公冶長第五 12 子貢曰夫子之文章章
104(05-12)
子貢曰、夫子之文章、可得而聞也。夫子之言性與天道、不可得而聞也。
子貢曰、夫子之文章、可得而聞也。夫子之言性與天道、不可得而聞也。
子貢曰く、夫子の文章は、得て聞く可きなり。夫子の性と天道とを言うは、得て聞く可からざるなり。
現代語訳
- 子貢 ―― 「先生のご講義は、いつでもうかがえるが…。先生の人間観や宇宙観は、なかなかうかがえないなあ。」(魚返善雄『論語新訳』)
- 子貢が言うよう、「先生の御徳は一言一行の上で常に拝聴拝見し得たが、先生の人性論と天道論とはなかなかうかがえないところであった。そのご講義を今日承って、欣喜感激の極だ。」(穂積重遠『新訳論語』)
- 子貢がいった。――
「先生のご思想、ご人格の華というべき詩書礼楽のお話や、日常生活の実践に関するお話は、いつでもうかがえるが、その根本をなす人間の本質とか、宇宙の原理とかいう哲学的なお話は、容易にはうかがえない」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
- 子貢 … 前520~前446。姓は端木、名は賜。子貢は字。衛の人。孔子より三十一歳年少の門人。孔門十哲のひとり。弁舌・外交に優れていた。また、商才もあり、莫大な財産を残した。ウィキペディア【子貢】参照。
- 夫子 … 賢者・先生・年長者を呼ぶ尊称。ここでは孔子の弟子たちが孔子を呼ぶ尊称。
- 文章 … 威儀・ことば遣いなど、徳が外にあらわれたもの。また、詩・書・礼・楽等を含む文化。
- 性 … 人間の本性。
- 与 … 「と」と読み、「~と」と訳す。「A与B」の場合は、「AとB与」と読む。並列の意を示す。「與」は「与」の旧字体。
- 天道 … 天の道理。宇宙の法則。天地自然の法則。
補説
- 『注疏』に「此の章は夫子の道の深微にして知り難きを言うなり」(此章言夫子之道深微難知也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 子貢 … 『史記』仲尼弟子列伝に「端木賜は、衛人、字は子貢、孔子より少きこと三十一歳。子貢、利口巧辞なり。孔子常に其の弁を黜く」(端木賜、衞人、字子貢、少孔子三十一歳。子貢利口巧辭。孔子常黜其辯)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。また『孔子家語』七十二弟子解に「端木賜は、字は子貢、衛人。口才有りて名を著す」(端木賜、字子貢、衞人。有口才著名)とある。ウィキソース「孔子家語/卷九」参照。
- 夫子之文章、可得而聞也 … 『集解』の何晏の注に「章は、明なり。文彩は形質著見にして、耳目を以て修むるを得可きなり」(章、明也。文彩形質著見、可得以耳目修也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。『義疏』に「子貢の此の歎は、顔氏の鑽仰なり。但だ顔のみ既に庶幾いて聖道と相隣す。故に之を鑽仰すと云う。子貢既に懸絶すれば、敢えて其の高堅を言わず。故に自ら説きて典籍に聞くのみ。文章とは、六籍なり。六籍は是れ聖人の筌蹄なるも、亦た魚兎に関わること無し。六籍なる者には文字有り。章著煥然たれば耳目を修む可し。故に云う、夫子の文章は得て聞く可きなり、と」(子貢此歎、顏氏之鑽仰也。但顏既庶幾與聖道相鄰。故云鑽仰之。子貢既懸絶、不敢言其高堅。故自說聞於典籍而已。文章者、六籍也。六籍是聖人之筌蹄、亦無關於魚兔矣。六籍者有文字。章著煥然可修耳目。故云、夫子文章可得而聞也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「章は、明なり。子貢言う、夫子の述作・威儀・礼法には、文彩・形質の著明なるもの有りて、以て耳に聴き目に視、依り循いて学習す可し、故に得て聞く可きなり、と」(章、明也。子貢言、夫子之述作威儀禮法、有文彩形質著明、可以耳聽目視、依循學習、故可得而聞也)とある。また『集注』に「文章は、徳の外に見わるる者にして、威儀・文辞皆是れなり」(文章、德之見乎外者、威儀文辭皆是也)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 夫子之言性与天道、不可得而聞也 … 『集解』の何晏の注に「性とは、人の受けて以て生ずる所なり。天道とは、元亨日新の道なり。深微なり、故に得て聞く可からざるなり」(性者、人之所受以生也。天道者、元亨日新之道也。深微、故不可得而聞也)とある。