述而第七 14 冉有曰夫子爲衞君乎章
161(07-14)
冉有曰、夫子爲衞君乎。子貢曰、諾。吾將問之。入曰、伯夷叔齊何人也。曰、古之賢人也。曰、怨乎。曰、求仁而得仁。又何怨。出曰、夫子不爲也。
冉有曰、夫子爲衞君乎。子貢曰、諾。吾將問之。入曰、伯夷叔齊何人也。曰、古之賢人也。曰、怨乎。曰、求仁而得仁。又何怨。出曰、夫子不爲也。
冉有曰く、夫子は衛の君を為けんか。子貢曰く、諾。吾将に之を問わんとす。入りて曰く、伯夷・叔斉は何人ぞや。曰く、古の賢人なり。曰く、怨みたるか。曰く、仁を求めて仁を得たり。又何をか怨みん。出でて曰く、夫子は為けざるなり。
現代語訳
- 冉(ゼン)有 ―― 「先生は衛の殿さまにみかたするかな…。」子貢 ―― 「そうだな、ぼくがきいてみよう。」奥にいって ―― 「伯夷・叔斉(セイ)は、どんな人でした…。」先生 ――「昔のえらい人だ。」 ―― 「不平家ですか…。」先生 ――「生きがいを求めて生き得たら、不平があるものか。」出てきて ―― 「先生はみかたしないよ。」(魚返善雄『論語新訳』)
- 冉有が「先生は衛君父子のどちらかを援助なさるだろうか。」と言った。子貢が「よろしい。僕が一つおたずねしてみよう。」というので、孔子様のお部屋に行き、問答した。「伯夷・叔斉というのはどういう人でござりますか。」「昔の賢人じゃ。」「後に悔い怨んだでござりましょうか。」「仁を得ようと願って仁を得たのだから、何の悔い怨むことがあろうか。」そこで子貢が引きさがって来て言うには、「先生は衛君父子のどちらをも援助なさらん。」(穂積重遠『新訳論語』)
- 冉有がいった。――
「先生は衛の君を援けられるだろうか」
子貢がいった。――
「よろしい。私がおたずねしてみよう」
彼は先師のお室に入ってたずねた。――
「伯夷・叔斉はどういう人でございましょう」
先師はこたえられた。――
「古代の賢人だ」
子貢――
「二人は自分たちのやったことを、あとでくやんだのでしょうか」
先師――
「仁を求めて仁を行なうことができたのだから、なんのくやむところがあろう」
子貢は先師のお室からさがって、冉有にいった。――
「先生は衛の君をお援けにはならない」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
- この章は、孔子たちが衛の国に滞在し、そこで内乱に遭遇したときの逸話である。霊公の太子蒯聵は、霊公の夫人南子が不品行であったため、殺そうとしたが失敗し、晋国に亡命した。その後、霊公が死去、蒯聵の子輒が即位し、出公と称した。そこで晋の趙鞅が蒯聵を即位させようとして晋国の軍隊を派遣し、衛に攻め入った。この戦いは十数年続いた。ウィキペディア【荘公蒯聵】参照。
- 冉有 … 前522~?。孔門十哲のひとり。姓は冉、名は求。字は子有。政治的才能があり、季氏の宰(家老)となった。孔子より二十九歳年少。冉求、冉子とも。ウィキペディア【冉有】参照。
- 夫子 … 賢者・先生・年長者を呼ぶ尊称。ここでは孔子の弟子たちが孔子を呼ぶ尊称。
- 衛君 … 衛の君主、出公。名は輒。霊公の孫。ウィキペディア【出公 (衛)】参照。
- 為 … 「たすく」と読む。助ける。
- 子貢 … 前520~前446。姓は端木、名は賜。子貢は字。衛の人。孔子より三十一歳年少の門人。孔門十哲のひとり。弁舌・外交に優れていた。また、商才もあり、莫大な財産を残した。ウィキペディア【子貢】参照。
- 諾 … よし。よろしい。
