楚辞 卜居第六
卜居 (卜居)
- 〔テキスト〕 〔北宋〕洪興祖『楚辞補注』巻六(『四部叢刊 初篇集部』所収)、〔南宋〕朱熹『楚辞集注』巻五、『文選』巻三十三、他
- 辞賦。疑(ngiə)・之(tjiə)(之部)。忠(tiung)・窮(giung)(冬部)。耕(keng)・名(mieng)・身(sjien)・生(sheng)・眞(tjien)・人(njien)・清(tsieng)・楹(jieng)(耕真合韻)。駒(kio)・軀(khio)(侯部)。軛(ek)・迹(tziek)(錫部)。翼(jiək)・食(djiək)(職部)。凶(xiong)・從(dziong)(東部)。清(tsieng)・輕(khieng)・鳴(mieng)・名(mieng)・貞(tieng)(耕部)。長(diang)・明(myang)・通(thong)(陽東合韻)。意(iək)・事(dzhiə)(職之通韻)。※王力『诗经韵读 楚辞韵读』(中华书局、2014年)の《楚辞》入韵字音表(402~416頁)および465~466頁参照。
- ウィキソース「卜居 (屈原)」参照。
- 卜居 … 本来は居るところを卜うの意。この篇は屈原が人生に迷い、卜師の鄭詹尹の所へ行き、自分のとるべき処世法について尋ねたもの。
- 屈原 … 前340?~前278?。戦国時代、楚の政治家・詩人。名は平、原は字。楚の王族。懐王に信任され、三閭大夫として活躍。斉と同盟を結んで秦に対抗することを主張したが、讒言によって追放され、汨羅(湖南省)に身を投じた。ウィキペディア【屈原】参照。
屈原旣放三年、不得復見。竭知盡忠、而蔽鄣於讒、心煩慮亂、不知所從。
屈原既に放たれて三年、復た見ゆるを得ず。知を竭し、忠を尽して、而も讒に蔽鄣せられ、心煩い慮い乱れて、従う所を知らず。
- 放 … 楚の都の郢を追放される。放逐される。
- 見 … 「まみゆ」と読む。君王にお目にかかること。謁見すること。
- 竭知尽忠 … 知恵を絞って策略をめぐらし、真心をもって忠義を尽くす。王逸の注に「策謀を建立し、心を披く」(建立策謀披心)とある。
- 讒 … 人を陥れるためにありもしない事を作り上げ、目上の人に告げ口すること。讒言。
- 蔽鄣 … 蔽い遮る。「蔽障」と同じ。
- 慮乱 … 思慮が乱れる。
- 不知所従 … どうしてよいか分からなくなった。
往見太卜鄭詹尹曰、余有所疑。
往きて太卜鄭詹尹を見て曰く、余に疑う所有り。
- 往見 … 『楚辞集注』『文選』には「往」の字の上に「乃」の字がある。
- 太卜 … 官名。国家の卜筮(筮竹の占い)を掌る長官。
- 鄭詹尹 … 鄭は姓。詹尹は名。
- 余有所疑 … 私に迷っていることがあります。
願因先生決之。
願わくは先生に因りて之を決せん、と。
- 願因先生決之 … どうか先生の占いによって決めたいと思います。
詹尹乃端策拂龜曰、君將何以教之。
詹尹乃ち策を端し亀を払いて曰く、君将に何を以て之に教えんとするや、と。
- 端策 … 筮竹をきちんと揃える。「策」は筮竹。「端」は正しく持つこと。
- 払亀 … 亀卜に用いる亀の甲を払い清める。「亀卜」は亀の甲を焼き、甲に現れたひびの模様で吉凶を判断する占い。
- 君将何以教之 … あなたはどんなことを私に占えとおっしゃるのですか。「教」は命ずる。
屈原曰、
屈原曰く、
吾寧悃悃欵欵、朴以忠乎。
吾寧ろ悃悃欵欵として、朴にして以て忠ならんか。
- 寧~乎 … 「むしろ~か」と読み、「いっそ~しようか」と訳す。
- 悃悃欵欵 … 真心がこもっていて、誠実なさま。「悃悃」「欵欵」ともに、真心がこもっている様子の意。王逸の注に「志純一なり」(志純一也)とある。朱注に「誠実傾尽の貌」(誠實傾盡貌)とある。
