陽貨第十七 21 宰我問三年之喪章
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宰我問。三年之喪、期已久矣。君子三年不爲禮、禮必壊。三年不爲樂、樂必崩。舊穀既沒、新穀既升。鑽燧改火。期可已矣。子曰、食夫稻、衣夫錦。於女安乎。曰、安。女安則爲之。夫君子之居喪、食旨不甘、聞樂不樂、居處不安。故不爲也。今女安、則爲之。宰我出。子曰、予之不仁也。子生三年、然後免於父母之懷。夫三年之喪、天下之通喪也。予也有三年之愛於其父母乎。
宰我問。三年之喪、期已久矣。君子三年不爲禮、禮必壊。三年不爲樂、樂必崩。舊穀既沒、新穀既升。鑽燧改火。期可已矣。子曰、食夫稻、衣夫錦。於女安乎。曰、安。女安則爲之。夫君子之居喪、食旨不甘、聞樂不樂、居處不安。故不爲也。今女安、則爲之。宰我出。子曰、予之不仁也。子生三年、然後免於父母之懷。夫三年之喪、天下之通喪也。予也有三年之愛於其父母乎。
宰我問う。三年の喪は、期已だ久し。君子三年礼を為さざれば、礼必ず壊れん。三年楽を為さざれば、楽必ず崩れん。旧穀既に没きて、新穀既に升る。燧を鑽りて火を改む。期にして已む可し。子曰く、夫の稲を食い、夫の錦を衣る、女に於いて安きか。曰く、安し。女安くば則ち之を為せ。夫れ君子の喪に居るや、旨きを食えども甘からず、楽を聞けども楽しからず、居処安からず。故に為さざるなり。今女安くば則ち之を為せ。宰我出づ。子曰く、予の不仁なるや。子生まれて三年、然る後に父母の懐より免る。夫れ三年の喪は、天下の通喪なり。予や其の父母に三年の愛有るか。
現代語訳
- 宰我がたずねる、「三年の喪(も)は、期間が長すぎます。人間が三年も儀式をしないと、儀式がすたりますよ。三年も音楽をやらないと、音楽がくずれますねえ。古ゴメがなくなり、新ゴメができて、火種をとる木も入れかわり、一年たったらもういいですよ。」先生 ――「そのいいコメをくい、いい服をきても、きみは平気なのか。」――「平気です。」「きみが平気ならば、やりたまえ。いったい喪中の人間は、うまい物も味がなく、音楽もおもしろくなく、家にいても落ちつかないから、それでそうしないんだ。だがきみは平気だったら、やるがいい。」宰我は出てゆく。先生 ――「予くんは不人情だなあ。人は生まれて三年たって、ようやく親のふところを離れる。喪中を三年にしたのは、世間ふつうのきまりなんだ。予くんは、親とのあいだに三年の愛情もないのか…。」(魚返善雄『論語新訳』)
- 宰我(予)が、「父母の喪の三年というのは、期限が長過ぎはしますまいか。君子が喪にこもって三年も礼をしなかったら、礼が必ずみだれましょう。三年も楽をしなかったら、楽が必ずくずれましょう。それでは甚だ不都合であります。ところで一年たてば、去年の穀物は食い尽されて新しい穀物が出回り始めます。木を擦って火を切り出すのも、一年でその木が一巡します。それ故喪も一年で打切るのが適当でありましょう。」と言った。すると孔子様が、「親が死んでも一年たちさえすれば、おいしいもち米の飯をたべ、美しい錦の着物をきて、それでお前は気安いのか。」と問われたところ、宰我が、「かくべつ気が咎めませぬ。」と答えたので、孔子様はごきげん宜しからず、「そうか、お前の気が済むならそうするがよかろう。いったい君子の服喪中は、美食をしても口に甘からず、音楽を聞いても耳に楽しからず、よい住居に居ても落着かない、それ故に衣食住を簡素にするのだが、お前は美衣美食安住して心安いならかってにそうしなさい。」と苦り切って言われた。それで宰我は面目を失って引下がったが、あとに残った門人たちに向かって孔子様がおっしゃるよう、「さても予は不仁非人情な男かな。子供は生れてから三年でヤット父母の懐からはなれるものだ。それ故三年の喪が天子より庶人に至るまで上下一般に通ずる定例になっている。ぜんたい予は両親から三年の愛を受けなかったのだろうか。」(穂積重遠『新訳論語』)
