子路第十三 24 子貢問曰郷人皆好之何如章
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子貢問曰、郷人皆好之、何如。子曰、未可也。郷人皆惡之、何如。子曰、未可也。不如郷人之善者好之、其不善者惡之。
子貢問曰、郷人皆好之、何如。子曰、未可也。郷人皆惡之、何如。子曰、未可也。不如郷人之善者好之、其不善者惡之。
子貢問いて曰く、郷人皆之を好まば、何如。子曰く、未だ可ならざるなり。郷人皆之を悪まば、何如。子曰く、未だ可ならざるなり。郷人の善き者は之を好み、其の善からざる者は之を悪むに如かず。
現代語訳
- 子貢がたずねる、「土地の人みんなにすかれるのは、どうでしょう…。」先生 ――「まだダメだな。」「土地の人みんなににくまれるのは、どうでしょう…。」先生 ――「まだダメだな。それより土地のよい人たちにすかれ、わるい連中ににくまれることだ。」(魚返善雄『論語新訳』)
- 子貢が、「郷里の人皆にすかれるような人が善人でありましょうか。」とおたずねしたところ、孔子様が、「そうとも言えぬ。」とおっしゃった。そこでさらに、「それでは郷里の人皆ににくまれるようなのがかえって善人でありましょうか。」とおたずねしたら、孔子様がおっしゃるよう、「そうとも言えぬ。郷里の善人にすかれ郷里の悪人ににくまれるのが善人じゃ。」(穂積重遠『新訳論語』)
- 子貢がたずねた。
「その土地の人みんなにほめられるような人でございましたら、りっぱな人といえましょうか」
先師がこたえられた。――
「必ずしもそうとはいえまい」
子貢――
「では、土地の人みんなに憎まれるような人がかえってりっぱな人でございましょうか」
「そうはいえまい。土地の善人にほめられ、悪人ににくまれるような人が、一番りっぱな人なのだ」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
- 子貢 … 前520~前446。姓は端木、名は賜。子貢は字。衛の人。孔子より三十一歳年少の門人。孔門十哲のひとり。弁舌・外交に優れていた。また、商才もあり、莫大な財産を残した。ウィキペディア【子貢】参照。
- 郷人 … その土地の人。郷里の人。同じ村の人。
- 好 … 好かれる。「好せば」と読んでもよい。
- 未可 … まだ十分ではない。まだまだ不十分だ。
- 不如 … 「~にしかず」と読み、「~に及ばない」と訳す。比較して優劣を判定する意を示す。
補説
- 『注疏』に「此の章は好悪を別つ」(此章別好惡)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 子貢 … 『史記』仲尼弟子列伝に「端木賜は、衛人、字は子貢、孔子より少きこと三十一歳。子貢、利口巧辞なり。孔子常に其の弁を黜く」(端木賜、衞人、字子貢、少孔子三十一歳。子貢利口巧辭。孔子常黜其辯)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。また『孔子家語』七十二弟子解に「端木賜は、字は子貢、衛人。口才有りて名を著す」(端木賜、字子貢、衞人。有口才著名)とある。ウィキソース「孔子家語/卷九」参照。
- 郷人皆好之、何如 … 『義疏』に「子貢孔子に問いて云う、設し一人有りて、郷人共に之を崇び好する所を為せば、則ち此の人、如何、と」(子貢問孔子云、設有一人、爲郷人共所崇好之、則此人、如何)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「言うこころは一人有りて一郷の愛好する所と為る、此の人何如。善人と謂う可きか」(言有一人爲一郷之所愛好、此人何如。可謂善人乎)とある。
