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逢俠者(銭起)

逢俠者
きょうしゃ
せん
  • ウィキソース「逢俠者 (錢起)」参照。
  • この詩は、作者が旅の途中、きょうかくに出会って大いに共鳴した気持ちを詠んだもの。
  • 俠者 … おとこのある者。きょうかくおとこ伊達だて。義を重んじ、弱い者を助け、邪悪を懲らすことを旨とし、そのためには官憲や国法をも無視するような連中のこと。『史記』韓非子伝に「儒者は文をもちいて法を乱し、而して俠者は武を以て禁を犯す」(儒者用文亂法、而俠者以武犯禁)とある。ウィキソース「史記/卷063」参照。また、同じく游俠伝に「今の遊俠は、其の行い正義にしたがわずと雖も、然れども其の言は必ず信に、其のこうは必ずに、已にだくすれば必ずまことに、其のしまず、士の阨困やくこんに赴く。既已すでに存亡死生し、而も其ののうほこらず、其の徳をほこるをづ。蓋し亦た多とするに足る者有り」(今遊俠、其行雖不軌於正義、然其言必信、其行必果、已諾必誠、不愛其軀、赴士之阨困。既已存亡死生矣、而不矜其能、羞伐其德。蓋亦有足多者焉)とある。果は、果敢。阨困は、物事に行きづまり、苦しむこと。能は、能力。多とするに足るとは、称賛するに値すること。ウィキソース「史記/卷124」参照。
  • 銭起 … 710?~780?。中唐の詩人。呉興(浙江省呉興区)の人。あざなは仲文。天宝十載(751)、進士に及第。校書郎から藍田県(陝西省藍田県)の県尉を経て、考功郎中に進み、太清宮使・翰林学士に至った。大暦十才子の一人。郎士元とともに「銭郎」と称された。『銭考功集』十巻がある。ウィキペディア【銭起】参照。
燕趙悲歌士
えんちょう 悲歌ひか
  • 燕趙悲歌士 … 燕・趙に多いといわれた悲歌慷慨の士。燕は、春秋・戦国時代の国名。現在の河北省一帯。戦国の七雄の一つ。ウィキペディア【燕 (春秋)】参照。趙は、戦国時代の国名。春秋時代の晋を、趙・魏・韓が三分して独立したもの。現在の山西省北部から河北省東南一帯。戦国の七雄の一つ。ウィキペディア【趙 (戦国)】参照。悲歌慷慨は、悲しい歌を歌い、憤り嘆くこと。悲歌忼慨とも。燕・趙は、昔から悲歌慷慨する気性の激しい人が出る土地といわれてきた。ここでは、俠者を指す。『史記』項羽本紀に「ここに於いて項王乃ち悲歌忼慨す」(於是項王乃悲歌忼慨)とある。ウィキソース「史記/卷007」参照。また南朝梁の江淹「建平王にいたりてたてまつる書」(『文選』巻三十九)に「何を以てかせい奇節の人、燕趙悲歌の士にまみえんや」(何以見齊魯奇節之人、燕趙悲歌之士乎)とある。奇節は、優れた節操。ウィキソース「獄中上建平王書」参照。
相逢劇孟家
あいう 劇孟げきもういえ
  • 相逢 … 出会った。古楽府「相逢行そうほうこう」(『楽府詩集』巻三十四)に「相逢うきょうかん、道せまくして車をれず」(相逢狹路間、道隘不容車)とある。ウィキソース「樂府詩集/034卷」参照。
  • 相 … ここでは「互いに」という意味ではなく、動作に対象があることを示す接頭語。「(対象に)~する」「(対象を)~する」と訳す。
  • 劇孟 … 前漢の有名な侠客。洛陽の人。ウィキペディア【劇孟】参照。呉楚七国の乱(前154)の時、太尉に任命されたしゅう亜夫あふ(?~前143)が河南に来て、劇孟を得て大いに喜び、敵国を手に入れたようなものだと言ったという。また、劇孟の母親が死んだ時は会葬者の車が千台にも達したが、彼が死んだ後には財産がほとんど残らなかったという。『史記』游俠伝に「雒陽らくように劇孟有り。しゅうひとしょうを以てと為し、而うして劇孟は任俠を以て諸侯にあらわる。呉・楚反する時、じょうこう、太尉と為り、伝車に乗り、まさに河南に至らんとして、劇孟を得、喜びて曰く、呉・楚大事を挙げて孟を求めず、吾れ其の能く為す無きを知るのみ。天下騒動して、宰相之を得るは、一敵国いちてきこくを得るがごとしと云う、と。