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衛霊公第十五 10 顔淵問爲邦章

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顏淵問爲邦。子曰、行夏之時、乘殷之輅、服周之冕、樂則韶舞、放鄭聲、遠佞人。鄭聲淫、佞人殆。
顔淵がんえんくにおさむることをう。いわく、ときおこない、いんり、しゅうべんふくし、がくすなわしょうし、鄭声ていせいはなち、佞人ねいじんとおざく。鄭声ていせいいんにして、佞人ねんじんあやうし。
現代語訳
  • 顔淵が政治のしかたをきく。先生 ――「夏(カ)の時代のこよみ、殷(イン)時代の乗り物、周時代のかんむり。音楽は韶(ショウ)の舞いの曲。鄭(テイ)の国の歌をすて、おせじ使いを追いのけること。鄭の歌はみだら、おせじ使いはあぶない。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 顔淵がんえんが天下を治める道をおたずねした。孔子様がおっしゃるよう、「過去歴代の長をらねばならぬ。すなわち暦法れきほうは、太陰暦たいいんれきが農事に便利だから、これを用いる。車は、いんのものがけん堅牢けんろうだから、これに乗る。かんは、しゅうのものが華美かびならずりゃくならず中正を得ているから、これをかぶる。音楽は、申すまでもなくかの善をつくし、美を尽したしゅんしょうがくじゃ。そしてていの国の歌謡曲のような俗楽を放逐ほうちくし、弁口べんこうのみのへつらい者なる佞人ねいじん退しりぞけ遠ざける。俗楽はみだりがましく、佞人は国を危くするぞよ。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 顔淵が治国の道をたずねた。先師がいわれた。――
    の暦法を用い、いんくるまに乗り、周のかんむりをかぶるがいい。舞楽はしょうがすぐれている。ていの音楽を禁じ、佞人ねいじんを遠ざけることを忘れてはならない。鄭の音楽はみだらで、佞人は危険だからな」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 顔淵 … 前521~前490頃。孔子の第一の弟子、顔回。姓は顔、名は回。あざなえんであるので顔淵とも呼ばれた。の人。徳行第一といわれた。孔子より三十歳年少。早世し孔子を大いに嘆かせた。孔門十哲のひとり。ウィキペディア【顔回】参照。
  • 為邦 … 天下国家を治める方法。
  • 夏之時 … 夏王朝の暦法。今の陰暦に相当し、農耕に適していた。
  • 殷之輅 … 殷王朝の車。「輅」は、車。
  • 周之冕 … 周王朝のかんむり
  • 韶舞 … 帝しゅんが作ったといわれる韶という舞楽。
  • 鄭声 … 鄭国の音楽。野卑で、みだらな音楽とされた。
  • 佞人 … 口先がうまくて、誠実さのない人。
  • 淫 … 煽情的であること。
  • 殆 … 危うい。危険である。「危」に同じ。
補説
  • 『注疏』に「此の章は国を治むるの法を言うなり」(此章言治國之法也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 顔淵 … 『史記』仲尼弟子列伝に「顔回は、魯の人なり。あざなは子淵。孔子よりもわかきこと三十歳」(顏回者、魯人也。字子淵。少孔子三十歳)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。また『孔子家語』七十二弟子解に「顔回は魯人、字は子淵。孔子より少きこと三十歳。年二十九にして髪白く、三十一にして早く死す。孔子曰く、吾に回有りてより、門人日〻益〻親しむ、と。回、徳行を以て名を著す。孔子其の仁なるを称う」(顏回魯人、字子淵。少孔子三十歳。年二十九而髮白、三十一早死。孔子曰、自吾有回、門人日益親。回以德行著名。孔子稱其仁焉)とある。ウィキソース「家語 (四庫全書本)/卷09」参照。
