楚辞 漁父第七
漁父 (漁父)
- 〔テキスト〕 〔北宋〕洪興祖『楚辞補注』巻七(『四部叢刊 初篇集部』所収)、〔南宋〕朱熹『楚辞集注』巻五、『文選』巻三十三、『古文真宝後集』巻一、『史記』巻八十四 屈原賈生列伝第二十四、他
- 辞賦。清(tsieng)・醒(syeng)(耕部)。移(jiai)・波(pai)・醨(liai)・爲(hiuai)(歌部)。衣(iəi)・汶(miuən)(微文通韻)。白(beak)・蠖(uak)(鐸部)。清(tsieng)・纓(ieng)(耕部)。濁(deok)・足(tziok)(屋部)。※王力『诗经韵读 楚辞韵读』(中华书局、2014年)の《楚辞》入韵字音表(402~416頁)および467~468頁参照。
- ウィキソース「漁父」参照。
- 漁父 … 老漁夫。「父」は老人。「ぎょふ」と読んでもよいが、古くから「ぎょほ」と読み慣わしてきている。『古文真宝後集』では「漁父辞」に作る。
- 楚の都の郢を追放された屈原が漁父に遇い、処世についての対話をした。現実に妥協して生きていくことを説く漁父に対し、あくまでも清廉潔白な生き方を屈原は貫こうとする。我が国において『楚辞』の中で古くから最も親しまれてきた一篇。
- 屈原 … 前340?~前278?。戦国時代、楚の政治家・詩人。名は平、原は字。楚の王族。懐王に信任され、三閭大夫として活躍。斉と同盟を結んで秦に対抗することを主張したが、讒言によって追放され、汨羅(湖南省)に身を投じた。ウィキペディア【屈原】参照。
屈原旣放、游於江潭、行吟澤畔。顏色憔悴、形容枯槁。
屈原既に放たれて、江潭に游び、行〻沢畔に吟ず。顔色憔悴し、形容枯槁す。
- 既放 … すでに追放されて。
- 江潭 … 川の深いよどみ。
- 游 … さまよい歩く。
- 行吟 … 「行吟す」と読んでもよい。歩きながら詩歌を口ずさむこと。
- 沢畔 … 沢のほとり。
- 顔色 … 顔色。
- 憔悴 … 悩みや病気のためにやせ衰えること。やつれること。
- 形容 … 身体つき。容貌。
- 枯槁 … やせ衰えること。
漁父見而問之曰、子非三閭大夫與。何故至於斯。
漁父見て之に問いて曰く、子は三閭大夫に非ずや。何の故に斯に至るや、と。
- 漁父 … 老いた漁夫。「父」は老人。
- 子 … あなた。
- 三閭大夫 … 戦国時代、楚の官名。楚の王族の昭・屈・景の三氏を管理した。屈原は追放されるまでこの官職にあった。
- 何故 … どうして。どういうわけで。
- 至於斯 … 「こんな辺鄙な所に来られたのですか」と解釈する説と、「(どうして)こんな境遇になってしまったのですか」と解釈する説とがある。
屈原曰、
屈原曰く、
舉世皆濁、我獨清、
世を挙げて皆濁り、我独り清めり。
- 世 … 世の中。
- 挙 … 「こぞって」と読んでもよい。「すべて」「全部」と訳す。
- 濁 … 汚れている。欲深い。
- 独 … 「ひとり~(のみ)」と読み、「ただ~だけ」「ひとりだけ~」と訳す。限定の意を示す。
- 清 … 清らか。潔白。
衆人皆醉、我獨醒。
衆人皆酔い、我独り醒めたり。
- 衆人 … 多くの人々。
- 酔 … 物事の道理がわからなくなっている。正常な判断能力を失っている。
- 醒 … 物事の道理を正しくわきまえている。
是以見放。
是を以て放たる、と。
- 是以 … 「ここをもって」と読み、「それゆえに」「だから」と訳す。「以是」は「これをもって」と読み、「この点から」「これにより」と訳す。
- 見放 … 追放されたのです。「見」は受け身を表す助字。
漁父曰、
漁父曰く、
聖人不凝滯於物、而能與世推移。
聖人は物に凝滞せずして、能く世と推移す。
- 聖人 … 物事の道理に達した人。ここでは儒教的な聖人君子ではなく、老荘的な無為自然の道に達した人のことであろう。
- 凝滞 … 物事に執着する。こだわる。拘泥する。
- 世 … 世間。
- 推移 … 移り変わる。世の中の動きに合わせて、自分の生き方も変えることができる。
世人皆濁、何不淈其泥而揚其波。
世人皆濁らば、何ぞ其の泥を淈して其の波を揚げざる。
- 何 … 「なんぞ」と読み、「どうして~か」と訳す。疑問の意を示す。
- 淈其泥 … その泥をかき回して、にごす。「淈」は、ひっかき回す。にごす。汚れた世と一緒に生きていくこと。
- 揚其波 … 濁った波を揚げようとしないのか。汚れた世間の人に同調すること。王逸の注に「浮沈を与にするなり」(與浮沈也)とある。
