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微子第十八 1 微子去之章

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微子去之、箕子爲之奴、比干諫而死。孔子曰、殷有三仁焉。
微子びしこれり、箕子きしこれり、かんいさめてす。こういわく、いん三仁さんじんり。
現代語訳
  • 微子は暴君から去り、箕(キ)子はドレイになり、比干(カン)はいさめて殺された。孔先生 ――「殷(イン)時代にもりっぱな人が三人はいた。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • いんちゅうおうどうだったので、微子びし箕子きしかんとがいさめたが聞かれず、微子は国を去り身を全くして先祖の祭を存し、箕子はとらえられてやっことなったが、狂人をまねて命を助かり、比干はきょっかんしたため紂のいかりにふれて殺された。三人のぎょうせきはそれぞれに違うが、いずれもしゅっしょ進退しんたいよろしきを得たものなので、孔子様は「殷に三人の仁者があった。」とほめられた。(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 微子びし箕子きしかんはともにいんちゅう王の無道をいさめた。微子はいさめてきかれず、去って隠棲した。箕子はいさめて獄に投ぜられ、奴隷となった。比干は極諫して死刑に処せられ、胸をかれた。先師はこの三人をたたえていわれた。――
    「殷に三人の仁者があった」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 微子 … 生没年不詳。殷の帝乙ていいつの長子。紂王の異母兄。名は啓、または開。微子啓ともいう。紂王の暴虐を諫めたが聞き入れられず、微に逃げ去った。周の武王に紂王が滅ぼされたので武王に降伏した。のちに殷のあとを継ぐものとして宋に封ぜられた。ウィキペディア【微子啓】参照。
  • 箕子 … 生没年不詳。殷の帝乙の弟で、紂王の叔父。紂王の暴虐を諫めたが聞き入れられず、狂人のふりをして奴隷となった。周の武王が紂王を滅ぼした後、朝鮮に封ぜられた。ウィキペディア【箕子】参照。
  • 之奴 … 「之」は紂王を指す。「奴」は奴隷。
  • 比干 … 生没年不詳。殷の帝乙の弟で、紂王の叔父。紂王の暴虐を強く諫めたため、残虐な方法で処刑された。ウィキペディア【比干】参照。
  • 三仁 … 三人の仁者。
補説
  • 微子第十八 … 『集解』に「凡そ十一章」(凡十一章)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「微子とは、殷紂の庶兄なり。其の紂の凶悪なるを覩て、必ず天位を喪うを明らかにす。故に先ず衣を払いて周に帰し、以て宗祀を存するなり。前に次ぐ所以の者は、天下並びに悪なれば、則ち賢宜しく遠避すべきを明らかにす。故に微子を以て陽貨に次ぐなり」(微子者、殷紂庶兄也。明其覩紂凶惡、必喪天位。故先拂衣歸周、以存宗祀也。所以次前者、明天下竝惡、則賢宜遠避。故以微子次陽貨也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「此の篇は天下の無道、礼の壊れ楽の崩れ、君子・仁人の或いは去り或いは死し、しからずんば則ち巌野に隠淪し、四方に周流するを論ず。因りて周公の魯公を戒むるの語、四乳して八士を生ずるの名を記す。前篇に群小の位に在るを言えば、則ち必ず仁人の所を失うを致すを以て、故に此の篇を以て之に次す」(此篇論天下無道、禮壞樂崩、君子仁人或去或死、否則隱淪巖野、周流四方。因記周公戒魯公之語、四乳生八士之名。以前篇言羣小在位、則必致仁人失所、故以此篇次之)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『集注』に「此の篇は多く聖賢の出処を記す。凡そ十一章」(此篇多記聖賢之出處。凡十一章)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 『注疏』に「此の章は殷に三仁有りて、志は同じきも行いは異なるを論ずるなり」(此章論殷有三仁、志同行異也)とある。
