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平蕃曲二首其二(劉長卿)

平蕃曲二首其二
平蕃(へいばん)曲(きょく)二(に)首(しゅ) 其(そ)の二(に)
劉(りゅう)長(ちょう)卿(けい)
  • ウィキソース「平蕃曲 (絕漠大軍還)」「樂府詩集/091卷」参照。
  • この詩は、天宝八載(749)、吐(と)蕃(ばん)を平定した将軍哥(か)舒翰(じょかん)の率いる大軍が凱旋したことを褒めたたえて詠んだものであるが、ここでは後漢の将軍竇憲(とうけん)(?~92)が匈奴の一部族である北単(ぜん)于(う)を撃破した功績になぞらえている。唐代のことを漢代に擬するのは、唐の詩人の常套的な表現。唐汝詢『唐詩解』に「軍還(かえ)るの後、辺は戍(まも)るを煩(わずら)わさず。唯だ漢将の勲を片石に留むるのみ」(軍還之後、邊不煩戍。唯留漢將之勛於片石而已)とある。
  • 詩題 … 平蕃曲は、唐代に新しく作られた新楽府題の一つ。西方の異民族、吐(と)蕃(ばん)の平定を祝賀する凱旋曲。『全唐詩』『唐五十家詩集本』『四部叢刊本』『楽府詩集』『万首唐人絶句』では「平蕃曲三首其三」に作る。
  • 劉長卿 … 726?~790?。中唐の詩人。河間(河北省河間市)の人。一説に宣城(安徽省宣城市)の人。字(あざな)は文房。開元二十一年(733)、進士に及第。監察御史などの官職を歴任したが、のちに左遷され、最後は随州(湖北省随州市)刺史となって終わった。このことから「劉随州」とも呼ばれた。『劉随州文集』がある。ウィキペディア【劉長卿】参照。
絕漠大軍還
絶漠(ぜつばく) 大軍(たいぐん)還(かえ)り
  • 絶漠 … 砂漠を横断すること。絶幕(ぜつばく)に同じ。後漢の班固「燕然山(えんぜんざん)を封(ほう)ずる銘」(『文選』巻五十六)に「磧(せき)鹵(ろ)を経(へ)、大漠(たいばく)を絶(わた)る」(經磧鹵、絶大漠)とあるのを踏まえる。燕然山は、モンゴル国のハンガイ山脈(漢名は杭愛(こうあい)山)のこと。ウィキペディア【ハンガイ山脈】参照。磧鹵は、塩分のある砂(さ)礫(れき)地帯。大漠は、大きな砂漠。ゴビ砂漠を指す。ウィキソース「封燕然山銘」参照。また『史記』匈奴伝に「大将軍は定(てい)襄(じょう)より出(い)で、驃(ひょう)騎(き)将軍は代(だい)より出(い)でしめ、咸(み)な幕を絶(わた)りて匈奴を撃つを約す」(大將軍出定襄、驃騎將軍出代、咸約絕幕擊匈奴)とある。大将軍は、衛青(?~前106)。驃騎将軍は、霍去病(かくきょへい)(前145~前117)。定襄は、定襄郡。現在の内モンゴル自治区フフホト市一帯。代は、代郡。現在の河北省張家口市蔚県。ウィキソース「史記/卷110」参照。また『漢書』武帝紀、元朔六年(前123)の条に「夏四月、衛青復た六将軍を将(ひき)いて幕を絶(わた)り、大いに克(か)ちて獲(う)」(夏四月、衞青復將六將軍絕幕、大克獲)とある。ウィキソース「漢書/卷006」参照。
  • 漠 … 『万首唐人絶句』では「漢」に作る。「漠」の誤り。
  • 大軍 … 多人数の軍勢。ここでは、竇憲(とうけん)の指揮する漢軍を指す。三国魏の陳琳「袁紹の為に予州に檄す」(『文選』巻四十四)に「大軍は黄河に汎(うか)びて其の前に角(つのと)り、荊州は宛葉に下りて其の後ろに掎(あしと)る」(大軍汎黄河而角其前、荊州下宛葉而掎其後)とある。ウィキソース「為袁紹檄豫州文」参照。
  • 還 … 帰ってきた。ここでは、凱旋した。
平沙獨戍閒
平(へい)沙(さ) 独戍(どくじゅ)間(かん)なり
  • 平沙 … 広く平らな砂漠。または、砂地の続く平原。沙は、砂に同じ。南朝梁の何遜「慈姥磯(じぼき)」詩に「野(や)岸(がん)平沙合(がっ)し、連山遠(えん)霧(む)浮かぶ」(野岸平沙合、連山遠霧浮)とある。ウィキソース「古詩紀 (四庫全書本)/卷094」参照。また、盛唐の李華「古戦場を弔(とむら)う文」(『古文真宝』後集、巻五)に「浩浩(こうこう)乎(こ)として平沙垠(かぎ)り無く、敻(はる)かに人を見ず」(浩浩乎平沙無垠、敻不見人)とある。ウィキソース「弔古戰場文」参照。
  • 独戍 … たった一つの砦(とりで)。同じ作者の「夏口より鸚鵡洲に至り、夕べに岳陽を望んで源中丞に寄す」詩(『全唐詩』巻一百五十一)にも「孤城嶺(みね)を背にし寒にして角(かく)を吹き、独戍江に臨んで夜(よる)船を泊す」(孤城背嶺寒吹角、獨戍臨江夜泊船)とある。角は、角笛(つのぶえ)。ウィキソース「自夏口至鸚鵡洲夕望岳陽寄源中丞」参照。
  • 間 … 静かに落ち着いている。ひっそりと静まりかえっている。『楽府詩集』では「閑」に作る。同義。