- 宰我がたずねた。――
「父母の喪は三年となっていますが、一年でも結構長過ぎるぐらいではありますまいか。もし君子が三年間も礼を修めなかったら、礼はすたれてしまいましょう。もし三年間も楽に遠ざかったら、楽がくずれてしまいましょう。一年たてば、穀物も古いのは食いつくされて新しいのが出てまいりますし、火を擦り出す木にしましても、四季それぞれの木が一巡して、またもとにもどるわけです。それを思いますと、父母の喪にしましても、一年で十分ではありますまいか」
先師がいわれた。――
「お前は、一年たてば、うまい飯をたべ、美しい着物を着ても気がおちつかないというようなことはないのか」
宰我――
「かくべつそういうこともございません」
先師――
「そうか、お前がなんともなければ、好きなようにするがよかろう。だが、いったい君子というものは、喪中にはご馳走を食べてもうまくないし、音楽をきいてもたのしくないし、また、どんなところにいても気がおちつかないものなのだ。だからこそ、一年で喪を切りあげるようなことをしないのだ。もしお前が、なんともなければ、私は強いてそれをいけないとはいうまい」
それで宰我はひきさがった。すると先師はほかの門人たちにいわれた。――
「どうも予は不人情な男だ。人間の子は生れて三年たってやっと父母の懐をはなれる。だから、三年間父母の喪に服するのは天下の定例になっている。いったい予は三年間の父母の愛をうけなかったとでもいうのだろうか」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
- 宰我 … 前522~前458(一説に前489)。姓は宰、名は予、字は子我。孔門十哲のひとり。魯の人。「言語には宰我・子貢」と評され、弁舌にすぐれていた。後に斉の臨淄の大夫となった。ウィキペディア【宰我】参照。
- 三年之喪 … 父母の喪に服する期間。ただし、三年とは三年間ではなく、三年目までの期間を指す。
- 期 … 期間。なお、「一年」とする説もある。
- 已久矣 … とても長過ぎる。「已」は、「はなはだ」と読んだが、「すでに」と読んでもよい。
- 旧穀 … 去年の穀物。
- 没 … 尽きる。
- 新穀 … 今年の穀物。
- 升 … 実る。
- 鑽燧 … 木や石を打ち合わせて、火をおこすこと。「鑽」は、きりでもみこむ。「燧」は、ひうち。
- 改火 … 火種を改める。四季によって火きりの木を変えること。春は楡柳、夏は棗杏、晩夏は桑柘、秋は柞楢、冬は槐檀の木を用いた。
- 期可已矣 … 一年で止めてよい。
- 稲 … 米の飯。
- 錦 … 華美な着物。
- 於女安乎 … お前は平気か。
- 旨 … うまいもの。
- 居処 … 普段いる所。家。
- 予 … 宰我の名。
- 不仁 … 不人情。
- 免 … 離れる。
- 通喪 … 世間一般に共通する喪礼。
- 愛 … 愛情。一説に、惜しむ。
補説
- 『注疏』に「此の章は三年の喪礼を論ずるなり」(此章論三年喪禮也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 宰我 … 『孔子家語』七十二弟子解に「宰予は、字は子我、魯人。口才有りて名を著す」(宰予、字子我、魯人。有口才著名)とある。口才は、弁舌の才能に優れていること。ウィキソース「孔子家語/卷九」参照。また『史記』仲尼弟子列伝に「宰予、字は子我。利口弁辞なり」(宰予字子我。利口辯辭)とある。弁辞は、弁舌に長けていること。ウィキソース「史記/卷067」参照。
