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寄令狐郎中(李商隠)

寄令狐郎中
令(れい)狐(こ)郎(ろう)中(ちゅう)に寄(よ)す
李(り)商(しょう)隠(いん)
  • 七言絶句。居・書・如(上平声魚韻)。
  • ウィキソース「寄令狐郎中」「李義山詩集 (四部叢刊本)/卷第六」参照。
  • 令狐郎中 … 令狐楚の次男で、右司郎中の職にあった令狐綯(とう)のこと。右司郎中は、尚書省の属官。右丞を輔佐する職。ウィキペディア【令狐綯】参照。
  • 寄 … 詩を人に託して送り届けること。ちなみに「贈」は、詩を直接手渡すこと。
  • 開成二年(837)、恩を受けた令狐楚が死去し、作者は対立する王茂元の幕下に入り、その令嬢と結婚したため、子息の令狐綯(とう)から憎まれ、疎遠となった。武宗の会昌四年(844)、令狐綯は右司郎中に昇進し、久しぶりに作者に便りを送った。この詩は、令狐綯からの便りに返信し、不遇をかこつ我が身を詠んでいる。
  • 李商隠 … 813~858。晩唐の詩人。懐州河(か)内(だい)(河南省沁陽(しんよう)県)の人。字(あざな)は義山。号は玉(ぎょく)谿(けい)生(せい)。大和三年(829)、天平軍節度使だった令狐楚に才能を認められ、その幕下に入った。開成二年(837)、進士に及第。この年に令狐楚が死去し、令狐楚派と対立する王茂元の女婿となったため、両派閥の争いに巻き込まれ、官僚としては不遇のうちに終わった。杜牧・温(おん)庭筠(ていいん)と並んで晩唐期を代表する詩人。また四六駢儷文の名手でもあった。『李義山詩集』三巻などがある。ウィキペディア【李商隠】参照。
嵩雲秦樹久離居
嵩雲(すううん) 秦樹(しんじゅ) 久(ひさ)しく離(り)居(きょ)す
  • 嵩雲 … 嵩山にかかる雲。嵩山は、河南省の洛陽の東、登封市にある名山。中国五岳のうちの中岳。峻極峰を中央に、東を太室、西を少室と呼ぶ。ここでは作者のいる土地を指す。ウィキペディア【嵩山】参照。
  • 秦樹 … 秦の都のあった地に生える樹木。ここでは令狐綯(とう)のいる長安を指す。
  • 離居 … 離れ離れになって住んでいる。
雙鯉迢迢一紙書
双(そう)鯉(り)迢迢(ちょうちょう)たり 一(いっ)紙(し)の書(しょ)
  • 双鯉 … 二匹の鯉。雁とともに、便りを伝えるものとされる。転じて、手紙。客の持ってきた二匹の鯉の腹の中から手紙が出てきたという故事に基づく。古楽府「馬(うま)を長城(ちょうじょう)の窟(いわや)に飲(みずか)う行(こう)」(『文選』巻二十七、『楽府詩集』巻三十八)に「客(かく)遠方(えんぽう)より来(きた)り、我(われ)に双(ふた)つの鯉(り)魚(ぎょ)を遺(おく)る、児(じ)を呼(よ)びて鯉(り)魚(ぎょ)を烹(に)るに、中(なか)に尺(せき)素(そ)の書(しょ)有(あ)り」(客從遠方來、遺我雙鯉魚、呼兒烹鯉魚、中有尺素書)とある。ウィキソース「昭明文選/卷27」参照。
  • 迢迢 … はるかに遠いさま。ここでは、はるばる遠くから手紙をもらったということ。畳語。「古詩十九首」(『文選』巻二十九、『玉台新詠』巻一)の第十首に「迢迢(ちょうちょう)たる牽(けん)牛(ぎゅう)星(せい)、皎皎(きょうきょう)たる河(か)漢(かん)の女(じょ)」(迢迢牽牛星、皎皎河漢女)とある。ウィキソース「迢迢牽牛星」参照。
  • 一紙書 … 一通の書簡。ここでは令狐綯(とう)からの一通の手紙を指す。『晋書』劉弘伝に「劉公が一紙の書を得るは、十部の従事に賢(まさ)れり」(得劉公一紙書、賢於十部從事)とある。ウィキソース「晉書/卷066」参照。
休問梁園舊賓客
問(と)うを休(や)めよ 梁(りょう)園(えん)の旧(きゅう)賓客(ひんかく)
  • 休問 … (私の近況など)お尋ねくださいますな。問わないで下さい。
  • 休 … やめよ。禁止を表す言葉。~するな。中世の俗語。
  • 梁園旧賓客 … 梁の孝王の賓客だった司馬相如のこと。司馬相如は、前漢の文人。前179~前117。成都(四川省)の人。字(あざな)は長(ちょう)卿(けい)。辞賦にすぐれ、武帝に召されて「上林の賦」などを作り、漢魏六朝時代の文人の模範となった。夫人は卓文君で駆け落ちの話は有名。ウィキペディア【司馬相如】参照。ここでは司馬相如を作者自身、梁の孝王を令狐楚に擬(なぞら)えている。
