、猶勝也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「孰は、誰なり。愈は、勝なり。孔子、子貢に問う、汝と顔回と二人の才伎誰か勝れる者ならん、と。此の問いをもちうる所以には、繆播曰く、末を学び名を尚ぶ者多し、其の実を顧みる者は寡なし。回は則ち本をあがめて末を棄つ、賜や未だ名を忘るること能わず。名を存するときは則ち美物に著わる、本にくわしきときは則ち名当時に損す、故に問いを発して以て賜の対うるをもとめて、以て優劣を示すなり。賜を抑えて回を進むる所以なり、と」(孰、誰也。愈、勝也。孔子問子貢、汝與顏回二人才伎誰勝者也。所以須此問者、繆播曰、學末尚名者多、顧其實者寡。回則崇本棄末、賜也未能忘名。存名則美著於物、精本則名損於當時、故發問以要賜對、以示優劣也。所以抑賜而進回也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「愈は、猶お勝のごときなり。孔子乗るの間、弟子の子貢に問いて曰く、女の才能、顔回と誰か勝れる、と」(愈、猶勝也。孔子乘間、問弟子子貢曰、女之才能、與顏回誰勝)とある。また『集注』に「愈は、勝るなり」(愈、勝也)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 女 … 『義疏』では「汝」に作る。
  • 回(顔回) … 『史記』仲尼弟子列伝に「顔回は、魯の人なり。あざなは子淵。孔子よりもわかきこと三十歳」(顏回者、魯人也。字子淵。少孔子三十歳)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。また『孔子家語』七十二弟子解に「顔回は魯人、字は子淵。孔子より少きこと三十歳。年二十九にして髪白く、三十一にして早く死す。孔子曰く、吾に回有りてより、門人日〻益〻親しむ、と。回、徳行を以て名を著す。孔子其の仁なるを称う」(顏回魯人、字子淵。少孔子三十歳。年二十九而髮白、三十一早死。孔子曰、自吾有回、門人日益親。回以德行著名。孔子稱其仁焉)とある。ウィキソース「家語 (四庫全書本)/卷09」参照。
  • 対曰、賜也何敢望回 … 『義疏』に「孔子に分を審らかにするを以て答うるなり」(答孔子以審分也)とある。また『注疏』に「望は、比べ視るを謂う。子貢名を称し、言うこころは賜や才は劣れり、何ぞ敢えて顔回と比べ視ん」(望、謂比視。子貢稱名、言賜也才劣、何敢比視顏回也)とある。
  • 回也聞一以知十。賜也聞一以知二 … 『義疏』に「王弼曰く、し優劣の分を明らかにするを以て数うれば、言うこころは己は顔淵とは十にしてわずかに二に及ぶ。相去ること懸遠なるを明らかにするなり、と。張封渓曰く、一とは数の始め、十とは数の終わりなり。顔生の体識厚有り。故に始めを聞けば則ち終わりを知る。子貢は識劣、故に始めを聞いて裁くに二に至るなり、と」(王弼曰、假數以明優劣之分、言己與顏淵十裁及二。明相去懸遠也。張封溪曰、一者數之始、十者數之終。顏生體有識厚。故聞始則知終。子貢識劣、故聞始裁至二也)とある。また『注疏』に「子貢更に敢えて回を望まざるの事を言うに、数名を仮設して、以て優劣を明らかにす。一とは数の始め、十とは数の終わりなり。顔回は亜聖、故に始めを聞きて終わりを知る。子貢の識は浅し、故に一を聞きて纔かに二を知るのみ。以て己は回とは十分して二に及ぶは、是れ其のはるかに殊なるを明らかにするなり」(子貢更言不敢望回之事、假設數名、以明優劣。一者數之始、十者數之終。顏回亞聖、故聞始知終。子貢識淺、故聞一纔知二。以明己與回十分及二、是其懸殊也)とある。また『集注』に「一は、数の始め。十は、数の終わり。二は、一の対なり。顔子は明睿の照らす所、始めにきて終わりを見る。子貢は推測して知り、此に因りて彼を識る。説ばざる所無く、往を告げて来を知る、是れ其のしるしなり」(一、數之始。十、數之終。二者、一之對也。顏子明睿所照、即始而見終。子貢推測而知、因此而識彼。無所不説、告往知來、是其驗矣)とある。
