>   論語   >   微子第十八   >   8

微子第十八 8 逸民章

468(18-08)
逸民、伯夷・叔齊・虞仲・夷逸・朱張・柳下惠・少連。子曰、不降其志、不辱其身、伯夷・叔齊與。謂柳下惠・少連。降志辱身矣、言中倫、行中慮。其斯而已矣。謂虞仲・夷逸。隱居放言、身中清、廢中權。我則異於是。無可無不可。
逸民いつみんには、はくしゅくせいちゅういつしゅちょうりゅうけいしょうれんあり。いわく、こころざしくださず、はづかしめざるは、はくしゅくせいか。りゅうけいしょうれんう。こころざしくだはずかしむるも、げんりんあたり、おこないはりょあたる。れのみ。ちゅういつう。隠居いんきょして放言ほうげんし、せいあたり、はいせられてけんあたる。われすなわこれことなり。不可ふかし。
現代語訳
  • 世すてびとは、伯夷・叔斉(セイ)・虞(グ)仲・夷逸・朱張・柳下恵・少連である。先生 ――「理想を低めず、身をけがさないのは、伯夷・叔斉だな。」柳下恵と少連を批評し ――「理想を低め、身もけがしたが…。いうことにスジが通り、することは本気だった、という点だな。」虞仲と夷逸を批評し ――「片すみにいて自由に議論し、身のふりかたはきれいで、ひっこみ時もよかった。だがわしはまた変わっていて、よいともきめないし、わるいともきめない。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 古来の「ちょうえつじん」とでもいうべきぼん賢人けんじんは、はくしゅくせいちゅういつしゅちょうりゅうけいしょうれんである。孔子様が評して言わるるよう、「志を立つることこうしょうにしてくだぐることなく、身を守ること廉潔れんけつにしてはずかしめけがさるることなき者は、伯夷・叔斉であるかな。」次に柳下恵・少連を評して、「伯夷・叔斉とちがって志を降し身をはずかしめるけれども、言葉は義理にかない、行いは常識にあたる。」更に虞仲・夷逸を評して、「隠居いんきょして仕えず、一身のせいじょうを守り、言いたい放題ほうだいを言うようだが、しかし言って善いこと悪いことをみはずさない。」さてご自身のことを言わるるよう、「わしは、これらの『超越人』とはちがって、もなく不可ふかもない平凡人へいぼんじんじゃ。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 古来、野の賢者として名高いのは、はくしゅくせいちゅういつしゅちょうりゅうけいしょうれんなどであるが、先師はいわれた。
    「あくまでも志を曲げず、身を辱かしめなかったのは、伯夷と叔斉であろう」
    柳下恵と少連とについては、つぎのようにいわれた。――
    「志をまげ、身を辱しめて仕えたこともあったが、いうことはあくまでも人倫の道にかなっていたし、行動にも筋道が立っていた。二人はその点だけで、十分立派だ」
    虞仲と夷逸については、つぎのようにいわれた。――
    「隠遁して無遠慮な放言ばかりしていたが、しかし一身を守ることは清かったし、世を捨てたのは時宜に適した道だったと言えるだろう」
    先師は、それにつけ加えてさらにいわれた。――
    「私は、しかし、こうした人たちとはちがう。私は、はじめから隠遁がいいとかわるいとかを決めてかかるような、片意地な態度には出たくないのだ」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 逸民 … 隠棲している賢者。在野の賢人。
  • 伯夷・叔斉 … 周初の賢人兄弟。父が弟の叔斉を跡継ぎにしようとしたが、叔斉は兄の伯夷に譲ろうとし、ついに二人とも国を去り、文王を慕って周に行った。しかし、周の武王が殷のちゅう王を討ったことを、不義であると諫言した。さらに周の穀物を食することを拒み、二人とも首陽山に入って餓死した。清潔・正義の人の代表とされる。ウィキペディア【伯夷・叔斉】参照。
