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寄令狐郎中(李商隠)

寄令狐郎中
れいろうちゅう
しょういん
  • 〔テキスト〕 『唐詩選』巻七、『全唐詩』巻五百三十九、『唐詩三百首』七言絶句、『唐李義山詩集』巻六(『四部叢刊 初編集部』所収)、『李義山詩集』巻上(朱鶴齢箋注/沈厚塽輯評、台湾学生書局)、『玉谿生詩箋註』巻二(馮浩箋註、『四部備要 集部』所収)、『玉谿生詩詳註』巻一、趙宦光校訂/黄習遠補訂『万首唐人絶句』巻二十八(万暦三十五年刊、内閣文庫蔵)、『古今詩刪』巻二十二(寛保三年刊、『和刻本漢詩集成 総集篇9』所収、65頁)、『唐詩品彙』巻五十三、『唐詩別裁集』巻二十、『唐人万首絶句選』巻六、他
  • 七言絶句。居・書・如(平声魚韻)。
  • ウィキソース「寄令狐郎中」「李義山詩集 (四部叢刊本)/卷第六」参照。
  • 令狐郎中 … 令狐楚の次男で、右司郎中の職にあった令狐とうのこと。右司郎中は、尚書省の属官。右丞を輔佐する職。ウィキペディア【令狐绹】(中文)参照。
  • 寄 … 詩を人に託して送り届けること。「贈」は、詩を直接手渡すこと。
  • 開成二年(837)、恩を受けた令狐楚が死去し、作者は対立する王茂元の幕下に入り、その令嬢と結婚したため、子息の令狐とうから憎まれ、疎遠となった。武宗の会昌四年(844)、令狐綯は右司郎中に昇進し、久しぶりに作者に便りを送った。この詩は、令狐綯からの便りに返信し、不遇をかこつ我が身を詠んでいる。
  • 李商隠 … 813~858。晩唐の詩人。懐州だい(河南省沁陽しんよう県)の人。あざなは義山。号はぎょく谿けいせい。大和三年(829)、天平軍節度使だった令狐楚に才能を認められ、その幕下に入った。開成二年(837)、進士に及第。この年に令狐楚が死去し、令狐楚派と対立する王茂元の女婿となったため、両派閥の争いに巻き込まれ、官僚としては不遇のうちに終わった。杜牧・おん庭筠ていいんと並んで晩唐期を代表する詩人。また四六駢儷文の名手でもあった。『李義山詩集』三巻などがある。ウィキペディア【李商隠】参照。
嵩雲秦樹久離居
嵩雲すううん 秦樹しんじゅ ひさしくきょ
  • 嵩雲 … 嵩山にかかる雲。嵩山は、河南省の洛陽の東、登封市にある名山。中国五岳のうちの中岳。峻極峰を中央に、東を太室、西を少室と呼ぶ。ここでは作者のいる土地を指す。ウィキペディア【嵩山】参照。
  • 秦樹 … 秦の都のあった地に生える樹木。ここでは令狐とうのいる長安を指す。
  • 離居 … 離れ離れになって住んでいる。
雙鯉迢迢一紙書
そう迢迢ちょうちょうたり いっしょ
  • 双鯉 … 二匹の鯉。雁とともに、便りを伝えるものとされる。転じて、手紙。客の持ってきた二匹の鯉の腹の中から手紙が出てきたという故事に基づく。「うま長城ちょうじょういわやみずかこう」(『文選』巻二十七、『楽府詩集』巻三十八)に「かく遠方えんぽうよりきたり、われふたつのぎょおくる、びてぎょるに、なかせきしょり」(客從遠方來、遺我雙鯉魚、呼兒烹鯉魚、中有尺素書)とある。ウィキソース「昭明文選/卷27」参照。
  • 迢迢 … はるかに遠いさま。ここでは、はるばる遠くから手紙をもらったということ。畳語。「古詩十九首 其の十」(『文選』巻二十九、『玉台新詠』巻一)に「迢迢ちょうちょうたるけんぎゅうせい皎皎きょうきょうたるかんじょ」(迢迢牽牛星、皎皎河漢女)とある。ウィキソース「迢迢牽牛星」参照。
  • 一紙書 … 一通の書簡。ここでは令狐とうからの一通の手紙を指す。『晋書』劉弘伝に「劉公が一紙の書を得るは、十部の従事にまされり」(得劉公一紙書、賢於十部從事)とある。ウィキソース「晉書/卷066」参照。
休問梁園舊賓客
うをめよ りょうえんきゅう賓客ひんかく
  • 休問 … (私の近況など)お尋ねくださいますな。問わないで下さい。
  • 休 … やめよ。禁止を表す言葉。~するな。中世の俗語。
  • 梁園旧賓客 … 梁の孝王の賓客だった司馬相如のこと。司馬相如は、前漢の文人。前179~前117。成都(四川省)の人。あざなちょうけい。辞賦にすぐれ、武帝に召されて「上林の賦」などを作り、漢魏六朝時代の文人の模範となった。夫人は卓文君で駆け落ちの話は有名。ウィキペディア【司馬相如】参照。ここでは司馬相如を作者自身、梁の孝王を令狐楚になぞらえている。
  • 梁園 … 梁苑。漢の文帝の子で景帝の弟、梁の孝王が遊宴のために築いた庭園。兎園・修竹園ともいう。今の河南省開封市付近にあった。
  • 賓客 … 客人。食客。梁の孝王は司馬相如を始め、鄒陽すうようばいじょうらの文人たちを賓客として招き優遇した。しかし、孝王は間もなく病死したため、相如は故郷に帰った。『史記』司馬相如伝に「孝景帝こうけいていつかえて、武騎ぶきじょうる。このみにあらざるなり。会〻たまたま景帝けいてい辞賦じふこのまず。ときりょう孝王こうおうらいちょうし、遊説ゆうぜい斉人せいひと鄒陽すうよう淮陰わいいんばいじょうそうふうしたがう。しょうじょこれよろこび、りてやまいをもてめんじ、りょう客游かくゆうす。りょう孝王こうおう諸生しょせいしゃおなじうせしむ。しょうじょ諸生しょせいゆうるをること数歳すうさいすなわきょあらわす」(事孝景帝、爲武騎常侍。非其好也。會景帝不好辭賦。是時梁孝王來朝、從遊說之士齊人鄒陽、淮陰枚乘、吳莊忌夫子之徒。相如見而說之、因病免、客游梁。梁孝王令與諸生同舍。相如得與諸生游士居數歲、乃著子虛之賦)とある。ウィキソース「史記/卷117」参照。
茂陵秋雨病相如
りょうしゅう びょうしょうじょ
  • 茂陵 … 漢の武帝の陵墓。西安の西北、陝西省興平市の東北にある。ウィキペディア【汉茂陵】(中文)参照。また司馬相如が晩年病気で隠棲したところ。「相如、既にめんぜられて、茂陵に家居す」(相如旣病免、家居茂陵)とある。ウィキソース「史記/卷117」参照。
  • 秋雨 … 茂陵に冷たく降り続く秋雨の中で。
  • 病相如 … 病に苦しんでいる司馬相如のような身の上なのですから。ここでは作者自身を司馬相如になぞらえている。司馬相如は、いつもしょうかつ(のどが渇き、尿が出にくくなる病気。糖尿病のようなもの)の病に苦しんでいたという。『史記』司馬相如伝に「相如、口、きつにして善く書を著す。常にしょうかつやまい有り」(相如口吃而善著書。常有消渇疾)とある。吃は、吃音。ウィキソース「史記/卷117」参照。
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