子路第十三 4 樊遅請學稼章
306(13-04)
樊遲請學稼。子曰、吾不如老農。請學爲圃。曰、吾不如老圃。樊遲出。子曰、小人哉樊須也。上好禮、則民莫敢不敬。上好義、則民莫敢不服。上好信、則民莫敢不用情。夫如是、則四方之民、襁負其子而至矣。焉用稼。
樊遲請學稼。子曰、吾不如老農。請學爲圃。曰、吾不如老圃。樊遲出。子曰、小人哉樊須也。上好禮、則民莫敢不敬。上好義、則民莫敢不服。上好信、則民莫敢不用情。夫如是、則四方之民、襁負其子而至矣。焉用稼。
樊遅稼を学ばんと請う。子曰く、吾は老農に如かず。圃を為ることを学ばんと請う。曰く、吾は老圃に如かず。樊遅出づ。子曰く、小人なるかな樊須や。上礼を好めば、則ち民敢えて敬せざる莫し。上義を好めば、則ち民敢えて服せざる莫し。上信を好めば、則ち民敢えて情を用いざる莫し。夫れ是くの如くなれば、則ち四方の民、其の子を襁負して至らん。焉くんぞ稼を用いん。
現代語訳
- 樊(ハン)遅が農業をならいたがる。先生 ――「わしは古い百姓にかなわん。」園芸をならいたがる。先生 ――「わしは古い畑つくりにかなわん。」樊遅が帰ったあと、先生 ――「小つぶだなあ、樊須は。上の者に規律があれば、人民はうやまわずにはおかぬ。上の者が公平であれば、人民はしたがわずにはおかぬ。上の者が誠実であれば、人民もまごころなしではすまさぬ。そういうふうだと、どちらの人民も、子をおんぶしてでもくるだろう。なにも農業を利用しなくても。」(魚返善雄『論語新訳』)
- 樊遅が五穀を作ることを教えていただきたいとお願いしたら、孔子様が「田を作らせてはわしは老練な農夫にはかなわん。」と言われた。さらに野菜を作ることを教えていただきたいとお願いしたら、「畑を作らせてはわしは老練な畑師にはかなわん。」と言われた。樊遅がそのまま要領を得ずに引下がったので、他の門人たちにおっしゃるよう、「小人物であるわい樊須は。上に立つ人が礼を好んで人民を扱えば、人民が尊敬しないはずはない。上に立つ人が義を好んで行うところが正しければ、人民が服従しないはずはない。上に立つ人が信を好んで誠実であれば、人民に人情の出ないはずはない。そういうことになれば、一国の民だけでなく、天下の人が子をおぶって領内に来り集り、田畑を作るだろう。何で自身農耕を学ぶ必要があろうや。」(穂積重遠『新訳論語』)
- 樊遅が穀物の作り方を教えていただきたいと先師に願った。先師はこたえられた。――
「私は老農には及ばないよ」
樊遅は、すると、野菜の作り方を教えていただきたいと願った。先師はこたえられた。――
「私は老園芸家には及ばないよ」
樊遅がひきさがると、先師はいわれた。――
「樊須は人物が小さい。上に立つ者が礼を好めば、人民が上を敬しないことはない。上に立つ者が義を好めば、人民が上に服しないことはない。上に立つ者が信を好めば、人民が不人情になることはない。そして、そうなれば、人民はその徳を慕い、四方の国々から子供をおぶって集ってくるであろう。為政者に農業技術の知識などなんの必要もないことだ」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
- 樊遅 … 前515?~?。孔子の弟子。姓は樊、名は須、字は子遅。魯の人。孔子より三十六歳(四十六歳)年少。ウィキペディア【樊须】(中文)参照。