劇孟の行いは大いに朱家に類す。而うしてはくを好み、少年の多し。然れども劇孟の母死するや、遠方よりを送るもの蓋し千乗なり。劇孟死するに及びて、家に十金じっきんの財を余す無し」(雒陽有劇孟。周人以商賈爲資、而劇孟以任俠顯諸侯。呉楚反時、條侯爲太尉、乘傳車、將至河南、得劇孟、喜曰、呉楚舉大事而不求孟、吾知其無能爲已矣。天下騷動、宰相得之、若得一敵國云。劇孟行大類朱家。而好博、多少年之戲。然劇孟母死、自遠方送喪蓋千乘。及劇孟死、家無餘十金之財)とある。雒陽は、洛陽に同じ。周人は、洛陽の人々。周は、洛陽一帯の地。周の天子の直轄地であったのでいう。商賈は、商売。条侯は、前漢の武将、周亜夫の封号。伝車は、駅伝の馬車。敵国は、国力が同等の国。博は、博戯。ばくち・すごろくなど。ウィキソース「史記/卷124」参照。なお、ここでは劇孟のような大親分の意。
寸心言不盡
寸心すんしん くさず
  • 寸心 … 心。心の大きさを方寸(一寸四方)であると考えたことから。自分の気持ちを謙遜していうことば。『列子』仲尼篇に「ああ、吾れの心を見るに、方寸の地むなし。幾んど聖人なり」(嘻、吾見子之心矣、方寸之地虚矣。幾聖人也)とある。ウィキソース「列子/仲尼篇」参照。また、南朝梁の沈約「鍾山の詩、西陽王のみことに応ず」詩(『文選』巻二十二)に「願う所は之に従いて遊ばんこと、寸心 ここに於いて足りなん」(所願從之遊、寸心於此足)とある。ウィキソース「鍾山詩應西陽王教」参照。
  • 言不尽 … いくら語っても、語り尽くすことができない。『易経』繋辞上伝に「しょげんを尽くさず、言はを尽くさず」(書不盡言、言不盡意)とある。書は、文字に書き表わされたもの。言は、ことば。意は、心の中に思っていること。ウィキソース「易傳/繫辭上」(第十二章)参照。
前路日將斜
ぜん まさななめならんとす
  • 前路 … 行く手。西晋の陸機の楽府「予章行」(『文選』巻二十八、『楽府詩集』卷三十四)に「前路は既已すでに多く、こうは年に随って侵さる」(前路既已多、後塗隨年侵)とある。後塗は、残りの寿命。ウィキソース「昭明文選/卷28」参照。また、東晋の陶潜「帰去来の辞」(『文選』巻四十五)に「せいに問うに前路を以てし、晨光しんこう熹微きびなるをうらむ」(問征夫以前路、恨晨光之熹微)とある。征夫は、旅人。晨光は、早朝に輝く太陽の光。熹微は、太陽の光がほのぼのと差すこと。ウィキソース「歸去來辭並序」参照。
  • 日将斜 … もう日が傾きかけてきている。
  • 将 … 「まさに~ならんとす」と読み、「ほぼ~に近い」と訳す。数量などがある水準に近づく意を示す。『孟子』滕文公上篇に「今、とうは長をち短をおぎなわば、将に五十里ならんとす」(今滕絕長補短、將五十里也)とある。滕は、滕の国。現在の山東省とうしゅう市。五十里は、五十里四方の国。ウィキソース「孟子/滕文公上」参照。
詩型・韻字
  • 五言絶句。
  • 家・斜(下平声麻韻)。
テキスト
  • 『箋註唐詩選』巻六(『漢文大系 第二巻』、冨山房、1910年)※底本
  • 『全唐詩』巻二百三十九(排印本、中華書局、1960年)
  • 『銭考功集』巻十(『四部叢刊 初編集部』所収)
  • 『銭考功集』巻十(明銅活字本、『唐五十家詩集』所収、上海古籍出版社、1989年)
  • 『万首唐人絶句』五言・巻六(明嘉靖本影印、文学古籍刊行社、1955年)
  • 『唐詩解』巻二十三(順治十六年刊、内閣文庫蔵)
  • 『唐詩品彙』巻四十一([明]高棅編、[明]汪宗尼校訂、上海古籍出版社、1982年)
  • 『唐詩別裁集』巻十九([清]沈徳潜編、乾隆二十八年教忠堂重訂本縮印、中華書局、1975年)
  • 『古今詩刪』巻二十(寛保三年刊、『和刻本漢詩集成 総集篇9』所収、汲古書院)
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