雍也第六 26 子見南子章
145(06-26)
子見南子。子路不說。夫子矢之曰、予所否者、天厭之、天厭之。
子見南子。子路不說。夫子矢之曰、予所否者、天厭之、天厭之。
子、南子に見ゆ。子路説ばず。夫子之に矢いて曰く、予が否らざる所の者は、天之を厭てん、天之を厭てん。
現代語訳
- 先生が南子夫人に会うと、子路がいやな顔をした。先生は天にちかって ―― 「わたしに罪があれば、天が見はなす。天が見はなす。」(魚返善雄『論語新訳』)
- 孔子様が衛の国に行かれたとき、霊公夫人の南子にまみえられたので、子路が快からず思った。子路のことだから、不愉快を顔に出しただけでなく、あのような淫婦に会われるとは何事ぞと、口に出して非難したのかも知れない。そこで孔子様が誓言を立てておっしゃるよう、「わしにやましいところがあるならば、お前がとがめるまでもない、天道様が捨ておかれまい、天道様のバチがあたろうぞ。」(穂積重遠『新訳論語』)
- 先師が南子に謁見された。子路がそのことについて遺憾の意を表した。先師は、すると、誓言するようにいわれた。――
「私のやったことが、もし道にかなわなかったとしたら、天がゆるしてはおかれない。天がゆるしてはおかれない」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
- 子路 … 前542~前480。姓は仲、名は由。字は子路、または季路。魯の卞の人。孔門十哲のひとり。孔子より九歳年下。門人中最年長者。政治的才能があり、また正義感が強く武勇にも優れていた。ウィキペディア【子路】参照。
- 南子 … ?~前480。衛の霊公の夫人。不品行であったといわれている。「雍也第六14」に見える宋の公子宋朝の結婚前の恋人。ウィキペディア【南子】参照。
- 夫子 … 賢者・先生・年長者を呼ぶ尊称。ここでは孔子の弟子たちが孔子を呼ぶ尊称。
- 矢 … 誓う。
- 所否者 … 「否」は「不」に同じ。道に外れたところがあれば。
- 天厭之 … 「天之を厭たん」とも読む。天が私を見捨てるであろう。「之」は、孔子を指す。
補説
- 『注疏』に「此の章は孔子の己を屈して、治道を行わんことを求むるなり」(此章孔子屈己、求行治道也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 子見南子 … 『集解』に引く孔安国の注に「等以為えらく、南子とは、衛の霊公の夫人なり。淫乱にして霊公之に惑う。孔子之に見ゆるは、因りて以て霊公に説きて治道を行わしめんと欲すればなり。矢は、誓なり。子路説ばず。故に夫子之に誓う。曰く、道を行うは既に婦人の事に非ず。而れども弟子説ばざれば、之と呪誓す。義疑う可きなり、と」(等以爲、南子者、衞靈公夫人也。淫亂而靈公惑之。孔子見之者、欲因以說靈公使行治道也。矢、誓也。子路不說。故夫子誓之。曰、行道既非婦人之事。而弟子不說、與之咒誓。義可疑也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「南子は衛の霊公の夫人なり。淫乱なれども、孔子衛に入るに、之と相見えんことを欲するなり。相見えんと欲する所以の者は、霊公は唯だ婦の言のみ是れ用うればなり。孔子は南子に因りて霊公を説き、正道を行わしめんと欲するなり。故に繆播曰く、物に応じて択ばざる者は道なり。兼済して辞せざる者は聖なり。霊公無道にして、衆庶困窮す。救いを夫子に鍾まる。物困して以て救わざる可からず。理鍾まりて以て応ぜざる可からず。応に救うべきの道、必ず明らかに路に有り。路南子に由る。故に尼父之を見る。涅すれども緇せざれば、則ち汚に処るも辱められず。可も無く不可も無し。故に兼済して辞せず。道を以て之を観れば、未だ猜う可きこと有らざるなり、と」(南子衞靈公夫人也。淫亂而孔子入衞欲與之相見也。所以欲相見者、靈公唯婦言是用。孔子欲因南子說靈公、使行正道也。故繆播曰、應物而不擇者道也。兼濟而不辭者聖也。靈公無道、衆庶困窮。鍾救於夫子。物困不可以不救。理鍾不可以不應。應救之道、必明有路。路由南子。故尼父見之。涅而不緇、則處汚不辱。無可無不可。故兼濟而不辭。以道觀之、未有可猜也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「南子は、衛の霊公夫人、淫乱にして霊公之に惑う。孔子衛に至り、此の南子に見ゆるは、意は因りて以て霊公に説き、治道を行わしめんと欲するが故なり」(南子、衞靈公夫人、淫亂而靈公惑之。