- 三年之喪、期已久矣 … 『義疏』に「礼に、至親の服を為すこと三年に至る。宰我其の重きを為すを嫌い、故に期の則ち久しきに至り、三年に仮らざるを問うなり」(禮、爲至親之服至三年。宰我嫌其爲重、問至期則久、不假三年也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「礼喪服にては、至親者の為に三年なり。宰我其の期日の大だ遠きを嫌い、故に夫子に問いて曰く、三年の喪は、期にして已に久し、と」(禮喪服、爲至親者三年。宰我嫌其期日大遠、故問於夫子曰、三年之喪、期已久矣乎)とある。また『集注』に「期は、周年なり」(期、周年也)とある。周年は、まる一年。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 君子三年不為礼、礼必壊。三年不為楽、楽必崩 … 『義疏』に「宰我又た喪は宜しく三年なるべからざるの義を説くなり。君子は、人君なり。人君は物を化するに必ず礼楽に資せらる。若し喪三年有らば、則ち礼楽を廃せしめん。礼楽崩壊すれば、則ち以て民を化する無し。此が為の故に云う、宜しく期にして三年ならざるべし、と。礼壊れんと云い、楽崩れんと云うは、礼は是れ形化し、形化するが故に壊ると云う。壊は是れ漸く敗るるの名なり。楽は是れ気化す。気化するも形無し。故に崩と云う。崩は是れ墜失の称なり」(宰我又説喪不宜三年之義也。君子、人君也。人君化物必資禮樂。若有喪三年、則廢於禮樂。禮樂崩壞、則無以化民。爲此之故云、宜期而不三年。禮云壞、樂云崩者、禮是形化、形化故云壞。壞是漸敗之名。樂是氣化。氣化無形。故云崩。崩是墜失之稱也)とある。また『注疏』に「此れ宰我又た喪の三年なる可からざるの義を説くなり。言うこころは礼は人迹を検し、楽は人心を和すれば、君子は斯須も身を去る可からず。惟れ喪に在らば則ち皆為さざるなり。為さざること既に久し、故に礼は壊れて楽は崩るるなり」(此宰我又説喪不可三年之義也。言禮檢人迹、樂和人心、君子不可斯須去身。惟在喪則皆不爲也。不爲既久、故禮壞而樂崩也)とある。また『集注』に「喪に居りて習わずして崩壊するを恐るるなり」(恐居喪不習而崩壞也)とある。
- 旧穀既没、新穀既升。鑽燧改火。期可已矣 … 『集解』に引く馬融の注に「周書の月令に、火を更うる有り。春に楡柳の火を取り、夏に棗杏の火を取り、季夏に桑柘の火を取り、秋に柞楢の火を取り、冬に槐檀の火を取る。一年の中に、火を鑽るに各〻木を異にす。故に火を改むと曰うなり」(周書月令、有更火。春取楡柳之火、夏取棗杏之火、季夏取桑柘之火、秋取柞楢之火、冬取槐檀之火。一年之中、鑽火各異木。故曰改火也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。楡柳は、楡と柳。棗杏は、棗と杏。桑柘は、桑と柘。柞楢は、柞と楢。槐檀は、槐と檀。また『義疏』に「宰予又た一期を足ると為すの意を説くなり。言うこころは夫れ人情の変、本と天道に依る。天道一期、則ち万物悉くは易わらざること莫し。旧穀既に没尽きて、又た新穀已に熟す。則ち人情も亦た宜しく之に法るべくして奪うなり。燧を鑽るとは、木を鑽りて火を取るの名なり。内則に、小觽・木燧と云うは、是れなり。火を改むとは、年に四時有り、四時鑽る所の木同じからず。若し一年ならば、則ち之を一周に鑽り、変改已に遍ならん。宰我之を断ずるなり。穀没きて又た升る、火鑽りて已に遍なり。故に喪有る者、一期も亦た可なりと為す」(宰予又説一期爲足意也。言夫人情之變、本依天道。天道一期、則萬物莫不悉易。舊穀既沒盡、又新穀已熟。則人情亦宜法之而奪也。鑽燧者、鑽木取火之名也。内則云、小觽木燧、是也。改火者、年有四時、四時所鑽之木不同。若一年、則鑽之一周、變改已遍也。宰我斷之也。穀沒又升、火鑽已遍。故有喪者、一期亦爲可矣)とある。また『注疏』に「宰我又た三年の喪は、一期にして足ると為すの意を言うなり。夫れ人の変遷は、本と天道に依る。一期の間には、則ち旧穀已に没きて、新穀已に成る。木を鑽りて火を出だす、之を燧と謂う。