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陽貨第十七 26 子曰年四十而見惡焉章

460(17-26)
子曰、年四十而見惡焉、其終也已。
いわく、としじゅうにしてにくまるるは、わらんのみ。
現代語訳
  • 先生 ――「四十になってもにくまれるようでは、まあそれっきりだな。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様がおっしゃるよう、「わくの年の四十歳にもなって、何ひとつ善行もなく、君子ににくまれるようなことでは、もうおしまいじゃ。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師がいわれた。――
    「人間が四十歳にもなって人にそしられるようでは、もう先が見えている」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 四十 … 不惑の年。物事に惑わなくなる頃をいう。「為政第二4」に「四十にして惑わず」(四十而不惑)とある。また「子罕第九22」に「四十五十にして聞ゆること無くんば、斯れ亦たおそるるに足らざるのみ」(四十五十而無聞焉。斯亦不足畏也已)とある。また新注では「人間としての徳を立派に完成させる時期」と解釈している。
  • 見 … 「る」「らる」と読み、「~される」と訳す。受身を表す。「被」に同じ。
  • 終也已 … おしまいだ。「也已」は「のみ」と読み、「~だ」「~だけだ」と訳す。断定を表す助辞。
補説
  • 『注疏』に「此の章は人の年四十にして猶お悪行を為して、人に憎悪せらるる者は、則ち是れ其の終に善行無きを言うなり。已に其の年不惑に在りて、猶お人の悪む所と為るは、必ず追改すること能わざるの故を以てなり」(此章言人年四十猶爲惡行、而見憎惡於人者、則是其終無善行也。已以其年在不惑、而猶爲人所惡、必不能追改故也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 年四十而見悪焉、其終也已 … 『集解』に引く鄭玄の注に「年不惑に在りて人の悪む所と為れば、終に善行無きなり」(年在不惑而爲人所惡、終無善行也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「人年未だ四十ならざれば、則ち徳行猶お進む。当時未だ善を能くせずと雖も、猶お望んで改む可し。若し年四十、已に不惑の時に在りて、猶お衆人の共に憎悪せらるる所と為る者ならば、則ち其の一生を終わるに当たりても、復た善の理有ること無し。故に云う、其れ終らんのみ、と」(人年未四十、則德行猶進。當時雖未能善、猶望可改。若年四十、已在不惑之時、猶爲衆人共所見憎惡者、則當終其一生、無復有善理。故云、其終也已)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『集注』に「四十は、成徳の時。人に悪まるれば、則ち此に止むのみ。人に時に及びて善にうつり過ちを改むるを勉めしむるなり」(四十、成德之時。見惡於人、則止於此而已、勉人及時遷善改過也)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 『集注』に引く蘇軾の注に「此れ亦たためにすること有りて言う。其の誰の為なるかを知らざるなり」(此亦有爲而言。不知其爲誰也)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「悪む可くして欲す可からざる者は、必ず小人なり。郷人皆之を悪むも、猶お言う可き者有り。往くとして悪まるること無きに至りては、則ち其の善状無きこと知る可し」(可惡而不可欲者、必小人也。郷人皆惡之、猶有可言者。至於無往而不見惡、則其無善狀可知矣)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』には、この章の注なし。
学而第一 為政第二
八佾第三 里仁第四
公冶長第五 雍也第六
述而第七 泰伯第八
子罕第九 郷党第十
先進第十一 顔淵第十二
子路第十三 憲問第十四
衛霊公第十五 季氏第十六
陽貨第十七 微子第十八
子張第十九 堯曰第二十