季氏第十六 12 齊景公有馬千駟章
432(16-12)
〔誠不以富、亦祇以異。〕 齊景公有馬千駟。死之日、民無德而稱焉。伯夷叔齊、餓于首陽之下。民到于今稱之。其斯之謂與。
〔誠不以富、亦祇以異。〕 齊景公有馬千駟。死之日、民無德而稱焉。伯夷叔齊、餓于首陽之下。民到于今稱之。其斯之謂與。
〔誠に富を以てせず、亦た祇に異なるを以てす。〕 斉の景公には馬千駟有り。死するの日、民徳として称する無し。伯夷・叔斉は、首陽の下に餓う。民今に到るまで之を称す。其れ斯の謂か。
現代語訳
- 斉(セイ)の景(殿)さまは馬を四千頭も持っていたが、なくなったあと、人民がほめるような点はなかった。伯夷・叔斉(セイ)は、首陽山にうもれてうえ死にしたが、人民は今でもほめそやす。……あれはこのことをいうんだな。(魚返善雄『論語新訳』)
- 斉の景公は馬四千匹をもっていたというほどの富貴を極めたが、その死後人民が誰一人徳ありとしてほめる者がなかった。伯夷・叔斉は首陽山のほとりで餓死するという悲惨な最期を遂げたが、人民は今日までもその徳をたたえる。孔子がこの事実を指摘して申すよう、「詩に『人がほめるは富ならで、人に異なる徳のため』とあるのは、ここの所でござる。」(穂積重遠『新訳論語』)
- 先師がいわれた。――
「斉の景公は馬四千頭を養っていたほど富んでいたが、その死にあたって、人民はだれ一人としてその徳をたたえるものがなかった。伯夷叔斉は首陽山のふもとで飢え死にしたが、人民は今にいたるまでその徳をたたえている。詩経に、
黄金も玉も何かせん
心ばえこそ尊けれ。
とあるが、そういうことをいったものであろう」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
- 誠不以富。亦祇以異 … 人の価値は富があるからではない。ただ人と異なる仁徳があるからである。錯簡(文章が入れ違っていること)。「顔淵第十二10」から移植。『詩経』小雅・我行其野の詩からの引用。「誠」は『詩経』では「成」に作る。ウィキソース「詩經/我行其野」参照。
- 斉 … 周代に太公望呂尚の建てた国。今の山東省に存在した。桓公の代に管仲を用いて覇者となった。戦国時代の斉(田斉)と区別して姜斉ともいう。ウィキペディア【姜斉】参照。
- 景公 … 春秋時代、斉の君主。在位前547~前490。霊公の子、荘公の弟。名は杵臼。ウィキペディア【景公 (斉)】参照。
- 千駟 … 四千頭。「駟」は、四頭立ての馬車。
- 称 … 称賛する。褒め称える。
- 伯夷・叔斉 … 周初の賢人兄弟。父が弟の叔斉を跡継ぎにしようとしたが、叔斉は兄の伯夷に譲ろうとし、ついに二人とも国を去り、文王を慕って周に行った。しかし、周の武王が殷の紂王を討ったことを、不義であると諫言した。さらに周の穀物を食することを拒み、二人とも首陽山に入って餓死した。清潔・正義の人の代表とされる。ウィキペディア【伯夷・叔斉】参照。
- 首陽 … 首陽山。伯夷と叔斉がこの山にこもり、餓死したと伝えられる山。その所在地については諸説あり、はっきりしない。ウィキペディア【首阳山】(中文)参照。
- 謂 … ~ということ。~という意味。
補説
- 『注疏』に「此の章は徳を貴ぶなり」(此章貴德也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 斉景公有馬千駟 … 『集解』に引く孔安国の注に「千駟は、四千匹なり」(千駟、四千匹也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「千駟は、四千匹の馬なり」(千駟、四千匹馬也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「景公は、斉君。景は、謚なり。馬四匹を駟と為せば、千駟は、四千匹なり」(景公、齊君。景、謚也。馬四匹爲駟、千駟、四千匹也)とある。また『集注』に「駟は、四馬なり」(駟、四馬也)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 死之日、民無徳而称焉 … 『義疏』に「生時徳無くして馬多し。一たび死すれば、則ち身と名と倶に消ゆ。故に民称誉する所無きなり」(生時無德而多馬。一死、則身名倶消。故民無所稱譽也)とある。また『注疏』に「斉君景公は千駟を富有すと雖も、其の死するに及びてや、徳の称す可きもの無きを言う」(言齊君景公雖富有千駟、及其死也、無德可稱)とある。
- 民無徳 … 『義疏』では「民無得」に作る。
