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学而第一 8 子曰君子不重則不威章

008(01-08)
子曰、君子不重則不威。學則不固。主忠信、無友不如己者。過則勿憚改。
いわく、くんおもからざればすなわあらず。まなべばすなわならず。ちゅうしんしゅとし、おのれかざるものともとすることかれ。あやまちてはすなわあらたむるにはばかることかれ。
現代語訳
  • 先生 ――「上の人は軽いと押しがきかぬし、学問も練れない。まごころを第一とし、つまらぬ人とつきあわぬこと。あやまちはアッサリあらためよ。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様がおっしゃるよう、「人の上に立つほどの者は、重々しくドッシリしていなければ、げんがなくて人をふくせしめ得ない。同時にまた学問がないとかたくなになる故、十分道理に通じ知識を広めて、独善におちいらぬようにせねばならぬ。」「人に接するには忠実信義をむねとせよ。自分よりおとった者ばかり仲間にしたがるな。過ちがあったら、つまらぬ体面などにこだわらずアッサリと改めねばならぬ。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師がいわれた。――
    「道に志す人は、つねに言語動作を慎重にしなければならない。でないと、外見が軽っぽく見えるだけでなく、学ぶこともしっかり身につかない。むろん、忠実と信義とを第一義として一切の言動を貫くべきだ。安易に自分より知徳の劣った人と交っていい気になるのは禁物である。人間だから過失はあるだろうが、大事なのは、その過失を即座に勇敢に改めることだ」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 重 … 重々しい。
  • 威 … 威厳。
  • 学 … 学問をする。
  • 固 … 固陋。頑固。かたくな。
  • 忠信 … まごころを尽くし、いつわりのないこと。忠実と信義。
  • 不如己者 … 自分より劣った人。「不如」は「~にしかず」と読み、「~に及ばない」と訳す。
  • 無友 … 友だちにするな。
  • 過 … 過ち。過失。「あやまてば」と読んでもよい。
  • 憚 … 躊躇する。
  • 勿 … 「なかれ」と読み、「~するな」と訳す。禁止の辞。
  • 過則勿憚改 … 解釈については、故事成語「過ちては則ち改むるに憚ること勿かれ」参照。
  • 主忠信、無友不如己者。過則勿憚改 … 「子罕第九24」に重出する。
補説
  • 『注疏』に「此の章は人に君子と為るをすすむるなり」(此章勉人爲君子也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 不重則不威 … 『義疏』に「重を軽根と為し、静を躁本と為す。君子の体は軽薄なる可からざるなり。君子重からざれば、則ち威無し。威無ければ、則ち人之を畏れざるなり」(重爲輕根、靜爲躁本。君子之體不可輕薄也。君子不重、則無威。無威、則人不畏之也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『集注』に「重は、厚重なり。威は、威厳なり」(重、厚重。威、威嚴)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 学則不固 … 『集解』に引く孔安国の注に「固は、蔽なり。一に曰く、言うこころは人は敢えて重からざれば、既に威無く、学も又た堅固にして、其の義理を識る能わざるなり、と」(固、蔽也。一曰、言人不敢重、既無威、學又不能堅固、識其義理也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「言うこころは君子重からざれば、唯だに威無きのみに非ずして、学業も亦た堅固なる能わず。故に孔、後注に云う、言うこころは人敢えて重からず、既に威無ければ、学又た堅固なる能わず、と。其の義理を識るなり」(言君子不重、非唯無威、而學業亦不能堅固也。故孔後注云、言人不敢重、既無威、學又不能堅固。識其義理也)とある。また『注疏』に「其の説に二有り。孔安国曰く、固は、蔽なり、と。言うこころは君子は当に須らく敦重なるべし。若し敦重ならずんば、則ち威厳無し。又た当に先王の道を学びて、以て博聞強識を致すべくんば、則ち固蔽ならざるなり。一に曰く、固は、堅固を謂う、と。言うこころは人敦重なること能わずんば、既に威厳無く、学ぶも又た堅固に其の道理を識ること能わざるなり。須らく敦重なるべきを明らかにするなり」(其説有二。孔安國曰、固、蔽也。言君子當須敦重。若不敦重、則無威嚴。又當學先王之道、以致博聞強識、則不固蔽也。一曰、固、謂堅固。言人不能敦重、既無威嚴、學又不能堅固識其道理也。明須敦重也)とある。また『集注』に「固は、堅固なり。外に軽き者は、必ず内に堅きこと能わず。故に厚重ならざれば、則ち威厳無くして、学ぶ所も亦た堅固ならざるなり」(固、堅固也。輕乎外者、必不能堅乎内。故不厚重、則無威嚴、而所學亦不堅固也)とある。
