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陽貨第十七 2 子曰性相近也章

436(17-02)
子曰、性、相近也、習相遠也。
いわく、せいあいちかし、ならあいとおし。
現代語訳
  • 先生 ――「生まれは似たものだが、育ちでへだたるんだ。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様がおっしゃるよう、「人間の生れ得た本性はだいたい似たり寄ったりの近いものだが、その後の習慣教養で善悪ぜんあくけんの遠いへだたりができる。心すべきは環境と教育じゃ。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師がいわれた。――
    「人間の生れつきは似たものである。しかししつけによる差は大きい」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 性 … 天性。生まれつき。もって生まれた性質。もともとの素質。
  • 相 … 「あい」と読み、「たがいに」「相互に」「いっしょに」と訳す。
  • 近 … 似ている。
  • 習 … 後天的な習慣。繰り返しやること。教養も含まれる。
  • 遠 … へだたる。
  • この章は「衛霊公第十五38」と内容的に近い。
  • この章を次章と合わせて一つの章とするテキストもある。
補説
  • 『注疏』では次章と合わせて一つの章とし、「此の章は君子は当に其の習う所を慎むべきを言うなり」(此章言君子當愼其所習也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 諸橋轍次は「これは、習慣は第二の天性なりと言われるほど人の性行を左右するものである、との教である」と言っている(『論語の講義』405頁)。
  • 性相近也。習相遠也 … 『集解』に引く孔安国の注に「君子は習う所を慎むなり」(君子愼所習也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「性とは、人の稟くる所にして以て生ずるなり。習とは、生まれて而る後に儀有りて、常に行習する所の事を謂うなり。人倶に天地の気を稟けて以て生まる。復た厚薄殊なること有りと雖も、而れども同じく是れ気を稟く。故に相近しと曰うなり。識るに至るに及んで、若し善友にえば、則ち相ならいて善を為す。若し悪友に逢えば、則ち相效いて悪を為す。悪善既に殊なれり。故に相遠しと云うなり。故に范寧云う、人生まれて静なるは、天の性なり。物に感じて動くは、性の欲なり。斯れ相近きなり。しゅの教えを習うを君子と為し、しんしょうの術を習うを小人と為す。斯れ相遠きなり、と」(性者、人所稟以生也。習者、謂生而後有儀、常所行習之事也。人倶稟天地之氣以生。雖復厚薄有殊、而同是禀氣。故曰相近也。及至識、若値善友、則相效爲善。若逢惡友、則相效爲惡。惡善既殊。故云相遠也。故范寧云、人生而静、天之性也。感於物而動、性之欲也。斯相近也。習洙泗之教爲君子、習申商之術爲小人。斯相遠也)とある。洙泗は、孔子の学。孔子が洙水・泗水の流域で、弟子たちに学問を教えたことから。申商は、申不害と商鞅。ともに戦国時代の政治家で、法家の思想家。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「性は、人の稟受ひんじゅして、以て生じて静なる所の者を謂うなり。未だ外物の感ずる所と為らざるときは、則ち人は皆相似たるは、是れ近きなり。既に外物の感ずる所と為れば、則ち習いて以て性は成る。若し善を習わば、則ち君子と為り、若し悪を習わば、則ち小人と為るは、是れ相遠きなり。故に君子は習う所を慎む」(性、謂人所稟受、以生而靜者也。未爲外物所感、則人皆相似、是近也。既爲外物所感、則習以性成。若習於善、則爲君子、若習於惡、則爲小人、是相遠也。故君子愼所習)とある。また『集注』に「此の所謂いわゆる性は、気質を兼ねて言う者なり。気質の性は、固より美悪の同じからざる有り。然れども其の初めを以て言えば、則ち皆甚だしくは相遠からず。但だ善を習えば則ち善、悪を習えば則ち悪なり。