江陵望幸(杜甫)
江陵望幸
江陵にて幸を望む
江陵にて幸を望む
- 〔テキスト〕 『唐詩選』巻四、『全唐詩』巻二百三十二、『宋本杜工部集』巻十七、『九家集注杜詩』巻三十四(『杜詩引得』第二冊)、『杜陵詩史』巻三十(『杜詩又叢』所収)、『分門集注杜工部詩』巻四(『四部叢刊 初編集部』所収)、『草堂詩箋補遺』巻八(『古逸叢書』所収)、『銭注杜詩』巻十七、『杜詩詳注』巻十二、『読杜心解』巻五之二、『杜詩鏡銓』巻十、『唐詩品彙』巻七十五、他
- 五言排律。神・秦・人・巡・臣・鱗(平声真韻)。
- ウィキソース「江陵望幸」「分門集註杜工部詩 (四部叢刊本)/卷第四」参照。
- 江陵 … 今の湖北省荊州市。ウィキペディア【荊州市】参照。『読史方輿紀要』に「天宝の初め、改めて江陵郡と為す。乾元の初め、故に復す。上元の初め、南都を置き、江陵府と升す」(天寶初、改爲江陵郡。乾元初、復故。上元初、置南都、升江陵府)とある。升は、成る。ウィキソース「讀史方輿紀要/卷七十八」参照。
- 幸 … 「みゆき」とも読む。天子が出かけることをいう敬語。行幸。
- 望 … 待ち望む。期待する。
- 広徳元年(763)冬、代宗は吐蕃の乱を避けて陝州(今の河南省三門峡市)に避難していた。この詩は、作者が閬州(今の四川省南充市閬中市)にあって、江陵に行幸されると伝え聞いての作。ただし、実際には行幸されなかった。
- 杜甫 … 712~770。盛唐の詩人。襄陽(湖北省)の人。字は子美。祖父は初唐の詩人、杜審言。若い頃、科挙を受験したが及第できず、各地を放浪して李白らと親交を結んだ。安史の乱では賊軍に捕らえられたが、やがて脱出し、新帝粛宗のもとで左拾遺に任じられた。その翌年左遷されたため官を捨てた。四十八歳の時、成都(四川省成都市)の近くの浣花渓に草堂を建てて四年ほど過ごしたが、再び各地を転々とし一生を終えた。中国最高の詩人として「詩聖」と呼ばれ、李白とともに「李杜」と並称される。『杜工部集』がある。ウィキペディア【杜甫】参照。
雄都元壯麗
雄都 元と壮麗
- 雄都 … 雄大な都。江陵を指す。
- 元 … もともと。『唐詩選』では「最」に作る。
- 壮麗 … 規模が大きく、立派で美しいこと。『史記』高祖本紀に「天子は四海を以て家と為す。壮麗に非ざれば以て威を重くする無し」(天子以四海爲家。非壯麗無以重威)とある。ウィキソース「史記/卷008」参照。
望幸欻威神
幸を望まば欻ち威神あらん
- 望幸 … 顔延之の「車駕京口に幸し、三月三日、侍して曲阿の後湖に遊ぶの作」(『文選』巻二十二)に「春方に辰駕を動かし、幸を望みて五州を傾く」(春方動辰駕、望幸傾五州)とある。ウィキソース「車駕幸京口三月三日侍遊曲阿後湖作」参照。
- 欻 … たちまち。突然。にわかに。「忽ち」と同じ。
- 威神 … 堂々とした気高さ。尊厳さ。揚雄の「甘泉の賦」(『文選』巻七)に「帝居の県圃に配し、泰壱の威神に象る」(配帝居之縣圃兮、象泰壹之威神)とある。ウィキソース「甘泉賦」参照。また王延寿の「魯の霊光殿の賦」(『文選』巻十一)に「状は積石の鏘鏘たるが若く、又帝室の威神に似る」(狀若積石之鏘鏘、又似乎帝室之威神)とあり、その注に「威神は、尊厳を言うなり」(威神、言尊嚴也)とある。ウィキソース「昭明文選/卷11」参照。
地利西通蜀
地利 西のかた蜀に通じ
天文北照秦
天文 北のかた秦を照らす
- 天文 … 天体の現象。日月星辰。謝霊運の「会吟行」(『文選』巻二十八、『楽府詩集』巻六十四)に「列宿は天文を炳らし、負海は地理に横たわる」(列宿炳天文、負海橫地理)とある。列宿は、大空に連なる多くの星。ウィキソース「昭明文選/卷28」参照。
- 北 … 「きたのかた」と読み、「北のほうで」と訳す。
- 秦 … 秦の地。ここでは都のある長安を指す。
風煙含越鳥
風煙 越鳥を含み
舟楫控吳人