- 稼 … 穀物を作ること。五穀を作ること。五穀は、稲(米)・黍(もちきび)・稷(こうりゃん)・麦・菽(豆)のことを指すが、諸説あって一定しない。我が国では、米・麦・粟・黍・豆をいう。
- 老農 … 年老いて、熟練した農夫。
- 為圃 … 野菜を作ること。「圃」は、野菜畑。
- 老圃 … 「老農」に同じ。
- 小人哉 … 人物が小さいなあ。
- 須 … 樊遅の名。
- 義 … 正しいこと。
- 服 … 服従する。
- 信 … 信義。約束を誠実に守ること。
- 情 … 真心。誠実な心。
- 襁負 … 帯ひもで幼児を背負うこと。「襁」は、幼児を背負う帯。
- 焉 … 「いずくんぞ~ん(や)」と読み、「どうして~であろうか(いや~でない)」と訳す。方法を問う反語の意を示す。
補説
- 『注疏』に「此の章は礼義・忠信をば治民の要と為すを言う」(此章、言禮義忠信爲治民之要)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 樊遅 … 『孔子家語』七十二弟子解に「樊須は魯人、字は子遅。孔子より少きこと四十六歳。弱にして季氏に仕う」(樊須魯人、字子遲。少孔子四十六歳。弱仕於季氏)とある。ウィキソース「孔子家語/卷九」参照。また『史記』仲尼弟子列伝には「樊須、字は子遅。孔子より少きこと三十六歳」(樊須字子遲。少孔子三十六歳)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。
- 樊遅請学稼 … 『集解』に引く馬融の注に「五穀を樹うるを稼と曰う」(樹五穀曰稼)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「樊須、字は子遅。稼とは、穀を種うるの名なり。樊遅は孔子に請いて、五穀を種うるの術を学ばんことを求むるなり」(樊須字子遲。稼者、種穀之名。樊遲請於孔子、求學種五穀之術也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「五穀を樹うるを稼と曰う。弟子の樊須、夫子に播種の法を学ばんことを請い、以て民に教えんことを欲するなり」(樹五穀曰稼。弟子樊須請於夫子學播種之法、欲以教民也)とある。また『集注』に「五穀を種うるを稼と曰う」(種五穀曰稼)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 子曰、吾不如老農 … 『義疏』に「農とは、濃なり。是れ田を耕すの人なり。言うこころは田を耕すは、国家の倉廩をして濃厚ならしむる所以なり。樊遅既に稼を孔子に学ばんことを請う。孔子言えらく、我が門唯だ先王の典籍有るのみ。耕稼の所に非ず。汝若し稼を学ばんことを欲すれば、当に農夫の老者に就いて之を学ぶべし、と。故に云う、吾は老農に如かず、と」(農者、濃也。是耕田之人也。言耕田、所以使國家倉廩濃厚也。樊遲既請學稼於孔子。孔子言、我門唯有先王之典籍。非耕稼之所。汝若欲學稼、當就農夫之老者學之。故云、吾不如老農)とある。また『注疏』に「孔子其の礼義を学ばずして稼種を学ぶを怒る。故に之を拒みて曰く、稼種の事は、吾れ久老の農夫に如かざるなり、と」(孔子怒其不學禮義而學稼種。故拒之曰、稼種之事、吾不如久老之農夫也)とある。
