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憲問第十四 43 子張曰書云章

375(14-43)
子張曰、書云、高宗諒陰三年不言。何謂也。子曰、何必高宗。古之人皆然。君薨、百官總己、以聽於冢宰三年。
ちょういわく、しょう、高宗こうそうりょうあん三年さんねんものいわずと。なんいいぞや。いわく、なんかならずしも高宗こうそうのみならん。いにしえひとみなしかり。きみこうずれば、ひゃっかんおのれべて、もっちょうさいくこと三年さんねんなり。
現代語訳
  • 子張がいう、――「書経に、『高宗は父の喪中、三年無言』とあります。どういうことでしょう…。」先生 ――「高宗にかぎったことはない。昔の人は、みなそうだった。王さまがかくれると、役人は事務を整理して、総理大臣の命令を三年きいていたから。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • ちょうが、「『書経』に『高宗諒陰三年言わず』とありますが、どういうわけでありますか。三年のちゅうであっても、君が全然命令を出さなかったら、国政が動かないではござりますまいか。」とおたずねした。孔子様がおっしゃるよう、「必ずしも高宗のみであろうか。昔の人は皆そうであった。君主が薨去こうきょになると、ひゃっかんは各自の職務を引きめて首相の指揮に従うこと三年であったから、その間君主が喪にあって『三年言わず』でも、国政には差支さしつかえなかったのじゃ。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 子張がいった。――
    「書経に、高宗こうそうは服喪中の三年間口をきかなかった、とありますが、どういう意味でございましょうか」
    先師がこたえられた。――
    「それは高宗にかぎったことではない。古人はみなそうだったのだ。君主がおかくれになると、三年の間は、百官はそれぞれの職務をまとめて、すべて首相の指図に従うことになっていたので、あとに立たれた君主は口をきく必要がなかったのだ」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 子張 … 前503~?。孔子の弟子。姓は顓孫せんそん、名は師、あざなは子張。陳の人。孔子より四十八歳年少。ウィキペディア【子張】参照。
  • 書 … 『書経』周書、無逸篇を指す。ウィキソース「尚書/無逸」参照。
  • 高宗 … 殷の中興の王、ていの諡。ウィキペディア【武丁】参照。
  • 諒陰 … 天子が喪に服する期間のこと。もとは喪に服している間、居住する小屋を指す。「陰」は「あん」と読む。「諒闇」「亮陰」「梁闇」とも書く。我が国では「諒闇」を用いている。
  • 三年 … 父母の喪に服する期間。ただし、三年とは三年間ではなく、三年目までの期間を指す。
  • 不言 … 政治的発言をしない。ここでは「ものいわず」と読むが、単に「わず」と読んでいるテキストもある。
  • 謂 … ~という意味。
  • 何 … 「なんぞ~ん(や)」と読み、「どうして~であろうか(いや~ではない)」と訳す。反語の意を示す。
  • 薨 … 元来、諸侯が死去することを「薨」といい、天子の場合は「崩」の字を用いる。
  • 百官 … 多くの役人。
  • 総己 … 自分の職務すべてを一つにまとめる。
  • 冢宰 … 周代の官名。天子を助け、百官を率いる。今の首相にあたる。大宰たいさいともいう。「冢」は「大」の意。
補説
  • 『注疏』に「此の章は天子・諸侯の居喪の礼を論ずるなり」(此章論天子諸侯居喪之禮也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 子張 … 『史記』仲尼弟子列伝に「顓孫せんそんは陳の人。あざなは子張。孔子よりわかきことじゅうはちさい」(顓孫師陳人。字子張。少孔子四十八歳)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。また『孔子家語』七十二弟子解に「顓孫師は陳人ちんひと、字は子張。孔子より少きこと四十八歳。人とり容貌資質有り。寬沖にして博く接し、従容として自ら務むるも、居りて仁義の行いを立つるを務めず。孔子の門人、之を友とするも敬せず」(顓孫師陳人、字子張。少孔子四十八歳。為人有容貌資質。寬沖博接、從容自務、居不務立於仁義之行。孔子門人、友之而弗敬)とある。ウィキソース「孔子家語/卷九」参照。