孔子至衞、見此南子、意欲因以説靈公、使行治道故也)とある。また『集注』に「南子は、衛の霊公の夫人、淫行有り。孔子衛に至るに、南子見を請う。孔子辞謝するも、已むことを得ずして之に見ゆ」(南子、衞靈公之夫人、有淫行。孔子至衞、南子請見。孔子辭謝、不得已而見之)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 子路 … 『孔子家語』七十二弟子解に「仲由は卞人、字は子路。一の字は季路。孔子より少きこと九歳。勇力才芸有り。政事を以て名を著す。人と為り果烈にして剛直。性、鄙にして変通に達せず。衛に仕えて大夫と為る。蒯聵と其の子輒と国を争うに遇う。子路遂に輒の難に死す。孔子之を痛む。曰く、吾、由有りてより、悪言耳に入らず、と」(仲由卞人、字子路。一字季路。少孔子九歳。有勇力才藝。以政事著名。爲人果烈而剛直。性鄙而不達於變通。仕衞爲大夫。遇蒯聵與其子輒爭國。子路遂死輒難。孔子痛之。曰、自吾有由、而惡言不入於耳)とある。ウィキソース「家語 (四庫全書本)/卷09」参照。また『史記』仲尼弟子列伝に「仲由、字は子路、卞の人なり。孔子よりも少きこと九歳。子路性鄙しく、勇力を好み、志伉直にして、雄鶏を冠し、豭豚を佩び、孔子を陵暴す。孔子、礼を設け、稍く子路を誘う。子路、後に儒服して質を委し、門人に因りて弟子たるを請う」(仲由字子路、卞人也。少孔子九歳。子路性鄙、好勇力、志伉直、冠雄鷄、佩豭豚、陵暴孔子。孔子設禮、稍誘子路。子路後儒服委質、因門人請爲弟子)とある。伉直は、心が強くて素直なこと。豭豚は、オスの豚の皮を剣の飾りにしたもの。委質は、はじめて仕官すること。ここでは孔子に弟子入りすること。ウィキソース「史記/卷067」参照。
- 子路不説 … 『義疏』に「子路時に夫子に随いて衛に在り。夫子淫乱の婦人と相見せらる。故に悦ばざるなり。繆播曰く、賢者は節を守る。之を怪しむこと宜なり。或いは亦た孔子の答えを発し、以て衆を暁らしむるを以てするなり、と。王弼曰く、本伝を案ずるに、孔子已むことを得ずして南子に見ゆ、猶お文王の羑里に拘わるるがごとし、蓋し天命の窮会なり。子路以えらく君子は宜しく患辱を防ぐべしと、是を以て悦ばざるなり、と」(子路于時隨夫子在衞。見夫子與淫亂婦人相見。故不悦也。繆播曰、賢者守節。怪之宜也。或以亦發孔子之答、以曉衆也。王弼曰、案本傳、孔子不得已而見南子、猶文王拘羑里、蓋天命之窮會也。子路以君子宜防患辱、是以不悦也)とある。羑里は、河南省湯陰県の北にあった地名。殷の紂王が周の文王を閉じ込めた所。また『注疏』に「子路の性は剛直、未だ孔子の意に達せず、以為えらく君子は当に義に之れ与に比しむべきに、而も孔子は乃ち淫乱の婦人に見ゆと、故に説楽せず」(子路性剛直、未達孔子之意、以爲君子當義之與比、而孔子乃見淫亂婦人、故不説樂)とある。また『集注』に「蓋し古えは其の国に仕うれば、其の小君に見ゆるの礼有り。而れども子路は夫子の此の淫乱の人に見ゆるを以て辱と為す。故に悦ばず」(蓋古者仕於其國、有見其小君之禮。而子路以夫子見此淫亂之人爲辱。故不悦)とある。
- 不説 … 『義疏』では「不悦」に作る。
- 夫子矢之曰 … 『義疏』に「矢は、誓なり」(矢、誓也)とある。また『注疏』に「矢は、誓なり。子路の説ばざるを以て、故に夫子之に告誓す」(矢、誓也。以子路不説、故夫子告誓之)とある。また『集注』に「矢は、誓うなり」(矢、誓也)とある。
- 予所否者、天厭之。天厭之 … 『義疏』に「否は、不なり。厭は、塞なり。子路既に悦ばず。而るに孔子之と呪誓するなり。言うこころは我南子を見、若し不善の事有らば、則ち天当に我が道を厭塞すべきなり。繆播曰く、否は、不なり。言うこころは聖を体して聖者の事を為さずんば、天其れ此の道を厭塞せんや、と。王弼曰く、否泰命有り、我の屈して世に用いられざる所は、乃ち天命之を厭がる、言うこころは人事の免るる所に非ざるなり。重ねて之を言う者は、其の言を誓う所以なり、と。蔡謨曰く、矢は、陳なり。尚書の叙に曰く、臯陶厥の謀を矢ぶ、と。春秋の経に曰く、公魚を棠に矢ぬ、と。皆是なり。夫子子路の為に天命を矢べ陳ぶ、誓うに非ざるなり、と。李充曰く、男女の別は、国の大節なり。聖人は義を明らかにし、内外を教え正す者なり。而るに乃ち常を廃して礼に違いして、淫乱の婦人に見ゆる者は、必ず権道を以てす、由有りて然り。子路悦ばざるは、固に其れ宜なり。