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先進第十一 7 顏淵死第一章

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顏淵死。顏路請子之車以爲之椁。子曰、才不才、亦各言其子也。鯉也死、有棺而無椁。吾不徒行以爲之椁、以吾從大夫之後、不可徒行也。
顔淵がんえんす。がんくるまもっこれかくつくらんとう。いわく、さいさいも、各〻おのおのうなり。せしとき、かんりてかくし。われこうしてもっこれかくつくらざりしは、われたいしりえしたがい、こうからざるをもってなり。
現代語訳
  • 顔淵が死んだとき、(父の)顔路は先生の車をもらってそと棺をつくろうとした。先生 ――「才はともかく、親からいえばみなわが子じゃ。うちの鯉(リ)が死んだときも、内棺しかなかった。わしがテクってまでそと棺をつくらなかったのは、わしも家老のはしくれになっていて、テクではゆけないからじゃ。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 顔淵が死んだ。父の顔路が貧しくて外棺がととのえられないので、孔子様の車をゆずっていただきそれを金にかえて外棺を買いたいと願った。愛弟子のことだから承知されるかと思ったところ、孔子様はそれをことわっておっしゃるよう、「子が賢くても賢くなくても、せめて葬式ぐらいはりっぱに出してやりたいと思う親の情には変りがない。わしの息子の鯉が死んだときも、内棺は出来たが外棺がととのわなくて気をもんだことがあるので、お前の気持はよくわかるが、車を売ってかちあるきをしてまで外棺を買おうとしなかったのは、わしもたい末席まっせきをけがしているので、職掌しょくしょうがら車なしに徒歩で出勤というわけにもゆかなかったからだ。お前も身分相応のところで、外棺なしに済ませたらどんなものだろう。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 顔淵が死んだ。父のがんは彼のために外棺そとがんを造ってやりたいと思ったが、貧しくて意に任せなかった。そこで先師に願った。――
    「先生のお車をいただけますれば、それを金にかえて、外棺を作ってやりたいと存じますが……」
    すると先師はいわれた。――
    「才能があろうとなかろうと、子の可愛いさは同じだ。私も子供のが死んだ時には、せめて外棺ぐらい作ってやりたい気がしないでもなかった。しかしついに内棺だけですますことにしたのだ。私がその時、徒歩する覚悟にさえなれば、車を売って外棺を作ってやることもできただろう。しかし、私があえてそれをしなかったのは、私も大夫の末席につらなっているので、職掌がら、徒歩するわけにいかなかったからなのだ」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 顔淵 … 前521~前490頃。孔子の第一の弟子、顔回。姓は顔、名は回。あざなえんであるので顔淵とも呼ばれた。の人。徳行第一といわれた。孔子より三十歳年少。早世し孔子を大いに嘆かせた。孔門十哲のひとり。ウィキペディア【顔回】参照。
  • 顔路 … 前545~?。顔回の父。孔子の最初の弟子のひとり。名は無繇(むよう・ぶゆう)、またゆう。孔子より六歳年少。ウィキペディア【顏無繇】(中文)参照。
  • 椁 … 棺を入れる外箱。外棺そとかん
  • 以為之椁 … 「之椁」は「其椁」に同じ。
  • 才不才 … 才能があろうとなかろうと。
  • 言其子 … 我が子のことを話したがる。ほめたがる。
  • 鯉 … 前532~前483。孔子の長男。名はあざなは伯魚。子思の父。五十歳で孔子より先に死んだ。ウィキペディア【孔鯉】参照。
  • 徒行 … 乗り物に乗らないで歩いて行くこと。
  • 吾従大夫之後 … 私も大夫の末席につらなる身分なので。
補説
