子張第十九 16 曾子曰堂堂乎張也章
487(19-16)
曾子曰、堂堂乎張也。難與竝爲仁矣。
曾子曰、堂堂乎張也。難與竝爲仁矣。
曾子曰く、堂堂たるかな張や。与に並びて仁を為し難し。
現代語訳
- 曽(ソウ)先生 ――「押しだしがいいね子張は。いっしょにジミなことはできないよ。」(魚返善雄『論語新訳』)
- 曾子の言うよう、「堂々たる大人物なるかな、子張君は、しかしどうも調和的でないので、いっしょに助け合って仁を為すことがむずかしい」(穂積重遠『新訳論語』)
- 曾先生がいわれた。――
「堂々たるものだ、張の態度は。だが、相たすけて仁の道を歩める人ではない」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
補説
- 『注疏』に「此の章も亦た子張の材徳を論ずるなり」(此章亦論子張材德也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 曾子 … 『孔子家語』七十二弟子解に「曾参は南武城の人、字は子輿。孔子より少きこと四十六歳。志孝道に存す。故に孔子之に因りて以て孝経を作る」(曾參南武城人、字子輿。少孔子四十六歳。志存孝道。故孔子因之以作孝經)とある。ウィキソース「孔子家語/卷九」参照。また『史記』仲尼弟子列伝に「曾参は南武城の人。字は子輿。孔子より少きこと四十六歳。孔子以為えらく能く孝道に通ずと。故に之に業を授け、孝経を作る。魯に死せり」(曾參南武城人。字子輿。少孔子四十六歳。孔子以爲能通孝道。故授之業、作孝經。死於魯)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。
- 堂堂乎張也 … 『義疏』に「此れ以下は是れ第四なり。曾参の語、自ら四章有り。堂堂は、儀容怜す可きなり」(此以下是第四。曾參語、自有四章。堂堂、儀容可怜也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「堂堂は、容儀の盛んなる貌なり」(堂堂、容儀盛貌)とある。また『集注』に「堂堂は、容貌の盛んなるなり」(堂堂、容貌之盛)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 子張 … 『史記』仲尼弟子列伝に「顓孫師は陳の人。字は子張。孔子より少きこと四十八歳」(顓孫師陳人。字子張。少孔子四十八歳)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。また『孔子家語』七十二弟子解に「顓孫師は陳人、字は子張。孔子より少きこと四十八歳。人と為り容貌資質有り。寬沖にして博く接し、従容として自ら務むるも、居りて仁義の行いを立つるを務めず。孔子の門人、之を友とするも敬せず」(顓孫師陳人、字子張。少孔子四十八歳。為人有容貌資質。寬沖博接、從容自務、居不務立於仁義之行。孔子門人、友之而弗敬)とある。ウィキソース「孔子家語/卷九」参照。
- 難与並為仁矣 … 『集解』に引く鄭玄の注に「言うこころは子張の容儀盛んなれども、仁道に於いて薄きなり」(言子張容儀盛、而於仁道薄也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「言うこころは子張は容貌堂堂たりと雖も、而れども仁の行い浅薄なり。故に云う、並びて仁を為し難し、と。並は、竝なり」(言子張雖容貌堂堂、而仁行淺薄。故云、難並爲仁。並、竝也)とある。また『注疏』に「曾子言う、子張の容儀は堂堂然として盛んなるも、仁道に於いては則ち薄し、故に与に並びて仁を為し難し、と」(曾子言、子張容儀堂堂然盛、於仁道則薄、故難與竝爲仁矣)とある。また『集注』に「言うこころは其の外を務め自らを高しとすれば、輔けて仁を為す可からず、亦た以て人の仁を輔くること有る能わざるなり」(言其務外自高、不可輔而爲仁、亦不能有以輔人之仁也)とある。
- 『集注』に引く范祖禹の注に「子張外余り有れども、内足らず。故に門人皆与に其の仁を為さず。子曰、剛毅木訥は仁に近し、と。寧ろ外足らずして内余り有れば、以て仁を為す可きに庶からん」(子張外有餘、而内不足。故門人皆不與其爲仁。子曰、剛毅木訥近仁。寧外不足而内有餘、庶可以爲仁矣)とある。
- 伊藤仁斎『論語古義』では前章と合わせて一つの章とし、「夫れ経を窮むるの人は遇い易く、道を知るの人は遇い難し。道を知るの人は得易く、徳有るの人は得難し。道を知るの人に非ざれば、則ち与に義を存じ難し。徳有るの人に非ざれば、則ち与に並びて仁を為し難し。此れ二子の子張に与せざる所以なり。後世の儒者、二子の言に因りて、漫りに子張を議する者は過てり」(夫竆經之人易遇、知道之人難遇。知道之人易得、有德之人難得。非知道之人、則難與存義。非有德之人、則難與竝爲仁矣。此二子之所以不與子張也。後世儒者、因二子之言、漫議子張者過矣)とある。二子は、子游と曾子。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 荻生徂徠『論語徴』では前章と合わせて一つの章とし、「与に並びて仁を為し難しとは、言うこころは己をして子張と国を隣して以て仁政を行わしむるときは、則ち必ず其の下に出でん、と。亦た曾子の畏るる所、啻に子路のみならざるを見るなり。未だ仁ならずと仁を為すとは義を同じうせず。孔子の諸子の仁を問うに答うるを観るに、唯だ顔淵・子張にのみ天下を以て之を言う。其の才の大なるを見る可きのみ。……古時師の弟子に教うる、弟子の従事する所は、皆各〻其の性の能くする所を以てす。然るに後世の道学先生は、則ち各〻門戸を立て宗旨を設け、己が見る所を以て之を孔門の諸賢に強う。何ぞ其の自ら高うするの甚だしき、以て夫の孔子の権を奪うに至るや。噫。仁斎又た此の章の義を論じて曰く、道を知るの人は得易く、徳有るの人は得難し、と。殊に知らず苟くも至徳にあらざれば、至道凝まらずということを。豈に道を知るの難き、孔子に非ざれば、以て之に当たるに足らざるに非ずや。君子なるかな若き人も、亦た以て有徳の人と為すに足るのみ」(難與並爲仁矣者、言使己與子張隣國以行仁政、則必出其下焉。亦見曾子所畏、不啻子路也。未仁與爲仁不同義。觀於孔子答諸子問仁、唯顏淵子張以天下言之。可見其才大已。……古時師之教弟子、弟子之所從事、皆各以其性所能焉。然後世道學先生、則各立門戸設宗旨、以己所見強之孔門諸賢。何其自高之甚、以至奪夫孔子之權也。噫。仁齋又論此章之義曰、知道之人易得、有德之人難得。殊不知苟不至德、至道不凝。豈非知道之難、非孔子、不足以當之邪。君子哉若人、亦足以爲有德之人也已)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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