燧を鑽ると言うは、又た已に火を出だすの木を改変す。天道・万物は既已に新に改むれば、則ち人情も亦た宜しく旧に従うべし。故に喪礼は但だ一期にして除くも、亦た已む可し」(宰我又言三年之喪、一期爲足之意也。夫人之變遷、本依天道。一期之間、則舊穀已沒、新穀已成。鑽木出火、謂之燧。言鑽燧者、又已改變出火之木。天道萬物既已改新、則人情亦宜從舊。故喪禮但一期而除、亦可已矣)とある。また『集注』に「没は、尽くるなり。升は、登るなり。燧は、火を取るの木なり。火を改むは、春に楡柳の火を取り、夏に棗杏の火を取り、夏季に桑柘の火を取り、秋に柞楢の火を取り、冬に槐檀の火を取る。亦た一年にして周るなり。已は、止むなり。言うこころは期年なれば則ち天運一周し、時物皆変ず。喪此に至りて止む可きなり」(沒、盡也。升、登也。燧、取火之木也。改火、春取楡柳之火、夏取棗杏之火、夏季取桑柘之火、秋取柞楢之火、冬取槐檀之火。亦一年而周也。已、止也。言期年則天運一周、時物皆變。喪至此可止也)とある。また『集注』に引く尹焞の注に「喪を短くすの説は、下愚すら且つ之を言うを恥ず。宰我親しく聖人の門に学びて、是れを以て問いを為すは、心に疑う所有りて、敢えて強めざるのみ」(短喪之説、下愚且恥言之。宰我親學聖人之門、而以是爲問者、有所疑於心、而不敢強焉爾)とある。
- 食夫稲、衣夫錦。於女安乎 … 『義疏』に「孔子宰予一期を足れりと為すを云うを聞く。故に挙げて之を問うなり。夫は、語助なり。稲は、是れ穀の美なる者なり。錦は、是れ衣中の文華なる者なり。若し一期にして喪を除かば、喪を除き畢わりて、便ち美なるを食し、華なるを衣る。三年の内に在りて此の事を為す。汝の心に於いて、此を以て安しと為すや不や」(孔子聞宰予云一期爲足。故舉問之也。夫、語助也。稻、是穀之美者。錦、是衣中之文華者。若一期除喪、除喪畢、便食美、衣華。在三年之内爲此事。於汝之心、以此爲安不乎也)とある。また『注疏』に「孔子宰我の至親の喪をば、期を以て断ぜんと欲すと言うを見る、故に之に問いて言う、礼にては父母の喪の為に、既に殯すれば、粥を食らい、倚廬に居り、斬衰すること三年。期にして小祥、菜果を食らい、堊室に居り、練冠・縓縁し、要絰は除かず。今女は既に期の後、稲を食らい錦を衣るに、女の心に於いて、安きを得るや否や、と」(孔子見宰我言至親之喪、欲以期斷、故問之言、禮爲父母之喪、既殯、食粥、居倚廬、斬衰三年。期而小祥、食菜果、居堊室、練冠縓縁、要絰不除。今女既期之後、食稻衣錦、於女之心、得安否乎)とある。殯は、かりもがり。遺体を棺に納めたまま部屋に安置すること。練冠は、練り絹の冠。縓縁は、薄赤色で縁取りする。要絰は、腰に着ける喪中の麻帯。また『集注』に「礼に、父母の喪には、既に殯すれば、粥を食らい麤衰す。既に葬むれば、疏食水飲し、受くるに成布を以てす。期にして小祥し、始めて菜果を食らう。練冠・縓縁し、要絰除かず。稲を食らい錦を衣るの理無し。夫子は宰我の諸を心に反求し、自ら其の忍びざる所以の者を得んことを欲す。故に之を問うに此を以てす」(禮、父母之喪、既殯、食粥麤衰。既葬、疏食水飲、受以成布。期而小祥、始食菜果。練冠縓緣、要絰不除。無食稻衣錦之理。夫子欲宰我反求諸心、自得其所以不忍者。故問之以此)とある。麤衰は、最も目の粗い麻布で作った喪服。疏食は、粗食。
- 食夫稻 … 『義疏』では「食夫稻也」に作る。
- 衣夫錦 … 『義疏』では「衣夫錦也」に作る。
- 於女安乎 … 『義疏』では「於汝安乎」に作る。
- 曰、安 … 『義疏』に「宰我孔子に答うるなり。期を云いて稲を食らい錦を衣て以て安しと為すなり」(宰我答孔子也。云期而食稻衣錦以爲安也)とある。また『注疏』に「宰我言う、既に期にして喪を除き、即ち稲を食らい錦を衣るに、其の心は安し、と」(宰我言、既期除喪、即食稻衣錦、其心安也)とある。また『集注』に「而れども宰我察せざるなり」(而宰我不察也)とある。
