秋下荊門(李白)
秋下荆門
秋、荊門を下る
秋、荊門を下る
- 七言絶句。空・風・中(平声東韻)。
- ウィキソース「秋下荊門」参照。
- 詩題 … 『敦煌残巻本』では「初めて荊門を下る」(初下荆門)に作る。『唐詩別裁集』では「舟下荆門」に作る。
- 荊門 … 山の名。荊門山。湖北省宜都市の西北約30キロ、長江の南岸にあり、対岸には虎牙山がある。『水経注』江水の条に「江水又た東のかた荊門を歴、虎牙の間、荊門は南に在り、上合し下開いて、山の南に闇徹す」(江水又東歷荊門、虎牙之間、荊門在南、上合下開、闇徹山南)とある。ウィキソース「水經注/34」参照。また『読史方輿紀要』湖広、荊州府、宜都県の条に「荊門山は、県の西北五十里。大江の南岸、其の北岸は虎牙山たり、荊門と相対す」(荊門山、縣西北五十里。大江南岸、其北岸爲虎牙山、與荊門相對)とある。ウィキソース「讀史方輿紀要/卷七十八」参照。
- この詩は、作者が蜀を出てきて、舟で初めて荊門を下ったときに詠んだもの。安旗主編『新版 李白全集編年注釋』(巴蜀書社、2000年)によると、開元十三年(725)、二十五歳の作。
- 李白 … 701~762。盛唐の詩人。字は太白。蜀の隆昌県青蓮郷(四川省江油市青蓮鎮)の人。青蓮居士と号した。科挙を受験せず、各地を遊歴。天宝元年(742)、玄宗に召されて翰林供奉(天子側近の文学侍従)となった。しかし、玄宗の側近で宦官の高力士らに憎まれて都を追われ、再び放浪の生活を送った。杜甫と並び称される大詩人で「詩仙」と仰がれた。『李太白集』がある。ウィキペディア【李白】参照。
霜落荆門江樹空
霜は荊門に落ちて 江樹空し
- 霜落荊門 … 霜が荊門山に降りて。北周の蕭撝「上蓮山」(『古詩紀』巻一百二十二、『文苑英華』巻一百五十九)に「沙崩れて韻鼓を聞き、霜落ちて鳴鐘を候つ」(沙崩聞韻鼓、霜落候鳴鐘)とある。韻鼓は、太鼓の音。ウィキソース「古詩紀 (四庫全書本)/卷122」参照。
- 江樹 … 川辺の木々。江は、長江を指す。
- 江 … 『唐詩別裁集』では「煙」に作る。
- 空 … 葉が散ってしまっている。
布帆無恙挂秋風
布帆恙無く 秋風に挂く
- 布帆無恙挂秋風 … わが舟は秋風に布の帆を掛け、無事に航行を続けている。
- 布帆無恙 … 東晋の画家顧愷之は、荊州の長官である殷中堪の部下であったとき、休暇をとって故郷に帰ろうとし、長官から布の帆を借りた。途中大風に遭って舟が大破したので、長官に手紙を出して「行人は安穏にして布帆は恙無し」と書いたという故事を踏まえる。『世説新語』排調篇に「顧長康、殷荊州の佐作りしとき、假を請うて東に還る。爾の時、例として布颿を給せず。顧、苦ろに之を求めて、乃ち発するを得たるも、破冢に至るや、風に遭いて大敗す。牋を作って殷に与えて云う、地、破冢と名づく、真に冢を破りて出ず。行人安穏、布颿恙無し」(顧長康作殷荊州佐、請假還東。爾時例不給布颿。顧苦求之、乃得發、至破冢、遭風大敗。作牋與殷云、地名破冢、眞破冢而出。行人安穩、布颿無恙)とある。ウィキソース「世說新語/排調」参照。
- 帆 … 『唐詩別裁集』では「颿」に作る。同義。