- 請学為圃… 『集解』に引く馬融の注に「菜蔬を樹うるを圃と曰うなり」(樹菜蔬曰圃也)とある。また『義疏』に「圃とは、菜を種うるの事なり。既に農を請うも許さず。又た更に孔子に就いて菜を種うるの術を学ばんことを求むるなり」(圃者、種菜之事也。既請農不許。又更就孔子求學種菜之術也)とある。また『注疏』に「菜蔬を樹うるを圃と曰う。樊遅又た夫子に菜蔬を樹蓺するの法を学ばんことを請う」(樹菜蔬曰圃。樊遲又請於夫子學樹蓺菜蔬之法)とある。また『集注』に「蔬菜を種うるを圃と曰う」(種蔬菜曰圃)とある。
- 曰、吾不如老圃 … 『義疏』に「又た答えて云う、我は菜を種うるの老圃に如かざる者なり、と」(又答云、我不如種菜之老圃者也)とある。また『注疏』に「亦た其の請うを拒むなり。言うこころは菜蔬を樹蓺するの法は、吾れ久老の圃を為る者に如かず」(亦拒其請也。言樹蓺菜蔬之法、吾不如久老爲圃者)とある。
- 曰、吾不如 … 『義疏』では「子曰、不如」に作る
- 樊遲出 … 『義疏』に「既に二者を請うも師の許す所と為さず。故に出で去る」(既請二者不爲師所許。故出去)とある。
- 子曰、小人哉樊須也 … 『義疏』に「小人は是れ利を貪る者なり。樊遅出でて後、孔子名を呼びて之を罵る。君子は義に喩り、小人は利に喩る。樊遅は孔子の門に在るも、仁義忠信の道を学ぶことを請わずして、利を求むるの術を学ばんとす。故に云う、小人なるかな、と」(小人是貪利者也。樊遲出後孔子呼名罵之。君子喩於義、小人喩於利。樊遲在孔子之門、不請學仁義忠信之道、而學求利之術。故云、小人也)とある。また『注疏』に「樊遅既に請いて出づれば、夫子諸弟子と言いて曰く、小人なるかな此の樊須や、と。其の礼義を学ばずして農圃を学ぶことを謂う。故に小人と曰うなり」(樊遲既請而出、夫子與諸弟子言曰、小人哉此樊須也。謂其不學禮義而學農圃。故曰小人也)とある。また『集注』に「小人は、細民を謂う。孟子謂う所の小人の事なる者なり」(小人、謂細民。孟子所謂小人之事者也)とある。
- 上好礼、則民莫敢不敬 … 『義疏』に「之を責めて既に竟う。此れ又た君子の道を学ぶこと、小人の事を学ぶに勝るを説くなり。言うこころは上若し礼を好めば、則ち民下誰か敢えて敬せざらん。故に云う、敢えて敬せざる莫し、と。礼は敬を主とするが故なり」(責之既竟。此又説學君子之道勝學小人之事也。言上若好禮、則民下誰敢不敬。故云、莫敢不敬。禮主敬故也)とある。また『注疏』に「孔子遂に礼義と信とは以て民を教う可きを言うなり。礼は敬せざる毋し。故に上好みて礼を行わば、則ち民之に化し、敢えて敬せざる莫きなり」(孔子遂言禮義與信可以教民也。禮毋不敬。故上好行禮、則民化之、莫敢不敬也)とある。
- 上好義、則民莫敢不服 … 『義疏』に「君若し裁断して宜を得れば、則ち民下皆服す。義とは、宜なり」(君若裁斷得宜、則民下皆服。義者、宜也)とある。また『注疏』に「人義を聞かば則ち服す。故に上好みて義を行わば、則ち民敢えて服せざるは莫きなり」(人聞義則服。故上好行義、則民莫敢不服也)とある。
- 上好信、則民莫敢不用情 … 『集解』に引く孔安国の注に「情は、情実なり。言うこころは民其の上に化せらるるに、各〻情実を以て応ずるなり」(情、情實也。言民化其上、各以情實應也)とある。また『義疏』に「君上若し信ならば、則ち民下尽く敬して復た欺かず。故に相与に皆情理に服するなり。李充云う、情を用うるは、猶お忠を尽くすがごときなり。礼を行えば以て敬を求めずして、民自ら敬す。義を好めば、以て民を服せんとせずして、民自ら服す。信を施せば、以て心を結ばずして、民自ら信を尽くす。