- 女安則為之 … 『義疏』に「孔子宰我の安しと云う答えを聞く。故に孔子云う、汝此を安しと為すと言えば、則ち汝自ら之を為せ、と」(孔子聞宰我之答云安。故孔子云、汝言此爲安、則汝自爲之也)とある。また『注疏』に「孔子言う、女心安くば、則ち自ら之を為せ、と」(孔子言、女心安、則自爲之)とある。また『集注』に「此れ夫子の言なり。……初め女安ければ則ち之を為せと言うは、之を絶つの辞なり」(此夫子之言也。……初言女安則爲之、絶之之辭)とある。
- 女安則爲之 … 『義疏』では「曰、汝安則爲之」に作る。
- 夫君子之居喪、食旨不甘、聞楽不楽、居処不安。故不為也 … 『集解』に引く孔安国の注に「旨は、美なり。其の親に仁無きを責む。故に再び汝安ければ則ち之を為せと言う」(旨、美也。責其無仁於親。故再言汝安則爲之)とある。また『義疏』に「孔子又た宰我の為に、三年の内、稲を食らい錦を衣るに安んず可からざるを説くなり。言うこころは夫れ君子の人、親の喪に居る者、心は斬截の如くす。故に美なるを食らい錦を衣るの理無し。仮令美食を食らうも、亦た以て甘しと為すを覚えず。韶・武を聞くも、亦た雅楽と為さず。居処の華麗なるを設くるも、亦た身の安んずる所に非ず。故に聖人は人情に依りて苴麤の礼を制して、美楽の具を設けず。故に云う、為さざるなり、と」(孔子又爲宰我、説三年内不可安於食稻衣錦也。言夫君子之人、居親喪者、心如斬截。故無食美衣錦之理。假令食於美食、亦不覺以爲甘。聞於韶武、亦不爲雅樂。設居處華麗、亦非身所安。故聖人依人情而制苴麤之禮、不設美樂之具。故云、不爲也)とある。また『注疏』に「孔子又た為に安んず可からざるの礼を説く。旨は、美なり。言うこころは君子の喪に居るや疾く、即し酒を飲み肉を食らうに、美味を食らうと雖も、以て甘しと為さず。楽声を聞くと雖も、以て楽しと為さず。苫に寝ね塊を枕にし、居処は安きを求めざるなり。故に稲を食らい錦を衣るの事を為さず」(孔子又爲説不可安之禮。旨、美也。言君子之居喪也疾、即飲酒食肉、雖食美味、不以爲甘。雖聞樂聲、不以爲樂。寢苫枕塊、居處不求安也。故不爲食稻衣錦之事)とある。また『集注』に「旨も、亦た甘きなり。……又た其の忍びざるの端を発し、以て其の察せざるを警む」(旨、亦甘也。……又發其不忍之端、以警其不察)とある。
- 今女安、則為之 … 『義疏』に「旧事を陳ぶること既に竟わり、又た更に之を語るなり。昔君子の為さざる所、今汝若し一期を以て猶お此のごとく安しと為せば、則ち自ら之を為せ。之を再言するは、之を責むること深きなり」(陳舊事既竟、又更語之也。昔君子之所不爲、今汝若以一期猶此爲安、則自爲之。再言之者、責之深也)とある。また『注疏』に「今女既に心安くば、則ち任じて自ら之を為せ。其の親に仁恩無きを責む、故に再び女安くば、則ち之を為せと言う」(今女既心安、則任自爲之。責其無仁恩於親、故再言女安、則爲之)とある。また『集注』に「而して再び女安ければ則ち之を為せと言うは、以て深く之を責む」(而再言女安則爲之、以深責之)とある。
- 宰我出 … 『義疏』に「宰我孔子の罵り竟わるを得て出で去るなり」(宰我得孔子之罵竟而出去也)とある。
- 予之不仁也 … 『義疏』に「仁、猶お恩のごときなり。言うこころは宰我恩愛の心無し。故に曰く、予の不仁なるや、と。予は、宰我の名を謂うなり」(仁、猶恩忍也。言宰我無恩愛之心。故曰、予之不仁也。予、謂宰我之名也)とある。また『注疏』に「予は、宰我の名なり」(予、宰我名)とある。