空留一片石
空(むな)しく留(とど)む 一片(いっぺん)の石(いし)
  • 空留 … 空しく留まっている。古楽府「東飛の伯労(はくろう)の歌」(『楽府詩集』巻六十八、『玉台新詠』巻九、一に南朝梁の武帝の作とする)に「三春已に暮れて花風(はなかぜ)に従う、空しく可(か)憐(れん)を留めて誰とか同(とも)にせん」(三春已暮花從風、空留可憐誰與同)とある。東飛は、東に飛ぶこと。伯労は、モズ。三春は、春の三か月。可憐は、容貌の可愛らしいさま。ウィキソース「東飛伯勞歌 (蕭衍)」参照。
  • 一片石 … 一基の石碑。後漢の永元元年(89)、竇憲(とうけん)が匈奴に大勝し、燕然山に登り、山頂に石碑を立てた。石碑には、漢の威徳を褒めたたえた銘文を班固に作らせ、それを刻んだ。「一片の石」とは、この石碑を指す。『後漢書』竇憲伝に「憲は副校尉の閻盤(えんばん)・司馬の耿(こう)夔(き)・耿譚(こうたん)を分遣し、左(さ)谷(よく)蠡王(れいおう)の師子(しし)・右呼(うこ)衍王(えんおう)の須(しゅ)訾(し)らの精騎万余を将(ひき)い、北単(ぜん)于(う)と稽落山(けいらくざん)に戦い、大いに之を破る。……憲・秉(へい)は遂に燕然山に登る。塞を去ること三千余里、石に刻し功を勒(きざ)み、漢の威徳を紀(しる)す。班固をして銘を作らしむ」(憲分遣副校尉閻盤、司馬耿夔耿譚、將左谷蠡王師子、右呼衍王須訾等精騎萬餘、與北單于戰於稽落山、大破之。……憲秉遂登燕然山。去塞三千餘里、刻石勒功、紀漢威德。令班固作銘)とある。ウィキソース「後漢書/卷23」参照。また、北周の庾信「征客(せいかく)の始めて還りて猟に遇うを見る」詩(『古詩紀』巻一百二十五)に「河辺 一片の石、復た支機(しき)を肯(がえん)ぜず」(河邊一片石、不復肯支機)とある。征客は、兵士。猟は、天子の遊猟。支機は、支機石。織(しょく)女(じょ)が機(はた)が揺れ動かないように支えたとされる伝説の石。ウィキソース「古詩紀 (四庫全書本)/卷125」参照。
萬古在燕山
万(ばん)古(こ) 燕山(えんざん)に在(あ)り
  • 万古 … 昔から今に至るまで。永遠。万世。後漢の班固「燕然山(えんぜんざん)を封(ほう)ずる銘」(『文選』巻五十六)に「神(しん)丘(きゅう)を封じて隆(りゅう)嵑(けつ)を建て、帝載(ていさい)を熙(ひろ)めて万世に振るわん」(封神丘兮建隆嵑、熙帝載兮振萬世)とあるのを踏まえる。神丘は、神の宿る山。隆嵑は、大きな石。帝載は、帝の事跡。ウィキソース「封燕然山銘」参照。また、劉宋の顔延之の詩「始安郡より都に還るとき、張湘州と巴陵城楼に登る作」(『文選』巻二十七)に「万古に往還は陳(ちん)じ、百代起伏に労す」(萬古陳往還、百代勞起伏)とある。ウィキソース「昭明文選/卷27」参照。
  • 燕山 … 燕然山。ここでは、燕然山の山頂を指す。
余説
 この詩は三首連作の第三首である(第二首は前詩)。第一首は、次の通りである。ウィキソース「平蕃曲 (吹角報蕃營)」参照。
  吹角報蕃營  角(かく)を吹(ふ)きて蕃営(ばんえい)に報(ほう)じ
  迴軍欲洗兵  軍(ぐん)を迴(めぐ)らせて兵(へい)を洗(あら)わんと欲(ほっ)す
  已教靑海外  已(すで)に青海(せいかい)の外(そと)をして
  自築漢家城  自(みずか)ら漢(かん)家(か)の城(しろ)を築(きず)かしむ
詩型・韻字
  • 五言絶句。
  • 還・閒・山(上平声刪韻)。
テキスト
  • 『箋註唐詩選』巻六(『漢文大系 第二巻』、冨山房、1910年)※底本
  • 『全唐詩』巻一百四十八(排印本、中華書局、1960年)※詩題:平蕃曲三首其三
  • 『楽府詩集』巻九十一・新楽府辞(北京図書館蔵宋刊本影印、中津濱渉『樂府詩集の研究』所収)※詩題:平蕃曲三首其三
  • 『劉隨州集』巻十(明銅活字本、『唐五十家詩集』所収、上海古籍出版社、1989年)※詩題:平蕃曲三首其三
  • 『劉隨州詩集』巻四(『四部叢刊 初編集部』所収)※詩題:平蕃曲三首其三
  • 『万首唐人絶句』五言・巻六(明嘉靖本影印、文学古籍刊行社、1955年)※詩題:平蕃曲三首其三
  • 『唐詩解』巻二十三(順治十六年刊、内閣文庫蔵)
  • 『唐詩品彙』巻四十一([明]高棅編、[明]汪宗尼校訂、上海古籍出版社、1982年)
  • 『古今詩刪』巻二十(寛保三年刊、『和刻本漢詩集成 総集篇9』所収、汲古書院)
  • 『劉長卿詩編年箋注』上冊(中国古典文学基本叢書、中華書局、1996年)※詩題:平蕃曲三首其三
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