  • 虞仲 … 逸民七人の一人。仲雍とも。周王朝の文王の伯父。文王の祖父、こうたんには三人の息子がおり、長男は泰伯、次男は虞仲、三男は季歴(文王の父)という。古公亶父は季歴を後継者にと考えていたので、泰伯と虞仲は父の意を汲んで荊蛮けいばん(南方の楚や越の地)へ出奔した。ウィキペディア【太伯・虞仲】参照。
  • 夷逸 … 逸民七人の一人。人物については不詳。
  • 朱張 … 逸民七人の一人。人物については不詳。
  • 柳下恵 … 前720~前621。魯の賢人。姓は展、名は獲。あざなきん。展季とも呼ばれた。柳下に住んだという。恵はおくりな。ウィキペディア【柳下惠】(中文)参照。
  • 少連 … 逸民七人の一人。東夷(東方の異民族)の人で、よく喪に服したという(『礼記』雑記下)。
  • 不降其志 … 自分の志を低くしない。理想を高く保つ。
  • 不辱其身 … 自分の身を汚さない。人に頭を下げない。妥協しない。
  • 降志辱身矣 … 志を低くし、身を汚す。理想を捨てて妥協する。
  • 言中倫 … 言葉が道理にかなっている。
  • 行中慮 … 行動・行為が思慮分別にかなっている。
  • 其斯而已矣 … ただそれだけだなあ。
  • 放言 … 言いたい放題に言う。
  • 身中清 … その身の処し方は清廉である。
  • 廃中権 … 世間から捨てられていても、時宜にかなっている。用いられない時の賢明な生き方である。「権」は、その場に応じた生き方。
  • 異於是 … この人々とは違う。「是」は、逸民を指す。
  • 無可無不可 … あらかじめ良し悪しを決めたりしない。一定のやり方にこだわらない。その時々の状況に従って生きていくだけの平凡な人間である。
補説
  • 『注疏』に「此の章は逸民の賢者の行いを論ずるなり」(此章論逸民賢者之行也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 逸民 … 『集解』の何晏の注に「逸民とは、節行の超逸する者なり」(逸民者、節行超逸者也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『集解』に引く包咸の注に「此の七人は、皆逸民の賢者なり」(此七人、皆逸民之賢者也)とある。また『義疏』に「逸民とは、民中節行の超逸して、世に拘わらざる者を謂うなり。其の人下に在り」(逸民者、謂民中節行超逸、不拘於世者也。其人在下)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「逸民は、民の節行の超逸する者を謂うなり。此の七人は皆逸民の賢者なり」(逸民、謂民之節行超逸者也。此七人皆逸民之賢者也)とある。また『集注』に「逸は、遺逸なり。民とは、位無きの称なり。虞仲は、即ち仲雍なり。泰伯と同じく荊蛮にのがるる者なり。夷逸・朱張は、経伝に見えず。少連は、東夷の人なり」(逸、遺逸。民者、無位之稱。虞仲、即仲雍。與泰伯同竄荆蠻者。夷逸、朱張、不見經傳。少連、東夷人)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 伯夷 … 『義疏』に「一人なり」(一人也)とある。
  • 叔斉 … 『義疏』に「二人なり」(二人也)とある。
  • 虞仲 … 『義疏』に「三人なり」(三人也)とある。
  • 夷逸 … 『義疏』に「四人なり」(四人也)とある。
  • 朱張 … 『義疏』に「五人なり」(五人也)とある。
  • 柳下恵 … 『義疏』に「六人なり」(六人也)とある。