  • 顔淵問為邦 … 『義疏』に「為は、猶お治のごときなり。顔淵は魯人なり。当時魯家礼乱る。故に魯国を治むるの法を問うなり」(爲、猶治也。顔淵魯人。當時魯家禮亂。故問治魯國之法也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「為は、猶お治のごときなり。治国の礼法を孔子に問うなり」(爲、猶治也。問治國之禮法於孔子也)とある。また『集注』に「顔子は王佐の才あり、故に天下を治むるの道を問う。邦を為むると曰うは、謙辞なり」(顏子王佐之才、故問治天下之道。曰爲邦者、謙辭)とある。王佐の才は、帝王の仕事を助けることのできる才能のこと。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 行夏之時 … 『集解』の何晏の注に「万物の生を見るに拠りて、以て四時の始めと為す。其の知り易きを取るなり」(據見萬物之生、以爲四時之始。取其易知也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「孔子の此の答え、魯の旧法を挙げて以て答えと為すなり。夏の時を行うは、夏家の時節を用いて以て事を行うを謂うなり。三王の尚ぶ所なり。正朔、服色異なれりと雖も、而れども田猟、祭祀、播種、並びに夏時を用う。夏時は天の正を得たるが故なり。魯家の行事も亦た夏時を用う。故に夏の時を行うと云うなり」(孔子此答、舉魯舊法以爲答也。行夏之時、謂用夏家時節以行事也。三王所尚。正朔服色雖異、而田獵祭祀播種竝用夏時。夏時得天之正故也。魯家行事亦用夏時。故云、行夏之時也)とある。また『注疏』に「此の下は孔子答うるに邦を為むるに行い用うる所の礼楽・車服を以てするなり。夏の時は、建寅の月を以て正と為すを謂うなり。万物の生を見るに拠りて、以て四時の始めと為す。其の知り易きを取る、故に之を行わしむ」(此下孔子答以爲邦所行用之禮樂車服也。夏之時、謂以建寅之月爲正也。據見萬物之生、以爲四時之始。取其易知、故使行之)とある。また『集注』に「夏の時は、斗柄の初昏に寅をおざすの月を以て歳首と為すを謂うなり。天はに開け、地は丑にひらけ、人は寅に生ず。故に斗柄の此の三辰を建すの月は、皆以て歳首と為す可し。而して三代たがいに之を用い、夏は寅を以て人正と為し、商は丑を以て地正と為し、周は子を以て天正と為すなり。然れども時以て事をせば、則ち歳月自ら当に人を以て紀と為すべし。故に孔子嘗て曰く、吾は夏の時を得たり、と。而して説く者以て夏小正の属を謂うと為す。蓋し其の時の正と、其の令の善とを取りて、ここに於いて又た以て顔子に告ぐるなり」(夏時、謂以斗柄初昏建寅之月爲歳首也。天開於子、地闢於丑、人生於寅。故斗柄建此三辰之月、皆可以爲歳首。而三代迭用之、夏以寅爲人正、商以丑爲地正、周以子爲天正也。然時以作事、則歳月自當以人爲紀。故孔子嘗曰、吾得夏時焉。而説者以爲謂夏小正之屬。蓋取其時之正、與其令之善、而於此又以告顏子也)とある。
