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子張第十九 1 子張曰士見危致命章

472(19-01)
子張曰、士見危致命、見得思義、祭思敬、喪思哀。其可已矣。
ちょういわく、あやうきをてはめいいたし、るをてはおもい、まつりにはけいおもい、にはあいおもう。なるのみ。
現代語訳
  • 子張 ――「男なら、危険と見ればいのちをささげ、利益には公正を思い、祭りには心からうやまい、人の死には心からなげく。それならよろしかろう。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 子張の言うよう、「士たる者は、君父の危難を救わんためには命をもさしし、とく問題があったら道理上取ってしかるべきかいなかを思い、祭にのぞんでは誠をつくさんことを思い、ってはかなしみを極めんことを思うべきだ。これだけがそろえば、まず士とってよかろう。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 子張がいった。――
    「士たるものは、公けの任務において危難に直面したら生命を投げ出してそれに当るべきだ。利得に恵まれる機会があったら、それをうけることが正義に合するかどうかを思うべきだ。そして祭事には敬虔の念があふれ、喪には悲哀の情があふれるならば、士と称するに足るであろう」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 子張 … 前503~?。孔子の弟子。姓は顓孫せんそん、名は師、あざなは子張。陳の人。孔子より四十八歳年少。ウィキペディア【子張】参照。
  • 士 … ここでは教養のある立派な官吏。周代の官吏は、卿・大夫・士の階級になっていた。
  • 危 … 危険。危難。危急。
  • 致命 … 命のある限り尽くす。一生懸命に尽くすこと。
  • 見得 … 利得に直面しては。
  • 思義 … 道理に合ったものかどうか。正当なものかどうか。
  • 祭 … 祭祀。
  • 思敬 … 敬虔な心を忘れない。
  • 喪 … 葬儀。喪礼。
  • 思哀 … 哀悼の気持ちを忘れない。
  • 其可已矣 … それだけでよろしかろう。それでこそ士と言えよう。
補説
  • 子張第十九 … 『集解』に「凡そ廿五章、疏廿四章」(凡廿五章、䟽廿四章)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「子張とは、弟子なり。其の君若し難有れば、臣必ず死を致すを明らかにするなり。前に次ぐ所以の者なり。既に君、臣を悪めば、宜しく衣を払いて即ち去るべきを明らかにす。若し人人皆去れば、則ち誰か匡輔を為さん。故に此れ次なり。若し未だ去るを得ざる者、必ず宜しく身を致すべきを明らかにす。故に子張を以て微子に次ぐなり」(子張者、弟子也。明其君若有難、臣必致死也。所以次前者。既明君惡臣、宜拂衣而即去。若人人皆去、則誰爲匡輔。故此次。明若未得去者、必宜致身。故以子張次微子也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「此の篇は士の行いの交情、仁人の勉学、或いは夫子の語を接聞する、或いは聖師の徳を弁揚するを記す。其の皆弟子の言う所なるを以て、故に諸篇の後に差次す」(此篇記士行交情、仁人勉學、或接聞夫子之語、或辨揚聖師之德。以其皆弟子所言、故差次諸篇之後)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『集注』に「此の篇皆弟子の言を記す。而して子夏を多しと為し、子貢之に次ぐ。蓋し孔門顔子より以下、えいは子貢にくは莫く、曾子より以下、篤実は子夏にくは無し。故に特に之を記すこと詳らかなり。凡そ二十五章」(此篇皆記弟子之言。而子夏為多、子貢次之。蓋孔門自顔子以下、穎悟莫若子貢、自曾子以下、篤実無若子夏。故特記之詳焉。凡二十五章)とある。穎悟は、才知がすぐれて賢いさま。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 『注疏』に「此の章は士の行いを言うなり」(此章言士行也)とある。
  • 子張 … 『史記』仲尼弟子列伝に「顓孫せんそんは陳の人。あざなは子張。孔子よりわかきことじゅうはちさい」(顓孫師陳人。字子張。少孔子四十八歳)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。また『孔子家語』七十二弟子解に「顓孫師は陳人ちんひと、字は子張。孔子より少きこと四十八歳。人とり容貌資質有り。寬沖にして博く接し、従容として自ら務むるも、居りて仁義の行いを立つるを務めず。孔子の門人、之を友とするも敬せず」(顓孫師陳人、字子張。少孔子四十八歳。為人有容貌資質。寬沖博接、從容自務、居不務立於仁義之行。孔子門人、友之而弗敬)とある。ウィキソース「孔子家語/卷九」参照。