- 子生三年、然後免於父母之懐 … 『集解』に引く馬融の注に「子生まれて未だ三歳ならざれば、父母の懐抱する所と為るなり」(子生未三歳、爲父母所懷抱也)とある。また『義疏』に「又た仁ならざる所以の事を解くなり。案ずるに聖人は礼制を為るに三年を以てす。二義有り。一つは是れ賢を抑え、一つは是れ愚を引く。賢を抑うるとは、言うこころは夫れ人の子の父母に於けること、身を終うるの恩、昊天極罔きの報有り、但だ聖人は三才を為む、宜しく人倫を理むるを超絶すべし、故に因りて之を裁して、以て限節を為す者なり。所以は何となれば、夫れ人は是れ三才の一なり、天地は人に資りて成る、人の世に生まれて、誰か父母無からん。父母若し喪するときは、必ず人の子をして性を滅ぼし及び身服長凶にして、人人以て爾らしむは、則ち二儀便ち廃れん、是れを不可なりと為す。故に断るに年月を以てす、死を送るに已むこと有り、生を復るに節有らしむ。尋に服を制すること節を致す、本応に期断るべし、期を断るは是れ天道一変す。人の情も亦た宜しく人に随いて易かるべし、但だ故に火を改むるの促期は、終天の性を権る可からず、燧鑽るの過隙、創鉅の文を消すること無し。故に隆倍するに再変を以てす、再変は是れ二十五月、始末の三年の中なり、此れは是れ抑うるなり。一は是れ愚を引くとは、言うこころは子生まれて三年の前は、未だ知儀有らず、父母之を養うこと、最も懐抱に鍾む。三年に至るに及ぶより以後、人と飢渇痛癢に相関わる、能く言うことを須いることを有るときは、則ち父母の懐、稍く寛免することを得。今既に身を終うるまで遂げ難し、故に報ずるに極時を以てす、故に必ず三年に至る、此れは是れ引くなり。而るを宰予既に其の父母の為に生ぜらる、亦た必ず其の父母の為に懐らる。将に之を罵らんと欲す、故に先ず此の言を発して之を引くなり」(又解所以不仁之事也。案聖人爲禮制以三年。有二義。一是抑賢、一是引愚。抑賢者、言夫人子於父母、有終身之恩、昊天罔極之報、但聖人爲三才、宜理人倫超絶、故因而裁之、以爲限節者也。所以者何、夫人是三才之一、天地資人而成、人之生世、誰無父母。父母若喪、必使人子滅性及身服長凶、人人以爾、則二儀便廢、爲是不可。故斷以年月、使送死有已、復生有節。尋制服致節、本應斷期、斷期是天道一變。人情亦宜隨人而易、但故改火促期、不可權終天之性、鑽燧過隙、無消創鉅文。故隆倍以再變、再變是二十五月、始末三年之中、此是抑也。一是引愚者、言子生三年之前、未有知儀、父母養之、最鍾懷抱。及至三年以後、與人相關飢渇痛癢、有須能言、則父母之懷、稍得寛免。今既終身難遂、故報以極時、故必至三年、此是引也。而宰予既爲其父母所生、亦必爲其父母所懷矣。將欲罵之、故先發此言引之也)とある。また『注疏』に「宰我は方に愚執に当たるも、夫子は面に其の過ちを斥くるを欲せず、故に宰我既に問いて出で去り、孔子二三子に対えて言いて曰く、夫れ宰予は父母に不仁なり。凡そ人子は生まれて未だ三歳ならざるときは、常に父母の懐抱する所と為る。既に三年にして、然る後に父母の懐を免れ離る。是を以て聖人の喪礼を制するや、父母の為には三年なり、と」(宰我方當愚執、夫子不欲面斥其過、故宰我既問而出去、孔子對二三子言曰、夫宰予不仁於父母也。凡人子生未三歳、常爲父母所懷抱。既三年、然後免離父母之懷。是以聖人制喪禮、爲父母三年)とある。
- 夫三年之喪、天下之通喪也 … 『集解』に引く孔安国の注に「天子より庶人に達す」(自天子達於庶人)とある。また『義疏』に「人は貴賤同じからずと雖も、以て父母の懐抱と為る。故に喪服を制するに、尊卑を以て殊を致さず。因って三年を以て極と為す。上は天子より下は庶人に至る。故に云う、天下の通喪なり、と。且つ汝は是れ四科の限り、豈に宜しく儀無きの庶人に及ばざるべけんや。故に通喪と言いて之を引くなり」(人雖貴賤不同、以爲父母懷抱。故制喪服、不以尊卑致殊。因以三年爲極。上自天子下至庶人。故云、天下通喪也。且汝是四科之限、豈宜不及無儀之庶人乎。故言通喪引之也)とある。また『注疏』に「通は、達なり。上は天子より、下は庶人に達するまで、皆父母の為に三年なるを謂う。故に通喪と曰うなり」(通、達也。謂上自天子、下達庶人、皆爲父母三年。故曰通喪也)とある。