  • 乗殷之輅 … 『集解』に引く馬融の注に「殷の車を大輅と曰う。左伝に曰く、大輅は越席なり。其の倹なるを昭らかにするなり、と」(殷車曰大輅。左傳曰、大輅越席也。昭其儉也)とある。また『義疏』に「亦た魯の礼なり。殷の輅は木輅なり。周礼に、天子自ら五輅有り。一に曰く玉、二に曰く金、三に曰く象、四に曰く革、五に曰く木。五輅並びに文飾多し。玉輅を用いて以て郊祭す。而るに殷家唯だ三輅有るのみ。一に曰く木輅、二に曰く先輅、三に曰く次輅。而して木輅最も質素にして飾り無し。用いて以て天を郊す。魯の周公の故を以て、天を郊するを得と雖も、而れども事事王に同じうするを得ず。故に木輅を用いて以て郊するなり。故に郊特牲に魯の郊を説きて云う、素車に乗るは、其の質を貴ぶなり。旂は十有二旒。旒は竜章にして日月を設け、以て天に象るなり、と。鄭玄の注に云う、日月を設けて、旂上に画くなり。素車は殷輅なり。魯公の郊は、殷礼を用うるなり、と。案ずるに(礼)記の注の如くなれば、則ち魯の郊には殷の木輅を用うるなり」(亦魯禮也。殷輅木輅也。周禮天子自有五輅。一曰玉、二曰金、三曰象、四曰革、五曰木。五輅竝多文飾。用玉輅以郊祭。而殷家唯有三輅。一曰木輅、二曰先輅、三曰次輅。而木輅最質素無飾。用以郊天。魯以周公之故、雖得郊天、而不得事事同王。故用木輅以郊也。故郊特牲説魯郊云、乘素車、貴其質也。旂十有二旒。旒龍章而設日月、以象天也。鄭玄注云、設日月、畫於旂上也。素車殷輅也。魯公之郊、用殷禮也。案如記注、則魯郊用殷之木輅也)とある。また『注疏』に「殷車を大輅と曰うは、木輅を謂うなり。其の倹素を取る、故に之に乗らしむ」(殷車曰大輅、謂木輅也。取其儉素、故使乘之)とある。また『集注』に「商の輅は、木輅なり。輅とは、大車の名。古えは木を以て車をつくるのみ。商に至りて輅の名有り。蓋し始めて其の制を異にするなり。周人飾るに金玉を以てすれば、則ち侈に過ぎて敗れ易し。商の輅の朴素渾堅にして、等威已に弁じ、質にして其の中を得たりと為すに若かざるなり」(商輅、木輅也。輅者、大車之名。古者以木爲車而已。至商而有輅之名。蓋始異其制也。周人飾以金玉、則過侈而易敗。不若商輅之朴素渾堅、而等威已辨、爲質而得其中也)とある。
  • 輅 … 『経典釈文』には「本亦作路」とある。
  • 服周之冕 … 『集解』に引く包咸の注に「冕は、礼の冠なり。周の礼は文にして備わるなり。其の黈纊とうこうの耳を塞ぎ、視聴に任せざるを取るなり」(冕、禮冠也。周之禮文而備也。取其黈纊塞耳、不任視聽也)とある。黈纊は、耳あて。また『義疏』に「亦た魯の礼なり。周礼に、六冕有り。一に曰く大衮冕だいこんべん、二に曰くこん、三に曰くへつ、四に曰く毛毳もうぜい、五に曰く、六に曰く玄、と。周王天を郊するに大衮を以てして冕す。魯は郊すと雖も大衮を用うるを得ず。但だ衮を用いて以て郊するなり。郊特牲に云う、祭の日に、王は衮をて、以て天に象る、と。鄭玄の注に曰く、日・月・星辰の章有るを謂うなり。此れ魯の礼なり。周礼に、王昊天上帝を祀れば、則ち大衮を服して冕す。五帝を祀るも亦た之の如し、と。魯公の服は、衮冕よりして下冕なり、と。案ずるに此の(礼)記の注は、即ち是れ魯郊するに衮を用うるなり。然れども魯廟にも亦た衮す。或ひと問いて曰く、魯に既に周の次の冕を用て以て郊す、何ぞ周の金輅を用て以て郊せざるや、と。答えて曰く、周の郊には玉輅に乗りて以て文を示し、服は大衮を用て以て質を示す、但だ車は神に対せず、故に亦た文を示す。服は以て天にまじわる、故に質を用うるなり、と」(亦魯禮也。周禮、有六冕。一曰大衮冕、二曰衮、三曰鷩、四曰毛毳、五曰絺、六曰玄。周王郊天以大衮而冕。雖魯郊不得用大衮。