  • 『注疏』に「此れに三章を并せて顔淵の死する時の孔子の語を記するなり」(此幷三章記顏淵死時孔子之語也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 顔淵(顔回) … 『史記』仲尼弟子列伝に「顔回は、魯の人なり。あざなは子淵。孔子よりもわかきこと三十歳」(顏回者、魯人也。字子淵。少孔子三十歳)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。また『孔子家語』七十二弟子解に「顔回は魯人、字は子淵。孔子より少きこと三十歳。年二十九にして髪白く、三十一にして早く死す。孔子曰く、吾に回有りてより、門人日〻益〻親しむ、と。回、徳行を以て名を著す。孔子其の仁なるを称う」(顏回魯人、字子淵。少孔子三十歳。年二十九而髮白、三十一早死。孔子曰、自吾有回、門人日益親。回以德行著名。孔子稱其仁焉)とある。ウィキソース「家語 (四庫全書本)/卷09」参照。
  • 顔路 … 『史記』仲尼弟子列伝に「顔無繇、字は路。路は顔回の父なり。父子嘗て各〻時を異にして孔子に事う」(顏無繇字路。路者顏回父。父子嘗各異時事孔子)とある。また『孔子家語』七十二弟子解に「顔由は顔回の父、字は季路。孔子始めて学を閭里に教え、而して学を受く。孔子よりわかきこと六歳」(顏由顏回父、字季路。孔子始教學於閭里、而受學。少孔子六歳)とある。
  • 顔淵死。顔路請子之車以為之椁 … 『集解』に引く孔安国の注に「顔路は、顔淵の父なり。家貧しく、故に孔子の車を請い、売りて以て槨を作らんと欲す」(顏路、顏淵之父也。家貧、故欲請孔子之車、賣以作槨)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「顔路は、顔淵の父なり。淵の家貧しく、死して槨無し。故に其の父孔子に就きて車を請い、売りて以て槨をつくらんとするなり」(顏路、顏淵父也。淵家貧、死無槨。故其父就孔子請車、賣以營槨也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「路は、顔淵の父なり。家貧しければ、孔子の車を請い、売りて以て椁を作らんと欲するなり」(路、顏淵父也。家貧、欲請孔子之車、賣以作椁也)とある。また『集注』に「顔路は、淵の父、名はゆう。孔子よりわかきこと六歳。孔子始めて教うるに学を受く。椁は、外棺なり。椁をつくるを請うは、車を売りて以て椁を買わんと欲するなり」(顏路、淵之父、名無繇。少孔子六歳。孔子始教而受學焉。椁、外棺也。請爲椁、欲賣車以買椁也)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 椁 … 『義疏』では「槨」に作る。異体字。
  • 子曰、才不才、亦各言其子也 … 『義疏』に「孔子将に車を以て之に与えず。故に先ず此を説きて以て之を拒む。才は、顔淵を謂うなり。不才は、鯉を謂うなり。言うこころは才と不才とは、誠に当に異なること有るべし。若し各〻天属に本づかば、其の父に於いて則ち同じく是れ其の子なり」(孔子將不以車與之。故先説此以拒之。才、謂顏淵也。不才、謂鯉也。言才與不才、誠當有異。若各本天屬、於其父則同是其子也)とある。また『注疏』に「此れ親を挙げて疏を喩うるなり。言うこころは淵の才と、鯉の不才は異なりと雖も、亦た各〻其の子を言うは則ち同じ」(此舉親喩疏也。言淵才、鯉不才雖異、亦各言其子則同)とある。また『集注』に「言うこころは鯉の才、顔淵に及ばずと雖も、然れども己と顔路と父を以て之を視れば、則ち皆子なり」(言鯉之才、雖不及顏淵、然己與顏路以父視之、則皆子也)とある。
  • 鯉 … 『集注』に「鯉は、孔子の子の伯魚なり。孔子に先だちてしゅっす」(鯉、孔子之子伯魚也。先孔子卒)とある。また『孔子家語』本姓解に「十九に至りて、宋の上官氏を娶る。伯魚を生む。魚の生るるや、魯の昭公、鯉魚を以て孔子に賜う。君のたまものほまれとし、故に因りて以て鯉と名づけ、伯魚とあざなす。魚、年五十、孔子に先だちて卒す」(至十九、娶於宋之上官氏。生伯魚。魚之生也、魯昭公以鯉魚賜孔子。榮君之貺故因以名鯉、而字伯魚。魚年五十、先孔子卒)とある。