- 伯夷・叔斉 … 周初の賢人兄弟。父が弟の叔斉を跡継ぎにしようとしたが、叔斉は兄の伯夷に譲ろうとし、ついに二人とも国を去り、文王を慕って周に行った。しかし、周の武王が殷の紂王を討ったことを、不義であると諫言した。さらに周の穀物を食することを拒み、二人とも首陽山に入って餓死した。清潔・正義の人の代表とされる。ウィキペディア【伯夷・叔斉】参照。
- 何人也 … どういう人物でしょうか。
- 怨 … 後悔する。
- 求仁而得仁 … 人の道を求めて、人の道を行い得たのだ。
- 又何怨乎 … どうして後悔などするものか。
- 夫子不為也 … 先生はお助けにはならないよ。
補説
- 『注疏』に「此の章は孔子の仁・譲を崇ぶを記するなり」(此章記孔子崇仁讓也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 冉有 … 『孔子家語』七十二弟子解に「冉求は字は子有。仲弓の宗族なり。孔子より少きこと二十九歳。才芸有り。政事を以て名を著す。仕えて季氏の宰と為る。進めば則ち其の官職を理め、退けば則ち教えを聖師に受く。性たること多く謙退す。故に子曰く、求や退、故に之を進ましむ、と」(冉求字子有。仲弓之宗族。少孔子二十九歳。有才藝。以政事著名。仕爲季氏宰。進則理其官職、退則受教聖師。爲性多謙退。故子曰、求也退、故進之)とある。ウィキソース「家語 (四庫全書本)/卷09」参照。また『史記』仲尼弟子列伝に「冉求、字は子有。孔子より少きこと二十九歳。季氏の宰と為る」(冉求字子有。少孔子二十九歳。爲季氏宰)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。
- 夫子為衛君乎 … 『集解』に引く鄭玄の注に「為は、猶お助のごときなり。衛君とは、輒を謂うなり。衛の霊公太子の蒯聵を逐い、公薨じて孫の輒を立つるなり。後に晋の趙鞅蒯聵を戚に納れ、衛の石曼姑、師を帥いて之を囲む。故に其の意輒を助くるや否やを問う」(爲、猶助也。衞君者、謂輒也。衞靈公逐太子蒯聵、公薨而立孫輒也。後晉趙鞅納蒯聵于戚、衞石曼姑帥師圍之。故問其意助輒否乎)とある。なお、底本では孔安国の注とするが、諸本に従い鄭玄に改めた。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「為は、猶お助のごとし。衛君は輒を謂うなり。衛の霊公は太子の蒯聵を逐う。霊公は魯の哀公二年、夏四月薨ずるを以て、而して蒯聵の子輒を立て衛君と為す。孔子時に衛に在りて、輒の賓接する所と為る。後に蒯聵は還って輒の国を奪う。父子相囲む。時人は多く孔子応に輒を助けて父を拒むべきかと疑う。故に冉有物の疑いを伝えて、以て子貢に問うなり。故に江熙曰く、夫子衛に在りて、輒の賓主を受く。悠悠たる者或いは之を為けんやと疑う、故に問うなり、と」(爲、猶助。衞君謂輒也。衞靈公逐太子蒯聵。靈公以魯哀公二年、夏四月薨、而立蒯聵之子輒爲衞君。孔子時在衞、爲輒所賓接。後蒯聵還奪輒國。父子相圍。時人多疑孔子應助輒拒父。故冉有傳物之疑、以問子貢也。故江熙曰、夫子在衞、受輒賓主。悠悠者或疑爲之、故問也)とある。なお、底本の「不奪」は四庫全書本に従い「還奪」に改めた。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「為は、猶お助のごときなり。衛君は、出公輒を謂うなり。衛の霊公太子蒯瞶を逐い、公薨じて孫の輒を立つ。輒は即ち蒯瞶の子なり。後に晋の趙鞅蒯瞶を戚城に納る。衛の石曼姑師を帥いて之を囲む。子にして父を拒むは、悪行の甚だしきなり。時に孔子衛に在りて、輒の賓礼する所と為る。人は孔子の輒を助くるかを疑う、故に冉有其の友に言問して曰く、夫子の意は輒を助くるや不や、と」(爲、猶助也。