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雨淋鈴(張祜)

雨淋鈴
淋鈴りんれい
ちょう
  • 〔テキスト〕 『唐詩選』巻七、『全唐詩』巻五百十一、『楽府詩集』巻八十・近代曲辞、趙宦光校訂/黄習遠補訂『万首唐人絶句』巻十五(万暦三十五年刊、内閣文庫蔵)、『古今詩刪』巻二十二(寛保三年刊、『和刻本漢詩集成 総集篇9』所収、65頁)、『唐詩品彙』巻五十二、『唐詩別裁集』巻二十、他
  • 七言絶句。秦・新・人(平声真韻)。
  • ウィキソース「全唐詩/卷511」参照。
  • 詩題 … 『全唐詩』『楽府詩集』『万首唐人絶句』『唐詩別裁集』では「雨霖鈴」に作る。
  • 雨淋鈴 … 楽府題。唐の玄宗皇帝が作った曲。安禄山の乱のとき、長安を脱出して蜀(四川省)に避難した玄宗は、途中、かいの駅で護衛の兵に迫られて最愛の楊貴妃を殺させた。ウィキペディア【馬嵬駅の悲劇】参照。それから蜀の桟道を越えてゆくとき、十日以上も長雨が降り続き、馬の鈴の音が山々にこだましながら雨音にまじって響くのが聞こえた。玄宗はその鈴の音をもとに、楊貴妃を悼む曲を作って「雨淋鈴」と名づけ、お供の楽士ちょうに授けた。やがて乱が収まり、都へ帰った玄宗は、ざんの華清宮に行幸し、張徽にこの曲を演奏させ、楊貴妃を偲んで涙を流したという。『楊太真外伝』巻下(『説郛』巻一百十一)に「又たこくこうに至るや、霖雨つづくことじゅんに渉る。桟道に於いて、雨中に鈴声の山を隔てて相応ずるを聞く。しょう、既に貴妃を悼念とうねんし、因りて其の声をりて雨霖鈴の曲をつくり、以て恨みを寄す。至徳二年、既に収まりて西京にかえる。……至徳中、復た華清宮にみゆきす。従官・嬪御ひんぎょ、多くは旧人に非ず。しょうは望京楼に於いて、張野狐に命を下して雨霖鈴の曲を奏せしむ。曲半ばにして、しょう四顧しこして凄涼たり。覚えずなみだを流す。左右も亦たために感傷す」(又至斜谷口、屬霖雨涉旬。於棧道、雨中聞鈴聲隔山相應。上既悼念貴妃、因採其聲爲雨霖鈴曲、以寄恨焉。至德二年、既收復西京。……至德中、復幸華清宮。從官嬪御、多非舊人。上於望京樓、下命張野狐奏雨霖鈴曲。曲半、上四顧淒涼。不覺流涕。左右亦爲感傷)とある。ウィキソース「楊太真外傳」参照。
  • この詩は、雨淋鈴の曲にまつわる故事を追想して詠んだもの。
  • 張祜 … 782?~852?。中唐の詩人。清河(河北省邢台市清河県)の人。一説に南陽(河南省南陽市)の人。あざなしょうきつ。穆宗の長慶年間、令狐楚が朝廷に推薦したが、採用されなかった。その後、各地を放浪し、晩年は丹陽(江蘇省丹陽市)に隠棲して、そこで没した。『張承吉文集』十巻がある。ウィキペディア【張祜】参照。
雨淋鈴夜却歸秦
淋鈴りんれい かえってしんかえ
  • 雨淋鈴夜 … 雨がしとしとと降り続き、鈴の音と響き合う夜。
  • 淋 … 『全唐詩』『楽府詩集』『万首唐人絶句』『唐詩別裁集』では「霖」に作る。同義。
  • 却帰 … 帰ること。却は、ここでは再びの意。張相『詩詞曲語辞匯釈』の「却(七)」の条に「却は、猶お再のごとし」(却、猶再也)とある。杜甫の「高都護の驄馬行」に「せいかしらまといてきみためゆ、なにってかかえってでん横門こうもんみち」(靑絲絡頭爲君老、何由卻出橫門道)とある。ウィキソース「高都護驄馬行」参照。
  • 却 … 『唐詩選』『全唐詩』『唐詩別裁集』では「卻」に作る。異体字。
  • 秦 … ここでは長安を指す。
猶是張徽一曲新
ちょう いっきょくあらたなり
  • 猶是 … やはり。
  • 是 … 『全唐詩』では「見」に作り、「一作是」とある。『万首唐人絶句』でも「見」に作る。
  • 張徽 … 玄宗皇帝お気に入りの楽士。あざなは野狐。ウィキペディア【李亀年】「同時代の楽人たち:張野狐」参照。
  • 一曲 … 雨淋鈴の一曲。
  • 新 … 新たに悲しみの感情がこみ上げてくる。
長說上皇垂淚教
つねく 上皇じょうこう なみだれておしえしを
  • 長説 … 張徽がいつも語っていた。長は、常に同じ。いつも。
  • 上皇 …帝位を譲って隠退された君主のこと。玄宗を指す。至徳元載(756)七月、霊武(今の寧夏回族自治区霊武市)で子の粛宗が自ら皇帝に即位したため、玄宗は事後承諾するしかなかった。『新唐書』玄宗本紀に「皇太子は皇帝の位に霊武に于いて即く、以て聞く」(皇太子即皇帝位于靈武、以聞)とある。ウィキソース「新唐書/卷005」参照。
  • 垂涙教 … (この曲は上皇が)涙を流されながら、わたし(張徽)に教えられたものである。
  • 垂 … 『全唐詩』『万首唐人絶句』『唐詩別裁集』では「和」に作る。
月明南內更無人
つきあきらかにして 南内なんだい さらひと
  • 月明 … 月が明るく照らすばかりで。
  • 南内 … 南の内裏。長安城内の東南に位置する興慶宮のこと。もともと玄宗の皇太子時代の住居であった。即位後は拡張工事を行い、正式の宮殿とした。至徳二載(757)、蜀から長安に帰り、それからの数年間は、また南内に居住した。上元元年(760)、西内に移住させられた。『新唐書』地理志に「興慶宮は皇城の東南に在り。京城の東にへだたる。開元の初めに置く。十四年に至りて又之を増広し、之を南内と謂う」(興慶宮在皇城東南。距京城之東。開元初置。至十四年又增廣之、謂之南內)とある。ウィキソース「新唐書/卷037」参照。また『資治通鑑』肅宗皇帝上元元年の条に「上皇、興慶宮を愛し、蜀より帰り、即ち之に居る」(上皇愛興慶宮、自蜀歸、即居之)とある。ウィキソース「資治通鑑/卷221」参照。また『雍録』五代都雍総説の条に「高宗の時、大興城の北東に於いて別に大明宮を建てる。故に東内と号す、而して大興城は遂に西内と名づく、西内は即ち唐の太極宮なり。別に興慶宮有り、太極の東南の角に在り、又南内と名づく」(高宗時、於大興城之北東別建大明宮。故號東內、而大興城遂名西內也、西內即唐太極宮也。別有興慶宮、在太極東南角、又名南內也)とある。ウィキソース「雍錄/卷01」参照。ウィキペディア【興慶宮】参照。
  • 更 … さらに。もはや。下に打ち消しの言葉を伴う。
  • 無人 … 当時の人は誰もいない。
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