- 天下之通喪也 … 『史記』仲尼弟子列伝では「天下之通義也」に作る。ウィキソース「史記/卷067」参照。
- 予也有三年之愛於其父母乎 … 『集解』に引く孔安国の注に「言うこころは子の父母に於けるや、之が徳に報いんと欲するも、昊天極まり罔し。而して予や、三年の愛有るなり」(言子之於父母、欲報之德、昊天罔極。而予也、有三年之愛也)とある。また『義疏』に「予は、宰我の名なり。父母己を愛するが為の故に三年に限る。今、宰我三年に服さざらんと欲す。是れ其の誰か其の父母に三年の愛有りや不や。一に云う、愛は、吝惜なり。言うこころは宰我何ぞ忽として三年を其の父母に愛惜するや、と」(予、宰我名也。爲父母愛己故限三年。今宰我欲不服三年。是其誰有三年之愛於其父母不乎。一云、愛、吝惜也。言宰我何忽愛惜三年於其父母也)とある。また『注疏』に「父母己を愛するが為に、故に喪すること三年なり。今、予や三年の服を行うを欲せず。是れ三年の恩愛を父母に有らんか」(爲父母愛己、故喪三年。今予也不欲行三年之服。是有三年之恩愛於父母乎)とある。また『集注』に「宰我既に出で、夫子其の真に以て安んず可きと為して遂に之を行わんことを懼る。故に深く其の本を探りて之を斥く。言うこころは其の不仁に由り、故に親を愛するの薄きこと此くの如きなり。懐は、抱くなり。又た君子親に忍びずして、喪は必ず三年なる所以の故を言い、之をして之に聞かせしむれば、或いは能く反求して、終に其の本心を得るなり」(宰我既出、夫子懼其眞以爲可安而遂行之。故深探其本而斥之。言由其不仁、故愛親之薄如此也。懷、抱也。又言君子所以不忍於親、而喪必三年之故、使之聞之、或能反求、而終得其本心也)とある。
- 『集注』に引く范祖禹の注に「喪は三年に止まると雖も、然れども賢者の情は則ち窮まること無きなり。特だ聖人之が中制を為して、敢えて過ぎざるを以て、故に必ず俯して之に就かしむ。三年の喪を以て、以て其の親に報いるに足ると為すに非ざるなり。所謂三年にして、然る後に父母の懐を免るるは、特だ宰我の恩を無みするを責むるを以て、其の以て跂して之に及ぶこと有らんと欲するのみ」(喪雖止於三年、然賢者之情則無窮也。特以聖人爲之中制、而不敢過、故必俯而就之。非以三年之喪、爲足以報其親也。所謂三年、然後免於父母之懷、特以責宰我之無恩、欲其有以跂而及之爾)とある。
- 伊藤仁斎『論語古義』に「期は、周年なり。……按ずるに周礼司爟に、火を行うの政令を掌る、四時国火を変えて、以て時疾を救う、と。……今、本文を詳らかにするに、明らかに是れ一年に一たび火を改めて、四時各〻火を変ずるに非ず、則ち専ら周礼に拠って、以て此の章を解す可からざるなり。……宰我の此の言、其れ必ず具慶の時に在りしか。蓋し幼にして父母を喪うと、父母倶に存する者とは、自ずから此の心無し。故に或いは喪必ず三年するの説に疑い有り。若し一旦大故に遭うときは、則ち自ら已むこと能わざるの至情有り。故に曰く、人未だ自ら致す者有らざるなり、必ずや親の喪か、と。……而して聖人制して三年の喪を為す者は、蓋し纔かに以て懐抱の恩を報ゆるに足るを取るのみ。豈に此を以て其の親に報ゆるの道を尽くすに足ると為さんや。夫子の言甚だ明白なり。礼家以為えらく聖人特に之が中制を為す者と。蓋し臆説なり」(期、周年也。……按周禮司爟、掌行火之政令、四時變國火、以救時疾。……今詳本文、明是一年一改火、而非四時各變火、則不可專據周禮、以解此章也。……宰我此言、其必在於具慶之時乎。蓋幼而喪父母、與父母倶存者、自無此心。故或有疑於喪必三年之説。若一旦遭大故、則自有不能已之至情。故曰、人未有自致者也、必也親喪乎。……而聖人制爲三年之喪者、蓋取纔足以報懷抱之恩爾。豈以此爲足盡其報親之道乎。夫子之言甚明白矣。禮家以爲聖人特爲之中制者。蓋臆説也)とある。具慶は、父母がそろって生存していること。