衞君、謂出公輒也。衞靈公逐太子蒯瞶、公薨而立孫輒。輒即蒯瞶之子也。後晉趙鞅納蒯瞶於戚城。衞石曼姑帥師圍之。子而拒父、惡行之甚。時孔子在衞、爲輒所賓禮。人疑孔子助輒、故冉有言問其友曰、夫子之意助輒不乎)とある。また『集注』に「為は、猶お助のごときなり。衛君は、出公輒なり」(爲、猶助也。衞君、出公輒也)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 子貢 … 『史記』仲尼弟子列伝に「端木賜は、衛人、字は子貢、孔子より少きこと三十一歳。子貢、利口巧辞なり。孔子常に其の弁を黜く」(端木賜、衞人、字子貢、少孔子三十一歳。子貢利口巧辭。孔子常黜其辯)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。また『孔子家語』七十二弟子解に「端木賜は、字は子貢、衛人。口才有りて名を著す」(端木賜、字子貢、衞人。有口才著名)とある。ウィキソース「孔子家語/卷九」参照。
- 子貢曰、諾。吾将問之 … 『義疏』に「子貢冉有に答うるなり。故に先ず応諾して言う、吾将に入りて孔子の輒を助くるや不やを問わんとす、と」(子貢答冉有也。故先應諾言、吾將入問於孔子助輒不也)とある。また『注疏』に「子貢冉有の問いを承け、其の意も亦た未だ決せず、故に其の言を諾ない、我将に入りて夫子に問わんとし、其の助くるや不やを知らんことを庶うなり」(子貢承冉有之問、其意亦未決、故諾其言、我將入問夫子、庶知其助不也)とある。また『集注』に「霊公、其の世子蒯聵を逐う。公薨じて、国人蒯聵の子輒を立つ。是に於いて晋蒯聵を納れんとするに、輒之を拒む。時に孔子衛に居る。衛人以えらく蒯聵は罪を父に得て、輒は嫡孫にして当に立つべし。故に冉有疑いて之を問う。諾は、応ずる辞なり」(靈公、逐其世子蒯聵。公薨、而國人立蒯聵之子輒。於是晉納蒯聵、而輒拒之。時孔子居衞。衞人以蒯聵得罪於父、而輒嫡孫當立。故冉有疑而問之。諾、應辭也)とある。
- 入曰、伯夷叔斉何人也 … 『義疏』に「此れ子貢入りて孔子に問うの辞なり。輒を助くるや不やを問わずして、夷・斉を問う所以は、衛の君の事を斥し言わんことを欲せず、故に微理を以て之を志に求むるなり。伯夷・叔斉は兄弟国を譲る、而して輒は父子位を争う、其の事已に反す、故に夷・斉は何人ぞやと問う。若し孔子答うるに夷・斉を以て非と為さば、則ち輒を助くることを知らん。若し夷・斉を以て是と為さば、則ち輒を助けざることを知らん」(此子貢入問孔子之辭也。所以不問助輒不、而問夷齊者、不欲斥言衞君事、故以微理求之志也。伯夷叔齊兄弟讓國、而輒父子争位、其事已反、故問夷齊何人。若孔子答以夷齊爲非、則知助輒。若以夷齊爲是、則知不助輒也)とある。また『注疏』に「此れ子貢の孔子に問う辞なり。伯夷・叔斉は、孤竹君の二子なり。兄弟国を譲りて遠く去り、餓死に終わる。今衛は乃ち父子国を争い、争・譲は、正に反す。夷・斉を挙げて問いを為す所以は、子貢の意は言う、夫子若し衛君を助けずんば、応に夷・斉を言いて是と為すべし。夫子若し衛君を助くれば、応に夷・斉を言いて非と為すべし、と。故に入りて問いて曰く、伯夷・叔斉は何人ぞや、と」(此子貢問孔子辭也。伯夷叔齊、孤竹君之二子。兄弟讓國遠去、終於餓死。今衞乃父子爭國、爭讓、正反。所以舉夷齊爲問者、子貢意言、夫子若不助衞君、應言夷齊爲是。夫子若助衞君、應言夷齊爲非。故入問曰、伯夷叔齊何人也)とある。また『集注』に「伯夷・叔斉は、孤竹君の二子なり。其の父将に死せんとするに、遺命して叔斉を立てんとす。父卒し、叔斉は伯夷に遜らんとす。伯夷曰く、父の命なり、と。遂に逃れ去る。叔斉も亦た立たずして之を逃る。国人其の中子を立つ。其の後武王紂を伐つ。夷・斉馬を扣えて諫む。武王商を滅ぼす。夷・斉周の粟を食むを恥じ、去りて首陽山に隠れ、遂に餓えて死す」(伯夷叔齊、孤竹君之二子。其父將死、遺命立叔齊。父卒、叔齊遜伯夷。伯夷曰、父命也。遂逃去。叔齊亦不立而逃之。國人立其中子。其後武王伐紂。夷齊扣馬而諫。武王滅商。夷齊耻食周粟、去隠於首陽山、遂餓而死)とある。