  • 書 … 『書経』周書、無逸篇に「其れ高宗に在っては、まことひさしく外に労して、ここに小人とともにす。其の位にくにおよんで、乃ちまたりょうあん三年、ものいわず」(其在高宗、時舊勞于外、爰暨小人。作其即位、乃或亮陰三年、不言)とある。ウィキソース「尚書/無逸」参照。
  • 高宗諒陰三年不言。何謂也 … 『集解』に引く孔安国の注に「高宗は、殷の中興の王たる武丁なり。諒は、信なり。陰は、猶お黙のごときなり」(高宗、殷之中興王武丁也。諒、信也。陰、猶默也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「高宗は、殷の中興の王なり。名は武丁。殷家三十帝、水徳の王、六百二十九年。高宗は是れ第二十二帝なり。前帝小乙の子なり。其の武丁登祚の時、殷祚已に三百四十三年を得たり。其の徳高くしてたっとぶ可し。故に謂いて高宗と為すなり。諒は、信なり。陰は、黙なり。尚書に云う、其の位に即くにおよんで、乃ちた諒陰三年、ものいわず、と。是れ武丁起ちて其の王位に即く、則ち小乙死す。乃ち信黙有り。其の孝行の著なるを言う。子張尚書を読みて之を見るも暁らず。世と異なるを嫌う。故に孔子に何の謂ぞやと発問するなり」(高宗、殷中興王也。名武丁。殷家三十帝、水德王、六百二十九年。高宗是第二十二帝也。前帝小乙之子也。其武丁登祚之時、殷祚已得三百四十三年。其德高而可宗。故謂爲高宗也。諒、信也。陰、默也。尚書云、祚其即位、乃或諒陰三年不言。是武丁起其即王位、則小乙死。乃有信默。言其孝行著。子張讀尚書見之不曉。嫌與世異。故發問孔子何謂也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「高宗諒陰、三年言わずは、周書無逸篇の文なり。高宗は、殷王武丁なり。諒は、信なり。陰は、黙なり。言うこころは武丁父の憂いに居り、冢宰に信任し、黙して言わざること三年なり。子張未だ其の理に達せずして、夫子に問うなり」(高宗諒陰、三年不言、周書無逸篇文也。高宗、殷王武丁也。諒、信也。陰、默也。言武丁居父憂、信任冢宰、默而不言三年矣。子張未達其理、而問於夫子也)とある。また『集注』に「高宗は、商王武丁なり。諒陰は、天子喪に居るの名、未だ其の義詳らかならず」(高宗、商王武丁也。諒陰、天子居喪之名、未詳其義)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 三年 … 『春秋公羊伝』閔公二年には「三年の喪、実に二十五月なるを以てなり」(三年之喪、實以二十五月)とある。ウィキソース「春秋公羊傳/閔公」参照。
  • 何必高宗。古之人皆然 … 『義疏』に「孔子は子張に答う。古えの人は、君なり。言うこころは古えの人君に喪有る者、皆三年言わず。何ぞ必ずしも独り高宗のみを美せんや。此の言亦た時人を激するなり」(孔子答子張。古之人、君也。言古之人君有喪者、皆三年不言。何必獨美高宗耶。此言亦激時人也)とある。また『注疏』に「孔子答えて言う、何ぞ必ずしも独り高宗のみならん、古えの人は皆是くの如くす、と」(孔子答言、何必獨高宗、古之人皆如是)とある。
  • 君薨、百官総己 … 『集解』に引く馬融の注に「己は、百官を己とするなり」(己、己百官也)とある。また『義疏』に「人君の喪、其の子言わざるを得るの由を説く。若し君死すれば、則ち群臣百官、復た君に諮詢せず。而して各〻己の事を総束す。故に己を総ぶと云うなり」(説人君之喪、其子得不言之由。若君死、則羣臣百官不復諮詢於君。而各總束己之事。故云總己也)とある。また『注疏』に「諸侯の死するを薨と曰う」(諸侯死曰薨)とある。また『集注』に「君薨ずと言えば、則ち諸侯も亦た然り。己を総ぶは、己の職を総摂そうせつすを謂う」(言君薨、則諸侯亦然。總己、謂總攝己職)とある。
