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顔淵第十二 10 子張問崇徳辨惑章

288(12-10)
子張問崇德辨惑。子曰、主忠信徙義、崇德也。愛之欲其生、惡之欲其死。既欲其生、又欲其死。是惑也。〔誠不以富。亦祇以異。〕
ちょうとくたかくしまどいをべんぜんことをう。いわく、ちゅうしんしゅとし、うつるは、とくたかくするなり。これあいしてはせいほっし、これにくんではほっす。すでせいほっし、またほっす。まどいなり。〔まこととみもってせず。まさことなるをもってす。〕
現代語訳
  • 子張がたしなみと分別をきく。先生 ――「まごころをもって、よいことをするのが、たしなみなんだ。愛すれば、生きてほしいと思い、にくめば、死んじまえと思うが…。生きてほしいと思ったものが、死んじまえと思うのは、分別がないんだ。『ゆたかどころか、気まぐれものよ』じゃ。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • ちょうが、徳を高くしまどいを解くにはどうしたらよろしいでしょうか、とおたずねした。孔子様がおっしゃるよう、「心の誠をつくしてきょなき忠と信とをむねとし、万事の不合理を去って道理の存するところに移るのが、徳を高くするゆえんである。これを愛すれば生きんことを欲し、これを憎めば死なんことを欲するのが凡人ぼんじんじょうだが、生死はじんりょくのいかんともすることのできない天命であるのに、生きればよいの死ねばよいのと、同一人についてさえ愛憎によって考えがかわるようなまどいは、よく弁別べんべつせねばならぬ。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 子張がたずねた。――
    「徳を高くして、迷いを解くには、いかがいたしたものでございましょうか」
    先師がこたえられた。――
    「誠実と信義を旨とし、たゆみなく正義の実践に精進するがよい。それが徳を高くする道だ。迷いは愛憎の念にはじまる。愛してはその人の生命の永からんことを願い、憎んではその人の死の早からんことを願う。なんというおそろしい迷いだろう。愛憎の超克、これが迷いを解く根本の道だ」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 子張 … 前503~?。孔子の弟子。姓は顓孫せんそん、名は師、あざなは子張。陳の人。孔子より四十八歳年少。ウィキペディア【子張】参照。
  • 崇徳 … 徳を高める。自分の徳をみがいて充実させる。
  • 弁惑 … 迷いを解く。迷いをはっきり弁別し、明らかにすること。
  • 忠信 … まごころを尽くし、いつわりのないこと。忠実と信義。
  • 主 … その物事の中心として尊ぶ。
  • 主忠信 … 「学而第一8」および「子罕第九24」に「忠信を主とし、己に如かざる者を友とすること無(毋)かれ」とある。
  • 徙義 … 正しい方向に移る。正しいことに身を移すこと。「述而第七3」に「義を聞きて徙る能わざる」とある。
  • 愛之 … 人を愛しては。その人を好きになると。
  • 欲其生 … いつまでも生きていてほしいと願う。
  • 悪之 … 人を憎んでは。その人を嫌いになると。
  • 欲其死 … その人の死を願う。
  • 既欲其生、又欲其死。是惑也 … (一時の感情に振り回されて)いったん生きていてほしいと願い、また死ねばいいと願う。これこそが迷いだ。
  • 誠不以富。亦祇以異 … 人の価値は富があるからではない。ただ人と異なる仁徳があるからである。錯簡さっかん(文章が入れ違っていること)。「季氏第十六12」へ移動。『詩経』小雅・我行其野の詩からの引用。「誠」は『詩経』では「成」に作る。ウィキソース「詩經/我行其野」参照。
補説