  • 主忠信 … 『集解』に引く鄭玄の注に「主は、親なり」(主、親也)とある。また『義疏』に「言うこころは君子既に須らく威重あるべし。又た忠信を心と為すことは、百行の主なればなり」(言君子既須威重。又忠信爲心、百行之主也)とある。また『注疏』に「主は、猶お親のごときなり。言うこころは凡そ親狎しんこうする所は、皆須らく忠信有る者なるべきなり」(主、猶親也。言凡所親狎、皆須有忠信者也)とある。また『集注』に「人忠信ならざれば、則ち事は皆実無し。悪を為すは則ち易く、善を為すは則ち難し。故に学者は必ず是を以て主と為す」(人不忠信、則事皆無實。爲惡則易、爲善則難。故學者必以是爲主焉)とある。また『集注』に引く程頤の注に「人道は唯だ忠信に在り。誠ならざれば則ち物無し。且つ出入に時無く、其の郷を知る莫きは、人心なり。若し忠信無くば、豈に復た物有らんや」(人道唯在忠信。不誠則無物。且出入無時、莫知其郷者、人心也。若無忠信、豈復有物乎)とある。
  • 無友不如己者 … 『義疏』に「又た凡そ交わりを結び友を取るには、必ず己にまさらしむるを明らかにす。己にまされば、則ち己、日に益する所有るの義なり。己に如かざるを友とするを得ず。己に如かざるを友とせば、則ち己、日に損する有り。故に己に如かざる者を友とすること無かれと云う。或ひと問いて曰く、若し人、皆己に勝れるを慕いて友と為せば、則ち己に勝れる者、豈に我を友とせんや、と。或る通に云く、友を択ぶこと、必ず忠信なる者を以て主と為す、忠信の己に如かざる者を取らざるのみ、余才を論ぜざるなり、と。或る通に云く、敵すれば則ち友と為す、不敵の者を取らざるなり、と。蔡謨云く、と志を同じうするを言いて友と為す。此の章に言う所は、其の志を慕いて之と同じからんことを思うを謂う、自然に同じきを謂わざるなり、と。夫れかみ、己に勝れるに同じうするときは、進む所以なり。しも己に如かざるに同じうするときは、退く所以なり。閎夭こうようの四賢は、かみ文王を慕う、故に四友は是れ四賢なり、かみ心を文王に同じうし、文王しも四賢に同じきに非ざるなり。然れば則ち友を求むるの道、固に当に賢を見ては斉しからんことを思うべし、志己に勝れるに同じうするときは、徳に進み業を修め、天下の亹亹びびたることを成す所以なり。今言うこころは敵すれば則ち友と為す、此れただに自ずから才同じく徳等しうして相親友せんことを論ずるのみ、夫子の教えを勧むるの本旨に非ざるなり。若し云う所の如きんば、則ち直諒ちょくりょう多聞の益、便辟善柔の誡め、いずくんぞ施す所ならん」(又明凡結交取友、必令勝己。勝己、則己有日所益之義。不得友不如己。友不如己、則己有日損。故云無友不如己者。或問曰、若人、皆慕勝己爲友、則勝己者、豈友我耶。或通云、擇友、必以忠信者爲主、不取忠信不如己者耳、不論餘才也。或通云、敵則爲友、不取不敵者也。蔡謨云、本言同志爲友。此章所言、謂慕其志而思與之同、不謂自然同也。夫上、同乎勝己、所以進也。下同乎不如己、所以退也。閎夭四賢、上慕文王、故四友是四賢、上同心於文王、非文王下同四賢也。然則求友之道、固當見賢思齊、同志於勝己、所以進德修業、成天下之亹亹也。今言敵則爲友、此直自論才同德等而相親友耳、非夫子勸教之本旨也。若如所云、則直諒多聞之益、便辟善柔之誡、奚所施也)とある。また『注疏』に「言うこころは忠信己に如かざる者を以て友と為すを得る無きなり」(言無得以忠信不如己者爲友也)とある。また『集注』に「無は、毋に通ず。禁止の辞なり。友は仁をたすくる所以なり。己に如かざれば、則ち益無くして損有り」(無、毋通。禁止辭也。友所以輔仁。不如己、則無益而有損)とある。
