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子張第十九 17 曾子曰吾聞諸夫子章

488(19-17)
曾子曰、吾聞諸夫子。人未有自致者也。必也親喪乎。
そういわく、われこれふうけり。ひといまみずかいたものらざるなり。かならずやおやかと。
現代語訳
  • 曽(ソウ)先生 ――「わたしは先生からこうきいた。『人間はなかなかありったけをつくせないものだが…。せめて親の死んだときはね』と。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 曾子の言うよう、「私が先生からうかがったことだが、人間が特につとめずして自発的にその真情の限りをあらわすということは、なかなかない。有るとすれば、まず親の葬式の時ぐらいのものか。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 曾先生がいわれた。――
    「私は先生がこんなことをいわれたのをきいたことがある。人間が自己の全部を出しきってしまうということは、まずないものだが、せめて親の死を悲しむ時ぐらいは、そうありたいものだ、と」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 曾子 … 姓はそう、名はしんあざな子輿しよ。魯の人。孔子より四十六歳年少の門人。『孝経』を著した。ウィキペディア【曾子】参照。
  • 諸 … 「これ」と読み、「これを~に」と訳す。本来は「之於しお」が「しょ」になまったもの。「聞之於夫子」(之を夫子に聞く)と書き換えたのと同じ。
  • 夫子 … 賢者・先生・年長者を呼ぶ尊称。ここでは、孔子の弟子たちが孔子を呼ぶ尊称。
  • 自致 … 自己を究極まで出し尽くすこと。とことんまでやること。
  • 必也~乎 … 「かならずや~か」と読み、「きっと~であろう」と訳す。確信のある推量の意を表す。
補説
  • 『注疏』に「此の章は人の誠を致すの事を論ずるなり」(此章論人致誠之事也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 曾子 … 『孔子家語』七十二弟子解に「曾参は南武城の人、あざなは子輿。孔子よりわかきこと四十六歳。志孝道に存す。故に孔子之に因りて以て孝経を作る」(曾參南武城人、字子輿。少孔子四十六歳。志存孝道。故孔子因之以作孝經)とある。ウィキソース「孔子家語/卷九」参照。また『史記』仲尼弟子列伝に「曾参は南武城の人。字は子輿。孔子より少きこと四十六歳。孔子以為おもえらく能く孝道に通ずと。故に之に業を授け、孝経を作る。魯に死せり」(曾參南武城人。字子輿。少孔子四十六歳。孔子以爲能通孝道。故授之業、作孝經。死於魯)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。
  • 吾聞諸夫子 … 『義疏』に「仁を孔子に聞く所有るに拠るなり。其の事下に在り」(據有所聞仁孔子也。其事在下)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「諸は、之なり。曾子言う、我之を夫子に聞けり」(諸、之也。曾子言、我聞之夫子)とある。
  • 人未有自致者也。必也親喪乎 … 『集解』に引く馬融の注に「言うこころは人未だ自ら他事に致尽すること能わずと雖も、親の喪に至りては、必ず自ら致尽するなり」(言人雖未能自致盡於他事、至於親喪、必自致盡也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「此れ孔子に聞く所の事なり。致は、極なり。言うこころは人他の行いに於いて、了として時に自ら極むるを得ざること有る可し。然れども君親の喪に及んでは、則ち必ず宜しく自ら其の哀を極むべし。故に云う、必ずや親の喪か、と」(此所聞於孔子之事也。致、極也。言人於他行、了可有時不得自極。然及君親喪、則必宜自極其哀。故云、必也親喪乎)とある。また『注疏』に「言うこころは人未だ自ら其の誠を他事に致尽すること能わずと雖も、親の喪に至りては、必ず自ら致尽するなり」(言人雖未能自致盡其誠於他事、至於親喪、必自致盡也)とある。また『集注』に「致は、其の極を尽くすなり。蓋し人の真情は、自ら已む能わざる所の者なり」(致、盡其極也。蓋人之眞情、所不能自已者)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 『集注』に引く尹焞の注に「親の喪は固より自ら尽くす所なり。ここに於いて其の誠を用いざれば、いずくにか其の誠を用いん」(親喪固所自盡也。於此不用其誠、惡乎用其誠)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「人まことに至らざる所無し。然れども親の喪に至りては、則ち自ら尽くさざること無し。見る可し人性の善、う可からずして、人の以て自ら勉めざる可からざるを。是に於いてゆるがせにすれば、則ち以て人たる可からざるなり。曾子夫子の言を引きて之を称す、深く戒むる所以なり」(人固無所不至。然至於親喪、則無不自盡焉。可見人性之善、不可誣焉、而人之不可以不自勉也。於是而忽焉、則不可以爲人也。曾子引夫子之言而稱之、所以深戒也)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「人未だ自ら致す者有らず、言うこころは人它事たじに於いて、皆礼を仮りて而うしてのち誠至り敬至る。若し必ず其の能く自ら致す者を求めば、則ち親の喪のみと。是れ独り先王の礼を仮らずと雖も、尚お能く己の哀情をして自然に来たり至らしむ可きなり」(人未有自致者也、言人於它事、皆假禮而後誠至焉敬至焉。若必求其能自致者、則親喪而已。是獨雖不假先王之禮、尚可能使己之哀情自然來至也)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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