  • 鯉也死、有棺而無椁 … 『義疏』に「既に天属各〻深し。昔我が子死せしとき、我自ら車有るも、尚お之を売らずして槨をつくる。今、汝の子死す。いずくんぞ我の車を請わんと欲するや。繆恊云う、子才なりと雖も、貧にして備うるを求む可からず。不才と雖も、而れども豊倹も亦た各〻礼有り。之を制するに父に由る。故に鯉の死するや槨無きなり、と」(旣天屬各深。昔我子死、我自有車、尚不賣之營槨。今汝子死。寧欲請我之車耶。繆恊云、子雖才、不可貧求備。雖不才、而豐儉亦各有禮。制之由父。故鯉死也無槨也)とある。また『注疏』に「我が子の鯉の死せる時、但だ棺有るのみ」(我子鯉也死時、但有棺)とある。
  • 鯉也死 … 『義疏』では「鯉死」に作る。
  • 吾不徒行以為之椁 … 『義疏』に「又た鯉の為に槨を作らざりし所以の由を解くなり。徒は、猶お歩のごときなり。言うこころは我車を売らずして歩行し、子の為に槨を作るなり」(又解所以不爲鯉作槨之由也。徒、猶歩也。言我不賣車而歩行爲子作槨也)とある。また『注疏』に「家貧しくして椁無きを以て、吾車を売りて以て椁を作らず。今なんじの子死するに、安くんぞ我が車を売りて以て椁を作るを得んや」(以家貧而無椁、吾不賣車以作椁。今女子死、安得賣我車以作椁乎)とある。
  • 吾不徒行 … 『義疏』では「吾不可徒行」に作る。
  • 吾従大夫之後、不可徒行也 … 『集解』に引く孔安国の注に「鯉は、孔子の子、伯魚なり。孔子時に大夫たり。故に吾大夫の後に従えば、以て徒行すからずと言う。是れ謙辞なり」(鯉、孔子之子、伯魚。孔子時爲大夫。故言吾從大夫之後、不可以徒行。是謙辭也)とある。また『義疏』に「又た歩行せざるの意を解くなり。言うこころは大夫の位爵已に尊くして、歩行す可からざるが故なり。然れども実に大夫たらば、大夫の後に従うと云うは、孔子の謙なり。猶お今人の府国官たりて、府末国末に在ると云うがごときなり」(又解不歩行之意也。言大夫位爵已尊、不可歩行故也。然實爲大夫、而云從大夫後者、孔子謙也。猶今人爲府國官、而云在府末國末也)とある。また『注疏』に「此れ車を売りて椁を作る可からざるの由を言う。徒行は、歩行なり。吾は大夫たるを以て、徒行す可からざるが故なり。孔子時に大夫たるに、大夫のしりえに従うと言うは、謙辞なり」(此言不可賣車作椁之由。徒行、歩行也。以吾爲大夫、不可徒行故也。孔子時爲大夫、言從大夫之後者、謙辭也)とある。また『集注』に「孔子時に已に致仕すれども、尚お大夫の列に従う。後と言うは、謙辞なり」(孔子時已致仕、尚從大夫之列。言後、謙辭)とある。致仕は、官職をやめること。また『集注』に引く胡寅の注に「孔子、旧館の人の喪に遇いしとき、嘗てさんを脱して以て之におくる。今乃ち顔路の請を許さざるは何ぞや。葬は以て椁無かる可く、驂は以て脱して復た求む可し。大夫は以て徒行す可からず、命車は以て人に与えてこれを市にひさぐ可からざるなり。且つ識る所の窮乏の者の我に得るが為に、勉強して以て其の意にうは、豈に誠心と直道とならんや。或る者以為おもえらく、君子礼を行うに、吾の有無を視るのみ。夫れ君子の財を用うるに、義の可否を視る。豈に独り有無を視るのみならんや、と」(孔子遇舊館人之喪、嘗脱驂以賻之矣。今乃不許顏路之請何耶。葬可以無椁、驂可以脱而復求。大夫不可以徒行、命車不可以與人而鬻諸市也。且爲所識窮乏者得我、而勉強以副其意、豈誠心與直道哉。或者以爲、君子行禮、視吾之有無而已。夫君子之用財、視義之可否。豈獨視有無而已哉)とある。驂は、そえ馬。四頭だての馬車で、外側の二頭の馬。
  • 不可徒行也 … 『義疏』では「吾以不可徒行」に作る。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「蓋し喪は以て家の有無にかなう可し。而るに朝廷の威等は、少しも損す可からず。此れ夫子の其の請いを許さざる所以なり。顔路の請い、夫子の許さざる、一毫も顧慮する所無し。蓋し師弟子の間、其の誠心質行此くの如し。後世の見ざる所なり」(蓋喪可以稱家之有無。而朝廷威等、不可少損。此夫子之所以不許其請也。顏路之請、夫子之不許、一毫無所顧慮。蓋師弟子間、其誠心質行如此。後世之所不見也)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』には、この章の注なし。
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