また『義疏』に「夫子の言は即ち文章の言う所を謂うなり。性は孔子稟けて以て生ずる所の者なり。天道は元亨日新の道を謂うなり。言は孔子の六籍、乃ち是れ人の見る所にして、六籍に言う所の旨、得て聞く可からざるなり。爾る所以の者は、夫子の性と天地元亨の道とは、其の徳致と合す。此の処深遠にして、凡人の知る所に非ず。故に其の言得て聞く可からざるなり」(夫子之言即謂文章之所言也。性孔子所稟以生者也。天道謂元亨日新之道也。言孔子六籍、乃是人之所見、而六籍所言之旨、不可得而聞也。所以爾者、夫子之性與天地元亨之道、合其德致。此處深遠、非凡人所知。故其言不可得聞也)とある。また『注疏』に「天の命ずる所、人の受けて以て生ずる所は、是れ性なり。自然に化育し、元いに亨り日に新たなるは、是れ天道なり。与は、及なり。子貢言う、夫子の天命の性、及び元亨日新の道を言うが若きは、其の理は深微なり、故に得て聞く可からざるなり、と」(天之所命、人所受以生、是性也。自然化育、元亨日新、是天道也。與、及也。子貢言、若夫子言天命之性、及元亨日新之道、其理深微、故不可得而聞也)とある。また『集注』に「性とは、人の受くる所の天理、天道とは、天理自然の本体、其の実は一理なり」(性者、人所受之天理、天道者、天理自然之本體、其實一理也)とある。
- 夫子之言性與天道 … 『史記』孔子世家では「夫子言天道與性命」に作る。ウィキソース「史記/卷047」参照。
- 不可得而聞也 … 『義疏』では「不可得而聞也已矣」に作る。
- 『集注』に「言うこころは夫子の文章は、日〻外に見れ、固より学者の共に聞く所なり。性と天道とに至りては、則ち夫子も罕に之を言いて、学者聞くを得ざる者有り。蓋し聖門の教えは等を躐えず。子貢是に至りて、始めて之を聞くを得て、其の美を歎ずるなり」(言夫子之文章、日見乎外、固學者所共聞。至於性與天道、則夫子罕言之、而學者有不得聞者。蓋聖門教不躐等。子貢至是、始得聞之、而歎其美也)とある。
- 『集注』に引く程頤の注に「此れ子貢、夫子の至論を聞きて、歎美するの言なり」(此子貢、聞夫子之至論、而歎美之言也)とある。
- 伊藤仁斎『論語古義』に「性とは、人の生質、皆以て道に進む可し、天道とは、善に福し淫に禍するの常なり。……然れども之を人事に験すれば、則ち人性の皆以て善に進むこと能わずして、天道の必ずしも善人を祐けざるに疑いあり。蓋し道を信じ徳を好むの至りに非ざれば、輒く信ずること能わざる者有り。此れ子貢の得て聞く可からずと為る所以なり。……後世に及びて、学高遠に騖せ、道を虚玄に求めて、乃ち謂う性天の理、領吾の人に非ざれば、輒く解すること能わずと子貢の学精微を究めて、而る後に始めて詞を措けること此くの如し。豈に其れ然らんや。聖人の所謂性と天道とは、皆後世の所謂気という者にして、未だ嘗て理に就きて言わず。此を以て之を求む可からざること必せり」(性者、人之生質、皆可以進道、天道者、福善禍淫之常。……然験之于人事、則疑乎人性之不能皆以進于善、而天道之不必祐善人也。蓋有非信道好德之至、不能輙信者矣。此子貢之所以爲不可得而聞也。……及後世、學騖高遠、求道虚玄、乃謂性天之理、非領吾之人、不能輙解子貢學究精微、而後始措詞如此。豈其然哉。聖人所謂性與天道、皆後世所謂氣者、而未嘗就理而言。不可以此求之也必矣)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 荻生徂徠『論語徴』に「夫子の文章は、礼楽を謂うなり。孔子は聖人なりと雖も位を得ず、礼楽を作ることを得ず。……亦た頗る四代の礼楽を論ずる者有れば、則ち其の罕に言う所なりと雖も、猶お得て聞く可きなり。夫子の性と天道とを言うとは、今は伝わらずと雖も、然も中庸の喜怒哀楽の未だ発せざる一段の如きは、蓋し其の緒言、子貢僅かに一たび之を聞いて深く之を喜ぶ。故に得て聞く可からずと曰うなり。……又た曰く、性は人の受くる所の天理、天道は天理自然の本体と。仁斎先生之を弁じて尽くせり」(夫子之文章、謂禮樂也。孔子雖聖人不得位、不得作禮樂。……亦頗有論四代禮樂者、則雖其所罕言、猶可得而聞也。夫子之言性與天道者、今雖弗傳、然如中庸喜怒哀樂之未發一段、蓋其緒言、子貢僅一聞之而深喜之。故曰不可得而聞也。……又曰、性者人所受之天理、天道者天理自然之本體。仁齋先生辨之盡矣)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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