但用衮以郊也。郊特牲云、祭之日、王披衮、以象天。鄭玄注曰、謂有日月星辰之章也。此魯禮也。周禮、王祀昊天上帝、則服大衮而冕。祀五帝亦如之。魯公之服、自衮冕而下冕也。案此記注、即是魯郊用衮也。然魯廟亦衮。或問曰、魯既用周次冕以郊、何不用周金輅以郊耶。答曰、周郊乘玉輅以示文、服用大衮以示質、但車不對神、故亦示文。服以接天、故用質也)とある。また『注疏』に「冕は、礼冠なり。周の礼は文にして備わる。其の黈纊とうこうの耳を塞ぎ、視聴に任ぜざるを取る、故に之を服さしむ」(冕、禮冠也。周之禮文而備。取其黈纊塞耳、不任視聽、故使服之)とある。また『集注』に「周の冕に五有り、祭服の冠なり。冠上に覆有り、前後に旒有り。黄帝以来、蓋し已に之れ有れども、制度儀等、周に至りて始めて備わる。然れども其の物たるや小にして、衆体の上に加う。故に華なりと雖も、而れども靡と為さず、費なりと雖も、而れども奢に及ばず。夫子之を取るは、蓋し亦た以て文にして其の中を得たりと為すなり」(周冕有五、祭服之冠也。冠上有覆、前後有旒。黄帝以來、蓋已有之、而制度儀等、至周始備。然其爲物小、而加於衆體之上。故雖華而不爲靡、雖費而不及奢。夫子取之、蓋亦以爲文而得其中也)とある。
  • 楽則韶舞 … 『集解』の何晏の注に「韶は、舜の楽なり。善を尽くし美を尽くす。故に之を取るなり」(韶、舜樂也。盡善盡美。故取之也)とある。また『義疏』に「魯用うる所の楽を謂うなり。韶舞は舜の楽なり。周は六代の楽を用う。一に曰く雲門、黄帝の楽なり。二に曰く咸池、堯の楽なり。三に曰く大韶、舜の楽なり。四に曰く大夏、夏の禹の楽なり。五に曰くたい、殷の湯の楽なり。六に曰く大武、周の楽なり。若し余の諸侯ならば、則ち唯だ時王の楽を用うるのみ。魯既に天子の事を用うるを得。故に四代の礼楽、虞より而下じかを賜う。故に云う、舜の楽なり、と。所以に明堂位に云う、凡そ四代の服器官は、魯之を兼用す。是の故に魯は王礼なり。而るに四代を用うるは並びに有虞氏を始めと為すに従うなり。又た春秋魯の襄公二十九年の伝、呉の公子季札魯に聘す。周の楽を観んと請う。乃ち之が為に周より以上を舞う。韶箾しょうしょうを舞う者を見るに至り、曰く、至れるかな、大なるかな。天のおおわざる無きが如く、地の載せざる無きが如きなり。甚だ盛徳なるものと雖も、其れ以て此に加うるけん。観止まん。若し他楽有りとも、吾れ敢えて請わざらんのみ、と。杜注に云う、魯四代の楽を用う。故に韶箾に及んで、季子其の終うるを知るなり、と」(謂魯所用樂也。韶舞舜樂也。周用六代樂。一曰雲門、黄帝樂也。二曰咸池、堯樂也。三曰大韶、舜樂也。四曰大夏、夏禹樂也。五曰大濩、殷湯樂也。六曰大武、周樂也。若餘諸侯、則唯用時王之樂。魯既得用天子之事。故賜四代禮樂自虞而下。故云、舜樂也。所以明堂位云、凡四代之服器官、魯兼用之。是故魯王禮也。而用四代竝從有虞氏爲始也。又春秋魯襄公二十九年傳、呉公子季札聘魯。請觀周樂。乃爲之舞自周以上。至見舞韶箾者、曰、至矣哉、大矣。如天之無不幬、如地之無不載也。雖甚盛德、其蔑以加於此矣。觀止矣。若有他樂、吾不敢請己也。杜注云、魯用四代之樂。故及韶箾、而季子知其終也)とある。また『注疏』に「韶は、舜の楽名なり。其の善を尽くし美を尽くすを以て、故に之を取らしむ」(韶、舜樂名也。以其盡善盡美、故使取之)とある。また『集注』に「其の善を尽くし美を尽くすを取る」(取其盡善盡美)とある。