- 而称焉 … 『義疏』に「而」の字なし。
- 伯夷叔斉、餓于首陽之下 … 『集解』に引く馬融の注に「首陽山は、河東の蒲坂、華山の北、河曲の中に在るなり」(首陽山、在河東蒲坂、華山之北、河曲之中也)とある。また『義疏』に「夷・斉は、是れ孤竹君の二子なり。兄弟国を譲り、遂に入りて首陽の山に隠る。武王紂を伐たんとす。夷・斉は武王の馬を叩えて諫めて曰く、臣たるに君を伐つ。豈に忠たるを得んや。尸を横にして葬らず。豈に孝たるを得んや、と。武王の左右之を殺さんと欲す。太公曰く、此れ孤竹君の子なり。兄弟国を譲る。大王制するを然りとせざるなり。首陽山に隠る。合して方に義を立つ、殺す可からず。是れ賢人なり、と。即ち止むなり。夷・斉は首陽山に反る。周を責めて周の粟を食まず、唯だ草木を食らうのみ。後、遼西の令支県の祐家白・張石虎は、蒲坂に往きて材を採る。夷・斉に謂いて云う、汝周の粟を食まず、何ぞ周の草木を食らうや、と。夷・斉言を聞き、即ち遂に食らわず、七日にして餓死す。首陽の下と云えるは、山の辺側に在る者なり」(夷齊、是孤竹君之二子也。兄弟讓國、遂入隱於首陽之山。武王伐紂。夷齊叩武王馬諫曰、爲臣伐君。豈得忠乎。横尸不葬。豈得孝乎。武王左右欲殺之。太公曰、此孤竹君之子。兄弟讓國。大王不然制也。隱於首陽山。合方立義、不可殺。是賢人。即止也。夷齊反首陽山。責周不食周粟、唯食草木而已。後遼西令支縣祐家白張石虎、往蒲坂採材。謂夷齊云、汝不食周粟、何食周草木。夷齊聞言、即遂不食、七日餓死。云首陽下者、在山邊側者也)とある。また『注疏』に「夷・斉は、孤竹君の二子なり。位を譲りて周に適き、武王の紂を伐たんとするに遇い、之を諫むるも入れられず。武王の既に紂を誅つに及び、義として周の粟を食まず。故の河東郡蒲坂県の首陽山の下に、薇を采りて食らい、終に餓死す」(夷齊、孤竹君之二子。讓位適周、遇武王伐紂、諫之不入。及武王既誅紂、義不食周粟。故于河東郡蒲坂縣首陽山下、采薇而食、終餓死)とある。また『集注』に「首陽は、山の名」(首陽、山名)とある。
- 民到于今称之 … 『集解』に引く王粛の注に「此れ所謂徳を以て称せらるる者なり」(此所謂以德爲稱者也)とある。また『義疏』に「馬無くして餓死すと雖も、而れども民孔子の時に至るまで、相伝揄揚すること愈〻盛んなり」(雖無馬而餓死、而民至孔子之時、相傳揄揚愈盛也)とある。また『注疏』に「窮餓すと雖然も、民今に到るまで之を称して、以て古えの賢人と為す」(雖然窮餓、民到于今稱之、以爲古之賢人)とある。
- 其斯之謂与 …『義疏』に「斯は、此なり。言うこころは馬多けれども徳無ければ、亦た死すれば即ち消ゆ。餓すと雖も、而れども徳有りて、義と称せらるれば息むこと無し。言うこころは徳有ることは重んぜざる可からず。其れ此の謂なり」(斯、此也。言多馬而無德、亦死即消。雖餓、而有德、稱義無息。言有德不可不重。其此之謂也)とある。また『注疏』に「其の此れ所謂徳を以て称せらるる者なるか」(其此所謂以德爲稱者與)とある。
- 『集注』に引く胡寅の注に「程子以て第十二篇の錯簡、誠に富を以てせず、亦た祇に異なれるを以てすの、当に此の章の首に在るべしと為す。今文勢を詳らかにするに、当に此の句の上に在るべきに似たり。言うこころは人の称する所は、富に在らずして異に在るなり」(程子以爲第十二篇錯簡、誠不以富、亦祇以異、當在此章之首。今詳文勢、似當在此句之上。言人之所稱、不在於富而在於異也)とある。
- 『集注』に「愚謂えらく、此の説是に近し。而して章首当に孔子曰の字有るべし。蓋し闕文なるのみ。大抵此の書の後の十篇闕誤多し」(愚謂、此説近是。而章首當有孔子曰字。蓋闕文耳。大抵此書後十篇多闕誤)とある。闕誤は、欠けて誤りがあること。闕文や誤記があること。
- 伊藤仁斎『論語古義』に「此れ万乗の君と雖も、然れども徳の称す可き無ければ、則ち曾て匹夫に之れ若かざるを言う。……嗚呼人君の尊きを以てして、下匹夫と比ぶるを得ず。豈に閔む可からざらんや」(此言雖萬乘之君、然無德之可稱、則曾匹夫之不若。……嗚呼以人君之尊、而不得下與匹夫比。豈不可閔哉)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 荻生徂徠『論語徴』に「死するの日、民徳て称すること無し、徳は即ち得の字、音を以て誤る」(死之日、民無德而稱焉、德即得字、以音誤)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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