西施石(楼穎)
西施石
西施石
西施石
- 〔テキスト〕 『唐詩選』巻七、『全唐詩』巻二百三、趙宦光校訂/黄習遠補訂『万首唐人絶句』巻十二(万暦三十五年刊、内閣文庫蔵)、『唐詩品彙』巻五十五、『国秀集』巻中、他
- 七言絶句。津・人・春(平声真韻)。
- ウィキソース「西施石」参照。
- 西施石 … 西施が会稽の苧蘿山中(今の浙江省紹興市の西南、諸曁市)の谷川で紗を洗ったときに使った石。『太平御覧』巻四十七、土城山の項に引く孔曄『会稽記』に「勾践、美女を索め以て呉王に献ぜんとし、諸曁羅山の薪を売る女、西施・鄭旦を得、先ず土城山に教習せしむ。山辺に石有り、云う是れ西施紗を浣う石なり」(勾踐索美女以獻吳王、得諸曁羅山賣薪女西施、鄭旦、先教習于土城山。山邊有石、云是西施浣紗石)とある。ウィキソース「太平御覽/0047」参照。
- 西施 … 春秋時代の越の美女。もともと苧蘿山(今の浙江省紹興市諸曁市)に住む薪売り娘。越王勾践が呉に敗れたのち呉王夫差のもとに送られ、夫差は彼女の色香に溺れて国を亡ぼした。ウィキペディア【西施】参照。
- この詩は、作者が西施石を見て、西施を偲びながら詠んだもの。
- 楼穎 … 生没年不詳。盛唐の詩人。『全唐詩』に「天宝中の進士。国秀集の序を作る」(天寶中進士。作國秀集序)とあるが、『登科記考』に楼穎の名は見当たらない。『中国历代人名大辞典』(上海古籍出版社、1999年)には「玄宗の天宝の初め、国子生と為る、芮挺章と友たり」(玄宗天宝初为国子生、与芮挺章为友)とある。国子生は、国子監の学生。芮挺章は、天宝三載(744)に『国秀集』を編纂した人。楼穎がその序文を書いたのは、友人に依頼されたからであったことがわかる。ウィキペディア【国子監】参照。『全唐詩』に五首収録されている。
西施昔日浣紗津
西施 昔日 浣紗の津
- 昔日 … むかし。
- 浣紗 … 紗を洗う。浣は、洗うこと。
- 津 … 渡し場。
石上靑苔思殺人
石上の青苔 人を思殺す
- 石上青苔 … そこにある西施石も青い苔におおわれている。
- 思殺人 … 見る人を深く懐旧の思いにさせる。
- 思殺 … 深く思うこと。殺は、動詞のあとにつけ、意味を強める接尾辞。
一去姑蘇不復返
一たび姑蘇に去って復た返らず
- 一去 … 一旦行ったきり。
- 姑蘇 … 呉王夫差の都。今の江蘇省蘇州市。ウィキペディア【蘇州市】参照。また、ここでは姑蘇台を指すものとも思われる。姑蘇台は、春秋時代の後期、呉王闔廬が姑蘇山(江蘇省蘇州市の西南)上に築き、後にその子夫差が改修した離宮。西施など大勢の美女を住まわせて遊んだという。台とは、建物を築くとき、土を高く盛ってつき固めた台基のこと。『元和郡県図志』江南道、蘇州の条に「(姑蘇)山は(蘇)州の西四十里に在り。其の上に闔廬、台を起く」(山在州西四十里。其上闔閭起臺)とある。ウィキソース「元和郡縣圖志/卷25」参照。また『山堂肆考』宮室、寵西施の条に「呉王夫差越を破り、越乃ち西施を進めて軍を退かんことを請う。呉王之を許し、呉王既に西施を得。甚だ之を寵し、為に姑蘇台を築く。高さ三百丈、其の上にて遊宴す」(吳王夫差破越、越乃進西施請退軍。吳王許之、吳王既得西施。甚寵之、爲築姑蘇臺。髙三百丈、遊宴其上)とある。ウィキソース「山堂肆考 (四庫全書本)/卷172」参照。
- 不復返 … 再びこの地に帰ってくることはなかった。
岸傍桃李爲誰春
岸傍の桃李 誰が為にか春なる
- 岸傍 … 岸辺。
- 岸 … 『唐詩品彙』では「㟁」に作る。異体字。
- 傍 … 『全唐詩』では「旁」に作る。同義。
- 桃李 … 桃や李の花。
- 為誰春 … いったい誰のために春の色に咲き誇っているのか。
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