  • 少連 … 『義疏』に「七人なり」(七人也)とある。また『礼記』雑記下篇に「孔子曰く、少連・大連、善く喪に居る。三日怠らず、三月おこたらず、期に悲哀し、三年に憂う。東夷の子なり、と」(孔子曰、少連大連、善居喪。三日不怠、三月不解、期悲哀、三年憂。東夷之子也)とある。ウィキソース「禮記/雜記下」参照。
  • 不降其志、不辱其身、伯夷・叔斉与 … 『集解』に引く鄭玄の注に「其の己の心を直くして、庸君の朝に入らざるを言う」(言其直己之心、不入庸君之朝)とある。庸君は、凡庸な君主。また『義疏』に「逸民同じと雖も、而れども其の行事には異なること有り。故に孔子之を評するなり。夷・斉は隠居して餓死す、是れ志を降さざるなり。乱朝に仕えず、是れ身を辱しめざるなり。是の心の迹は倶に超逸なり」(逸民雖同、而其行事有異。故孔子評之也。夷齊隱居餓死、是不降志也。不仕亂朝、是不辱身也。是心迹倶超逸也)とある。また『注疏』に「此の下孔子其の逸民の行いを論ずるなり。言うこころは其の己の心を直くするは、志を降さざるなり。庸君の朝に入らざるは、身を辱めざるなり。惟だ伯夷・叔斉のみ此の行い有るなり」(此下孔子論其逸民之行也。言其直己之心、不降志也。不入庸君之朝、不辱身也。惟伯夷叔齊有此行也)とある。
  • 不辱其身 … 『義疏』では「不辱其身者」に作る。
  • 謂柳下惠・少連。降志辱身矣 … 『義疏』に「此の二人心逸すれども迹逸せざるなり。並びに魯朝に仕う。而して柳下恵は三たびしりぞけらるは、則ち是れ志を降し身を辱しむるなり」(此二人心逸而迹不逸也。竝仕魯朝。而柳下惠三黜、則是降志辱身也)とある。また『注疏』に「又た此の二人の禄を乱朝にむは、是れ志を降し身を辱むるを論ずるなり」(又論此二人食祿亂朝、是降志辱身也)とある。
  • 言中倫、行中慮。其斯而已矣 … 『集解』に引く孔安国の注に「但だ能く言倫理に応じ、行思慮に応ずること、此くの如きのみ」(但能言應倫理、行應思慮、如此而已)とある。また『義疏』に「志を降し身を辱むと雖も、而れども言行必ず倫慮に中る。故に云う、其れ斯れのみ、と」(雖降志辱身、而言行必中於倫慮。故云、其斯而已矣)とある。また『注疏』に「倫は理なり。慮に中るなり。但だ能く言は倫理に応じ、行いは思慮に応ず、此くの如きのみ。世務を以て心にくるをせず、故に亦た之を逸民と謂う」(倫理也。中慮也。但能言應倫理、行應思慮、如此而已。不以世務嬰心、故亦謂之逸民)とある。また『集注』に「柳下恵の事上に見ゆ。倫は、義理の次第なり。慮は、思慮なり。慮に中るは、意義の人心に合すること有るを言う。少連の事考う可からず。然れども記に其の善く喪に居り、三日怠らず、三月おこたらず、期に悲哀し、三年憂うと称すれば、則ち行の慮に中ること、亦た見る可し」(柳下惠事見上。倫、義理之次第也。慮、思慮也。中慮、言有意義合人心。少連事不可考。然記稱其善居喪、三日不怠、三月不解、朞悲哀、三年憂、則行之中慮、亦可見矣)とある。
  • 謂虞仲・夷逸。隠居放言 … 『集解』に引く包咸の注に「放は、置なり。置きて復た世務を言わざるなり」(放、置也。置不復言世務也)とある。また『義疏』に「放は、置なり。幽処に隠居して、世務を廃置す。世務須らく言に及ぶべからざるの者なり」(放、置也。隱居幽處、廢置世務。世務不須及言之者也矣)とある。また『注疏』に「放は、置なり」(放、置也)とある。
  • 身中清、廃中権 … 『集解』に引く馬融の注に「清は、純潔なり。世乱に遭い、自ら廃棄して以て患いを免れ、権にかなうなり」(清、純潔也。遭世亂、自廢棄以免患、合於權也)とある。また『義疏』に「身乱朝に仕えず、是れ清潔に中るなり。事を廃し世の患いを免る、是れ権智に合するなり。故に江熙云う、超然として埃塵の表に出でて、身清に中るなり。晦明以て害より遠ざかり、発動して権に中るなり、と」(身不仕亂朝、是中清潔也。廢事免於世患、是合於權智也。故江熙云、超然出於埃塵之表、身中清也。晦明以遠害、發動中權也)とある。また『注疏』に「清は、純潔なり。