  • 梁園 … 梁苑。漢の文帝の子で景帝の弟、梁の孝王が遊宴のために築いた庭園。兎園・修竹園ともいう。今の河南省開封市付近にあった。
  • 賓客 … 客人。食客。梁の孝王は司馬相如を始め、鄒陽(すうよう)・枚(ばい)乗(じょう)らの文人たちを賓客として招き優遇した。しかし、孝王は間もなく病死したため、相如は故郷に帰った。『史記』司馬相如伝に「孝景帝(こうけいてい)に事(つか)えて、武騎(ぶき)常(じょう)侍(じ)と為(な)る。其(そ)の好(この)みに非(あら)ざるなり。会〻(たまたま)景帝(けいてい)、辞賦(じふ)を好(この)まず。是(こ)の時(とき)、梁(りょう)の孝王(こうおう)来(らい)朝(ちょう)し、遊説(ゆうぜい)の士(し)斉人(せいひと)鄒陽(すうよう)、淮陰(わいいん)の枚(ばい)乗(じょう)、呉(ご)の荘(そう)忌(き)夫(ふう)子(し)の徒(と)を従(したが)う。相(しょう)如(じょ)見(み)て之(これ)を説(よろこ)び、因(よ)りて病(やまい)をもて免(めん)じ、梁(りょう)に客游(かくゆう)す。梁(りょう)の孝王(こうおう)、諸生(しょせい)と舎(しゃ)を同(おな)じうせしむ。相(しょう)如(じょ)、諸生(しょせい)・游(ゆう)士(し)と居(お)るを得(う)ること数歳(すうさい)、乃(すなわ)ち子(し)虚(きょ)の賦(ふ)を著(あらわ)す」(事孝景帝、爲武騎常侍。非其好也。會景帝不好辭賦。是時梁孝王來朝、從遊說之士齊人鄒陽、淮陰枚乘、吳莊忌夫子之徒。相如見而說之、因病免、客游梁。梁孝王令與諸生同舍。相如得與諸生游士居數歲、乃著子虛之賦)とある。ウィキソース「史記/卷117」参照。
茂陵秋雨病相如
茂(も)陵(りょう)の秋(しゅう)雨(う) 病(びょう)相(しょう)如(じょ)
  • 茂陵 … 漢の武帝の陵墓。西安の西北、陝西省興平市の東北にある。ウィキペディア【汉茂陵】(中文)参照。また、司馬相如が晩年病気で隠棲したところ。「相如、既に病(や)み免(めん)ぜられて、茂陵に家居す」(相如旣病免、家居茂陵)とある。ウィキソース「史記/卷117」参照。
  • 秋雨 … 茂陵に冷たく降り続く秋雨(あきさめ)の中で。『淮南子』時則訓に「仲秋に春令を行えば、則ち秋雨降らず、草木栄(えい)を生じ、国に大(たい)恐(きょう)有り」(仲秋行春令、則秋雨不降、草木生榮、國有大恐)とある。ウィキソース「淮南子/時則訓」参照。また、南朝梁の何遜「主に従いて西州に移り、斎内に寓直して霖雨晴れず、郡中の遊聚を懐う」詩(『古詩紀』巻九十三)に「祁祁(きき)として寒枝動き、濛濛(もうもう)として秋雨駛(し)す」(祁祁寒枝動、濛濛秋雨駛)とある。祁祁は、雨が穏やかに降るさま。寒枝は、葉が落ちて物寂しい感じの木の枝。濛濛は、雨が立ち込めるさま。駛すとは、雨脚が速いこと。ウィキソース「古詩紀 (四庫全書本)/卷093」参照。
  • 病相如 … 病に苦しんでいる司馬相如のような身の上なのですから。ここでは作者自身を司馬相如に擬(なぞら)えている。司馬相如は、いつも消(しょう)渇(かつ)(のどが渇き、尿が出にくくなる病気。糖尿病のようなもの)の病に苦しんでいたという。『史記』司馬相如伝に「相如、口、吃(きつ)にして善く書を著す。常に消(しょう)渇(かつ)の疾(やまい)有り」(相如口吃而善著書。常有消渇疾)とある。吃は、吃音。ウィキソース「史記/卷117」参照。
テキスト
  • 『箋註唐詩選』巻七(『漢文大系 第二巻』、冨山房、1910年)※底本
  • 『全唐詩』巻五百三十九(排印本、中華書局、1960年)
  • 『唐詩三百首注疏』巻六下・七言絶句(廣文書局、1980年)
  • 『唐李義山詩集』巻六(『四部叢刊 初編集部』所収)
  • 『李義山詩集』巻上(朱鶴齢箋注/沈厚塽輯評、台湾学生書局)
  • 『玉谿生詩箋註』巻二(馮浩箋註、『四部備要 集部』所収、中華書局)
  • 趙宦光校訂/黄習遠補訂『万首唐人絶句』巻二十八(万暦三十五年刊、内閣文庫蔵)
  • 『唐詩品彙』巻五十三([明]高棅編、[明]汪宗尼校訂、上海古籍出版社、1982年)
  • 『古今詩刪』巻二十二(寛保三年刊、『和刻本漢詩集成 総集篇9』所収、汲古書院)
  • 『唐詩別裁集』巻二十([清]沈徳潜編、乾隆二十八年教忠堂重訂本縮印、中華書局、1975年)
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