  • 微子去之、箕子為之奴、比干諫而死 … 『集解』に引く馬融の注に「微・箕は、二国の名なり。子は、爵なり。微子は、紂の庶兄なり。箕子・比干は、紂のしょなり。微子紂の無道を見て、つとに之を去る。箕子狂をいつわりて奴と為り、比干諫を以てして、殺さるるなり」(微箕、二國名。子、爵也。微子、紂之庶兄。箕子比干、紂之諸父也。微子見紂無道、早去之。箕子詳狂爲奴、比干以諫、而見殺也)とある。諸父は、おじ。また『義疏』に「微子の名は啓。是れ殷王帝乙の元子なり。紂の庶兄なり。殷紂は暴虐、百姓を残酷し、日に月に滋〻ますます甚だし。諫争に従わず微子の都国必ず亡び社稷顚殞てんいんす。己の身は元長、宜しく係嗣を存すべし。故に先ず殷を去りて周に投じ、早に宗廟の計を為さん。故に云う、之を去らん、と。箕子とは、紂の諸父なり。時に父師と為る。是れ三公の職なり。屢〻しばしば諫むれども従わず。国必ずつるを知る。己の身長に非ざるも、すなわち去ること能わず。任を職とし重に寄せ、又た死す可からず。故にようきょうして囚を受け奴と為る。故に云う、之が奴と為る、と。鄭尚書に注して云う、父師とは、三公なり、と。時に箕子之が奴と為るなり。比干も亦た紂の諸父なり。時に少師と為る。少師は是れ三孤の職なり。進むも長適に非ず、存宗の去無し。退けば台輔に非ず、佯狂の留を俟まず。且つ生くるは難く死するは易し。故に正言極諫し、以てむねかるるに至りて死す。故に云う、諫めて死す、と。鄭尚書に注して云う、少師とは、大師の佐なり、孤卿なり、と。時に比干之が為に死するなり」(微子名啓。是殷王帝乙之元子。紂之庶兄也。殷紂暴虐、殘酷百姓、日月滋甚。不從諫爭微子都國必亡社稷顚殞。己身元長、宜存係嗣。故先去殷投周、早爲宗廟之計。故云、去之。箕子者、紂之諸父也。時爲父師。是三公之職。屢諫不從。知國必殞。己身非長、不能輒去。職任寄重、又不可死。故佯狂而受囚爲奴。故云、爲之奴也。鄭注尚書云、父師者、三公也。時箕子爲之奴也。比干亦紂之諸父也。時爲少師。少師是三孤之職也。進非長適、無存宗之去。退非台輔、不俟佯狂之留。且生難死易。故正言極諫、以至割心而死。故云、諫而死也。鄭注尚書云、少師者、大師之佐、孤卿也。時比干爲之死也)とある。元子は、長子。佯狂は、狂人のふりをすること。また『注疏』に「微子は、紂の庶兄、箕子・比干は、紂の諸父なり。紂の無道を見、微子は之を去り、箕子は狂をいつわりて奴と為り、比干は諫むるを以て殺さる」(微子、紂之庶兄、箕子比干、紂之諸父。見紂無道、微子去之、箕子佯狂爲奴、比干以諫見殺)とある。また『集注』に「微・箕は、二国の名。子は、爵なり。微子は、紂の庶兄。箕子・比干は、紂の諸父。微子は紂の無道を見て、之を去りて以てそうを存す。箕子・比干は皆諫む。紂は比干を殺し、箕子を囚えて以て奴と為す。箕子因りて佯狂して辱めを受く」(微箕、二國名。子、爵也。微子、紂庶兄。箕子比干、紂諸父。微子見紂無道、去之以存宗祀。箕子比干皆諫。紂殺比干、囚箕子以爲奴。箕子因佯狂而受辱)とある。
  • 殷有三仁焉 … 『集解』の何晏の注に「仁者は人を愛す。三人の行いは各〻異なれども、同じく仁と称す。其の倶に乱を憂え民を寧んずるに在るを以てなり」(仁者愛人。三人行各異、而同稱仁。以其倶在憂亂寧民也)とある。また『義疏』に「孔子は微子・箕子・比干の其の迹を評す。異なると雖も、而れども同じく仁と為す。故に云う、三仁有り、と。然る所以の者は、仁以て世を憂え己の身を忘れて用を為す。而るに此の三人の事迹異なると雖も、倶に是れ世民を憂うるを為すなり。然れども若し地を易えて処れば、則ち三人共に互いに能くせんのみ。但だ若し去ること有らざる者ならば、則ち誰か宗祀を保たんや。佯狂すること有らざる者は、則ち誰か親しく寄るを為さんや。死すること有らざる者は、則ち誰か高き臣節を為さんや。各〻其の宜なる所を尽くして、倶に臣法を為し、教うるに於いて益有り。故に仁と称するなり」(孔子評微子箕子比干其迹。雖異、而同爲仁。故云、有三仁焉。所以然者、仁以憂世忘己身爲用。而此三人事迹雖異、倶是爲憂世民也。然若易地而處、則三人共互能耳。但若不有去者、則誰保宗祀耶。不有佯狂者、則誰爲親寄耶。不有死者、則誰爲高臣節耶。各盡其所宜、倶爲臣法、於教有益。故稱仁也)とある。また『注疏』に「人を愛する、之を仁と謂う。三人の行う所は異なれども同じく仁と称するは、其の倶に乱を憂え民を寧んずるに在るを以てなり」(愛人謂之仁。三人所行異而同稱仁、以其倶在憂亂寧民也)とある。また『集注』に「三人の行は同じからざれども、同じく至誠惻怛そくだつの意より出づ。故に愛の理にもとらずして、以て其の心の徳を全くすること有るなり」(三人之行不同、而同出於至誠惻怛之意。故不咈乎愛之理、而有以全其心之德也)とある。