  • 放鄭声、遠佞人 … 『義疏』に「亦た魯の礼法なり。毎に礼法を言うは、亦た因りてのち教えと為せばなり。鄭声は淫なり。魯の礼に淫楽無し。故に之を放つと言うなり。佞人は、悪人なり。悪人は邦家を壊乱するなり。故に之をしりぞけ遠ざくるなり」(亦魯禮法也。毎言禮法、亦因爲後教也。鄭聲淫也。魯禮無淫樂。故言放之也。佞人、惡人也。惡人壞亂邦家。故黜遠之也)とある。また『注疏』に「又た当に鄭・衛の声を放棄し、弁佞の人を遠離すべし」(又當放棄鄭衞之聲、遠離辨佞之人)とある。また『集注』に「放は、之を禁絶するを謂う。鄭声は、鄭国の音。佞人は、てん弁給の人」(放、謂禁絶之。鄭聲、鄭國之音。佞人、卑諂辨給之人)とある。
  • 鄭声淫、佞人殆 … 『集解』に引く孔安国の注に「鄭声・佞人も亦た倶に能く人心を感ぜしむ。雅楽・賢人と同じきも、人をして淫乱危殆せしむ。故に当に放ち遠ざくべきなり」(鄭聲佞人亦倶能感人心。與雅樂賢人同、而使人淫亂危殆。故當放遠也)とある。また『義疏』に「鄭声・佞人は宜しく之を放ち遠ざくる所以の由を出だすなり。鄭地の声淫にして佞人闘乱し、国家をして危殆たらしむるなり」(出鄭聲佞人所以宜放遠之由也。鄭地聲淫而佞人鬪亂、使國家爲危殆也)とある。また『注疏』に「鄭声・佞人も亦た倶に能く人心を感ぜしむるは、雅楽・賢人と同じきを以てす。然れども人をして淫乱・危殆ならしむ。故に之を放ち遠ざけしむ」(以鄭聲佞人亦倶能感人心、與雅樂賢人同。然而使人淫亂危殆。故使放遠之)とある。また『集注』に「殆は、危なり」(殆、危也)とある。
  • 『集注』に引く程頤の注に「政を問うこと多し。惟だ顔淵のみ之に告ぐるに此を以てす。蓋し三代の制、皆時に因りて損益す。其の久しきに及んでや、弊無きこと能わず。周衰え、聖人おこらず。故に孔子先王の礼を斟酌して、万世常行の道を立つ。此を発して以て之が兆と為すのみ。是に由りて之を求むれば、則ち余は皆考う可きなり」(問政多矣。惟顏淵告之以此。蓋三代之制、皆因時損益。及其久也、不能無弊。周衰、聖人不作。故孔子斟酌先王之禮、立萬世常行之道。發此以爲之兆爾。由是求之、則餘皆可考也)とある。
  • 『集注』に引く張載(?)の注に「礼楽は、治の法なり。鄭声を放ち、佞人を遠ざくるは、法外の意なり。一日も謹まざれば、則ち法壊る。虞夏ぐかの君臣の更〻こもごもちょくかいするは、意蓋し此くの如し」(禮樂、治之法也。放鄭聲、遠佞人、法外意也。一日不謹、則法壞矣。虞夏君臣更相飭戒、意蓋如此)とある。
  • 『集注』に引く張載の注に「法立ちて能く守れば、則ち徳久しかる可く、業大なる可し。鄭声佞人は、能く人をして其の守る所を喪わしむ。故に之を放ち遠ざく」(法立而能守、則德可久、業可大。鄭聲佞人、能使人喪其所守。故放遠之)とある。
  • 『集注』に引く尹焞の注に「此れ所謂百王不易の大法なり。孔子の春秋を作るは、蓋し此の意なり。孔・顔これを時に行うを得ずと雖も、然れども其の治を為すの法、得て見る可し」(此所謂百王不易之大法。孔子之作春秋、蓋此意也。孔顏雖不得行之於時、然其爲治之法、可得而見矣)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「天下を治むるには仁を以て本と為す。而して夫子顔子に告ぐるに、特に四代の礼楽を以てする者は、何ぞや。蓋し其の邦を為さんことを問うに因りて、故に四代の制を折衷して以て之を示す。此れ其の異なる所以なり。夫れ法は必ず弊有り、道は則ち弊無し。先王の制、時勢に因り、民心に順いて之を立つと雖も、然れども其の久しきに及びては、弊無きこと能わず。夫子是に於いて四代の制に就きて、各〻其の一事を挙げ、以て其の梗概を示す。蓋し夏の時を行うは、其の正を取るなり。