  • 士見危致命 … 『集解』に引く孔安国の注に「命を致すは、其の身をしまざるなり」(致命、不愛其身也)とある。また『義疏』に「此れは是れ第一なり。此の一篇は、皆是れ弟子の語なり。孔子語無きなり。士とは義理を知るの名なり。是れ朝に升るの士を謂うなり。並びに若し国に危難有るを見れば、必ず其の身を愛しまずして、当に死を以て之を救うべし。是れ危うきを見て命を致すなり。士既に此くの如くなれば、則ち大夫以上は知る可きなり」(此是第一。此一篇、皆是弟子語。無孔子語也。士者知義理之名。是謂升朝之士也。竝若見國有危難、必不愛其身、當以死救之。是見危致命也。士既如此、則大夫以上可知也)とある。また『注疏』に「士とは、有徳の称、卿大夫より已下皆是れなり。命を致すは、其の身を愛しまざるを謂う。子張言う、士たる者、君に危難有るを見ては、其の身を愛しまず、命を致して以て之を救う」(士者、有德之稱、自卿大夫已下皆是。致命、謂不愛其身。子張言、爲士者、見君有危難、不愛其身、致命以救之)とある。また『集注』に「命を致すは、其の命を委ね致すを謂う。猶お命を授くと言うがごときなり」(致命、謂委致其命。猶言授命也)とある。
  • 見得思義 … 『義疏』に「此れ以下並びに是れ士の行いなり。得は、禄を得るなり。必ず素飡せず。義にして然る後取る。是れ得るを見て義を思うなり」(此以下並是士行也。得、得祿也。必不素飡。義然後取。是見得思義也)とある。また『注疏』に「利禄を得るを見ては、義を思いて然る後に取る」(見得利祿、思義然後取)とある。
  • 祭思敬 … 『義疏』に「士始めて廟に立つを得て、其の祭祀を守る。神を祭るには神いますが如くす。是れ祭には敬を思うなり」(士始得立廟、守其祭祀。祭神如神在。是祭思敬也)とある。また『注疏』に「祭事有るときは、其の敬を尽くさんことを思う」(有祭事、思盡其敬)とある。
  • 喪思哀 … 『義疏』に「方に喪三年君の為にす。如し父母ならば、必ず苴斬を窮む。是れ喪には哀を思うなり」(方喪三年爲君。如父母、必窮苴斬。是喪思哀也)とある。また『注疏』に「喪事有るときは、当に其の哀を尽くすべし」(有喪事、當盡其哀)とある。
  • 其可已矣 … 『義疏』に「如上の四事、士たること此くの如くんば、則ち可と為すなり。江熙云う、但だくの若く言えば則ち可なり、と」(如上四事、爲士如此、則爲可也。江熙云、但言若是則可也)とある。また『注疏』に「此の行い有る者は、其れ以て士と為す可きのみ、と」(有此行者、其可以爲士已矣)とある。また『集注』に「四者は身を立つるの大節にして、一も至らざること有れば、則ち余は観るに足ること無し。故に士能く此くの如くんば、則ち其れ可なるにちかしと言う」(四者立身之大節、一有不至、則餘無足觀。故言士能如此、則庶乎其可矣)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「危うきを見て命を致すときは、則ち苟くも生をぬすまず。得るを見て義を思うときは、則ち為さざる所有り。喪祭に哀敬するときは、則ち身を守るの本立たん。其の行い此くの如くにして、以て士と為るに足る。故に曰く、可なるのみ、と。然れども上にして君たり相たるは、亦た此に止まらず」(見危致命、則不苟偸生。見得思義、則有所不爲。喪祭哀敬、則守身之本立矣。其行如此、足以爲士。故曰、可已矣。然上而爲君爲相、亦不止於此)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「得るを見て義を思い、祭に敬を思い、喪に哀を思うは、皆思いて之を求むるを謂うなり。之を如何いかんぞ当に義に合すべき、之を如何ぞ当に敬に合すべき、之を如何ぞ当に哀に合すべき、是れ思なり。義なる者は先王の義なり。敬なる者は先王の敬なり。哀なる者は先王の哀なり。後儒は短見、思を念頭として解し、義・敬・哀皆これおくに取る。孔門の意に非ず」(見得思義、祭思敬、喪思哀、皆謂思而求之也。如之何而當合於義、如之何而當合於敬、如之何而當合於哀、是思也。義也者先王之義也。敬也者先王之敬也。哀也者先王之哀也。後儒短見、思作念頭解、義敬哀皆取諸臆。非孔門之意矣)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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