ここに於いて始めて相遠きのみ」(此所謂性、兼氣質而言者也。氣質之性、固有美惡之不同矣。然以其初而言、則皆不甚相遠也。但習於善則善、習於惡則惡。於是始相遠耳)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 『集注』に引く程頤の注に「此れ気質の性を言い、性の本を言うに非ざるなり。若し其の本を言えば、則ち性は即ち是れ理、理は善ならざる無し。孟子の性善を言えるは、是れなり。何の相近きこと之れ有らんや」(此言氣質之性、非言性之本也。若言其本、則性即是理、理無不善。孟子之言性善、是也。何相近之有哉)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』では次章と合わせて一つの章とし、「此れ聖人の人に教うる、性を責めずして専ら習いを責むるを明らかにするなり。……論に曰く、孔子は性相近しと曰い、而して孟子は専ら性善なりと曰い、其の言同じからざること有るに似たる者は何ぞや。孟子は孔子を学ぶ者なり、其の旨豈に異有らんや。其の所謂性善とは、即ち性相近きことの旨を発明する者なり。蓋し堯舜より途人に至るまで、其の間相去ること、なんただに千万のみならん。遠しと謂う可し。而して之を相近しと謂う者は、人の生質、剛柔昏明、同じからざること有りと雖も、然れども其の四端有るに至りては、則ち未だ嘗て同じからずんばあらず。之を水に譬うるに、甘苦清濁の異なる有りと雖も、然れども其の下に就くことは則ち一なり。故に夫子は以て相近しと為して、孟子は専ら以て性善なりと為す。故に曰く、人の性の善なるや、猶お水の下に就くがごときなり、と。又た曰く、乃ち其の情の若きは、則ち以て善を為す可し、乃ち所謂善なり、と。皆生質に就きて之を論じて、理を以て之を言うに非ざるなり。若し理を以て之を言わば、則ち豈に遠近を以て言う可けんや、と」(此明聖人之教人、不責性而專責習也。……論曰、孔子曰性相近、而孟子專曰性善、其言似有不同者何諸。孟子學孔子者也、其旨豈有異乎。其所謂性善者、即發明性相近之旨者也。蓋自堯舜至於途人、其間相去、奚翅千萬。可謂遠矣。而謂之相近者、人之生質、剛柔昏明、雖有不同、然而至於其有四端、則未嘗不同。譬之水焉、雖有甘苦清濁之異、然其就下則一也。故夫子以爲相近、而孟子專以爲性善。故曰、人性之善也、猶水之就下也。又曰、乃若其情、則可以爲善矣、乃所謂善也。皆就生質論之、而非以理言之也。若以理言之、則豈可以遠近言哉)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「……孔子の心は、実に学をすすむるに在り。……蓋し孔子没して老荘興り、専ら自然をとなえて、先王の道を以て偽と為す。故に孟子性善を発して以て之に抗す。孟子の学は、時有りてか孔氏の旧を失う。故に荀子又た性悪を発して以て之に抗す。皆宗門を争う者なり。宋儒は之を知らず。本然・気質を以て之を断ず。殊に知らず古えの性を言うは、皆性質を謂うことを。何の本然か之れ有らん。仁斎先生之を弁ずる者なり。然れども仁斎又た以為おもえらく孔子・孟子は其のむね殊ならずと。……然れども孔子の意は、性に在らずして習いに在り。孟子は則ち仁義内外の説を主とす。豈にいつならんや。且つ孔子は上知・下愚は移らずというを以てし、而うして孟子は則ち人皆以て堯舜たる可しといえば、則ち孟子も亦た豈に理を以て之を言うに非ずや。大氐たいてい孟子の言は、皆外人と争う者、豈にこれを孔子に合す可けんや」(……孔子之心、實在勸學。……蓋孔子沒而老莊興、專倡自然、而以先王之道爲僞。故孟子發性善以抗之。孟子之學、有時乎失孔氏之舊。故荀子又發性惡以抗之。皆爭宗門者也。宋儒不知之。以本然氣質斷之。殊不知古之言性、皆謂性質。何本然之有。仁齋先生辨之者是矣。然仁齋又以爲孔子孟子其旨不殊焉。……然孔子之意、不在性而在習。孟子則主仁義内外之説。豈一哉。且孔子以上知下愚不移、而孟子則人皆可以爲堯舜、則孟子亦豈非以理言之邪。大氐孟子之言、皆與外人爭者、豈可合諸孔子哉)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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