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憲問第十四 36 或曰以德報怨何如章

368(14-36)
或曰、以德報怨、何如。子曰、何以報德。以直報怨、以德報德。
あるひといわく、とくもっうらみにむくゆるは、何如いかんいわく、なにもっとくむくいん。なおきをもっうらみにむくい、とくもっとくむくいん。
現代語訳
  • だれかがいう、「にくいやつによくしてやるのは、どうです…。」先生 ――「それではよい人にどうする…。にくい人にも公平にし、よい人にはよくすること。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • ある人が、「うらみに報いるのに徳をもってしたらどんなものでしょうか、実にこうしょうなことと思いますが。」とおたずねしたところ、孔子様がおっしゃるよう、「怨みに報いるに徳をもってするなら、徳に報いるには何をもってしたらよいだろうか。つりいの取れぬことになりそうだ。怨みに報いるには公平無私の正しき道をもってし、徳に報いるに徳をもってすべきじゃ。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • ある人がたずねた。――
    「怨みに報いるに徳をもってしたら、いかがでございましょう」
    先師がこたえられた。――
    「それでは徳に報いるのには、何をもってしたらいいかね。怨みには正しさをもって報いるがいいし、徳には徳をもって報いるがいい」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 或 … 「あるひと」と読む。
  • 徳 … ここでは恩恵。善意。思いやり。
  • 怨 … ここでは自分が恨みをいだいている人。悪意。
  • 報 … お返しをする。
  • 以徳報怨 … 『老子』第六十三章に「小を大とし少を多とし、怨みに怨ゆるに徳を以てす」(大小多少、報怨以德)とある。
  • 直 … 公平無私な正しさ。
補説
  • 『注疏』に「此の章は恩にむくい怨みに報ゆるの法を論ずるなり」(此章論酬恩報怨之法也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 以徳報怨、何如 … 『集解』の何晏の注に「徳は、恩恵の徳なり」(德、恩惠之德也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「或の人孔子に問いて曰く、彼と此と怨み有り。而して此の人、徳を行いて以て彼の怨みに報いんと欲す。其の事理は何如、と」(或人問孔子曰、彼與此有怨。而此人欲行德以報彼怨。其事理何如也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「或る人の意にては、人犯さるるも而もむくいざらんと欲す。故に孔子に問いて曰く、恩徳を以て讐怨に報ゆるは何如、と」(或人之意、欲人犯而不校。故問孔子曰、以恩德報讎怨何如)とある。また『集注』に「或る人の称する所、今老子の書に見ゆ。徳は、恩恵を謂うなり」(或人所稱、今見老子書。德、謂恩惠也)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 子曰、何以報徳 … 『義疏』に「孔子許さざるなり。言うこころは彼怨み有り。而して徳以て彼に報いん。し彼此に徳有れば、則ち又た何を以てか之に報いん」(孔子不許也。言彼有怨。而德以報彼。設彼有德於此、則又何以報之也)とある。また『注疏』に「孔子答えて言う、若し怨みに報ゆるに既に其の徳を用いたらば、若し人の恩恵の徳を受けたるとき、何を以て之に報ゆるかを知らざるなり、と」(孔子答言、若報怨既用其德、若受人恩惠之德、不知何以報之也)とある。また『集注』に「言うこころは其の怨む所に於いて、既に徳を以て之に報いれば、則ち人の我に徳有る者には、又た将に何を以てか之に報いんとするや」(言於其所怨、既以德報之矣、則人之有德於我者、又將何以報之乎)とある。
