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衛霊公第十五 29 子曰過而不改章

408(15-29)
子曰、過而不改、是謂過矣。
いわく、あやまちてあらためざる、れをあやまちとう。
現代語訳
  • 先生 ――「まちがいをなおさない、それがまちがいというもの。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様がおっしゃるよう、「過ちはいたかたないが、過っても改めないのが、本当の過ちというものじゃ。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師がいわれた。――
    「過って改めないのを、過ちというのだ」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 学而第一8」や「子罕第九24」の「あやまちてはあらたむるにはばかることかれ」も参照。
  • 過 … 過失をする。ここは動詞だが、次の「是謂過矣」の「過」は名詞。
  • 不改 … 過失を改めない。
  • 是 … 「~これ…」と読み、前文を受けて「~はつまり…だ」と訳す。
  • 矣 … 置き字。文末・句末におかれ、断定や推定の語気をあらわす。音は「イ」だが、読まない。
補説
  • 『注疏』に「此の章は人の過ちを改むるを戒むるなり」(此章戒人改過也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 『集解』には、この章の注なし。
  • 過而不改、是謂過矣 … 『義疏』に「人過ち有りて能く改むること、日食の反って明らかなるが如く、人皆之を仰ぐ。過ちに非ざる所以なり。遂にして改めざれば、則ち過ちと成るなり。江熙云う、過ちはゆるきも、又たかざれば則ち罪と成るなり、と」(人有過能改、如日食反明、人皆仰之。所以非過。遂而不改、則成過也。江熙云、過容恕、又文則成罪也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「人誰か過ち無からん。過ちて能く改むるは、善これより大なるは莫し。過ちて改めざる、是れを過ちと謂う」(人誰無過。過而能改、善莫大焉。過而不改、是謂過矣)とある。また『集注』に「過ちて能く改むれば、則ち過ち無きに復す。惟だ改めざれば、則ち其の過ち遂に成りて、将に改むるに及ばざらんとす」(過而能改、則復於無過。惟不改、則其過遂成、而將不及改矣)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「一心以て堯舜の道に入る可く、一心以て堯舜の道に入る可からざるは、能く過ちを改むるとしからざるとに在るのみ。夫れ人過ち無きこと能わず、能く改むるを貴しと為す。過ちて改めざる、是れを過ちと謂う。故に聖人の教えは、過ち無きを貴ばずして、能く改むることを貴ぶ」(一心可以入堯舜之道、一心不可以入堯舜之道、在能改過與否焉耳。夫人不能無過、能改爲貴。過而不改、是謂過矣。故聖人之教、不貴無過、而貴能改焉)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』には、この章の注なし。
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衛霊公第十五 季氏第十六
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