- 欵欵 … 『楚辞集注』『文選』では「款款」に作る。
- 朴 … 質朴。まじめで正直なこと。
- 忠 … 忠義を尽くすこと。
將送往勞來、斯無窮乎。
将た往を送り来を労い、斯に窮まり無からんか。
- 将~乎 … 「はた~か」と読み、「それともまた~しようか」と訳す。
- 送往労来 … 行く人を見送り、来る人を労い迎える。俗人におもねること。王逸の注に「俗人を追うなり」(追俗人也)とある。
- 斯無窮乎 … 自分が困窮しないようにしようか。
寧誅鋤草茅、以力耕乎。
寧ろ草茅を誅鋤して、以て力耕せんか。
- 草茅 … 雑草。草と茅。
- 誅鋤 … 雑草を刈り除くこと。
- 力耕 … 耕作に励むこと。「力田」とも。
將遊大人、以成名乎。
将た大人に遊んで、以て名を成さんか。
- 大人 … 貴人。高位高官の人。
- 遊 … 交際する。
- 成名 … 名声を博する。
寧正言不諱、以危身乎。
寧ろ正言して諱まず、以て身を危くせんか。
- 正言 … 正しい意見を述べること。
- 不諱 … 憚らない。遠慮しない。
將從俗富貴、以媮生乎。
将た俗に従いて富貴にして、以て生を媮しまんか。
- 媮生 … 生活を楽しむこと。「媮」は楽しむ。「愉」と同義。
寧超然髙舉、以保眞乎。
寧ろ超然として高く挙り、以て真を保たんか。
- 超然 … 他とかけ離れているさま。
- 高挙 … 俗世間を逃れて高潔に生きること。
- 以 … 『楚辞補注』(『四部叢刊 初篇集部』所収)では「㠯」に作る。「㠯」は「以」の異体字。
- 保真 … 生まれながらの性質を持ち続け守ること。「真」は天性。本性。高潔なる天性を保ち続けること。
將哫訾栗斯、喔咿儒兒、以事婦人乎。
将た哫訾栗斯、喔咿儒兒として、以て婦人に事えんか。
- 哫訾 … おべっかを言って相手に媚びること。
- 栗斯 … 謹み敬うさま。『楚辞集注』では「粟斯」に作る。こちらは、偽って随う。心にもなく随う。
- 喔咿儒兒 … 「喔咿」「儒兒」ともに、強いて笑うさま。愛想笑いをする。追従笑いをする。「儒兒」は「嚅唲」と同じ。
- 婦人 … 君主の寵愛する女性。朱注に「婦人は蓋し鄭袖を謂うなり」(婦人蓋謂鄭袖也)とある。鄭袖は懐王の寵妃で頃襄王の生母。
寧廉潔正直、以自清乎。
寧ろ廉潔正直、以て自ら清くせんか。
- 廉潔 … 私欲がなく、行いが正しいこと。清廉潔白。
將突梯滑稽、如脂如韋、以潔楹乎。
将た突梯滑稽、脂の如く韋の如く、以て潔楹ならんか。
- 突梯 … 言葉が滑らかなさま。王逸の注に「転じて俗に随うなり」(轉隨俗也)とある。朱注に「突梯は滑澾の貌」(突梯滑澾貌)とある。
- 滑稽 … 知識が多く、口上手な様子。朱注に「滑稽は円転の貌」(滑稽圓轉貌)とある。
- 如脂如韋 … 「脂」は油脂。「韋」は、なめし皮。どちらも柔軟で滑らかである。世の移り変わりに従い、自分を変えていくさま。脂韋。
- 潔楹 … 物に順応して円滑なさま。王逸の注に「順にして滑沢なり」(順滑澤也)とある。朱注に「絜楹は未だ詳らかならず」(絜楹未詳)とある。
寧昂昂若千里之駒乎。
寧ろ昂昂として、千里の駒の若くならんか。
- 昂昂 … 意気が高いさま。
- 千里之駒 … 一日に千里を走る駿馬。「駒」は馬。
将氾氾、若水中之鳧乎、與波上下、偸以全吾軀乎。
将た氾氾として、水中の鳧の若く、波と上下して、偸くも以て吾が軀を全うせんか。
- 氾氾 … 水に浮かぶさま。「泛泛」に作るテキストもある。
- 鳧 … 鴨。野鴨。
- 与波上下 … 波とともに浮き沈みする。世俗に合わせて生きていくことの喩え。
- 偸 … 「いやしくも」と読む。かりそめにも。かりにも。
- 全吾軀 … わが身の安泰を全うする。「軀」は身体。
寧與騏驥亢軛乎。
寧ろ騏驥と軛を亢げんか。