言うこころは民の上に従うや、猶お影の形に随うがごときなり、と」(君上若信、則民下盡敬不復欺。故相與皆服於情理也。李充云、用情、猶盡忠也。行禮不以求敬、而民自敬。好義、不以服民、而民自服。施信、不以結心、而民自盡信。言民之從上、猶影之隨形也)とある。また『注疏』に「信を以て物を待てば、物も亦た実を以て之に応ず。故に上若し信を好めば、則ち民は其の情を用いざるは莫し。情は猶お情実のごときなり。言うこころは民は上に各〻実を以て応ずるなり」(以信待物、物亦以實應之。故上若好信、則民莫不用其情。情猶情實也。言民於上各以實應也)とある。また『集注』に「礼・義・信は、大人の事なり。義を好めば、則ち事宜しきに合す。情は、誠実なり。敬、服、情を用うは、蓋し各〻其の類を以て応ずるなり」(禮義信、大人之事也。好義、則事合宜。情、誠實也。敬服用情、蓋各以其類而應也)とある。
- 夫如是、則四方之民、襁負其子而至矣 … 『集解』に引く包咸の注に「負とは器を以て襁と曰うなり」(負者以器曰襁也)とある。また『義疏』に「夫は、発語の端なり。是とは、此なり。子を負うに器を以てするを襁と曰う。言うこころは上若し好んで上の三事を行わば、夫れ此くの如くなるを得て、四方の民大小化に帰せん。故に並びに器其の子を負して来たり至らん。李充云う、子を負うに器を以てすは、化の感ずる所、召さずして自ら来たるを言う、と」(夫、發語端也。是者、此也。負子以器曰襁。言上若好行上三事、夫得如此、四方之民大小歸化。故竝器負其子而來至也。李充云、負子以器、言化之所感、不召而自來)とある。また『注疏』に「此れ又た言うこころは夫の礼義と信とは、以て徳を成し民を化するに足り、是くの如くんば則ち四方の民は感化せられて自ら来たり、皆襁器を以て其の子を背負いて至らん」(此又言夫禮義與信、足以成德化民、如是則四方之民感化自來、皆以襁器背負其子而至矣)とある。また『集注』に「襁は、縷を織りて之を為り、以て小児を背に約する者なり」(襁、織縷爲之、以約小兒於背者)とある。
- 焉用稼 … 『集解』に引く包咸の注に「礼義と信とは、以て徳を成すに足る。何ぞ稼を学ぶを用て民に教えんや」(禮義與信、足以成德。何用學稼教民乎)とある。また『義疏』に「焉は、猶お何のごときなり。此の三事を行いて、四方自ら帰すれば、則ち何ぞ稼を学ぶを用いんや。李充云う、余謂えらく樊遅は入室の流に非ずと雖も、然れども亦た従遊し側に侍し、徳を崇び惑いを弁ずるの義を対揚す。且つ聖教は殷勤にして、唯だ学を先と為す、故に言う、君子は道を謀りて食を謀らず、と。又た曰く、耕すや餒其の中に在り、学ぶや禄其の中に在り、と。而るを遅親しく明誨を稟けて、乃ち圃稼を諮うことは、何ぞ頑固なることの甚だしきや。縦使樊遅学を舎てて生を営まんと欲すれども、猶お聖師の謀ることに非ざることを知るに足らん。将に恐らくは三千の徒、同じく聖門に学ぶと雖も、而れども未だ皆栄禄を忘るること能わず。道教の益、奢惰の患い切なり、簟食して其の楽を改めざるは、唯だ顔回之に堪うるのみ。遅の斯の問い、将に必ず由有らんとす、亦た宰我の喪を問うの謂の如きなり」(焉、猶何也。行此三事、而四方自歸、則何用學稼乎。李充云、余謂樊遲雖非入室之流、然亦從遊侍側、對揚崇德辨惑之義。且聖教殷勤、唯學爲先、故言、君子謀道不謀食。又曰、耕也餒在其中矣、學也祿在其中矣。而遲親稟明誨、乃諮圃稼、何頑固之甚哉。縱使樊遲欲舍學營生、猶足知非聖師之謀矣。將恐三千之徒、雖同學聖門、而未能皆忘榮祿。道教之益、奢惰之患切、簟食不改其樂者、唯顏回堪之耳。遲之斯問、將必有由、亦如宰我問喪之謂也)とある。また『注疏』に「何ぞ稼を学びて以て民に教うるを用いんや」(何用學稼以教民乎)とある。
