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泰伯第八 8 子曰興於詩章

192(08-08)
子曰、興於詩、立於禮、成於樂。
いわく、おこり、れいち、がくる。
現代語訳
  • 先生 ――「詩に心いさみ、規律のなかに生き、音楽に高められる。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様がおっしゃるよう、「詩によって人心を感奮かんぷんこうせしめ、礼により節制せっせいして確立するところあらしめ、さらに音楽によって美化完成する、これが教化の順序である。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師がいわれた。――
    「詩によって情意を刺戟し、礼によって行動に基準を与え、がくによって生活を完成する。これが修徳の道程だ」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 詩 … 『詩経』に収録されている詩を指す。
  • 興 … 起こる。感情が豊かになる。感情を高揚させる。
  • 礼 … 社会生活上の慣習、制度、作法などの総称。
  • 立 … 確立する。
  • 楽 … 音楽。
  • 成 … 完成する。
補説
  • 興於詩 … 『集解』に引く包咸の注に「興は、起なり。言うこころは身を修むるには当に先ず詩を学ぶべきなり」(興、起也。言修身當先學詩也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「此の章は、人の学は須らく次第あるべきを明らかにするなり。興は、起なり。言うこころは人の学は先ず詩より起こる。後乃ち諸典に次ぐなり。然る所以の者は、詩に夫婦の法有り。人倫の本、之を近くして父に事え、之を遠くして君に事うるが故なり。又た江熙曰く、古人の志を、其の志を起発す可きなり」(此章、明人學須次第也。興、起也。言人學先從詩起。後乃次諸典也。所以然者、詩有夫婦之法。人倫之本近之事父、遠之事君故也。又江熙曰、覽古人之志、可起發其志也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『集注』に「興は、起なり。詩は性情に本づき、邪有り正有り。其の言たる、既に知り易くして、吟詠の間、抑揚反覆すれば、其の人を感ぜしめること又た入り易し。故に学者の初めは、其の善を好み悪を悪むの心を興起して、自ら已むこと能わざる所以の者、必ず此に於いてして之を得」(興、起也。詩本性情、有邪有正。其爲言、既易知、而吟詠之間、抑揚反覆、其感人又易入。故學者之初、所以興起其好善惡惡之心、而不能自已者、必於此而得之)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 立於礼 … 『集解』に引く包咸の注に「礼とは、身を立つる所以なり」(禮者、所以立身也)とある。また『義疏』に「詩を学ぶこと已に明らかなり。次いで又た礼を学ぶなり。然る所以の者は、人礼無くんば則ち死し、礼有れば則ち生く。故に礼を学んで以て自ら身を立つるなり」(學詩已明。次又學禮也。所以然者、人無禮則死、有禮則生。故學禮以自立身也)とある。また『集注』に「礼は恭敬辞遜を以て本と為して、節文度数の詳らかなること有り。以て人の肌膚の会、筋骸の束を固くす可し。故に学者の中は、能く卓然として自立して、事物の揺るがされ奪われんとする所と為らざる所以の者は、必ず此に於いて之を得」(禮以恭敬辭遜爲本、而有節文度數之詳。可以固人肌膚之會、筋骸之束。故學者之中、所以能卓然自立、而不爲事物之所搖奪者、必於此而得之)とある。
  • 成於楽 … 『集解』に引く包咸の注に「楽は、性を成す所以なり」(樂、所以成性也)とある。また『義疏』に「礼を学んでうるが若くんば、次いで宜しく楽を学ぶべきなり。然る所以の者は、礼の用は和を貴しと為せばなり。礼を行うには必ず須らく楽を学んで和を以て己の性を成すべきなり」(學禮若畢、次宜學樂也。所以然者、禮之用和爲貴。行禮必須學樂以和成己性也)とある。また『集注』に「楽に五声十二律有り。更〻こもごも唱えたがいに和し、以て歌舞八音の節を為す。以て人の性情を養いて、其の邪穢じゃあい蕩滌とうてきし、其の査滓さしを消融す可し。故に学者の終わりは、義精しく仁熟して、自ら道徳に和順するに至る所以の者、必ず此に於いて之を得。是れ学の成るなり」(樂有五聲十二律。更唱迭和、以爲歌舞八音之節。可以養人之性情、而蕩滌其邪穢、消融其査滓。故學者之終、所以至於義精仁熟、而自和順於道德者、必於此而得之。是學之成也)とある。邪穢は、よこしまで汚れていること。蕩滌は、洗い流して清めること。査滓は、かす。