  • 以聴於冢宰三年 … 『集解』に引く孔安国の注に「冢宰は、天官の卿なり。王の治をたすくる者なり。三年の喪わり、然る後に王自ら聴政するなり」(冢宰、天官卿。佐王治者也。三年喪畢、然後王自聽政也)とある。また『義疏』に「冢宰は、上卿なり。百官皆己の職を束ね、三年、冢宰に聴く。故に嗣君三年言わざるなり」(冢宰、上卿也。百官皆束己職、三年、聽冢宰。故嗣君三年不言也)とある。また『注疏』に「言うこころは君既に薨じ、新君位に即けば、百官をして各〻己の職を総べて、以て決を冢宰に聴かしむ。三年の喪畢わり、然る後に王は自ら政を聴く」(言君既薨、新君即位、使百官各緫己職、以聽決於冢宰。三年喪畢、然後王自聽政)とある。また『集注』に「冢宰は、大宰なり。百官、冢宰に聴く。故に君は以て三年言わざるを得るなり」(冢宰、大宰也。百官聽於冢宰。故君得以三年不言也)とある。
  • 『集注』に引く胡寅の注に「位に貴賤有れども、父母より生まるるは、以て異なる者無し。故に三年の喪は、天子より庶人に達す。子張此を疑うに非ず。ほとん以為おもえらく人君三年言わざれば、則ち臣下令をくる所無く、禍乱或いは由りて以て起こらん。孔子告ぐるに冢宰に聴くを以てすれば、則ち禍乱憂うる所に非ざるなり」(位有貴賤、而生於父母、無以異者。故三年之喪、自天子達於庶人。子張非疑此也。殆以爲人君三年不言、則臣下無所禀令、禍亂或由以起也。孔子告以聽於冢宰、則禍亂非所憂矣)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「商道中ごろ衰え、諒陰の礼、久しく廃して行われず。独り武丁能く挙げて之を行う。哀戚の深き、能く人子の道を尽くすことを見る。宜なるかな其の商道を中興して、高宗と称せらるるを得たること。按ずるに三年言わずとは、専ら冢宰に委ね、敢えて事を言わざるを謂う。口をつぐんで言わざるに非ざるなり」(商道中衰、諒陰之禮、久廢不行。獨武丁能舉而行之。見哀戚之深、能盡人子之道。宜乎其中興商道、而得稱高宗也。按三年不言者、謂專委冢宰、不敢言事。非緘口而不言也)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「蓋し殷の天子久しく三年の喪無く、高宗特に之を行う。……故に孔子諸侯の礼を引く。其の礼伝わらざるが故なり。凡そ古書に君と曰う者は、諸侯なり。中庸に曰く、……期の喪は、大夫に達し、三年の喪は、天子に達す。父母の喪は、貴賤と無くいつなり、と。是れ三年の喪の天子に達するは、周公の定むる所なり。……世儒せいじゅ多く謂えらく諸書は直ちに孔子の言を記すと。殊に知らず言なる者は筆す可からざる者なることを。故に諸書に孔子の言を記するは、皆辞を修むる者なり。辞を修むるは記する者の意に随う。故に同じからず。必ずしも皆異時の言ならざるなり。諸書但だ論語・中庸のみ、其の辞は精金美玉の如く、以て拠と為す可きのみ」(蓋殷天子久無三年喪、高宗特行之。……故孔子引諸侯之禮。其禮弗傳故也。凡古書曰君者、諸侯也。中庸曰、……期之喪、達乎大夫、三年之喪、達乎天子。父母之喪、無貴賤一也。是三年之喪達乎天子、周公所定也。……世儒多謂諸書直記孔子之言。殊不知言也者不可筆者也。故諸書記孔子之言、皆脩辭者也。脩辭隨記者之意。故不同焉。不必皆異時之言也。諸書但論語中庸、其辭如精金美玉、可以爲據已)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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公冶長第五 雍也第六
述而第七 泰伯第八
子罕第九 郷党第十
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衛霊公第十五 季氏第十六
陽貨第十七 微子第十八
子張第十九 堯曰第二十