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 荻生徂徠『論語徴』に「孔子の時は、革命の秋に当たる。孔子の道大いに天下に行われ、必ず礼楽を改めん。宰我の智、蓋し其の意を窺い見る。故に期にして已む可しの問い有り。是れ己喪を短くせんと欲するに非ざるなり。若し礼楽を制作せば、則ち期にして已む可しと言うのみ。然らずんば、三年の喪は、先王の制なり。当世の人、遵奉して敢えて違わざるなり。況んや宰我の聖門に在る、豈に故無くして此の問い有らんや。宋儒好んで自ら高くして軽〻しく人を詆るは、論亡きのみ。仁斎先生其の孔門の高弟にして此の問い有るを怪しむや、乃ち曰く、其れ必ず具慶の日に在るか、と。是れ其の解を得ずして之が為に回護する者なり。……燧を鑽りて火を改む、仁斎曰く、今、本文を詳らかにするに、明らかに是れ一年に一たび火を改め、而うして四時各〻火を変うるに非ざれば、則ち専ら周礼に拠りて以て此の章を解す可からざるなり。是れ仁斎一部の論語を執りて、它経を信ぜず、教えは孔子に至りて斬新開闢すと言いて、先王の道を軽んず、故に是の言を作すのみ。……仁斎又た曰く、稲は糯なり。穀の甚だ美なる者、と。殊に知らず田に在るを稲と曰い、刈穫したるを禾と曰い、藁を去りたるを粟と曰い、殻を去りたるを米と曰い、米にして未だ舂かざるを糲と曰い、已に舂きたるを粱と曰い、皆一物なることを。而うして稲を糯と為し、粟を秫の類と為し、粱を粟中の一種と為すは、皆後世医家の説にして、古言に非ず。仁斎又た曰く、……礼家聖人特に之が中制を為すと以為える者は、蓋し臆説なり、と。仁斎は礼を識らず、又た中を識らずと謂う可し。夫れ三年の喪、以て子の哀を尽くし、聖人の心、此れを以て、以て懐抱の恩に報ゆるに足ると為すは、則ち豈に迂ならずや。然れども孔子の云うこと爾る所以の者は、廼ち礼の類に取る所爾りと為す。曾子曰く、終わりを慎み遠きを追うときは、民徳厚に帰す、と。是れ礼を制するの意なり。且つ所謂中なる者は、聖人民の為に極を立つるを謂うなり。故に漢儒は極を解して中と為す。極とは聖人此れを立てて民をして守ら俾むるを謂うなり。宋儒は是の義を識らず、乃ち理を其の臆に取りて、夫の過不及無きの意を賭んと欲す。仁斎も亦た爾り。予故に曰く、礼を識らず、又た中を識らず、と」(孔子時、當革命之秋。孔子之道大行於天下、必改禮樂。宰我之智、蓋窺見其意。故有期可已矣之問。是非己欲短喪也。言若制作禮樂、則期可已矣耳。不然、三年之喪、先王之制也。當世之人、遵奉而不敢違也。况宰我之在聖門、豈無故而有此問乎。宋儒好自高而輕詆人、亡論已。仁齋先生怪其孔門高弟而有此問也、乃曰、其必在於具慶之日乎。是不得其解而爲之囘護者也。……鑽燧改火、仁齋曰、今詳本文、明是一年一改火、而非四時各變火、則不可專據周禮以解此章也。是仁齋執一部論語、而不信它經、言教至孔子而斬新開闢、而輕先王之道、故作是言耳。……仁齋又曰、稻糯也。穀之甚美者。殊不知在田曰稻、刈穫曰禾、去藁曰粟、去殼曰米、米而未舂曰糲、已舂曰粱、皆一物也。而稻爲糯、粟爲秫類、粱爲粟中一種、皆後世毉家之説、非古言矣。仁齋又曰、……禮家以爲聖人特爲之中制者、蓋臆説也。仁齋可謂不識禮、又不識中矣。夫三年之喪、以盡子之哀、聖人之心、以此爲足以報懷抱之恩、則豈不迂乎。然孔子所以云爾者、廼禮之所取于類爲爾。曾子曰、愼終追遠、民德歸厚。是制禮之意也。且所謂中者、謂聖人爲民立極也。故漢儒解極爲中。極者謂聖人立此而俾民守也。宋儒不識是義、乃取理其臆、而欲賭夫無過不及意。仁齋亦爾。予故曰、不識禮、又不識中也)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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