- 騏驥 … 千里の馬。駿馬。才能の優れた人に喩える。
- 亢軛 … 馬が車の頸木を上げる。「軛」は車の轅の先にあって、車をひく牛や馬の首にかける横木。「亢」は持ち上げる。
將隨駑馬之迹乎。
将た駑馬の迹に随わんか。
- 駑馬 … 足ののろい馬。才能のない人に喩える。
- 迹 … 後ろ。
- 随 … ついて行く。
寧與黄鵠比翼乎。
寧ろ黄鵠と翼を比べんか。
- 黄鵠 … 黄色の大雁。一挙に千里も飛んで行くという。高潔の士に喩える。
- 比翼 … 翼を並べて飛ぶ。賢者に比すること。
將與雞鶩爭食乎。
将た鶏鶩と食を争わんか。
- 鶏鶩 … 鶏と、あひる。俗人・小人物に喩える。
- 争食 … 餌を争いながら暮らすこと。
此孰吉孰凶。
此れ孰れか吉、孰れか凶ならん。
- 孰 … 「いずれか」と読み、「どちらが」と訳す。比較して選択する意を示す。
何去何從。
何れをか去り、何れにか従わん。
- 何去何従 … どちらを捨て去り、どちらに従えばよいのか。
世溷濁而不清。
世溷濁して清まず。
- 溷濁 … 世の中が乱れ濁って、秩序がなくなること。「溷」は濁る。「混濁」と同じ。
蟬翼爲重、千鈞爲輕。
蟬翼を重しと為し、千鈞を軽しと為す。
- 蟬翼 … 薄くて軽いせみの羽。軽薄な人物に喩える。
- 千鈞 … 非常に重いこと。「鈞」は重さの単位。一鈞は三十斤。周代の一斤は256グラム。唐代以後は約600グラム。ここでは重厚な賢人に喩える。
黃鐘毀棄、瓦釜雷鳴。
黄鐘は毀り棄てられ、瓦釜は雷鳴す。
- 黄鐘 … 楽器で最も響きの大きなもの。大人物に喩える。朱注では「黄鍾」に作る。
- 毀棄 … 壊して捨てる。
- 瓦釜雷鳴 … 素焼きの釜が、雷のような大きな音をたてること。つまらない者が高い地位について威張り散らすことの喩え。「瓦釜」は素焼きの釜。土製の飯釜。土釜。小人物に喩える。
讒人髙張、賢士無名。
讒人は高く張り、賢士は名無し。
- 讒人 … 讒言をする小人物。
- 高張 … 威張り、のさばること。
- 賢士 … 徳のある優れた人物。
- 無名 … 世間に名を知られていない。
吁嗟黙黙兮、誰知吾之廉貞。
吁嗟、黙黙たり。誰か吾の廉貞を知らん、と。
- 吁嗟 … ああ。嘆く言葉。
- 黙黙 … 口を閉じて何も言わないさま。
- 廉貞 … 清廉潔白で節操が堅いこと。廉潔忠貞。
詹尹乃釋策而謝曰、
詹尹乃ち策を釈てて謝して曰く、
- 釈 … すてる。「捨」と同じ。
- 謝 … 丁寧に断る。辞退する。
夫尺有所短、寸有所長。
夫れ尺も短き所有り、寸も長き所有り。
- 夫 … 「それ」と読み、「そもそも」と訳す。文頭におかれる。
- 尺有所短、寸有所長 … 一尺でも短いとされる場合があり、一寸でも長いとされる場合がある。物事には適不適があることの喩え。
物有所不足、智有所不明。
物にも足らざる所有り、智にも明らかならざる所有り。
- 物有所不足 … どんな物にも不十分なところがある。
- 智有所不明 … 知恵にも明らかでないところがある。
數有所不逮、神有所不通。
数も逮ばざる所有り、神も通ぜざる所有り。
- 数有所不逮 … 数えても数え切れないものがある。筮竹で占っても占い切れないものがある。
- 神有所不通 … 神通力も及ばないことがある。
用君之心、行君之意。
君の心を用いて、君の意を行え。
- 用君之心、行君之意 … 自分の心で考えて、自分の思う通りに行動しなさい。
龜策誠不能知事。
亀策は誠に事を知る能わず、と。
- 亀策 … 亀の甲と筮竹を用いる占い。亀筮。
- 不能知事 … お尋ねになった事の吉凶を知ることができない。
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