  • 『注疏』に「此の章は人まさに常徳有るべきを言うなり」(此章言人當有常德也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 子張 … 『史記』仲尼弟子列伝に「顓孫せんそんは陳の人。あざなは子張。孔子よりわかきことじゅうはちさい」(顓孫師陳人。字子張。少孔子四十八歳)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。また『孔子家語』七十二弟子解に「顓孫師は陳人ちんひと、字は子張。孔子より少きこと四十八歳。人とり容貌資質有り。寬沖にして博く接し、従容として自ら務むるも、居りて仁義の行いを立つるを務めず。孔子の門人、之を友とするも敬せず」(顓孫師陳人、字子張。少孔子四十八歳。為人有容貌資質。寬沖博接、從容自務、居不務立於仁義之行。孔子門人、友之而弗敬)とある。ウィキソース「孔子家語/卷九」参照。
  • 子張問崇徳弁惑 … 『集解』に引く包咸の注に「弁は、別なり」(辨、別也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「有徳をすうちょうし、疑惑を弁別するの法を問い求むるなり」(問求崇重有德、辨別疑惑之法也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「崇は、充なり。弁は、別なり。言うこころは道徳を充盛にして、疑惑を袪別きょべつせんと欲するなり。何の為にして可ならんや」(崇、充也。辨、別也。言欲充盛道德、袪別疑惑。何爲而可也)とある。
  • 子曰、主忠信徙義、崇徳也 … 『集解』に引く包咸の注に「義に徙るは、義を見れば則ち意を徙して之に従う」(徙義、見義則徙意從之)とある。また『義疏』に「此れ徳を崇くするの義を答うるなり。言うこころは若し能く復た忠信を以て主と為し、又た若し義有るの事を見ては、則ち意を徙して之に従う。此の二条は、是れ徳を崇くするの法なり」(此答崇德義也。言若能復以忠信爲主、又若見有義事、則徙意從之。此二條、是崇德之法也)とある。また『注疏』に「主は、親なり。徙は、遷なり。言うこころは人の忠信有る者には則ち之に親友し、義事を見ては則ち意を遷して之に従う。此れ其の徳を充盛する所以なり」(主、親也。徙、遷也。言人有忠信者則親友之、見義事則遷意而從之。此所以充盛其德也)とある。また『集注』に「忠信を主とすれば、則ち本立ち、義に徙れば、則ち日〻新たなり」(主忠信、則本立、徙義、則日新)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 愛之欲其生、悪之欲其死。既欲其生、又欲其死。是惑也 … 『集解』に引く包咸の注に「あいは当に常有るべし。一は之を生かしめんと欲し、一は之を死せしめんと欲するは、是れ心の惑いなり」(愛惡當有常。一欲生之、一欲死之、是心惑也)とある。また『義疏』に「此れ惑いを弁ぜんことに答うるなり。中人の情は、愛悪を忘るる能わず。若し人己に従う有らば、己則ち之を愛す。当に此の人を愛する時ならば、必ず其の世に生活せんことを願うべきなり。猶お是れ前に愛する所の者なるも、彼己に違えば、己便ち憎悪す。之を憎悪すること既に深ければ、便ち其の死なんことを願うなり。猶お是れ一人なれども、愛憎生死、我が心に起こる。我が心定まらず。故に惑いと為る」(此答辨惑也。中人之情、不能忘於愛惡。若有人從己、己則愛之。當愛此人時、必願其生活於世也。猶是前所愛者而彼違己、己便憎惡。憎惡之既深、便願其死也。猶是一人、而愛憎生死起於我心。我心不定。故爲惑矣)とある。また『注疏』に「言うこころは人心の愛悪には当に須らく常有るべし。若し人己に順う有れば、己は即ち之を愛し、便ち其の生を欲す。此の人忽ち己に逆えば、己は即ち之を悪み、則ち其の死を願う。一は之を生かさんと欲し、一は之を死せしめんと欲し、心を用うること常無きは、是れ惑いなり。