- 『集注』に引く楊時の注に「樊須、聖人の門に遊びて、稼圃を問う。志則ち陋なり。辞して之を闢けば可なり。其の出づるを待ちて、而る後に其の非を言うは何ぞや。蓋し其の問いに於けるや、自ら農圃に之れ如かずと謂えば、則ち之を拒む者至れり。須の学、疑うらくは此に及ばずして、問うこと能わず。三隅を以て反する能わず。故に復びせず。其の既に出づるに及べば、則ち其の終に喩らざるを懼るるなり。老農老圃を求めて学べば、則ち其の失は愈〻遠し。故に復た之を言い、前に言う所の者は意在ること有るを知らしむるなり」(樊須遊聖人之門、而問稼圃。志則陋矣。辭而闢之可也。待其出而後言其非何也。蓋於其問也、自謂農圃之不如、則拒之者至矣。須之學、疑不及此、而不能問。不能以三隅反矣。故不復。及其既出、則懼其終不喩也。求老農老圃而學焉、則其失愈遠矣。故復言之、使知前所言者意有在也)とある。
- 伊藤仁斎『論語古義』に「論に曰く、聖門の学は、経世の学なり。……固より士の為すことを羞じざる所の者なり。……世を遯るるを高しと為す者は、孔孟の心を知る者に非ざることを知る可きなり、と」(論曰、聖門之學、經世之學也。……固士之所不羞爲者。……可知遯世爲高者、非知孔孟之心者也)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 荻生徂徠『論語徴』に「孔子は鄙事に多能なり。……故に樊遅之を学ばんと請う。其の失亦た漢の文の蒼生を問わず鬼神を問うが如し。孔子答えざる所以なり。……昔在唐虞・后稷稼穡に勤む。……春秋の時の如きは、乏しき所は君子の人にして、樊遅乃ち君子を是れ学ばずして、細民の事を学ぶ。豈に謬りならずや。……仁斎古えの聖賢漁釣版築に隠るというを引きて、樊遅を以て世を遯れ自ら高くする者と為す。吁、世を遯るるを高しと為す者、豈に稼圃を学ばんや。……情を用うと云う者は其の情を匿さざるを謂うなり。……民の治め難き所以の者は、其の情の識る可からざるを以てなり。……又た孔子多く其の非を面斥せずして、其の出づるを待ちて言う者は、師は厳にして友は親し。故に朋友をして其の言を伝えしむ。礼爾りと為す」(孔子多能鄙事。……故樊遲請學之。其失亦如漢文不問蒼生問鬼神焉。孔子所以不答也。……昔在唐虞后稷勤稼穡。……如春秋時、所乏君子之人、而樊遲乃不君子是學、而學細民之事。豈不謬乎。……仁齋引古聖賢隱於漁釣版築、而以樊遲爲遯世自高者。吁、遯世爲高者、豈學稼圃哉。……用情云者謂不匿其情也。……民之所以難治者、以其情不可識也。……又孔子多不面斥其非、待其出而言者、師嚴而友親。故使朋友傳其言。禮爲爾)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
こちらの章もオススメ!
学而第一 | 為政第二 |
八佾第三 | 里仁第四 |
公冶長第五 | 雍也第六 |
述而第七 | 泰伯第八 |
子罕第九 | 郷党第十 |
先進第十一 | 顔淵第十二 |
子路第十三 | 憲問第十四 |
衛霊公第十五 | 季氏第十六 |
陽貨第十七 | 微子第十八 |
子張第十九 | 堯曰第二十 |