- 子曰、未可也 … 『義疏』に「孔子許さず。故に云う、未だ可ならざるなり、と。未だ可ならざる所以の者を知る。設し一郷皆悪にして、此の人悪を為さば、物と党を同じうす。故に衆人共に美なりと称せらるると為す。故に未だ信ず可からざるなり」(孔子不許。故云、未可也。知所以未可者。設一郷皆惡、而此人爲惡、與物同黨。故爲衆人共見稱美。故未可信也)とある。また『注疏』に「未だ善と謂う可からざるを言う。或いは一郷皆此の人を悪むは、之と党を同じくす、故に衆の称する所と為る、是を以て未だ可ならず」(言未可謂善。或一郷皆惡此人、與之同黨、故爲衆所稱、是以未可)とある。
- 郷人皆悪之、何如 … 『義疏』に「既に云う、皆好するも未だ可ならずと為す、と。故に更に問う。設し其の郷の人皆共に此の人を憎悪せば、則ち何如」(既云、皆好爲未可。故更問。設其郷之人皆共憎惡此人、則何如)とある。また『注疏』に「此れ子貢又た夫子に問う。既に郷人皆好するも、未だ善と為す可からざれば、若し郷人の衆の共に此の人を憎悪するは、何如、善人と謂う可きか」(此子貢又問夫子。既郷人皆好、未可爲善、若郷人衆共憎惡此人、何如、可謂善人乎)とある。
- 子曰、未可也 … 『義疏』に「孔子も亦た未だ許さざる所以の者なり。設し一郷皆悪にして、此の人独り善を為さば、衆と同じからず。故に群悪の疾む所と為る。故に未だ信ず可からざるなり」(孔子亦所以未許者。設一郷皆惡、而此人獨爲善、不與衆同。故爲羣惡所疾。故未可信也)とある。また『注疏』に「亦た未だ善と為す可からざるを言う。或いは一郷皆善にして、此の人独り悪なり、故に衆の疾む所と為る。是を以て未だ可ならず」(言亦未可爲善。或一郷皆善、此人獨惡、故爲衆所疾。是以未可)とある。
- 不如郷人之善者好之、其不善者悪之 … 『集解』に引く孔安国の注に「善人己を善し、悪人己を悪むは、是れ善の善なること明らかにして、悪の悪なること著らかなり」(善人善己、惡人惡己、是善善明、惡惡著也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「向に答え既に並びに未だ可ならずと云う。故に此に其の可なるの事を説くなり。言うこころは若し此の人郷人の善者の好む所と為り、又た不善者の悪む所と為る、此くの如くんば則ち是れ善人にして、乃ち信ず可きなり」(向答既竝云未可。故此説其可之事也。言若此人爲郷人善者所好、又爲不善者所惡、如此則是善人、乃可信也)とある。また『注疏』に「孔子既に皆其の問いを可とせざれば、自ら為に其の善人を説くなり。言うこころは郷の善人之を善し、悪人之を悪むは、真の善人なり」(孔子既皆不可其問、自爲説其善人也。言郷之善人善之、惡人惡之、眞善人也)とある。また『集注』に「一郷の人、宜しく公論有るべし。然れども其の間にも亦た各〻類を以て自ずから好悪を為すなり。故に善者は之を好して、悪者は悪まざれば、則ち必ず其れ苟合の行有り。悪者は之を悪みて、善者は好まざれば、則ち必ず其れ好む可きの実無し」(一郷之人、宜有公論矣。然其間亦各以類自爲好惡也。故善者好之、而惡者不惡、則必其有苟合之行。惡者惡之、而善者不好、則必其無可好之實)とある。苟合は、無責任に他人にへつらい迎合すること。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 其不善者悪之 … 『義疏』では「其不善者悪之也」に作る。
- 伊藤仁斎『論語古義』に「輔氏広曰く、郷人皆好まば、恐らくは是れ流れに同じく汚れに合うの人ならん。郷人皆悪まば、恐らくは是れ世に詭い俗に戻るの人ならん。故に皆以て未だ可ならずと為せり。惟だ郷人の善き者、其の己に同じきを以て之を好めば、則ち好む可きの実有り。善からざる者、其の己に異なるを以て之を悪まば、則ち苟くも容れらるるの行無からん。方に其の人の賢を必すとす可きなり」(輔氏廣曰、郷人皆好、恐是同流合汙之人。郷人皆惡、恐是詭世戻俗之人。故皆以爲未可。惟郷人之善者、以其同乎己而好之、則有可好之實矣。不善者、以其異乎己而惡之、則無苟容之行矣。方可必其人之賢也)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 荻生徂徠『論語徴』には、この章の注なし。
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