既に能く此れは是れ惑いなるを別かてば、則ち当に之をるべし」(言人心愛惡當須有常。若人有順己、己即愛之、便欲其生。此人忽逆於己、己即惡之、則願其死。一欲生之、一欲死之、用心無常、是惑也。既能別此是惑、則當袪之)とある。また『集注』に「愛悪は、人の常情なり。然れども人の生死には命有り。得て欲す可きに非ざるなり。愛悪を以てして其の生死を欲するは、則ち惑いなり。既に其の生を欲し、又た其の死を欲するは、則ち惑いの甚だしきなり」(愛惡、人之常情也。然人之生死有命。非可得而欲也。以愛惡而欲其生死、則惑矣。既欲其生、又欲其死、則惑之甚也)とある。
  • 欲其生 … 『義疏』では「欲其生也」に作る。
  • 欲其死 … 『義疏』では「欲其死也」に作る。
  • 誠不以富。亦祇以異 … 『集解』に引く鄭玄の注に「此の詩は、小雅なり。祇は、適なり。言うこころは此の行い誠に以て富を致す可からず、まさに以て異を為すに足るのみ。此の詩の義に異なるを取りて以て之をそしるなり」(此詩、小雅也。祇、適也。言此行誠不可以致富、適以足爲異耳。取此詩之異義以非之也)とある。また『義疏』に「詩を引きて人を惑わすと為すを証するなり。生死を言い、定まらざるの人、誠に以て富を致すに足らずして、只だ以て異事の行いを為すのみなり」(引詩證爲惑人也。言生死不定之人、誠不足以致富、而只以爲異事之行耳也)とある。また『集注』に「此れ詩の小雅・我行其野の詞なり。旧説に夫子之を引きて、以て其の生死を欲する者、之をして生死せしむること能わざること、此の詩に言う所の、以て富を致すに足らずして、まさに以て異を取るに足るが如きを明らかにするなり」(此詩小雅我行其野之詞也。舊説夫子引之、以明欲其生死者、不能使之生死、如此詩所言、不足以致富、而適足以取異也)とある。また『集注』に引く程頤の注に「此れ錯簡なり。当に第十六篇の斉の景公、馬千駟有りの上に在るべし。此の下文にも亦た斉の景公の字有るに因りて誤れるなり」(此錯簡。當在第十六篇齊景公有馬千駟之上。因此下文亦有齊景公字而誤也)とある。
  • 『集注』に引く楊時の注に「堂堂たるかな張や。与に並びて仁を為し難しとは、則ち誠に善く過を補い、私に蔽われざる者に非ず。故に之に告ぐること此くの如し」(堂堂乎張也。難與並爲仁矣、則非誠善補過、不蔽於私者。故告之如此)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「徳をたかくするに非ざれば、則ち以て学問の実を得ること無し。惑いを弁ぜんことに非ざれば、則ち以て学問の功を見ること無し。皆学者の切務なり」(非崇德、則無以得學問之實。非辨惑、則無以見學問之功。皆學者之切務也)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「徳をたかくすは、徳をしてたかからむるなり。易に曰く、忠信は徳に進む所以なり、と。之を主とすと云う者は、此れを以て学ぶなり。古えの学は、詩書礼楽にして、詩・書は義の府なり、礼楽は徳の則なり。……之を愛して其の生を欲し、之を悪みて其の死を欲するは、人の情なり。惑いに非ざるなり。……宋儒は生を欲し死を欲するを以て惑いと為す。是れ仏・老の見のみ。又た惑の字の義にくらし。惑いとは、定見無くして人の為に眩惑せらるるなり」(崇德、俾德崇也。易曰、忠信所以進德也。主之云者、以此而學也。古之學、詩書禮樂、詩書義之府也、禮樂德之則也。……愛之欲其生、惡之欲其死、人之情也。非惑。……宋儒以欲生欲死爲惑。是佛老之見耳。又昧乎惑字之義矣。惑者、無定見而爲人眩惑也)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
学而第一 為政第二
八佾第三 里仁第四
公冶長第五 雍也第六
述而第七 泰伯第八
子罕第九 郷党第十
先進第十一 顔淵第十二
子路第十三 憲問第十四
衛霊公第十五 季氏第十六
陽貨第十七 微子第十八
子張第十九 堯曰第二十