権は、常に反するも道に合するなり。孔子又た此の二人の隠遯退居し、言語を放置し、復た其の世務を言わず、其の身は濁世に仕えず、純潔に応じ、世の乱れに遭い、自ら廃棄して以て患いを免れ、権に応ずるを論ずるなり」(清、純潔也。權、反常合道也。孔子又論此二人隱遯退居、放置言語、不復言其世務、其身不仕濁世、應於純潔、遭世亂、自廢棄以免患、應於權也)とある。また『集注』に「仲雍呉に居り、髪を断ち身を文し、裸以て飾と為す。隠居して独り善くするは、道の清に合し、言をほしいままにして自ら廃するは、道の権に合す」(仲雍居呉、斷髪文身、裸以爲飾。隱居獨善、合乎道之清、放言自廢、合乎道之權)とある。
  • 身中清 … 『史記』孔子世家では「行中清」に作る。ウィキソース「史記/卷047」参照。
  • 我則異於是。無可無不可 … 『集解』に引く馬融の注に「亦た必ずしも進まず、亦た必ずしも退かず、唯だ義のみ在る所なり」(亦不必進、亦不必退、唯義所在也)とある。また『義疏』に「我は則ち退きて世に拘らず。故に物と異なること無し。是れ可も無く不可も無き所以なり。江熙云う、夫の迹相明らかなること有り。教えて相資すること有り。数子の若き者は、事既に同じからず。而して我も亦た以て異なること有り。然るに聖賢訓えを致して内外に相為す。彼は往載に協契し、我は此の世に拯溺す。我が異を以てして物を抑えず、彼の異を以てして通滞せず。此れ吾が所謂可も無く不可も無き者なるのみ。豈に此を以て自ら己の異なる所以を目せんや。我が迹の異、蓋し当時に著れん。彼の数子の者も亦た宜しく各〻執る所に滞るべからず。故に其の往行を挙げて、其の会通を存す。将に夫の方類を導きて挹仰する所を以てせんや、と」(我則退不拘於世。故與物無異。所以是無可無不可也。江熙云、夫迹有相明。教有相資。若數子者、事既不同。而我亦有以異矣。然聖賢致訓相爲内外。彼協契於往載、我拯溺於此世。不以我異而抑物、不以彼異而通滯。此吾所謂無可無不可者耳。豈以此自目己之所以異哉。我迹之異、蓋著于當時。彼數子者亦不宜各滯於所執矣。故舉其往行、而存其會通。將以導夫方類所挹仰乎)とある。また『注疏』に「孔子言う、我の行う所は、則ち此の逸民と異なり、亦た必ずしも進まず、亦た必ずしも退かず、唯だ義の在る所のみ、故に可も無く不可も無しと曰うなり、と」(孔子言、我之所行、則與此逸民異、亦不必進、亦不必退、唯義所在、故曰無可無不可也)とある。また『集注』に「孟子曰く、孔子は以て仕う可くんば則ち仕え、以て止まる可くんば則ち止まり、以て久しうす可くんば則ち久しうし、以て速やかにす可くんば則ち速やかにす、と。所謂可も無く不可も無きなり」(孟子曰、孔子可以仕則仕、可以止則止、可以久則久、可以速則速。所謂無可無不可也)とある。
  • 無可無不可 … 宮崎市定は「可とする無く、不可ふかとするも無し」と読んでいる(『論語の新研究』368頁参照)。
  • 『集注』に引く謝良佐の注に「七人隠遯して、汚れざるは則ち同じ。其の心を立て行をいたすは則ち異なり。伯夷・叔斉は、天子に臣を得ず、諸侯も友とすることを得ず。蓋し已に世をのがれ群を離る。聖人に下ること一等なれども、此れ其の最高なるか。柳下恵・少連は、志を降すと雖も而れども己をげず、身を辱むと雖も而れども合するを求めず。其の心にいさぎよしとせざること有るなり。故に言は能く倫に中り、行は能く慮に中る。虞仲・夷逸は、隠居して言をほしいままにすれば、則ち言は先王の法に合せざる者多し。然れども清くして汚れず、権にして宜にかなうなり。方外の士の、義を害し教えを傷りて、大倫を乱す者としなを殊にす。是を以て均しく之を逸民と謂う」(七人隱遯、不汙則同。其立心造行則異。伯夷叔齊、天子不得臣、諸侯不得友。蓋已遯世離群矣。下聖人一等、此其最高與。柳下惠少連、雖降志而不枉己、雖辱身而不求合。其心有不屑也。故言能中倫、行能中慮。虞仲夷逸、隱居放言、則言不合先王之法者多矣。然清而不汙也、權而適宜也。與方外之士、害義傷教、而亂大倫者殊科。是以均謂之逸民)とある。