  • 『集注』に引く楊時の注に「此の三人の者、各〻其の本心を得。故に同じく之を仁と謂う」(此三人者、各得其本心。故同謂之仁)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「仁は実徳なり。故に至誠にしていつわらず、至正にしてかたよらず、皆慈愛惻怛そくだつの心よりして発す。三仁は当に去るべくして去り、当に奴と為るべくして奴たり、当に死すべくして死す。皆至誠惻怛の心に出でて、痛哭流涕の意有り。但だ去るときは則ち君を忘るるに似たり、奴と為るときは則ち身をはずかしむるに似たり。故に夫子其の心をたずねて、総べて之を断じて曰く、殷に三仁有り、と。蓋し微子・箕子の為に、其の精誠を暴白ばくはくするなり。猶お孟子の所謂、禹・稷・顔回は道を同じくするの意のごとし、且つ此れに就きて之を観れば、則ち知る仁を為す者の、或いは遠く或いは近く、一を以てしてかかわる可からざることを」(仁實德也。故至誠而不僞、至正而不偏、皆自慈愛惻怛之心而發。三仁當去而去、當爲奴而奴、當死而死。皆出於至誠惻怛之心、而有痛哭流涕之意。但去則似於忘君、爲奴則似於辱身。故夫子原其心、而總斷之曰、殷有三仁。蓋爲微子箕子、暴白其精誠也。猶孟子所謂、禹稷顏回同道之意、且就此觀之、則知爲仁者、或遠或近、不可以一而拘焉)とある。暴白は、あばくこと。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「愚按ずるに、三子の行い、其の詳は得て聞く可からず。孔子の時に在りては、必ず其のあとの詳を伝うる者有らん。故に孔子其の仁たるを知りて之を断じて云うことしかり。後世朱子・仁斎の徒は、皆各〻己の見る所を以てして以て所謂仁なる者を定め、而うして三子の心を推言して必ずこれを己が見る所の者に合わせ、以て孔子仁を為すの意を解す。ここを以て其の説皆聴く可しと雖も、吾れ未だ其の果たして孔子仁と称するの意に合するや否やを知らざるなり。朱子の所謂至誠惻怛そくだつ、仁斎の所謂至誠にして偽らず、至正にして偏らずは、此れ皆吾が所謂各〻己の見る所を以てする者なり。幸いにして三子の行い、其の詳なる得て聞く可からざるときは、則ち朱子・仁斎の説、人其の非是ひぜすこと能わず。然れどもこれを管仲に律すれば其の説窮す。故に何晏の説の二家にまさることを知るなり。且つ仁斎の説の如くんば、止だ之を忠と謂う可きのみ。大氐たいてい道学者流は、おおむね皆道を知るを以て自ら任じ、競いて古聖賢心中の、典籍の載せざる所の者を言う。豈に之をうがてりと謂わざる可けんや。今しばらく仁字の義に拠り、まじうるに論語の文を以てするに、比干の死は、必ず微子去り箕子奴と為るの後に在るなり。其の諫むる所は必ず微子・箕子の言を用うるに在りて、是れよりさき微子・箕子も亦た必ず紂に告ぐるに宗社を保ち天下を安んずるの事を以てせしのみ。夫れ天下を安んずるの心有りて又た天下を安んずるの功有る、之を仁と謂う。管仲是れなり。天下を安んずるの心有れども天下を安んずるの功無き、之を仁と謂うを得ず。天下を安んずるの功有れども天下を安んずるの心無きは、此の事有ること莫し。三子の如き者は、天下を安んずるの心有れども天下を安んずるの功無し。天下を安んずるの功無しと雖も、然れども紂をして其の言に従わしめば、則ち亦た以て天下を安んずるに足る。故に之を仁と謂う。今の言う可き者は、是れにとどまる」(愚按、三子之行、其詳不可得而聞焉。在孔子時、必有傳其蹟之詳者。故孔子知其爲仁而斷之云爾。後世朱子仁齋之徒、皆各以己所見以定所謂仁者、而推言三子之心必合諸己所見者、以解孔子爲仁之意焉。是以其説皆雖可聽、吾未知其果合孔子稱仁之意乎否也。朱子所謂至誠惻怛、仁齋所謂至誠而不僞、至正而不偏、此皆吾所謂各以己所見者也。幸三子之行、其詳不可得而聞焉、則朱子仁齋之説、人不能斥其非是也。然律諸管仲而其説窮矣。故知何晏之説優於二家也。且如仁齋之説、止可謂之忠耳。大氐道學者流、率皆以知道自任、競言古聖賢心中之微、典籍所不載者。豈可不謂之鑿乎。今且據仁字之義、參以論語之文、比干之死、必在微子去箕子爲奴之後也。其所諫必在用微子箕子之言、而先是微子箕子亦必告紂以保宗社安天下之事耳。夫有安天下之心而又有安天下之功、謂之仁。管仲是也。有安天下之心而無安天下之功、不得謂之仁。有安天下之功而無安天下之心、莫有此事焉。如三子者、有安天下之心而無安天下之功。雖無安天下之功、然使紂從其言、則亦足以安天下。故謂之仁。今之可言者、止於是焉)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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陽貨第十七 微子第十八
子張第十九 堯曰第二十