舟楫 呉人を控く
- 舟楫 … 舟と櫂。舟のこと。ここでは舟が長江を往来していることを指す。『易経』繋辞下伝に「舟楫の利、以て通ぜざるを済し、遠きに致して以て天下を利す」(舟楫之利、以濟不通、致遠以利天下)とある。ウィキソース「易傳/繫辭下」参照。
- 呉人 … 呉の地方の人々。今の江蘇省の人々。
- 控 … 引き寄せる。
未枉周王駕
未だ枉げず 周王の駕
- 未枉 … まだ天子が車の向きをかえて立ち寄られたことがない。枉は、無理に都合をつけて、の意。
- 周王駕 … 周の穆王の車。天子の行幸の車駕に喩える。周の穆王は八匹の駿馬をつけた馬車に乗って神仙の国を求めて諸国を津々浦々まで周遊したという。『列子』周穆王篇に「命じて八駿の乗に駕せしめ、……別日に崑崙の丘に升り、以て黄帝の宮を観て、之に封じて以て後世に詒す。遂に西王母に賓とし、瑶池の上に觴す」(命駕八駿之乘、……別日升於崑崙之丘、以觀黃帝之宮、而封之以詒後世。遂賓於西王母、觴於瑤池之上)とある。詒は、伝える。西王母は、崑崙山に住んでいた仙女の名。觴は、酒を飲ませること。ウィキソース「列子/周穆王篇」参照。また『春秋左氏伝』昭公十二年に「昔、穆王、其の心を肆にせんと欲し、天下を周行して、将に皆必ず車轍馬跡有らんとす」(昔穆王欲肆其心、周行天下、將皆必有車轍馬跡焉)とある。周行は、めぐり行くこと。車轍馬跡は、車の轍と馬の足跡をつける。全国津々浦々まで周遊すること。ウィキソース「春秋左氏傳/昭公」参照。
終期漢武巡
終に期す 漢武の巡
- 終期 … 何としても期待される。
- 漢武巡 … 漢の武帝の巡幸。ここでは現在の天子である代宗の江陵への巡幸に喩える。『史記』孝武本紀に「其の明年冬、上、南郡を巡る。江陵に至りて東し、登りて潜の天柱山を礼す。号して南岳と曰う」(其明年冬、上巡南郡。至江陵而東、禮潛之天柱山。號曰南嶽)とある。潜は、今の安徽省潜山市。ウィキソース「史記/卷012」参照。また『漢書』武帝本紀に「五年冬、行きて南のかた巡狩し、盛唐に至り、虞舜を九嶷に望祀す」(五年冬、行南巡狩、至于盛唐、望祀虞舜于九嶷)とある。巡狩は、天子が諸国を回り国内の治安や、人民の生活態度を視察すること。九嶷は、九嶷山。湖南省寧遠県にある。帝舜を葬ったという伝説の地。望祀は、山川を遠くから望んで、山川の神々をその格に従って、順に祀ること。ウィキソース「漢書/卷006」参照。なお「盛唐」については、その注に「韋昭曰く、南郡に在り」(韋昭曰、在南郡)とある。『漢書評林』巻六(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 巡 … 『宋本』『分門集注本』『草堂詩箋補遺』『唐詩品彙』では「廵」に作る。異体字。
甲兵分聖旨
甲兵 聖旨を分ち
- 甲兵 … 鎧と武器。ここでは武装した兵士を指す。『詩経』秦風・無衣の詩に「我が甲兵を脩め、子と偕に行かん」(脩我甲兵、與子偕行)とある。ウィキソース「詩經/無衣」参照。
- 聖旨 … 天子の思し召し。天子のご命令。『後漢書』蔡邕伝に「臣伏して聖旨を読む。周成風に遇うと雖も、諸を執事に訊う」(臣伏讀聖旨。雖周成遇風、訊諸執事)とある。ウィキソース「後漢書/卷60下」参照。また『漢書』陳湯伝に「聖指を承け、神霊に倚る」(承聖指、倚神靈)とある。ウィキソース「漢書/卷070」参照。
- 旨 … 『唐詩品彙』では「㫖」に作る。『分門集注本』では「」に作る。ともに異体字。
- 分 … 兵士を分配する。江陵の地の警備にあたること。
居守付宗臣
居守 宗臣に付す