- 曰、古之賢人也 … 『義疏』では「子曰、古之賢人也」に作る。
- 古之賢人也 … 『義疏』に「子貢に答うるなり。言うこころは夷・斉は是れ古えの賢人なり」(答子貢也。言夷齊是古賢人也)とある。また『注疏』に「孔子答えて言う、是れ古えの譲国の賢人なり、と」(孔子答言、是古之讓國之賢人也)とある。
- 曰、怨乎 … 『義疏』に「怨は、恨なり。子貢又た問う、夷・斉怨恨有りや不や。恨有りや不やと問う所以の者は、夷・斉兄弟国を譲りて首陽山の下に隠る。賢人相譲りて飢を致す。飢を致して応に恨みざるべきや」(怨、恨也。子貢又問、夷齊有怨恨不乎。所以問有恨不者、夷齊兄弟讓國隱首陽山下。賢人相讓而致飢。致飢應不恨也)とある。また『注疏』に「此れ子貢復た問いて曰く、夷・斉初めは譲国の賢有りと雖も、而も餓死に終わるは、怨恨無きを得たるや、と。復た此れを問う所以は、子貢の意の言うこころは、若し夫子衛君を助けずんば、応に怨みずと言うべし。若し衛君を助くれば、則ち応に怨むこと有りと言うべきなり」(此子貢復問曰、夷齊初雖有讓國之賢、而終於餓死、得無怨恨邪。所以復問此者、子貢意言、若夫子不助衞君、應言不怨。若助衞君、則應言有怨也)とある。また『集注』に「怨は、猶お悔のごときなり。君子是の邦に居れば、其の大夫を非らず。況んや其の君をや。故に子貢、衛君を斥さずして、夷・斉を以て問を為す。夫子之に告ぐること此くの如くなれば、則ち其の衛君を為けざること知る可し」(怨、猶悔也。君子居是邦、不非其大夫。況其君乎。故子貢不斥衞君、而以夷齊爲問。夫子告之如此、則其不爲衞君可知矣)とある。
- 曰、求仁而得仁。又何怨 … 『集解』に引く孔安国の注に「夷・斉は国を譲りて遠く去り、餓死するに終わる。故に怨みたるかと問う。譲を以て仁と為すに、豈に怨まんや」(夷齊讓國遠去、終於餓死。故問怨乎。以讓爲仁、豈怨乎)とある。また『義疏』に「孔子答えて曰く、怨みざるなり、と。言うこころは兄弟相譲るは、本と仁義を求むればなり。而して万代其の相譲るの徳を美む。是れ仁を求めて仁を得たるなり。之を求めて得たれば、死すと雖も何の怨みか有らん。是れ君子は身を殺して仁を成し、生に安んじて仁を害せず」(孔子答曰、不怨也。言兄弟相讓、本求仁義。而萬代美其相讓之德。是求仁得仁也。求之而得、雖死有何怨。是君子殺身成仁、不安生害仁)とある。また『注疏』に「此れ孔子答えて怨みずと言うなり。初心は国を譲りて仁を為さんことを求むるなり。君子は身を殺して以て仁を成す。夷・斉は餓死するに終わると雖も、仁を成すを得たり。豈に怨むこと有らんや。故に曰く、又た何ぞ怨みん、と」(此孔子答言不怨也。初心讓國求爲仁也。君子殺身以成仁。夷齊雖終於餓死、得成於仁。豈有怨乎。故曰、又何怨)とある。また『集注』に「蓋し伯夷は父の命を以て尊しと為し、叔斉は天倫を以て重しと為す。其の国を遜るや、皆天理の正に合して、人心の安きの即く所以を求む。既にして各〻其の志を得れば、則ち其の国を棄つるを視ること、猶お敝蹝のごときのみ。何の怨むことか之れ有らん。衛の輒の国に拠りて父を拒みて、唯だ之を失うを恐るるが若きは、其れ年を同じくして語る可からざること明らかなり」(蓋伯夷以父命爲尊、叔齊以天倫爲重。其遜國也、皆求所以合乎天理之正、而即乎人心之安。既而各得其志焉、則視棄其國、猶敝蹝爾。何怨之有。若衞輒之據國拒父、而唯恐失之、其不可同年而語明矣)とある。敝蹝は、破れたわら靴。