  • 『集注』に「按ずるに内則だいそくに、十歳にして幼儀を学び、十三にして楽を学び詩を誦し、二十にして而る後に礼を学ぶ、と。則ち此の三者は、小学伝授の次に非ず。乃ち大学の身を終うるまで得る所の難易、先後、浅深なり」(按内則、十歳學幼儀、十三學樂誦詩、二十而後學禮。則此三者、非小學傳授之次。乃大學終身所得之難易先後淺深也)とある。
  • 『集注』に引く程頤の注に「天下の英才は、少なしと為さず。だ道学の明らかならざるを以て、故に成就する所有るを得ず。夫れ古人の詩は、今の歌曲の如し。りょどうと雖も、皆之を習い聞きて其の説を知る。故に能く興起す。今老師、宿儒と雖も、尚お其の義をさとること能わず。況んや学者をや。是れ詩に興るを得ざるなり。古人は洒掃さいそう応対より、以て冠昏喪祭に至るまで、礼有らざること莫し。今皆すたやぶる。ここを以て人倫明らかならず、家を治むるに法無し。是れ礼に立つを得ざるなり。古人の楽、声音は其の耳を養う所以、采色は其の目を養う所以、歌詠は其の性情を養う所以、舞蹈は其の血脈を養う所以なり。今皆之れ無し。是れ楽に成るを得ざるなり。ここを以て古えの材を成すややすく、今の材を成すや難し」(天下之英才、不爲少矣。特以道學不明、故不得有所成就。夫古人之詩、如今之歌曲。雖閭里童稚、皆習聞之而知其説。故能興起。今雖老師宿儒、尚不能曉其義。況學者乎。是不得興於詩也。古人自洒掃應對、以至冠昏喪祭、莫不有禮。今皆廢壞。是以人倫不明、治家無法。是不得立於禮也。古人之樂、聲音所以養其耳、采色所以養其目、歌詠所以養其性情、舞蹈所以養其血脈。今皆無之。是不得成於樂也。是以古之成材也易、今之成材也難)とある。閭里は、村里。童稚は、幼い子ども。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「言うこころは学は以て強いて為す可からず。詩に得れば則ち善心興起して、其の進むこと窮まり無し。故に詩に興るを以て之を先んず。徳は以て自ら成る可からず。荘敬持守して、礼を以て自ら修むれば、則ち徳日〻に立ちて揺動す可からず。故に礼に立つと曰う。道は以て小成す可からず。しょうこう融液して、其の心和楽すれば、則ち道大成してあっす可からず。故に楽に成ると曰う。……論に曰く、礼家専ら礼楽の功を主として、礼楽の本仁義に出ずることを知らず。先儒曰く、古えの材を成すややすく、今の材を成すや難し、と。其の説蓋し礼家に出でて、聖賢礼楽を論ずる所以の旨に非ざるなり」(言學不可以強爲。得於詩則善心興起、其進無窮。故以興於詩先之。德不可以自成。莊敬持守、以禮自修、則德日立而不可搖動。故曰立於禮。道不可以小成。浹洽融液、其心和樂、則道大成而不可遏止。故曰成於樂。……論曰、禮家專主禮樂之功、而不知禮樂之本出於仁義。先儒曰、古之成材也易、今之成材也難。其説蓋出於禮家、而非聖賢所以論禮樂之旨也)とある。浹洽は、すみずみまで行き渡ること。遏止は、おしとどめること。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「先王の教えは、詩・書・礼・楽。書は学者の本業たり。何となれば、書は政事をう。学んで而うして士と為る。学ばざれば則ち民たり、仕えて以て政に従う。……必ず詩と礼楽とを以て輔と為し、博く学んでつね無く、而うして後に以て先王の心をる可し。……言うこころは人の道を学ぶに、詩・礼と楽との教うる所以の者、其の殊なること此の如しとなり。……是れ亦た宋儒が見る所独善を主とし、道・徳の分かちを知らず。……是れ其の気質を変化するの説のみ。殊に知らず古えの道に成る者は、大いなる者は大成、小なる者は小成す、皆各〻其の材を以て成ることを。豈に必ずしも其の気質を変化せんや。学者これを察せよ」(先王之教、詩書禮樂。書爲學者本業。何者、書道政事。學而爲士。不學則民、仕以從政。……必以詩與禮樂爲輔、博學無方、而後可以睹先王之心。……言人之學道、詩禮與樂所以教者、其殊如此也。……是亦宋儒所見主獨善、不知道德之分。……是其變化氣質之説已。殊不知古之成於道者、大者大成、小者小成、皆各以其材成焉。豈必變化其氣質哉。學者察諸)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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