衆人皆醉、何不餔其糟而歠其醨。
衆人皆酔わば、何ぞ其の糟を餔いて其の醨を歠らざる。
- 餔其糟 … 世間の人が酔ったその酒かすを食べる。「糟」は酒かす。「餔」は食べる。世間の人と同じ行動をとること。
- 歠其醨 … その薄い酒をすする。「醨」は上ずみの酒。薄い酒。「歠」は、すする。世間の人ほどは酔わないが、自分を見失わない程度に同調すること。
- 醨 … 底本では「釃」に作るが、『史記』『古文真宝後集』等に従い改めた。
何故深思髙舉、自令放爲。
何の故に深く思い高く挙りて、自ら放たれしむるを為すや、と。
- 何故 … どういうわけで。
- 深思 … 国家の現状や君主のことを深刻に思い憂えること。
- 高挙 … 俗世間を逃れて高潔な行動をすること。「挙」は挙動。
- 自令放為 … 自分から追放を招くようなことをされたのですか。「令」は使役。
屈原曰、
屈原曰く、
吾聞之、
吾之を聞く、
- 吾聞之 … 私はこういうことを聞いています。
新沐者必彈冠、新浴者必振衣。
新たに沐する者は必ず冠を弾き、新たに浴する者は必ず衣を振う、と。
- 新沐者 … 髪を洗ったばかりの者。「新」は「~したばかり」の意。「沐」は髪を洗うこと。
- 弾冠 … 冠の塵を払ってからかぶる。髪を汚さないようにするため。
- 新浴者 … 湯浴みしたばかりの者。「浴」は湯浴みすること。湯に入って身体を洗うこと。
- 振衣 … 衣服の塵を払ってから着る。
安能以身之察察、受物之汶汶者乎。
安んぞ能く身の察察たるを以て、物の汶汶たる者を受けんや。
- 安 … 「いずくんぞ~ん(や)」と読み、「どうして~(する)のか、いや~ない」と訳す。反語の意を示す。
- 察察 … 潔白なさま。重言(畳語)。
- 汶汶 … 暗く汚れたさま。汚らわしいもの。
寧赴湘流、葬於江魚之腹中、
寧ろ湘流に赴きて、江魚の腹中に葬らるとも、
- 寧 … 「むしろ~とも」と読み、「いっそ」「それより」「むしろ」と訳す。選択の意を示す。
- 湘流 … 湘江の流れ。湘江は広西チワン族自治区に発して湖南省を北上し、瀟水と合流して洞庭湖に注ぐ川。ウィキペディア【湘江】参照。
- 赴 … 身を投げる。王逸の注に「自ら淵に沈むなり」(自沈淵也)とある。
- 江魚 … 大きな川に棲む魚。川魚。
- 葬~腹中 … 餌食になること。
安能以皓皓之白、
安んぞ能く皓皓の白きを以てして、
- 皓皓之白 … 潔白で汚れのないさま。「皓皓」は輝くばかりに白いさま。
而蒙世俗之塵埃乎。
世俗の塵埃を蒙らんや、と。
- 塵埃 … 『史記』では「溫蠖」に作る。溫蠖は、どす黒く汚れたさま。
- 蒙 … 受ける。
漁父莞爾而笑、鼓枻而去、乃歌曰、
漁父莞爾として笑い、枻を鼓して去り、乃ち歌って曰く、
- 莞爾 … 男性がにっこりと笑うさま。女性の場合は「嫣然」を使う。
- 鼓枻 … 櫂を動かす。「枻」は櫂。「鼓」は動かす。なお、「船べりを叩く」「櫂を音高く鳴らす」等の解釈もある。
- 乃 … 底本にはないが、『楚辞集注』『文選』『古文真宝後集』にはあるので補った。
滄浪之水清兮
滄浪の水清まば、
- 滄浪 … 漢水の下流。ウィキペディア【漢江 (中国)】参照。
- 清 … 水が澄む。
- 滄浪之水清 … 世に正しい道が行われていることの喩え。
- 兮 … 音は「ケイ」。調子を整える助字。訓読しない。『楚辞』や楚調の歌に多く用いられる。
可以濯吾纓
以て吾が纓を濯う可し、
- 可以 … ~したらいい。~するのがよいだろう。
- 濯吾纓 … 冠の紐を洗う。「纓」は冠の紐。出仕することの喩え。
滄浪之水濁兮
滄浪の水濁らば、
- 滄浪之水濁兮 … 世が乱れて道が行われていないことの喩え。
可以濯吾足
以て吾が足を濯う可し、と。
- 濯吾足 … 自分の足を洗う。「濯」は足を洗うこと。官を辞して退去する。世間から逃れて住むこと。
遂去、不復與言。
遂に去って、復た与に言わず。
- 遂 … 「ついに」と読み、「そのまま」と訳す。「とうとう」の意味ではない。「とうとう」のときは、「卒」「終」などが用いられる。
- 不復 … 「また~ず」と読み、「もう二度と~ない」と訳す。部分否定。ちなみに、「復不」は「また~ず」と読み、「今度もまた~しない」と訳す。全部否定。
- 与言 … (漁父は)二度と(屈原と)言葉を交わすことがなかった。
楚辞目次 | |
九歌第二 | 卜居第六 |
漁父第七 | 惜誓第十一 |
招隠士第十二 |