- 無恙 … 病気や事故などの異状や心配事がないこと。いつもと変わりなく無事であること。恙は、もと恙虫の略。ツツガムシ科のダニの総称。体長約1ミリで田野で人を刺し、発病させる。従って無恙は、ツツガ虫にやられていないの意。『説文解字』巻十下、心部に「恙は、憂なり」(恙、憂也)とある。ウィキソース「說文解字/10」参照。また『爾雅』釈詁下篇の注に「今人無恙と云うは、憂いの無きを謂うなり」(今人云無恙謂無憂也)とある。ウィキソース「爾雅註疏/卷02」参照。また『隋書』倭国伝に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや云云」(日出處天子致書日沒處天子。無恙云云)とある。ウィキソース「隋書/卷81」参照。また『芸文類聚』に引く『風俗通義』に「無恙は、俗に疾を説くなり。凡そ人、相見し及び書問する者は、曰く、疾無きや、と。按ずるに上古の時、草居し路宿す。恙は噬む虫なり。人の心を食らう。凡そ相労問する者は曰く、恙無きや、と。疾と為すに非ざるなり」(無恙、俗說疾也。凡人相見及書問者、曰、無疾耶。按上古之時、草居路宿。恙噬蟲也。食人心。凡相勞問者曰、無恙乎。非爲疾也)とある。労問は、ねぎらい慰めること。ウィキソース「藝文類聚/卷075」参照。
- 挂 … かける。かかげる。掛に同じ。
此行不爲鱸魚膾
此の行 鱸魚の膾の為ならず
- 此行 … 今度の旅は。
- 鱸魚 … わが国の鱸とは違い、はぜに似た淡水魚。口が大きい。
- 膾 … なます。牛・羊・魚の生肉を細切りにしたもの。大根・人参などを細く切って酢にひたした日本のなますではない。膾は、鳥獣の肉を使ったなます、鱠は魚肉を使ったなますを指す。『全唐詩』『宋本』『繆本』『蕭本』『許本』『劉本』『王本』『敦煌残巻本』『万首唐人絶句』(両種とも)『唐詩品彙』『唐詩解』『唐宋詩醇』では「鱠」に作る。
- 不為鱸魚膾 … 張翰のように、鱸魚の膾を思い出したがためではない。西晋の張翰が北の洛陽に入って斉王に仕えていたが、秋風の吹くのを見るにつけ、故郷呉(江蘇省)の鱸魚の鱠や、蓴菜の羹(吸い物)の味を思い出し、官を捨てて故郷へ帰ったという故事を踏まえる。『世説新語』識鑒篇に「張季鷹、斉王の東曹掾に辟されて、洛に在り。秋風の起るを見、因って呉中の菰菜の羹・鱸魚の膾を思うて曰く、人生、意に適うを得るを貴ぶのみ。何ぞ能く数千里に羈宦して以て名爵を要めんや、と。遂に駕を命じて便ち帰る。俄にして斉王敗る、時人皆謂いて機を見ると為せり」(張季鷹辟齊王東曹掾、在洛。見秋風起、因思呉中菰菜羹、鱸魚膾曰、人生貴得適意爾。何能羈宦數千里以要名爵。遂命駕便歸。俄而齊王敗、時人皆謂爲見機)とある。ウィキソース「世說新語/識鑒」参照。ウィキペディア【張翰 (晋)】参照。
自愛名山入剡中
自ら名山を愛して 剡中に入る
- 自愛名山 … 私自身が名山を好むが故に。
- 剡中 … 浙江省紹興市の東部を流れる曹娥江(古称は上虞江)の上流、剡渓のあたり。また、その中心地である剡県(現在の嵊州市)の別称。『元和郡県図志』江南道、越州、剡県の条に「剡渓は、県の西南を出で、北流して上虞県に入り界を上虞江と為す」(剡溪、出縣西南、北流入上虞縣界爲上虞江)とある。ウィキソース「元和郡縣圖志/卷26」参照。また『読史方輿紀要』浙江、紹興府、嵊県の条に「剡渓は、県治の南に在り。即ち曹娥江の上源なり。宋の楼鑰曰く、剡渓は、山水倶に秀で、邑の四郷、山、平野を囲み、渓、其の中を行く。其の源に四有り。一に天台山より、一に東陽の玉山より、一に奉化より、一に寧海より、四大流を兼ぬ。