- 居守 … 留守居役。『春秋左氏伝』閔公二年に「君行けば則ち守り、守り有れば則ち従う」(君行則守、有守則從)とある。ウィキソース「春秋左氏傳/閔公」参照。また『史記』留侯世家に「群臣の居守するもの、皆送りて灞上に至る」(羣臣居守、皆送至灞上)とある。ウィキソース「史記/卷055」参照。なお、このとき郭子儀が都長安の留守居役に命ぜられている。『旧唐書』代宗紀に「郭子儀を以て京留守と為す」(以郭子儀爲京留守)とある。京留守は、天子の行幸や出陣の間、都を守る役。ウィキソース「舊唐書/卷11」参照。郭子儀については、ウィキペディア【郭子儀】参照。
- 宗臣 … 重要な役職にあり、世間から尊ばれている臣下。重臣。『漢書』蕭何伝に「一代の宗臣たり」(爲一代之宗臣)とある。ウィキソース「漢書/卷039」参照。
- 付 … 任されている。付託されている。預けられている。
早發雲臺仗
早く雲台の仗を発して
- 雲台仗 … 雲台の儀仗兵。雲台は、漢の宮中の高台。洛陽の南宮の中にある。後漢の明帝(在位57~75)が、父である光武帝(在位25~57)の名将二十八人の肖像をここに描かせた。「後漢書二十八将伝論」(『文選』巻五十)に「永平中、顕宗前世の功臣を追感し、乃ち二十八将を南宮雲台に図画せしむ」(永平中、顯宗追感前世功臣、乃圖畫二十八將於南宮雲臺)とある。ウィキソース「後漢書二十八將傳論」参照。ウィキペディア【雲台二十八将】参照。また庾信の「哀江南の賦」に「北闕の兵無きに非ざれども、猶お雲台の仗有るがごとし」(非無北闕之兵、猶有雲臺之仗)とある。ウィキソース「哀江南賦」参照。
- 仗 … 『全唐詩』には「一作路」とある。仗は、武器。転じて儀仗兵。天子の護衛兵。近衛兵。
- 発 … 出発させる。
恩波起涸鱗
恩波 涸鱗を起さんことを
- 恩波 … 天子の恩沢。天子の恵み。広く行き渡ることを波に喩える。丘遅の「讌に楽遊苑に侍し、張徐州を送る、詔に応ぜし詩」(『文選』巻二十)に「参差として別念挙がり、粛穆として恩波被る」(參差別念擧、肅穆恩波被)とある。ウィキソース「侍讌樂遊苑送張徐州應詔詩」参照。
- 涸鱗 … 水が涸れて、干からびかかった魚。困窮している人民に喩える。轍の中の涸れかけた水の中にいる鮒が、通りかかった荘周に救いを求めた。荘周はこれから呉越の王のところへ行くので、蜀江の水を押し流してお前を迎えてやろうと言った。鮒は自分に今必要なのは少しばかりの水であって、いつになるかも分からぬような大河の水ではないと言ったという、『荘子』外物篇に出てくる「涸轍の鮒魚」の故事を踏まえる。「荘周、家貧なり。故に往きて粟を監河侯に貸る。監河侯曰く、諾。我将に邑金を得んとす。将に子に三百金を貸さんとす、可ならんか、と。荘周、忿然として色を作して曰く、周、昨来るとき、中道にして呼ぶ者有り。周、顧視すれば、車轍中に鮒魚有り。周、之に問いて曰く、鮒魚来れ、子は何為る者ぞや、と。対えて曰く、我は東海の波臣なり。君豈に斗升の水有りて我を活かさんか、と。周曰く、諾。我且に南のかた呉越の王に遊ばんとす。西江の水を激して子を迎えん、可ならんか、と。鮒魚、忿然として色を作して曰く、吾は我が常与を失い、我、処る所無し。吾、斗升の水を得ば然も活きんのみ。君乃ち此を言う。曾ち早く我を枯魚の肆に索めんには如かず、と」(莊周家貧。故往貸粟於監河侯。監河侯曰、諾。我將得邑金。將貸子三百金、可乎。莊周忿然作色曰、周昨來、有中道而呼者。周顧視、車轍中有鮒魚焉。周問之曰、鮒魚來、子何爲者耶。對曰、我東海之波臣也。君豈有斗升之水而活我哉。周曰、諾。我且南遊吳越之王。激西江之水而迎子、可乎。鮒魚忿然作色曰、吾失我常與、我無所處。吾得斗升之水然活耳。君乃言此。曾不如早索我於枯魚之肆)とある。ウィキソース「莊子/外物」参照。また駱賓王の「疇昔篇」に「涸鱗轍を去って還た海に遊ぶ」(涸鱗去轍還遊海)とある。ウィキソース「疇昔篇」参照。
- 起 … 再起させていただきたい。助け起こしていただきたい。
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