殷の輅に乗るは、其の質を貴ぶなり。周の冕を服するは、其の文に従うなり。楽は則ち韶舞する者は、美善の極を尚ぶなり。鄭声を放ち、佞人を遠ざくる者は、治を害するの本を防ぐなり。所謂万世不易の常道、文質を兼ね、法戒を存し、天下を治むるの道尽せり」(治天下以仁爲本。而夫子告顏子、特以四代之禮樂者、何哉。蓋因其問爲邦、故折衷四代之制以示之。此其所以異也。夫法必有弊、道則無弊。先王之制、雖因時勢、順民心而立之、然及其久也、不能無弊。夫子於是就四代之制、各舉其一事、以示其梗槩。蓋行夏之時、取其正也。乘殷之輅、貴其質也。服周之冕、從其文也。樂則韶舞者、尚美善之極也。放鄭聲、遠佞人者、防害治之本也。所謂萬世不易之常道、兼文質、存法戒、治天下之道盡矣)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「礼楽を制作するは、革命の事、君子之を言うをむ。故に顔子だ邦を為めんことを問う。而うして孔・顔の時は、革命のときなり。且つ顔子の用舎行蔵は、孔子と同じ。若し天之をゆるさば、亦た聖人なり。故に孔子礼楽を制作するを以て之に告ぐ。後儒必ず亜聖と曰うは、亦た浮屠のしょ菩薩の見のみ。此の章、先儒は以て万代不易の制と為す。豈に知らんや此れ正に孔・顔の時を以て之を言うのみなることを。若し果たして所謂万代不易の制なる者有らば、則ち堯・舜・禹・湯・文・武・周公は、皆聖人に非ず。且つ孔子の告ぐる所は、豈に之を今の世に行うけんや。豈に其の万世不易の制たるに在らんや。世儒の礼楽を知らざること一にの極に至るか。夏の時、殷の輅、周の冕は、礼なり。韶は、楽なり。聖人の天下を治むるは、礼楽尽くせり。鄭声は楽に害あり。佞人は礼に害あり。佞人は、口才有る者。朱註にてん弁給の人というは、あやまれり。聖人の礼を立つるや、天下の人をして之を固守せしむ。而うして法制を変乱する者は、必ず口才の人なり。故に之を遠ざく。後儒の先王の礼楽の意を知らざる者は、皆己の見る所を以てして先王の教法を変乱す。之を要するに佞人の帰なるを免れざるかな。吾れ孟子以下を取らざる所以の者は、是れが為の故なり。国風は徒歌なり。故に鄭・衛を存す。鄭声なる者は、之を声楽にこうむらしむ。故に之を放つ。世に鄭声有るときは、則ち民楽を好まず。放つ所以なり」(制作禮樂、革命之事、君子諱言之。故顏子止問爲邦。而孔顏之時、革命之秋也。且顏子用舍行藏、與孔子同。若天縱之、亦聖人矣。故孔子以制作禮樂告之。後儒必曰亞聖、亦浮屠補處菩薩之見耳。此章、先儒以爲萬代不易之制。豈知此正以孔顏之時言之耳。若果有所謂萬代不易之制者、則堯舜禹湯文武周公皆非聖人焉。且孔子所告、豈容行之於今世哉。豈在其爲萬世不易之制哉。世儒之不知禮樂一至斯極邪。夏時、殷輅、周冕、禮也。韶、樂也。聖人之治天下、禮樂盡焉。鄭聲害乎樂。佞人害乎禮。佞人、有口才者。朱註卑諂辨給之人、謬矣。聖人之立禮也、使天下之人固守之。而變亂法制者、必口才之人也。故遠之。後儒之不知先王禮樂之意者、皆以己之所見而變亂先王之教法。要之不免佞人之歸哉。吾所以不取孟子以下者、爲是故。國風徒歌也。故存鄭衞。鄭聲者、被之於聲樂。故放之。世有鄭聲、則民不好樂。所以放也)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
学而第一 為政第二
八佾第三 里仁第四
公冶長第五 雍也第六
述而第七 泰伯第八
子罕第九 郷党第十
先進第十一 顔淵第十二
子路第十三 憲問第十四
衛霊公第十五 季氏第十六
陽貨第十七 微子第十八
子張第十九 堯曰第二十