又た境内の万壑の争流の水、四面より咸な湊まり、曲折迂迴し、嶀浦を過りて北に出ず。是を曹娥江と為す」(剡溪、在縣治南。即曹娥江之上源也。宋樓鑰曰、剡溪山水俱秀、邑之四鄉、山圍平野、溪行其中。其源有四。一自天臺山、一自東陽之玉山、一自奉化、一自寧海、兼四大流。又境內萬壑爭流之水、四面咸湊、曲折迂迴、過嶀浦而北出。是爲曹娥江)とある。ウィキソース「讀史方輿紀要/卷九十二」参照。また、東晋の王徽之が冬の夜、雪を愛でながら酒を飲み、左思の「招隠の詩」を詠じていたが、ふと剡渓にいる友人の戴逵を訪ねようと思いたち、小舟に乗って出かけた。しかし、門前まで来て引き返してしまった。人がその理由を尋ねたところ、「自分は興に乗じて来て、興が尽きて帰ったのだ」と答えたという故事もある。『晋書』王徽之伝に「嘗て山陰に居り、夜雪初めて霽れ、月色清朗、四望皓然たり。独り酒を酌みて、左思の招隠の詩を詠じ、忽ち戴逵を憶う。逵時に剡に在り、便ち夜小船に乗じて之に詣り、宿を経て方に至り、門に造りて前まずして反る。人其の故を問う、徽之曰く、本興に乗じて行き、興尽きて反る。何ぞ必ずしも安道を見んや、と」(嘗居山陰、夜雪初霽、月色清朗、四望皓然。獨酌酒、詠左思招隱詩、忽憶戴逵。逵時在剡、便夜乘小船詣之、經宿方至、造門不前而反。人問其故、徽之曰、本乘興而行、興盡而反。何必見安道邪)とある。安道は、戴逵の字。ウィキソース「晉書/卷080」参照。また謝霊運の「臨海嶠に登らんとて、初め彊中を発せしとき作る。従弟恵連に与え、羊何に見して共に之に和せしむ」(『文選』巻二十五)に「暝に剡中の宿に投り、明に天姥の岑に登らん」(暝投剡中宿、明登天姥岑)とある。ウィキソース「昭明文選/卷25」参照。
テキスト
- 『箋註唐詩選』巻七(『漢文大系 第二巻』冨山房、1910年)
- 『全唐詩』巻一百八十一(揚州詩局本縮印、上海古籍出版社、1985年)
- 『李太白文集』巻二十(静嘉堂文庫蔵宋刊本影印、平岡武夫編『李白の作品』所収、略称:宋本)
- 『李太白文集』巻二十(繆曰芑重刊、雙泉草堂本、略称:繆本)
- 『分類補註李太白詩』巻二十二(蕭士贇補注、内閣文庫蔵、略称:蕭本)
- 『分類補註李太白詩』巻二十二(蕭士贇補注、郭雲鵬校刻、『四部叢刊 初篇集部』所収、略称:郭本)
- 『分類補註李太白詩』巻二十二(蕭士贇補注、許自昌校刻、『和刻本漢詩集成 唐詩2』所収、略称:許本)
- 『李翰林集』巻十九(景宋咸淳本、劉世珩刊、江蘇広陵古籍刻印社、略称:劉本)
- 『李太白全集』巻二十二(王琦編注、『四部備要 集部』所収、略称:王本)
- 徐俊纂輯『敦煌詩集残巻輯考』(中華書局、2000年、64頁、略称:敦煌残巻本)
- 『万首唐人絶句』七言・巻二(明嘉靖刊本影印、文学古籍刊行社、1955年)
- 趙宦光校訂/黄習遠補訂『万首唐人絶句』巻十三(万暦三十五年刊、内閣文庫蔵)
- 『唐詩品彙』巻四十七(汪宗尼本影印、上海古籍出版社、1981年)
- 『唐詩別裁集』巻二十(乾隆二十八年教忠堂重訂本縮印、中華書局、1975年)
- 『古今詩刪』巻二十一(寛保三年刊、『和刻本漢詩集成 総集篇9』所収、55頁)
- 『唐詩解』巻二十五(清順治十六年刊、内閣文庫蔵)
- 『唐宋詩醇』巻七(乾隆二十五年重刊、紫陽書院、内閣文庫蔵)
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