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子路第十三 5 子曰誦詩三百章

307(13-05)
子曰、誦詩三百、授之以政不達。使於四方、不能專對、雖多亦奚以爲。
いわく、さんびゃくしょうすれども、これさずくるにまつりごともってしてたっせず。ほう使つかいして、専対せんたいすることあたわずんば、おおしといえどなにもっさん。
現代語訳
  • 先生 ――「詩を三百も知っていながら、政治をやらせるとダメで、外交官として応対もできないのでは、多く知っていてもなんの役にたとう…。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様がおっしゃるよう、「詩はただの文藝ぶんげいのみではないのであって、人情風俗に通ぜしめ言葉づかいを美しくさせるものである。しかるに『詩経』三百篇をあんしょうすることができても、政治をやらせてみると一向いっこう行きとどかず、他国へ使いに出すとひとりではりん応変おうへんの応対もできないようなことでは、物知りだとて何の役に立とうぞ。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師がいわれた。――
    「詩経にある三百篇の詩をそらんずることができても、政治をゆだねられて満足にその任務が果たせず、諸侯の国に使して自分の責任において応対ができないというようでは、なんのためにたくさんの詩を暗んじているのかわからない」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 詩三百 … 『詩経』三百篇。「三百」とは、概数。現今の『詩経』は三百五篇。もともと三百十一篇あったが、そのうちの六篇は題名のみ伝わる。孔子が編集したといわれている。ウィキペディア【詩経】参照。
  • 誦 … 暗誦する。
  • 授之以政 … その人に政治を任せる。「之」は、『詩経』三百篇を全部暗誦している人。
  • 不達 … うまくこなせない。任務を果たせない。
  • 四方 … 周りの国々。「四方」は、東西南北の四つの方角のこと。
  • 専対 … 外交使節として自分の考えだけで応対する。当時は『詩経』の詩句を引用して会話したという。
  • 雖多 … 詩をいくらたくさん暗誦していたとしても。
  • 奚以為 … 何の役に立とうか、いや、立たない。反語の形。「奚」は「何」に同じ。
補説
  • 『注疏』に「此の章は人の才学は適用を貴び、若し多く学ぶも用うること能わざるは、則ち学ばざるが如きを言うなり」(此章言人之才學貴於適用、若多學而不能用、則如不學也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 誦詩三百 … 『義疏』に「文を用いず、文に背きて念ずるを誦と曰う。亦た曰く、口読するを誦と曰う、と。詩に三百五篇有るに、三百と云えるは全数を挙ぐるなり。人能く詩を誦するの至りを言うなり」(不用文、背文而念曰誦。亦曰、口讀曰誦。詩有三百五篇、云三百舉全數也。言人能誦詩之至也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「誦はふうしょうを謂う。周礼の注に云う、倍文を諷と曰う。声を以て之を節するを誦と曰う、と。詩に国風・雅・頌、凡て三百五篇有りて、皆天子・諸侯の政を言うなり」(誦謂諷誦。周禮注云、倍文曰諷。以聲節之曰誦。詩有國風雅頌、凡三百五篇、皆言天子諸侯之政也)とある。
  • 授之以政不達 … 『義疏』に「達は、猶お暁のごときなり。詩に六義有り。国風・二雅並びに是れ政を為すの法なり。今、政を授くるに此を与うるも、詩を誦するの人、暁解する能わざるなり。袁氏云う、詩に三百篇有り。是を以て政を為す者なり、と」(達、猶曉也。詩有六義。國風二雅竝是爲政之法。今授政與此、誦詩之人、不能曉解也。袁氏云、詩有三百篇。是以爲政者也)とある。