夫れ道消し運否なれば、則ち聖人も亦た否なり。故に曰く、予が否らざる所あるは、天之を厭てん、天之を厭てん。厭は亦た否なり、聖人は天地と其の否泰を同じうするを明らかにするのみ。豈に区区として自ら子路に明らかにするのみならんや、と」(否、不也。厭、塞也。子路既不悦。而孔子與之呪誓也。言我見南子、若有不善之事、則天當厭塞我道也。繆播曰、否、不也。言體聖而不爲聖者之事、天其厭塞此道耶。王弼曰、否泰有命、我之所屈不用於世者、乃天命厭之、言非人事所免也。重言之者、所以誓其言也。蔡謨曰、矢、陳也。尚書叙曰、臯陶矢厥謀也。春秋經曰、公矢魚于棠。皆是也。夫子爲子路矢陳天命、非誓也。李充曰、男女之別、國之大節。聖人明義、教正内外者也。而乃廢常違禮、見淫亂之婦人者、必以權道、有由而然。子路不悦、固其宜也。夫道消運否、則聖人亦否。故曰、予所否者、天厭之、天厭之。厭亦否也、明聖人與天地同其否泰耳。豈區區自明於子路而已)とある。また『注疏』に「此れ誓辞なり。予は、我なり。否は、不なり。厭は、棄なり。言うこころは我南子に見えて、治道を行うを求むるを為さざる所の者あらば、願わくば天我を厭棄せよ、と。再び之を言うは、其の誓いを重ねて之を信ぜしめんと欲すればなり」(此誓辭也。予、我也。否、不也。厭、棄也。言我見南子、所不爲求行治道者、願天厭棄我。再言之者、重其誓欲使信之也)とある。また『集注』に「所は、誓辞なり。崔・慶に与せざる所の者を云うの類の如し。否は、礼に合わず、其の道に由らざるを謂うなり。厭は、棄絶なり」(所、誓辭也。如云所不與崔慶者之類。否、謂不合於禮、不由其道也。厭、棄絶也)とある。
- 天厭之 … 宮崎市定は「天厭之は誓いの際の常套語であろう。私の言うことは神かけて偽りがない、の意」と言っている(『論語の新研究』223頁)。
- 『集注』に「聖人の道大にして徳全く、可とするも不可とするも無し。其の悪人に見ゆるも、固より謂えらく、我に在りて見ゆ可きの礼有れば、則ち彼の不善は、我に何ぞ与らんや。然れども此れ豈に子路の能く測る所ならんや。故に重言して以て之を誓う。其の姑く此を信じて深く思いて以て之を得んことを欲するなり」(聖人道大德全、無可不可。其見惡人、固謂在我有可見之禮、則彼之不善、我何與焉。然此豈子路所能測哉。故重言以誓之。欲其姑信此而深思以得之也)とある。
- 伊藤仁斎『論語古義』に「蓋し南子見えんことを請う、亦た其の善意にして、徒に請う者に非ず。故に夫子之を見ゆ。夫れ悪人と雖も、非を悔い過ちを改むるの心有らば、則ち我に在りて見ゆ可からざるの理無し。若し其の嘗て悪を為すを以て、卒に拒ぎ絶たば、則ち是れ道我より絶つ者にして、仁者の本心に非ざるなり。聖人の道大にして徳宏きこと、猶お天地の万物を包涵して、自ら遺す所無きがごとし。何ぞ南子に於いて之を拒まんや。門人之を記する者は、蓋し聖人の道を求めんと要する者は、当に聖人の心を知るべきを欲するなり」(蓋南子請見、亦其善意、而非徒請者。故夫子見之。夫雖惡人、有悔非改過之心、則在我無不可見之理。若以其嘗爲惡、而卒拒絶焉、則是道自我絶者、而非仁者之本心也。聖人道大德宏、猶天地包涵萬物、自無所遺。何於南子而拒之乎哉。門人記之者、蓋欲要求聖人之道者、當知聖人之心也)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 荻生徂徠『論語徴』に「朱子礼を援きて断を為す、甚だ善し。……豈に孔子の南子を見しは、出公の時に在り、而うして南子は呂后の如きか。孔子の之を見しは、蒯聵と出公の父子の際或いは協えるか。是の時に方って、衛は乱れて臣下相疑う。子路の悦ばざるは、豈に蒯聵の国に反るを慮れるか。……然りと雖も、此の事は当時の高第の弟子子路の如き者すら、猶尚孔子の心を知ること能わず、何に況んや千載の下をや。仁斎は朱子が礼を援くの解を削りて妄りに爾く云云するは、醜む可し」(朱子援禮爲斷、甚善。……豈孔子之見南子、在出公之時、而南子如呂后邪。孔子見之、蒯聵出公父子之際或協乎。方是時、衞亂而臣下相疑。子路之不悦、豈慮蒯聵之反國邪。……雖然、此事當時高第弟子如子路者、猶尚不能知孔子之心、何況千載之下乎。仁齋削朱子援禮之解而妄爾云云、可醜)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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