- 又何怨 … 『義疏』では「又何怨乎」に作る。
- 出曰、夫子不為也 … 『集解』に引く鄭玄の注に「父子国を争うは、悪行なり。孔子は伯夷・叔斉を以て賢にして且つ仁と為す。故に衛君を助けざること明らかなるを知るなり」(父子爭國、惡行也。孔子以伯夷叔齊爲賢且仁。故知不助衞君明也)とある。また『義疏』に「子貢既に孔子の夷・斉の譲を以て賢と為し仁と為すを聞く。故に輒の父子国を争うを悪と為すを知るなり。所以に冉有に答えて云う、夫子は衛君を為けざるなり、と」(子貢既聞孔子以夷齊之讓爲賢爲仁。故知輒父子爭國爲惡也。所以答冉有云、夫子不爲衞君也)とある。また『注疏』に「子貢既に問いて出で、冉有に見えて之に告げて曰く、夫子は衛君を助けざるなり、と。其の父子国を争うは悪行なるを知ればなり。孔子は伯夷・叔斉を以て賢にして且つ仁と為す、故に衛君を助けざること明らかなるを知るなり」(子貢既問而出、見冉有而告之曰、夫子不助衞君也。知其父子爭國惡行也。孔子以伯夷叔齊爲賢且仁、故知不助衞君明矣)とある。また『集注』に引く程頤の注に「伯夷・叔斉は、国を遜りて逃れ、伐つを諫めて餓う。終に怨み悔ゆること無し。夫子以て賢と為す。故に其の輒に与えざるを知るなり」(伯夷叔齊、遜國而逃、諫伐而餓。終無怨悔。夫子以爲賢。故知其不與輒也)とある。
- 伊藤仁斎『論語古義』に「夷・斉の事、伝記詳らかならず、孟子称す、其の君に非ざれば事えず、其の友に非ざれば友とせず、悪人の朝に立たず、悪人と言わずと。史記に載する所、兄弟国を遜るの事、考え信ずるに足らず、故に特に孟子に依って断を為す。……子貢深く聖人の心を識るに非ざれば、則ち之を問うに此くの如くなること能わず。而して又た以て聖人一言を人に仮さざるの誠と、其の言う所は即ち其の行う所と、少しくも差違せざること、猶お日月星辰の天に運りて、其の進退躔度、皆此に測り識る可きがごとくなるかを観るに足れり」(夷齊之事、傳記不詳、孟子稱、非其君不事、非其友不友、不立於惡人之朝、不與惡人言。史記所載、兄弟遜國之事、不足考信、故特依孟子爲斷。……非子貢深識聖人之心、則不能問之如此。而又足以觀聖人不假一言於人之誠、與其所言即其所行、不少差違、猶日月星辰之運于天、而其進退躔度、皆可測識於此也)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 荻生徂徠『論語徴』に「伯夷・叔斉が伐を諫めしの事は、信ず可からず。……二人は譲を以て聞こゆ。而うして孔門に称せられず、独り不仁を悪むを以て称す。其の迹父に得ずして怨むが若きに似たり。故に子貢は怨みたるかを以て之を問う。……宋儒仁を以て心の徳とし、又た一事の仁有りと謂う、是れ其の病根なり、加うるに古言に昧きを以てす、従う可からず。夷・斉は不仁を悪み、孔子之を賢とす、其の輒を為けざること知る可し」(伯夷叔齊諫伐之事、不可信矣。……二人以讓聞。而不稱於孔門、獨以惡不仁稱。其迹似不得乎父而若怨。故子貢以怨乎問之。……宋儒以仁爲心之德、又謂有一事之仁、是其病根、加以昧乎古言、不可從矣。夷齊惡不仁、孔子賢之、其不爲輒可知焉)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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