  • 『集注』に引く尹焞の注に「七人は各〻其の一節を守る。而して孔子は則ち可も無く不可も無し。此れ常に其の可にかないて、逸民の徒に異なる所以なり。揚雄曰く、聖人に観れば、則ち賢人を見る、と。ここを以て孟子、夷・恵を語るに、亦た必ず孔子を以て之を断ず」(七人各守其一節。而孔子則無可無不可。此所以常適其可、而異於逸民之徒也。揚雄曰、觀乎聖人、則見賢人。是以孟子語夷惠、亦必以孔子斷之)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「或ひと虞仲を以て泰伯の弟仲雍と為す、然れども泰伯死して仲雍其の位を継ぐ、則ち之を逸民と謂う可からず。且つ生まるること伯夷の前に在れば、則ち夫子之を叔斉の下に列す可からざるなり。恐らくは別に是れ一人ならん」(或以虞仲爲秦伯弟仲雍、然秦伯死仲雍繼其位、則不可謂之逸民。且生在於伯夷之前、則夫子不可列之於叔齊之下也。恐別是一人)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「虞仲、朱註は以て太伯の弟と為す。仁斎先生は泰伯死し、仲雍継ぎて立つ、又た伯夷の前に生まるるを以てして、其の逸民と称してこれを叔斉のしもに列するを疑う。と為す。……言倫に中り、行慮に中るは、蓋し其の言行聖人の倫慮に暗合するなり。……朱子乃ち曰く、倫は、義理の次第なり、と。此くの如く書を解せば、豈に解く可からざる者有らんや。……各〻条理有りてみだれず、是れ倫なり。人に五倫有るが如き、蓋し父子には父子の道有り、君臣には君臣の道有り、夫婦には夫婦の道有りて、得て同じうす可からず。是れ所謂倫なり。……蓋し慮とは、委曲して以て行い、ちょくすいを以てせざるなり。古聖人の行いにも、亦た必ず時有りてか之れ有り。孔子の陽貨に於けるが如き、是れなり。……虞仲・夷逸、隠居放言するに、則ち其の言取る可き者有ること莫し。但だ其の隠居する所以の者は、其の身を潔くするに在り。是れ古聖人の道に合す。故に身清に中ると曰う。……可も無く不可も無しとは、朱註孟子を引く、なり。……而うして其の所謂可の字は、義の可否を以て之を言う。……此の章の意は、伯夷已下いかの七人、皆道行う可からずして隠る、孔子は則ち此に異なり、道大にして徳ひろし、故に孔子に在りては、則ち道行う可からざるの世無きなり、……凡そ此の不可は、皆道行う可からざるを以て之を言う。此の章の可・不可と同義なり」(虞仲、朱註以爲太伯弟。仁齋先生以泰伯死、仲雍繼立、又生於伯夷之前、而疑其稱逸民列諸叔齊之下。爲是。……言中倫、行中慮、蓋其言行暗合聖人之倫慮也。……朱子乃曰、倫、義理之次第也。如此解書、豈有不可解者乎。……各有條理而不紊、是倫也。如人有五倫、蓋父子有父子之道、君臣有君臣之道、夫婦有夫婦之道、不可得而同。是所謂倫也。……蓋慮者、委曲以行、不以直遂也。古聖人之行、亦必有時乎有之。如孔子之於陽貨、是也。……虞仲夷逸、隱居放言、則其言莫有可取者矣。但其所以隱居者、在潔其身。是合於古聖人之道。故曰身中清。……無可無不可者、朱註引孟子、非也。……而其所謂可字、以義之可否言之。……此章之意、伯夷已下七人、皆道不可行而隱矣、孔子則異於此焉、道大德宏、故在孔子、則無道不可行之世也、……凡此不可、皆以道不可行言之。與此章可不可同義)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
学而第一 為政第二
八佾第三 里仁第四
公冶長第五 雍也第六
述而第七 泰伯第八
子罕第九 郷党第十
先進第十一 顔淵第十二
子路第十三 憲問第十四
衛霊公第十五 季氏第十六
陽貨第十七 微子第十八
子張第十九 堯曰第二十