  • 過則勿憚改 … 『集解』に引く鄭玄の注に「憚は、難なり」(憚、難也)とある。また『義疏』に「勿は、猶お莫のごときなり。憚は、難なり。友は切磋を主とす。若し過失有る者には、当に更に相諫諍すべし。改むるに難しとすること莫きなり。一に云く、若し友と結ぶこと過誤あり、善人を得ざれば、則ち之を改め易うるに、之を難くすること莫かれ、と。故に李充云く、若し友其の人を失するときは、之を改むるを貴しと為すなり、と」(勿猶莫也。憚難也。友主切磋。若有過失者、當更相諫諍。莫難改也。一云、若結友過誤、不得善人、則改易之、莫難之也。故李充云、若友失其人、改之爲貴也)とある。また『注疏』に「勿は、無なり。憚は、猶お難のごときなり。言うこころは人誰か過ち無からん、過ちて改めざるを、是れ過ちと謂う。過ちて能く改むるは、善これより大なるは莫し。故に苟くも過ち有れば、改むるを難しとするを得る無きなり」(勿、無也。憚、猶難也。言人誰無過、過而不改、是謂過矣。過而能改、善莫大焉。故苟有過、無得難於改也)とある。また『集注』に「勿も、亦た禁止の辞なり。憚は、なんするなり。自ら治むること勇ならざれば、則ち悪日〻長ず。故に過有れば則ち当にすみやかに改むべし。畏難して苟安こうあんす可からず」(勿、亦禁止之辭。憚、畏難也。自治不勇、則惡日長。故有過則當速改。不可畏難而苟安也)とある。畏難は、畏れはばかること。苟安は、一時逃れであること。また『集注』に引く程頤の注に「学問の道は他無きなり。其の不善を知れば、則ち速やかに改めて以て善に従うのみ」(學問之道無他也。知其不善、則速改以從善而已)とある。
  • 『集注』に引く程頤の注に「君子の自修の道は、当に是くの如くなるべし」(君子自修之道、當如是也)とある。
  • 『集注』に引く游酢の注に「君子の道は、威重を以て質と為し、而して学以て之を成す。学の道は、必ず忠信を以て主と為し、而して己にまさる者を以て之をたすく。然れども或いは過ちを改むるにやぶさかなれば、則ちついに以て徳に入ること無くして、賢者も亦た未だ必ずしも善道を以て告ぐるを楽しまず。故に過てば改むるに憚かること勿かれを以てう」(君子之道、以威重爲質、而學以成之。學之道、必以忠信爲主、而以勝己者輔之。然或吝於改過、則終無以入德、而賢者亦未必樂告以善道。故以過勿憚改終焉)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「此の章は一句各〻是れ一事、皆切要の言なり。凡そ論語の諸章は、ただちに一時の言を記する者有り、異日の語を併せ録する者有り、数言をていしゅうして以て一章と為す者有り、此の章の如きは是れなり。蓋し孔門の諸子、夫子平生の格言を綴輯して、以て一章と作して、自ら之を相伝授するなり。後の学者も亦た当に自ら佩服すべし。論に曰く、忠信を主とするは、孔門学問の定法なり。いやしくも忠信を主とせざるは、則ち外は似て内はまこといつわり、言にして心反って非なり。ともに並びて仁を為し難き者有らん。色は仁を取りて行いのたがう者有らん。後儒いたずらに敬を持することを知りて、忠信を主とすることを以て要と為さざるは、亦た独り何ぞや、と」(此章一句各是一事、皆切要之言也。凡論語諸章、有直記一時之言者、有併録異日之語者、有綴輯數言以爲一章者、如此章是也。蓋孔門諸子、綴輯夫子平生格言、以作一章、自相傳授之也。後之學者、亦當自佩服焉。論曰、主忠信、孔門學問之定法。苟不主忠信、則外似而内實僞、言是而心反非。難與並爲仁者有矣。色取仁行違者有矣。後儒徒知持敬、而不以主忠信爲要、亦獨何哉)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「君子重からざれば則ち威あらず。……蓋しじゅうとは、国の大事、其の它の諸大礼は、重事なり。……故に凡そ重事に非ざれば、威厳を設けず。……学は則ち固ならず。……一師の説を固守せざるを謂うなり。……此の章、君子は重からざれば則ち威あらず、学は則ち固ならずは、是れ一類、忠信を主とす以下は、是れ一類なり。孔子多く古言を誦して以て門人におしう。或いは並びに引いて以て相発し、或いは専ら誦して以て独り行う。此の章の半ばは它篇に見ゆ。而して朱子は以て其の半ばを逸すと為し、仁斎先生は其の言の類せざるを疑い、以て一時の言に非ずと為すは、皆孔子の古言を誦するを知らざるが故なり」(君子不重則不威。……蓋祀與戎、國之大事、其它諸大禮、重事也。……故凡非重事、不設威嚴。……學則不固。……謂不固守一師之説也。……此章、君子不重則不威、學則不固、是一類、主忠信以下、是一類。孔子多誦古言以誨門人。或並引以相發、或專誦以獨行。此章之半見它篇。而朱子以爲逸其半、仁齋先生疑其言不類、以爲非一時之言、皆不知孔子誦古言故也)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
学而第一 為政第二
八佾第三 里仁第四
公冶長第五 雍也第六
述而第七 泰伯第八
子罕第九 郷党第十
先進第十一 顔淵第十二
子路第十三 憲問第十四
衛霊公第十五 季氏第十六
陽貨第十七 微子第十八
子張第十九 堯曰第二十