  • 以直報怨、以徳報徳 … 『義疏』に「既に徳を以て怨みに報ゆるを許さず。故に更に答うるに此を以てするなり。徳を以て怨みに報ゆるを許さず。言うこころは我に与うるに怨み有る者は我宜しく直道を用て之に報ゆべし。若し我に与うるに徳有る者ならば、我備徳を以て之に報いん。徳を持たずして怨みに報ゆる所以の者なり。若し怨みを行いて徳報ゆる者は、則ち天下皆怨みを行いて以て徳を要して之に報ゆ。此くの如き者は是れ怨みを取るの道なり」(既不許以德報怨。故更答以此也。不許以德報怨。言與我有怨者我宜用直道報之。若與我有德者、我以備德報之也。所以不持德報怨者。若行怨而德報者、則天下皆行怨以要德報之。如此者是取怨之道也)とある。また『注疏』に「既に或る人に徳を以て怨みに報ゆるを許さず、故に其の正法を陳ぶ。当に直道を以て讐怨に報い、恩徳を以て徳に報ゆべきを言うなり」(既不許或人以德報怨、故陳其正法。言當以直道報讎怨、以恩德報德也)とある。また『集注』に「其の怨む所の者に於いて、愛憎取舎し、一に至公にして私無きを以てするは、所謂直なり。其の徳とする所の者に於いては、則ち必ず徳を以て之に報い、忘るる可からざるなり」(於其所怨者、愛憎取舍、一以至公而無私、所謂直也。於其所德者、則必以德報之、不可忘也)とある。
  • 『集注』に「或る人の言、厚しと謂う可し。然れども聖人の言を以て之を観れば、則ち其の意有るの私より出でて、怨徳の報い、皆其の平らかなるを得ざるを見るなり。必ず夫子の言の如くにして、然る後に二者の報い、各〻其の所を。然れども怨みはあだせざること有りて、徳に報いざること無きは、則ち又た未だ嘗て厚からざるにあらざるなり。此の章の言、明白簡約にして、其の指意は、曲折反覆し、造化の簡易知り易くして、微妙にして窮まり無きが如し。学者宜しく詳らかにもてあそぶべき所なり」(或人之言、可謂厚矣。然以聖人之言觀之、則見其出於有意之私、而怨德之報、皆不得其平也。必如夫子之言、然後二者之報、各得其所。然怨有不讎、而德無不報、則又未嘗不厚也。此章之言、明白簡約、而其指意、曲折反覆、如造化之簡易易知、而微妙無窮。學者所宜詳玩也)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「直きを以て怨みに報ゆるは、猶お秦人しんひと越人えつひとせきを視るがごとく、漠然として心を用うる所無きなり。徳を以て徳に報ゆるは、善なれば則ち之を揚げ、不善なれば則ち之をかくすを謂うなり。……論に曰く、徳を以て怨みに報ゆるときは則ち義を害す、行う可からざるなり。怨みを以て徳に報ゆるときは則ち仁を賊す、為す可からざるなり。唯だ夫子の言の如くにして、而る後に仁義兼ね尽くし、各〻其の当を得ん」(以直報怨、猶秦人視越人之肥瘠、漠然無所用心也。以德報德、謂善則揚之、不善則藏之也。……論曰、以德報怨則害義、不可行也。以怨報德則賊仁、不可爲也。唯如夫子之言、而後仁義兼盡、各得其當)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「徳を以て怨みに報ず、何晏曰く、徳は恩恵なり、と。朱註之を尽くせり。仁斎曰く、直きを以て怨みに報ずとは、猶お秦人が越人の肥瘠を視るがごとく、漠然として心を用うる所無きなり。徳を以て徳に報ずとは、善なるときは則ち之を揚げ、不善なるときは則ち之を蔵すを謂うなり、と。妄なるかな。直きを以て怨みに報ずとは、当に怨むべきときは則ち怨み、当に怨むべからざるときは則ち怨みず。其の怨むるの時に当たりて、豈に漠然として心を用うる所無からんや。徳を以て徳に報ずとは、恩恵を以て恩恵に報ずるを謂うのみ。豈に別に精微の解有らんや。仁斎の言の如きは、則ち必ず在上の人にして而るのちなり。且つ舜の群下に於ける、豈に皆舜に徳有らんや」(以德報怨、何晏曰、德恩惠也。朱註盡之矣。仁齋曰、以直報怨、猶秦人視越人之肥瘠、漠然無所用心也。以德報德、謂善則揚之、不善則藏之也。妄哉。以直報怨者、當怨則怨、不當怨則不怨。當其怨之時、豈漠然無所用心乎。以德報德者、謂以恩惠報恩惠已。豈別有精微之解哉。如仁齋之言、則必在上之人而後可矣。且舜之於群下、豈皆有德於舜乎)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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