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衛霊公第十五 11 子曰人無遠慮章

390(15-11)
子曰、人無遠慮、必有近憂。
いわく、ひととおおもんぱかければ、かならちかうれり。
現代語訳
  • 先生 ――「人はさきざきを考えないと、きっといまになやむぞ。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様がおっしゃるよう、「人に遠い将来までの見通しがないと、たちまち足元からのわざわいが起るぞ。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師がいわれた。――
    「遠い将来のことを考えない人には、必ず間近かに心配ごとが待っている」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 遠慮 … はるか遠い将来のことまで考えること。日本語で一般的な「他人に対し、ひかえめにする」というような意味ではない。
  • 人無遠慮 … 「ひと遠慮えんりょければ」と訓読してもよい。
  • 近憂 … 「きんゆう」と訓読してもよい。身近に起きてくる心配ごと。
補説
  • 『注疏』に「此の章は人に不虞ふぐ備予びよすることを戒むるなり」(此章戒人備豫不虞也)とある。不虞は、予期しない災い。備予は、あらかじめ準備しておくこと。予備。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 人無遠慮、必有近憂 … 『集解』に引く王粛の注に「君子は当に慮りを思いてあらかじめ防ぐべきなり」(君子當思慮而預防也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「人生は当に思い漸く慮り遠かるべく、然らざるを防がば、則ち憂慮の事近く至るを得ず。若し遠き慮りを為さずんば、則ち憂患の来たること朝ならざれば、則ち夕なり。故に必ず近き憂い有りと云うなり」(人生當思漸慮遠、防於不然、則憂慮之事不得近至。若不爲遠慮、則憂患之來不朝則夕。故云必有近憂也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『集注』に引く蘇軾の注に「人のむ所は、足を容るるの外は、皆無用の地たるも、廃す可からざるなり。故に慮り千里の外に在らざれば、則ちわずらせきの下に在り」(人之所履者、容足之外、皆為無用之地、而不可廢也。故慮不在千里之外、則患在几席之下矣)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 人無遠慮 … 『義疏』では「人而無遠慮」に作る。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「慮り久遠の外に及ばざれば、則ち憂い必ず至近の地に起る。家国天下皆然らざること莫し。此の言甚だ近し。然れども之に従えば則ち吉、之に違えば必ず凶、神明の如かざる所、さいの及ばざる所なり。其れきん佩服はいふくせざる可けんや」(慮不及久遠之外、則憂必起於至近之地。家國天下莫不皆然。此言甚近。然從之則吉、違之必凶、神明所不如、蓍蔡所不及。其可不謹畏佩服也哉)とある。さいは、占い。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「大いなるかな此の言は。以て聖人の道を尽くす可きのみ。聖人はだいに思い深し。故に其の道深遠なり。当世の人、豈に孔子を尊ばざらんや。其の孔子を用うること能わざる所以の者は、皆以てと為すのみ。後世の諸儒、豈に聡明にとぼしからんや。其の聖人の道を知ること能わざる所以の者は、皆近きを見るがためのみ」(大矣哉此言。可以盡聖人之道已。聖人智大思深。故其道深遠焉。當世之人、豈不尊孔子哉。其所以不能用孔子者、皆以爲迂耳。後世諸儒、豈乏聰明哉。其所以不能知聖人之道者、皆爲見近耳)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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