  • 子曰、弗如也 … 『義疏』に「弗は、不なり。孔子は子貢の分かつことはるかに殊なる有りと答うるを聞き、故に之を定めて如かずと云うなり」(弗、不也。孔子聞子貢之答分有懸殊、故定之云不如也)とある。また『注疏』に「夫子は子貢の識にはるかに殊なる有りと答うるを見、故に如かずと云うなり。弗とは、不の深きものなり」(夫子見子貢之答識有懸殊、故云不如也。弗者、不之深也)とある。
  • 吾與女弗如也 … 『集解』に引く包咸の注に「既に子貢の如かざるを然りとす。復た吾と汝と倶に如かずと云うは、蓋し以て子貢の心を慰めんと欲するなり」(既然子貢弗如。復云吾與汝倶不如者、蓋欲以慰子貢心也)とある。また『義疏』に「孔子既に子貢の如かざるに答う。又た子貢怨み有るを恐る。故に又た云う、吾と汝と皆如かざるなり、と。子貢を安慰する所以なり」(孔子既答子貢之不如。又恐子貢有怨。故又云、吾與汝皆不如也。所以安慰子貢也)とある。また『注疏』に「既に子貢の如かずと答うるを然りとし、又た子貢の慚愧するを恐れ、故に復た吾れと女とは倶に如かずと云うは、以て子貢の心を安んじ慰めて、慚ずること無からしめんと欲するなり」(既然答子貢不如、又恐子貢慚愧、故復云吾與女倶不如、欲以安慰子貢之心、使無慚也)とある。また『集注』に「与は、許すなり」(與、許也)とある。
  • 『集注』に引く胡寅の注に「子貢人をくらぶ。夫子既に語るに暇あらざるを以てす。又た其の回と孰れかまされるかを問い、以て其の自ら知るの如何を観る。一を聞きて十を知るは、上知の資、生まれながらに知るのつぎなり。一を聞きて二を知るは、中人以上の資、学びて之を知るに才なり。子貢平日己を以て回にくらべ、其の企て及ぶ可からざるを見る。故に之を喩うること此くの如し。夫子其の自ら知ることの明らかにして、又た自ら屈するをはばからざるを以て、故に既に之を然りとし、又た重ねて之を許す。此れ其の終に性と天道とを聞く所以なり。だ一を聞きて二を知るのみならざるなり」(子貢方人。夫子既語以不暇。又問其與回孰愈、以觀其自知之如何。聞一知十、上知之資、生知之亞也。聞一知二、中人以上之資、學而知之之才也。子貢平日以己方回、見其不可企及。故喩之如此。夫子以其自知之明、而又不難於自屈、故既然之、又重許之。此其所以終聞性與天道。不特聞一知二而已也)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「此れ人の善に服することの難きを見るなり。蓋し人の善を知ることまことに難し、而して人の善に服すること最も難し。既に人の善を知りて又た自ら屈するに難しとせざるは、天下の至難なり。子貢是に於いて其の徳に進むの深きを知るなり。人惟だえいを以て子貢を観る者はいまだし」(此見服人之善之難也。蓋知人之善固難、而服人之善最難。既知人之善而又不難於自屈、天下之至難也。子貢於是知其進德之深也。人惟以穎悟觀子貢者未也)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「吾となんじと如かざるなり。中間句断せず。孔子自ら己の亦た如かざるを言うなり。亦た願わくは其の宰とらんの意、聖人賢を好むの誠なり。亦た子貢が自ら知るの明を喜ぶ。且つ先王の道は、散じて天下に在り。孔子は常の師無く、四方に訪求して、すなわち我に集る。かたしと謂う可し。而うして顔子は之を孔子に得、捜求するをたず、其の聡明なること又たくの如し。此を過ぐる以往は、殆ど測る可からず。故に孔子の自らかずと言うは、之を将来に要するなり。古註に子貢をなぐさむと、に非ず。朱註に与を許すと訓じ、なんじの下に句断するは、これを秦道賓に本づく。聖人の心を知らず、且つ文辞にくらし」(吾與女弗如也。中間不句斷。孔子自言己亦不如也。亦願爲其宰意、聖人好賢之誠也。亦喜子貢自知之明。且先王之道、散在天下。孔子無常師、訪求四方、廼集於我。可謂艱矣。而顏子得之於孔子、不須捜求、其聰明又如此。過此以往、殆不可測矣。故孔子自言不如者、要之將來也。古註慰子貢、非是。朱註與訓許、女下句斷、本諸秦道賓。不知聖人之心也、且昧乎文辭也)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
学而第一 為政第二
八佾第三 里仁第四
公冶長第五 雍也第六
述而第七 泰伯第八
子罕第九 郷党第十
先進第十一 顔淵第十二
子路第十三 憲問第十四
衛霊公第十五 季氏第十六
陽貨第十七 微子第十八
子張第十九 堯曰第二十