少年行(呉象之)
少年行
少年行
少年行
- 〔テキスト〕 『唐詩選』巻七、『全唐詩』巻七百七十七、『唐詩品彙』巻四十八、趙宦光校訂/黄習遠補訂『万首唐人絶句』巻十二(万暦三十五年刊、内閣文庫蔵)、『古今詩刪』巻二十二(寛保三年刊、『和刻本漢詩集成 総集篇9』所収、60頁)、『文苑英華』巻一百九十四、他
- 七言絶句。津・人・貧(平声真韻)。
- ウィキソース「御定全唐詩 (四庫全書本)/卷777」参照。
- 少年行 … 楽府題。若者の歌。行は、歌・曲の意。『楽府古題要解』巻下、結客少年の条に「生を軽んじ義を重んじ、慷慨以て功名を立つるを言うなり」(言輕生重義、慷慨以立功名也)とある。ウィキソース「樂府古題要解」参照。
- この詩は、遊俠の若者の意気を詠んだもの。
- 呉象之 … 伝記不詳。『万首唐人絶句』では盛唐に分類されている。『全唐詩』に二首収める。
承恩借獵小平津
恩を承けて借猟す 小平津
- 承恩 … 天子の恩寵をこうむる。
- 借猟 … 猟場を借りて狩りをすること。
- 小平津 … 河南省鞏県(今の鞏義市)の西北、孟津県の北にあった黄河沿いの渡し場。天子の御猟場がこの付近にあったと思われる。漢の霊帝は黄巾の賊に備えるため、八関都尉を置いた。ここは、その八関の一つ。ウィキペディア【洛陽八関】参照。『後漢書』孝霊帝紀の注に「小平津は今の鞏県の西北に在り」(小平津在今鞏縣西北)とある。ウィキソース「後漢書 (四庫全書本)/卷008」参照。また『読史方輿紀要』河南、孟津県に「小平城は、今の県西北に在り。旧志に云く、漢の平陰県の城北、河津に有り、小平津と曰う。津上に城有り、霊帝の時の河南八関の一つなり」(小平城、在今縣西北。舊志云、漢平陰縣城北有河津、曰小平津。津上有城、靈帝時河南八關之一也)とある。ウィキソース「讀史方輿紀要/卷四十八」参照。
使氣常遊中貴人
気を使いて常に遊ぶ 中貴人
- 使気 … 意気にまかせて任侠のふるまいをすること。『漢書』灌夫伝に「夫、人と為り剛直にして、酒を使う」(夫爲人剛直、使酒)とある。為人は、人がもっている性質。ウィキソース「漢書/卷052」参照。その注に「師古曰く、酒を使うとは、酒に因りて気を使うなり」(師古曰、使酒、因酒而使氣也)とある。『漢書評林』巻五十二(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 常遊 … いつも付き合う。いつも交際する。
- 遊 … 『万首唐人絶句』では「游」に作る。
- 中貴人 … 宮中で地位の高い内臣(天子の側近に仕える臣)。普通は宦官を指す。『史記』李広伝に「天子、中貴人をして広に従い勒して兵を習い匈奴を撃たしむ」(天子使中貴人從廣勒習兵擊匈奴)とあり、その注(集解)に「内官の幸貴なる者なり」(內官之幸貴者)とある。内官は、宦官。ウィキソース「史記三家註/卷109」参照。
一擲千金渾是膽
一擲千金 渾べて是れ胆
家無四壁不知貧
家に四壁無きも貧を知らず
- 家無四壁 … 家に四方の壁もないほど非常に貧しい様子。『史記』司馬相如伝に「相如乃ち人をして重く文君の侍者に賜い殷勤を通ぜしむ。文君、夜亡げて相如に奔る。相如乃ち与に馳せて成都に帰る。家居徒だ四壁立つのみ」(相如乃使人重賜文君侍者通殷勤。文君夜亡奔相如。相如乃與馳歸成都。家居徒四壁立)とあるのに基づく。ウィキソース「史記/卷117」参照。
- 無 … 『古今詩刪』では「徒」に作る。
- 不知貧 … 貧乏など一向に苦にしない。貧乏など気にもしない。
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