  • 使於四方、不能専対、雖多亦奚以為 … 『集解』の何晏の注に「専は、猶お独のごときなり」(專、猶獨也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「専は、猶お独のごときなり。孔子鯉に語げて云う、詩を学ばずんば、以て言うこと無し、と。又た云う、以て群す可く、以て怨む可し。之を近くしては父に事え、之を遠くしては君に事え、多く草木鳥獣の名を識る者なり、と。今、此の詩を誦するの人をして隣国に聘問せしむるに、専ら独り応対すること能わざるなり。袁氏云う、古人使いし、詩を賦して答対す、と。奚は、何なり。詩を誦して宜しく政を暁るべし。而るに今達せず。又た応に専対すべくして、今能わず。復た詩を誦するの多しと雖も、亦た何の為す所を用いんや。故に云う、亦た奚を以て為さん、と」(專、猶獨也。孔子語鯉云、不學詩、無以言。又云、可以羣、可以怨。近之事父、遠之事君、多識於草木鳥獸之名者。今使此誦詩之人聘問鄰國、而不能專獨應對也。袁氏云、古人使、賦詩而答對。奚、何也。誦詩宜曉政。而今不達。又應專對、而今不能。雖復誦詩之多、亦何所爲用哉。故云、亦奚以爲也)とある。また『注疏』に「古えの使いは四方にき、会同の事に、皆詩を賦して以て意をしめすこと有り。今、人有りて能く詩文三百篇の多きを諷誦するも、若し之に授くるに政を以てし、位に居りて民を治めしむるに、通達すること能わず、四方に使いして、独り対うること能わずんば、諷誦すること多しと雖も、亦た何を以て為さん。益する所無きを言うなり」(古者使適四方、有會同之事、皆賦詩以見意。今有人能諷誦詩文三百篇之多、若授之以政、使居位治民、而不能通達、使於四方、不能獨對、諷誦雖多、亦何以爲。言無所益也)とある。また『集注』に「専は、独なり。詩は人情に本づき、物理をぬ。以て風俗の盛衰をしるし、政治の得失を見る可し。其の言は温厚和平、風諭に長ず。故に之を誦する者、必ず政に達して能く言うなり」(專、獨也。詩本人情、該物理。可以驗風俗之盛衰、見政治之得失。其言温厚和平、長於風諭。故誦之者、必達於政而能言也)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 『集注』に引く程顥または程頤の注に「経を窮むるは将に以て用を致さんとするなり。世の詩を誦する者、果たして能く政に従いて専対せんや。然れば則ち其の学ぶ所の者は、章句の末のみ。此れ学者の大患なり」(窮經將以致用也。世之誦詩者、果能從政而專對乎。然則其所學者、章句之末耳。此學者之大患也)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「言うこころは政は大事なり。使いは難事なり。詩を読みて得ること有れば、則ち政に達して使いの事を能くするなり。詩の用広し」(言政大事也。使難事也。讀詩而有得、則達於政而能使事也。詩之用廣矣)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「朱子曰く、詩は人情に本づき、……故に之を誦する者は必ず政に達して能く言うなり、と。善解と謂う可きのみ。然れども朱子の詩を解するは義理を以てす。故にここに人情に本づくと曰うは、人情を主として義理を教うるを言う。……然れども古え詩・書は義の府と謂う所以は何ぞや。……然れども人情をくすは、詩より善きは莫し。故に書は正にして詩は変、詩に非ずんば則ち何を以て善く書の義を用いんや。……其の言温厚和平というに至りては、則ち大いに然らず。……是れ朱子経解の、其の人とりや温柔敦厚とんこうなるは詩の教えなりというを見て、此の言を為すのみ。……詩を学ぶ者の温柔敦厚なるは、性情をくすがための故なり」(朱子曰、詩本人情、……故誦之者必達於政而能言也。可謂善解已。然朱子之解詩以義理。故此曰本人情、言主人情而教義理。……然古所以謂詩書義之府者何也。……然悉人情、莫善於詩。故書正而詩變、非詩則何以善用書之義乎。……至於其言温厚和平者、則大不然矣。……是朱子見經解、其爲人也温柔敦厚詩教也、而爲此言耳。……學詩者之温柔敦厚、爲悉性情故也)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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